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大好きな石川憲彦さんの本

 最近、JANJAN記事のがん関係のご意見板への返事に追われ、またまたその関係の本をひっくりかえしたりして、ますます詳しくなってしまいました。本当に冗談でなく、おごりでもなく、そこらの医者より私の方が詳しいと思います。脳死移植問題についても書きたいと思っているのですが、先日、障害児問題について読もうと思って図書館で借りた本も、その問題と過剰医療の問題に言及していました。

 大好きな精神科医・石川憲彦さんとこれは知らない高岡健さんの対談です。タイトルは『心の病いはこうしてつくられる』(批評社)

 これから少し引用していきたいのですが(これまで何冊もの本にこう言いつつ、全然やってない。例:ダグラス・ラミスさん、堤清二さん)、まずはあとがきから引用させていただきます。石川さんはやっぱり私が好きなだけあった。

*****

死をも共に生き抜いている人間というストーリーの原点(あとがき)   石川憲彦

 わたしには医者として、いつも振り返り、立ちかえる原点がある。それは、医者として新米の頃に出会った幾人かの子どもたちの生き方を通して形成され、今では人間としての私の原点となっている。・・・中略・・・

 今、子どもたちの生き方を通してと書いたが、正しくは死を生きつつある子どもたちを通してと書くべきだろう。例えば、倫ちゃんは、進行する脳の変性疾患のため、最後の3か月を病院で過ごしていた。数週間後、白血病から生還すべく同室に入院したフーちゃんは、治療の甲斐なく数年後他界する。

 前思春期を迎えようとしていた倫ちゃんは、数年前から進行する脳機能不全のため、すでに植物状態にあった。小児科医としての私の日々の作業は、レスピレーターを点検し、身体中に差し込まれたチューブと装置を管理し、まさかのときに備えて診察を黙々とこなすことであった。医者も、看護師も、そして時には家族も、大人は彼を半分すでに帰らぬ異物とみなしていた。
 
 フーちゃんが入院すると、このルーチン化された機械的作業は、しょっちゅう邪魔されることになる。ようやく幼児期を迎えたばかりのフーちゃんは、いったん危篤状態を切り抜けると、退屈しのぎに(と大人は考えた)倫ちゃんにちょっかいを出し始めたのだ。声をかけ、歌を歌い、それでも物足りなくなると、ベッドの枠を乗り越えてレスピレーターやチューブをものともせずに倫ちゃんと遊ぼうとする。

 フーちゃんを制止し、なだめるために、禁止や叱責は無効だった。有効な手段は、大人たちが、倫ちゃんを一人のかけがえのない人間として、声をかけ、歌を歌い、みんなで一緒に遊ぶことだった。フーちゃんのお友達として、倫ちゃんは治り、生き続けるために入院しているというストーリーをでっちあげることが必要だったのだ。

 しかし、この不合理なストーリーは、やがて大人たちを変えていく。倫ちゃんと会話する。倫ちゃんと遊ぶ。不思議なことに、大人たちは、こういった幻聴と妄想が機械的合理主義の世界よりずっと生き甲斐と張り合いに満ちたものだと感じ始めるようになる。人間の精神世界が作り出すストーリーが、倫ちゃんと、フーちゃんと、親と付き添いと、医者たちと看護師たちの生きる時間と空間をとても豊かにしてくれたのだ。

 ・・・中略・・・

 今日、医療界では、このような特殊な甘い考え方を排除し、現実的な社会の考え方だけを優先させようとする動向が、完全に主流になってきた。脳死はもとより、安楽死や尊厳死というのは、この動向を最も鋭敏に反映する主張である。安楽死と尊厳死を混同するなという主張がある。しかし、安楽も、尊厳も、しょせん「私」の所有物にすぎないと見做されている。脳死・安楽死・尊厳死。いずれの死においても、死は完全に個人化された事象になり下がってしまった。

 人間の精神が創作したひとつのストーリーは、近代の初頭、病院社会に封印され、いまや完全に葬り去られようとしている。対象関係論的に未熟な幼児であるフーちゃんはいざしらず、ストーリーにおぼれるような異常な大人は、医師や看護師という専門職にふさわしくない。

 では、成熟した社会を支える、脳死・安楽死・尊厳死を正当化するストーリーとはどのようなストーリーなのか。あるいは、それがいかなるストーリーにせよ、社会から病院まで一貫して単一のストーリーが支配することは、人類にどのような意味を持つのか。このような問いかけを発し続ける中で、医者としての原点はいつの間にか私の原点となっていった。・・・後略・・・

 2006年5月28日
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by lumokurago | 2009-06-23 22:43 | 本(book)
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