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がんと闘わない生き方(9)患者インタビュー その4

がんと闘わない生き方(9)患者インタビュー その4  「天国と地獄」だった2回の乳がん治療

 M.Eさん
年齢:30代
家族:夫 子ども2人、主婦
 1回目の乳がん治療:1996年6月 手術法:胸筋とリンパ節も取る乳房切除術
 2回目の乳がん治療:1999年10月 手術はせず

 Eさんは1回目の乳がん治療で自分では納得できない治療をされてしまい、3年後にもう片方にもがんが発見された時、それを繰り返してはいけないと、自分で医師を選び、納得できる治療を行いました。「地獄と天国」だという、その違いを語ってくれました。(インタビューは2000年11月に行いました)
 
Q:Eさんは2度乳がんの治療を体験されていますが、1回目のことから話してください。

A:96年1月に発見し、96年6月に受診しました。受診まで半年もかかってしまいました。しこりを見つけて「もしかしたらそうかな?」とは思ったけれど、知識がなかったし、子どもも小さくて自分のことは後回しになってしまった。そのうちリンパ節が腫れてきて、へんだなとは思ったけど、そのうち治るだろうと思っていたんです。その後痛みも出てきたので不安になったけど「まさか!」という気持ちでした。知識があればよかったかもしれないと今は思います。

Q:病院はどうやって決めたのですか?

A:最初、S県立がんセンターに行ったのですが、すぐに引越したので、F先生を紹介されました。たまたま雑誌にF先生が乳がんについて連載していたし、身内にその病院にかかった人もいたので、その病院に決めました。その病院には全国から患者が集まってきて、すごく待たされるんです。朝、一番に行っても3時、4時になってしまう。患者を流れ作業のように処理していて、人間として扱ってもらえない感じでした。

Q:診断された時の気持ちを話していただけますか?

A:「全摘(※)です」と言われました。私は温存のことを知っていたので、できないか聞いたんですが「無理」と言われました。S県立がんセンターでも無理と言われ、ねばったけどだめでした。納得してなかったのに、自分でも無理なのかなとかしょうがないのかなと思ってしまったの。それしかなかった。悲しかったけど仕方なかったんです。(大胸筋と小胸筋のうち)どっちかの胸筋は残してどっちかは取りました。リンパ節も14個取りました。
(※組織あるいは器官全体の摘出)

 退院して抗がん剤治療が始まりました。わかっている抗がん剤の名前はアドリアマイシンと5FU。アドリアマイシンは普通40ml使うところ、私は70mlも使ったんです。6クールやったので次の年の2、3月までかかりました。1週間目に強い薬を使い、2週間目に弱い薬、次の週が休み。副作用がひどくて普通じゃなかった。とにかくしんどかったです。

Q:途中でやめようとは思いませんでしたか?

A:やめたかったけれど、家族に続けてほしいと言われてしまった。手術後に図書館で借りてK先生の本を1、2冊読んで、はたして抗がん剤を続けていいのかなと思いました。家族にその本を読んでほしいと言って相談しようとしたけど、協力してくれなかった。ほんとにつらかったです。

 化学療法をする可能性があるとは言われていたけれど、医師から正式に説明があったのは、手術が終わってからで、「小さい細胞が散っているかもしれないから予防的にやりましょう」と言われました。治験、骨髄移植にも誘われた、というか骨髄移植で治る確率は半々で高くはないから勧められないけれどもどうする?と聞かれたんです。再発の可能性は8割と言われたけど、「メスを入れた方は再発しない。うちは再発はないから」とF先生は言ってた。なぜそんなふうに断定できるのか疑問ですよね。それで放射線はやっていません。

 抗がん剤で髪の毛が抜け、子どもに見せられないのがつらかったです。子どもの前で着替えられないし、一緒にお風呂に入れない。子どもには手術のことは言ってなかったのだけど、上の子には小2になった時、夫から話し、下の子には幼稚園の年中で話しました。今は一緒にお風呂に入っています。私は温泉には入らないけれど子どもは聞き分けてくれます。

