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私にとっての学童クラブ

  いやはや、本当によく書いたもんです。大昔、職場の仲間でやっていた読書会でまでニュースを作っていました。今、月曜日にご飯を作りに来てくれているKさんと私がその読書会の呼びかけ人でした。

  学童クラブとはなんぞやというテーマで話し合った時の、私の文章です。

***** 1981年6月

  子どもたちの生活から自由な遊びが奪われつつある。塾やおけいこごとに遊びの時間を奪われ、都市の過密化に遊びの空間を奪われ、さらに、時間や空間が奪われることによって、遊びの仲間を奪われている。その上、教育熱心でお節介な大人が、わずかに残された自由な遊びにさえも口出しして管理しようとやっきになっている。学童クラブや児童館がそれである。子どもの発達成長のために、とお題目は立派でもっともらしいが、本来自由であるべき放課後の時間にまで大人が介入して「発達成長」まで管理されるのでは、子どもはやりきれないだろう。

  大人は子どもはまだ成長の途中にあるから、大人が成長を助けてやらなければならないと言う。確かに子どもは未熟な点が多い。大人が教えなければならないことは多い。しかし、未熟ではあれ子どもも1個の人格であり、大人といえどもまだまだ未熟な成長の途中にある1個の人格である。そこにおいては、大人が一方的に子どもの「発達成長」を援助する立場にあるのではなく、相互に作用し合って、それぞれが学び合いながら自分で成長していくのではないだろうか。

  子どもの自発性を尊重すると口では言いながら、根本的なところで大人がお膳立てして、子どもを操作するような大人が多い。その結果、子どもが遊びができるようになったり、積極的になったと見えるかもしれないいが、一番最初のところで大人の手が加えられたら、それは本当の成長とはほど遠いものであるだろう。

  成長するということは、自分で悩み、自分で考え、自分で求め、限りない挫折や試行錯誤の後に、ある大きな飛躍として現われるものだから。長い長い空白のような時期に、心の奥で発酵して、熟成されて、突如として輝き始めるものだから。人間(子ども)の成長とは、この行事をやったからこう変わったなどというものではない。むしろ、目に見えないことを積み重ねて、長い間待たなければならないだろう。

  私は人間と言う者は、子どもも含めて一生成長の途上にあり、相互に作用し合ってお互いに成長していくと言う意味において、大切にしなければならないことはそんなに多くはないと思っている。ひと言で言えば、本当の意味で自分を愛することである。そして自分を愛することは、他人を愛することにつながっている。自分に誠実であることは、他人に誠実であることに等しい。自分にきびしいことは他人にきびしいことであり、それ以上にやさしいことである。自分をよく見つめることは、また他人をよく見つめることである。

  本当に大切なものは何なのか。それをいつもよく考え、本当に大切なものだけを大切にしていきたい。そうすればその大切なものを破壊しようとしてくるものに対して敏感になる。しかし、本当に大切なものを見極め、行動においてもそれを大切にすることは、とてもむずかしいことである。ぬるま湯につかってぬくぬくとしているのでは、とてもそれを発見することはできない。長い孤独に耐え、自分とたたかい、一向に進歩しそうもない自分を底の底まで見つめ切手、そして強靭な意志をもってそこを乗り越えなければならない。その作業には何人と言えども手を貸すことはできない。

  他人(子どもを含む)との関係において、私たちができることは、その時その時、誠実に対応することで、それはつきつめれば結局自分を語ることしかないと思う。そこから何を感じ取るか、何を考えるかは相手にまかされることになるだろう。相互に作用し合うとはそういうことを言う。

  人間を相手にする学童クラブの仕事の本質はそういうところにある。学童クラブはしかし、子どもが望んで通ってくる所ではなく、親の都合で一定時間自由を拘束されるところである。その意味に置いて、学童クラブもまた学校の管理の延長線上にあり、それが「放課後」という本来自由であるべき時間であるが故に、子どもに対してより罪が深い。しかし現在の社会においては「必要悪」ということで、私たちの力ではどうすることもできない。だから、私たちのなすべきことは、管理の度合いを最低線まで引き下げて、できる限り「本当に大切なことのひとつである本当の「自由」を子どもたちに保障することだとは言えまいか。いや、本当の「自由」は他人から保障されるようなものではないのだが。しかし、現在の状況ではやむを得ない。

  現在の高井戸学童クラブ(当時の私の勤務先)は、子どもが自由に遊べる数少ない場所になっている。クラブに行けば異年齢の仲間がいて、その時間は自由に遊べる。大人(私たち職員のこと)はいるけれど、遊びに口出しはしないし、放っておいてくれる。けがをした時にかけ込めば手当してくれる程度。時々、自分にはわからないことを一生懸命に言っている。「先生、どうしてあんなに一生懸命に言うのかしら?」

  現在、子どもに対しては児童館、大人に対しては地域区民センターのような、一見良さそうに見えるけれど、その実、人びとが気づかない程巧妙に人間を根本的なところで管理するものが「子どもの自主管理」「住民の自主管理」と大手を振っている。こういう本当の自由とはかけ離れたところにあるものに対して、私たちはどのようにたたかっていけばよいのだろうか。

  私は自分の働く学童クラブを基盤に置きたい。学童クラブでは現在のところ、まだ、学校における指導要領のような、子どもを管理する職員をそのまた上から管理するものがなく、クラブの中では自由にやれる(もちろん制約はあるが)。自分のクラブで大人(職員)も子どもも自由にやり、他のクラブの職員、父母に問題提起していく。学童クラブの父母会は現在、人びとがバラバラになっている地域で貴重なものである。父母会の中で現在の子どもをとりまく諸問題について話し合えるようになれば、そこから地域の親たちに輪を広げていく可能性が生まれる。もちろん、そんなに簡単にこのことが実現するとは思わないが、クラブの仕事を続ける限り、たとえ何年がかりになろうと努力していきたい。今、子どもにかかわる仕事の中でも学童クラブほどそういう問題提起をやりやすいところはないと思う。「評価」ということがないので、子どもとも人間対人間としての付き合いが成立しやすいし、親に対しても率直に意見交換をしうる可能性が残されているから。物質的に快適で豊かな暮らしをエサに巧妙に人びとから本当の自由を奪い、がんじがらめに管理しようとしているものに対して、自分の職場から問題提起していきたい。

*****

  その後のことは私の本「負けるな子どもたち」にまとめてありますが、自分ではここに書いた初心を貫いてせいいっぱいやったと思っています。
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by lumokurago | 2010-03-04 18:06 | 昔のミニコミ誌より
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