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いま多喜二を語る意味 ―新たな戦争と貧困の時代に その5

未来につなぐもの

 多喜二は常に大きな視野を意識していました。彼の論文や運動の中で発表したものには「当面の問題」が常に出てきます。当面の問題はどうすべきなのかを絶対に忘れていない。しかし大きなスケールでの時間、自分というものを意識している。そういう意味で多喜二は絶対に私たちの同世代の人間だと思っているのですが、バデューさんとつながるとしたら、たとえば大好きな作品に『1928年3月15日』という、左翼、労働組合、共産党に関係のあった人たちの全国的な大弾圧を扱った小説があって、その中で拷問をつぶさに描いているんですね。非常に今とぴったりくるんです。

 アブグレイヴもさることながら、アメリカがやっている拷問と比較すべきだと思うのですが、その中に、非常に貧しい秋田の農民の小作人の娘である運動家の妻にアリをたとえに出させているんですね。私たちの運動はということで、アリが川を渡るときに先頭のアリがおぼれていく。後から来るアリはその死骸を橋にして渡って行く。運動はそういうものなんだということを言わせているのです。私はなかなかそこまでの勇気はないのですが、そういう何かつなげていく、未来につなげていくということ。

 今度の選挙でも、私は決して二大政党があることが民主主義だとは思っていません。それが嘘であるということはアメリカを見れば一目でわかることなのであって、でも、未来につながるものを何か作らなきゃと北海道の友人が話していたのですが、たとえ今の運動が私たちの生きている間に身を結ばなくても、未来につなぐものを残さなきゃいけないということだと思います。

 それが私が最初に申し上げた「今こそ主義」なんですね。しかし、「今こそ」というのがキャッチコピーになって、プラハ宣言があって、「シカゴの奇蹟」が持ち上げられて、被ばく者の方が生きている間にやらなければって、「今こそ」というのをさんざん繰り返して、再来週になって、来年になって、「今こそ」と言い続けられるかと言ったら、そうではないですよね。

なぜ今、多喜二を研究するのか

 「今こそ」という意欲は大事ですが、そういう言葉が空回りすることは問題ではないか。そういう点でやはり私は多喜二さんの作品には嘘の希望というものを感じないのです。だけど彼が希望を捨てているということは絶対にない。なぜ私が今の時期に多喜二を研究しようかと思ったかと懐疑的に質問されるのですが、このあいだ古い論文を手直ししていたら、なんと2002年の引用が出てくるのですね。

 2002年とは日本でどういう時期だったかというと、まだ格差という言葉が出ていなかったのです、実は。そんなに新しい現象ではないのですが、言葉としては新しいですね。バブルははじけていたけれども、バブル社会の理念というものが根底から捉え直されていたかというとそうではなかったです。

 そうではないところで私が多喜二に惹かれたというのは根本的に資本主義に幻滅している時期がずっとあったわけで、私のまわりには左翼知識人の同僚がたくさんいて、マルクス主義の理論は十分みんな身に付けていて、でももちろんベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊後は「階級」という言葉をみんな使わない、階級なんてもうないんだからと、そういうマルクス主義者なんですね。階級という言葉が使えない、使うことに過ちを指摘するような風潮があったわけで、その中で資本主義を完璧に捉えて、階級というものを前面に出している小林多喜二の作品に、ある意味では過去に戻ることによって自分の現在を生きる元気を常にもらっていました。

 もう一つは蟹工船のイメージ、大学生の時に当時日本語はそんなに読めなかったので、あまりよくない英訳で読んだのですが、その蟹工船のイメージは決して多喜二を研究しようと思わなかったわけですが、たまたま彼の文学館に行って、恋人のタキさんあての手紙を読んで、全然違った人間が私の前に立ちあがってきたような気がします。青年の熱い恋の思いなのですが、恥じなければならないような境遇から出てきている女性を、彼女が16の時に彼は出会って、10代のそういう女性に対して自分の人格を卑下しないように、人間の尊厳を訴えているのです。

 それが私にとっては強力な呼びかけだったのと、貧乏であることの傷がどれほど人間をゆがめていくか、特に、貧困を真っ向から意識した運動がない時に、貧困というのは恥じるだけなんですよね。それからできるだけ早く抜けたい。それがどれだけ人々の生活をゆがめてしまうか。特に階級という概念が切り捨てられた時点では、そういう考察が全く行われなくなる。

 アメリカだったらマイノリティである、女性である、エスニシティである、そういったことはここ20年来認められてきたけれども、階級は切り捨てられてきた。マイノリティ、エスニシティを強調する時に何があるかというと、「負」だけでなく文化的に価値が見出されて、たとえば黒人であったらバスケットボールの選手であるとかヒップホップ。しかし貧乏人には価値や魅力ってないわけですよね。そういう意味でも階級と貧困というものが忘れ去られた10年、ロスジェネという言葉が出てきましたが、ロスジェネの前から、我々の想像力、知性というものから階級という言葉を排除することによって何が失われてきたか、私の中では非常に大きな問題だったのです。

つづく

by lumokurago | 2009-08-24 20:35 | 社会(society)
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