 術後、痛みや手のむくみがひどくて、だるくて体力が落ちて、疲れやすかった。リハビリがしんどかった。腕は1ヶ月以上、半分上がるか上がらないかでした。神経を切っているので、感覚が変になっていてしびれたり、かゆいので掻いてもかゆみが取れなかったりしました。今もしびれていて、こういうつらさは人にはわかってもらえないと思います。

 2年以上落ち込んでいました。自殺した人の心理がわかります。不安、抑うつ、怒りとも初めから全然変わらずずっと続きました。この事実を自分で明るく受け入れられれば、温泉にも入れるし、人にも平気で言えるんでしょうけど、自分と夫の親きょうだいや親しい友だちにしか言ってません。周りでは子どもを預かってもらうお母さん一人にしか言っていません。

 できれば人に知られたくない、黙っていたいという気持ちがあります。だからエイズでカミングアウトする人はすごいなと思います。何が嫌かといって、人からおっぱいがないと見られるのがいや。乳がんというと一般的に取ってしまうと思っていますよね。あの人、そうなんだよと見られるのが嫌なんです。比べるのは申し訳ないけど、子宮がんや卵巣がんは視覚的にはわからないでしょ。乳がんはわかってしまう。プールはもちろん行けないし、海でも上に何か着ていればいいけど、着替えるのが大変でどうしても足が遠のいてしまいます。

 ちょうど入院していた時、「乳房再建」という本が出て、患者たちでまわし読みしました。再建のことを先生に聞いたら、「2年経ってからな」と言われました。その頃、再建をオープンにやってくれるところはなく、自分の病院で切除した人しかやってもらえませんでした。当時は始まったばかりだったので、技術も確立していないし、傷が増えるのはどうかなと思いました。リハビリも大変だし、しない方がよかったという話も聞いたし。

 そして3年後、もう片方にもできてしまい、目の前が真っ暗になりました。毎月検査に通っていたのに、見つけられなかったのか、と腹が立ちました。F先生にまた「取る」と言われたので、小さい手術をしてくれる先生を探したいと言ったら、F先生は「三分の一取る」と言った。私が「三分の一も取ったらおっぱいじゃない」と言ったら、「後ろから(筋肉を)持ってくる」と言うので、「それじゃ傷が増える」と言ったら怒り出したんです。

 3年間の間に本を読んでいたので、K先生のこともよく知ってました。それでK先生(放射線科医)の所へ行ったら「温存でいけるんじゃないか」と言われました。N大では内視鏡手術もやっていて、そこにも行ったりして、医者を探すのに1ヶ月以上かかってしまいました。

 12月にA先生(外科医)の所へ行ったら、「N大の手術は出血がひどく、免疫が落ち、転移があれば大きくなる可能性があるから、あなたには向かない。できるだけ小さい手術でやってあげるから」とおっしゃいました。

 そしてがんを小さくするために先にCMF(抗がん剤)をやりました。そしたら2クールでほとんど消えた。3クールやった時点でやめるかどうか、K先生と相談してくるようにと言われ、K先生のところへ行ったら「自分で決めなさい」と言われました。A先生は「ここでやめるのは損だ。アメリカの患者は6回でも10回でもやってる」とおっしゃって、結局4クールまでやって、その後放射線をやってがんは消えました。だから手術はしなくて済んだんです。

 抗がん剤がよく効くタイプなので、1回目も先に抗がん剤をやってくれれば消えたのではないかと思います。普通の外科医はすぐに切ってしまうという考えで、とりあえず抗がん剤をやって小さくして手術という発想になぜなれないのか疑問です。A先生は頭が柔らかいと思う。私のはあっという間に大きくなるタイプのがんなので、1ヶ月の間にリンパ節もレントゲンに映る位に大きくなっていたけど、それも消えました。

 1回目の手術から再発まで3年でした。A先生に「3年もてば奇跡だよ」と言われました。2回目の手術から後1年で3年になります。また、あるかな?という不安はあるけれど、今は小康状態かな。今の治療はノルバデックス(ホルモン剤)を毎日飲むのとゾラデックス(ホルモン剤)を4週に一回注射しています。

