暗川  


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by lumokurago
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昔の文章を読んで

  本棚を整理している。いろんな文書を読んでいる。中に職場の分会(組合)のものがあった。児童館、学童クラブは児童館担当3名、学童クラブ担当2名という女性の多い少数職場だった。女性が多いので妊娠も多く、支え合って子どもを産み育てながら働いていたのである。私は勤め始めて2年目に、なり手がいないため断りきれず分会常任委員となり、それからずっと組合活動に従事していた。1983年、行政改革のあおりを受け、私たちの職場にも人員削減の攻撃が来た。児童館担当の1名を減らし、月16日の非常勤職員に代えるというのである。子どもに対しては同じ仕事をしながら、圧倒的に労働条件の悪い非常勤職員を導入し、その後、時間短縮(週休二日制)にも正規職員を休みやすくするため、土曜日に出勤させるなど、あらゆるしわ寄せを押し付けた。

話が前後するが、初めこそ「白紙撤回」を掲げたものの、某自称革新政党の当局への迎合によって、人員削減反対闘争は敗北した。そしてそれまでは分会員一人一人の意見を聞き、方針を出していた分会内部がその政党に所属する(またはシンパ)人間と原則的に闘おうとする人間のせめぎあいの場となり、書記長のポストが選挙となった。その一方が私だった。その時の選挙のビラが出てきた。今読んでも我ながらいいことを書いていると思う。対立候補との思想の深さの差は歴然としている。また、友人が書いてくれた推薦ビラもすばらしい内容で、ありきたりなことしかいていない対立候補の推薦ビラとは性格が全く違っていた。結果は61対32で私が当選した。

それから時短攻撃(職員を増やさずに時短を行なうのは「攻撃」であった)、職員の主体的な研究会の廃止、さらに学童クラブの民間委託と、私たちは追いつめられ、現在は管理が強化され、自由はかけらもなくなり、昔の面影は全くなくなったと言っても過言ではない。

ついでに児童館、学童クラブの仕事が昔と変わった一番大きな点は、昔は保護者と共に子どもを育てる場所であり、保護者は子育ての仲間、同志であったのだが、今は、子どもと保護者は「お客様」であり、職員は「サービス提供者」になりさがったということである。昔は子どもを預けるというだけで、保護者は職員を信頼してくれたが、今は子どもを預けることは「権利」である。子どもがけがをした場合、昔の親は「うちの子が(わんぱくで)悪いんです」と言ったものだが、今では訴訟沙汰になりかねない。ちょっとしたけがですぐにCTである。

「お客様」と「サービス提供者」の間に成り立つ信頼関係は「商品」を媒介にしたものでしかない。児童館、学童クラブの職場での「商品」とはなんだろう? 日常の子どもとの交流など、目に見えないものではなく、行事など目に見えるものになりがちだろう。

話は変わるが、1979年12月から1982年12月まで、職場の仲間3人で「もっこ橋」という通信を作っていた。厳密に言うと、初めは職場を対象に話題も仕事や子どもの話題を中心にしていたのだが、途中で2人の仲間は抜け、私一人でやることになって、対象も職場に限らず、私の友人等に広げていき、今のブログ「暗川」の前身である印刷版暗川に近いものになっていった。

「もっこ橋」の初めの頃は、子どもの話題が多いのだが、行事など目に見えるものではなく、つまり「商品」ではなく、なるべく子どもを管理せず、大人から提供することはせずに子どもの中から出てくるものを大切にして、自由の風の中で、お互いに成長していこうとする姿勢が現れていて懐かしい。「サービス提供者」になり下がった今ではそのような姿勢を持つことは非常にむずかしいし、だいたい誰にも理解されないだろう。

私がドライアイなど、仕事を辞めざるを得ない理由があったとはいえ、未練もなく50歳で仕事を辞めてしまったのには、このことが非常に大きい。

話がいろいろと飛んですみません。このパソコンはマックで、使い方もよくわからないので、ここまで書いたこの文章、なくさないためにブログに載せておきます。今後、当時の文章を載せるかもしれません。興味があればお読み下さい。

  (奥ちゃんへ、これはネット接続を断ち、パソコンをおなかの上に載せてネオオフィスで打ち込みました。楽でした)
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by lumokurago | 2010-02-26 18:46 | 昔のミニコミ誌より
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