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立ちつくす思想

次のようなメールをいただきました。
*****

容子さんは、すごいと思います。容子さんの活動は、この時代で先に生まれてきた者として、後に続く若い世代のために責任を果たそうとするものだからです。たくさんの人の記憶に刻まれていると思います。
*****

そして友人との会話の一部より

私:私たちが何やっても何も変わらない・・・、空しくない?
友人:でも反対した人がいたっていうだけで違うと思う。
私:戦争中もそうだったしね。将来、歴史の教科書に載るかもね。そしたら未来の人たちが勇気づけられるかも。
友人:今だって勇気づけられている人はいるよ。

私たちが本人訴訟(弁護士がいない)でやっている改正教育基本法違憲訴訟・・・
新しい地平を切り開くことを模索するものです。
① 法律ができてしまってもあきらめない。
② 本物の違憲立法審査権の確立を求める。(現在、憲法に定められた違憲立法審査権は歪曲され、具体的争訟事項[具体的な事件と損害]がなければ判断しないとされている。つまり違憲な法律を作っただけでは裁判にならない)。
③ 弁護士がいなくても一般市民が自分で裁判を行う。(コスタリカでは小学生が電話で「憲法違反です」と言えば、あとは裁判所が調べて裁判を行ってくれる。大学生が国がイラク戦争に賛成したのは憲法違反だと訴えて、認められ、「イラク戦争賛成」を撤回した)。

先日の控訴審第1回口頭弁論に来てくれた傍聴人は少なかったけれど、35分間の私たちの口頭弁論を聞いて、「すばらしかった。傍聴人が少なかったのが残念」と感想を述べて下さった。特に小学生の子どもを持つTさんに対して、「教育基本法が改悪されてしまってからもあきらめないで政府に意見を言ったのは日本中の母親の中であなた一人。どこかに書いて大勢に知らせなくちゃ」というアドバイスがあった。

傍聴人は少なく、メディアももちろん取り上げず、この裁判のことを知っているのは日本中に数百人しかいない(だろう・・・原告になってくれた人など)。裁判所や弁護士からは相手にされず(生田暉雄弁護士以外の弁護士)、今はほとんど知られることもないけれど、将来、日本に本物の民主主義が確立したら、その時は先駆的な裁判として研究者によって研究され、歴史の教科書に載ると思う。

久しぶりに昔々読んで、座右の銘にしていた本を思い出しました。以下、引用。

*****

およそこのような壁(自分の存在を限界づける壁)に直面した時に、とりうる態度は3つあります。理性的な人間ならば―というよりも、近代合理主義の意味で合理的な人間ならば―このような壁と力くらべすることの愚を悟って、さっさと逃げ出すでしょう。余計な苦労はしない。人間存在をぎりぎりの点まで押しつめてみて、その存在の権利を主張しよう、などと試みれば、必ず自分の方が傷つくものです。利巧な人間は傷つくような危険な場所には出入りしない。その結果あまり人間らしくもない、というだけの話です。詩的な人間は、これに対して、壁にぶつかった時に、壁の向こう側におのずと通りぬけられるかの如くに夢想する。壁は固く立って動かないにもかかわらず、まるでそれが空気にでもなったように夢想して、あちら側の世界を薔薇色に描く。薔薇色は美しくても、夢想の世界では仕方がありません。

それに対して、第三の人間は悲劇的人間とでも名づけましょうか。壁の前から逃げ出すことはしない。また、できもしないくせに通りぬけたと夢想することもしない。そして、そこに壁があって人間の存在を限界づけているという事実に、無限の憤りと悲しみを感じるのです。この壁は打ち破らなければならない。だから彼は動かない壁の前に立ちつくす。動かない壁を押しつくす。そしてそこに立ちつくすことにこそ人間の高貴さを知るのです。このような人間の思想が立ちつくす思想です。

だから、立ちつくす、ということは、決して消極的なたたずみではありません。怠慢なあぐらではないのです。むしろこれこそ積極的な革新の姿勢ではありますまいか。これこそが挫折を克服しうる思想ではないのでしょうか。動きそうもない巨大な不条理を前にしても動かずに立ちつくす者であればこそ、ついにはその壁を崩壊せしめるのではないでしょうか。社会的矛盾の壁を前にして、相手が倒れるまで押しつくすのではないでしょうか。それは決して、根源的には動かぬ壁ではない。いつかは転倒しうるものです。しかしそれには長い時間がかかる。多くの場合、人間一人の短い一生の間には、社会的矛盾はなかなか解決へ向かって動いていないように見える。人間一人の一生どころか、何世紀も動かないこともある。しかしそれを動かすのは押し続ける者たちの力です。1789年に革命の歴史の火ぶたを切ったフランスの民衆は、1世紀後のパリ・コミューンにおいて民衆の革命が何であるかを提示し、さらにまた1世紀後のこの5月に、また再び押し続けているのです。彼らの革命の伝統は2世紀もの間、真の民衆の世界を目指して叫び続けているのです。無名の民衆が立ちつくし、叫び続ける。

このように、立ちつくす思想は息の長いものです。詩的夢想の純粋におぼれるのではないから、手を汚すことを知っている。教条的にはねあがる連中は案外詩的であって、簡単には動かない壁を前にして、結局は自分個人の思想や行動の純粋性を守ることにのみ専念し、いたずらに鋭角的に、閉鎖的になって、短期に壁の向こう側にかけぬけようとする。かけぬけられたかと思う。自分のみはかけぬけてしまったかと思いこむ。しかしまた、「はねあがり」を批判することでかろうじて自分の存在意義を示しうるかと思っているような疑似左翼の連中はもっといけません。彼らはすぐに、壁の手前に安住することを覚えてしまう。

我々もまた、むしろ、壁の向こう側にかけぬけようとする者です。ただし、かけぬけようとすれば、ぶつかって、通り抜けられないことを知っている。だから何度でもかけぬけようとしてぶつかるのです。真に社会を転倒しうる者は、「待ち」、立ちつくし、押し続ける者です。自分の生の基本的なたたずまいにおいて「待つ」ことを知っている者ならば、自分の一生を棒にふっても、次の世代のために新しい社会を待つことができるはずなのです。 (1968年7月)

「立ちつくす思想」田川建三・勁草書房

*****私がこの本を読んだのは1980年、26歳の時です。あれから28年、世界は激動し、価値観もずいぶん変わりました。ベルリンの壁も崩壊しました。が、根本的には今もこの思想によって壁の前に立ちつくしています。
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by lumokurago | 2008-11-02 21:41 | 未分類
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