 おばが52歳で8月に入院して、乳がんの手術をしたけれど、こわいから勉強しないと言っていて、うつ状態で精神的に大変。病院にメンタルケアの先生がいるべきだと思います。家族も話したいし。外科の先生は時間もないし、精神面の相談にはのってくれない。悩みは簡単に人に言えないし、経験者でないとわかってもらえないと思う。乳がんは告知せざるを得ないけど、他のがんは告知しない場合もあるので、患者も家族も大変と思います。私は半年の間、人に言わなかった。自分で抱え込んでしまう患者の方が危ないと思います。治療が一段落して考えることはよくないことばかりで、将来どうなるんだろうと暗くなってしまう。

Q:1回目の時もK先生のことを知っていたのならどうして行かなかったの?

A:引越しとか家のことがいろいろあって、東京に通うだけで大変だった。もう少し時間があったらなあ。悪い時、悪い条件が重なってしまうんですね。

Q:医者を信頼するのはどういうところでだと思いますか?

A:その治療のいいところも悪いところも全部言うところ。N大の先生のようにいいことばかりしか言わず、デメリットを他の人に言われると患者としても困ってしまいます。F先生は「これでやります」としか言わなかった。アメリカでは方法をいくつか示して選ぶから、患者も勉強が必要で、自分でよく考えて選ぶと聞きました。医者は車を売るのとは違うのだから、自分はこういうことができるけど、他に行けばこういうこともできると選択肢を示すべきだと思う。

 乳がんの場合、K先生の情報公開があって運がよかったんだと思います。医療情報の公開が必要。病院に標準治療のパンフを置くとか。治験の協力依頼なども個室で行うのではなく、公開してパンフなどを作るべきだと思います。家族も結局は人の体なので、「治るんだったらなんでもやってください」になってしまう。でも苦しむのは患者なのです。きちんと告知して、治療法をオープンにしなければならないと思います。F先生は私には軽めに言い、夫にはっきり言いましたけど、夫も私に隠していました。きちんと告知してくれなかったんです。本人が全然知らないと「よっぽど悪いんだ」と思ってしまいます。

 医者は「こういう治療法があります。あなたの場合は・・・」と説明し、患者も勉強して選ばなければならないと思う。患者も知識がないと医者とやり取りできない。F先生は「患者に言ってもわからないだろう」という態度で、質問すると「君は何が言いたいの?」と言われました。F先生には患者の不安がわからないんです。

 1回目の時は前の日に手術方法を言われ、同意書を書くように言われて、納得できなかったけれど明日じゃしょうがないかと思ってしまった。その病院では肺がんの術後すぐ、病室から飛び降り自殺した人がいたんですよ。

 リンパ節のドレーンを抜くのも痛い看護婦と痛くない看護婦がいて、痛い人が来た時「代わって」と言ったら、「そんなこと言うの、あんただけだよ」と言われた。看護婦は患者からそう言われたら痛くなくできる人に習って、技術を勉強してほしいと思います。

 家族は医者が正しいと思っているんです。医者にお任せすればいいと言う。父は人の体のことだと思って「切ってしまえ」と言ったんですよ。2回目は自分でA先生と決めました。そうすると自分で納得できるだけの知識を持って家族を説得しなければならないんです。みんな、知らないから取れば安心と思っている。乳がんといえば切る、残すといえばがん細胞も残すと思っているんです。

Q:あなたがそういう考え方になったのはなぜだと思いますか?

A:性格かな。自分で納得しないと不満な性格でなんでも自分でやっちゃえと思う。自分の体は自分で守る。1回目は泣いてたけど、2回目はふんばらなきゃと思って納得できる医者を見つけようと思った。1回目の間違いを繰り返しちゃいけないと。

 K先生は1回目の手術のことを「アメリカだったら裁判で負けるよ」とおっしゃっていました。私はそういうふうに手術したくなかったんだ。でもF先生は「病気を治したのになんでそんなこと言われなきゃならないの」と思っていると思う。私とは向いている方向が違う。1回目と2回目は地獄と天国でした。
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by lumokurago | 2009-05-13 22:21 | がんと闘わない生き方
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