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「シカゴの奇蹟」―根拠のない希望

 広島、長崎を戦後長らく捉えるキャッチコピーが「怒りの広島・祈りの長崎」でしたよね。ご存じの方、どのぐらいいらっしゃいますか。(会場挙手)少ないですね。よく言われていて、長崎はカトリックの信者が多いから祈りで、広島の方は怒鳴ってばっかりいて、これは私の意識では長崎を美化するようなとらえ方だという気がするけれど、怒りも祈りもどちらかを選択すればいいということではなく、両方必要だと思うのです。

ここまでは怒るべきことに対して怒りを忘れてきたということをお話ししてきました。これからは希望編に入りたいのですが、二つ、問題提起のために用意してきました。

 一つは必ずこの時期にある原爆報道なのですが、その中に「シカゴの奇蹟」というキャッチコピー的な表現が出てくる記事を読みまして、たまたま私はそこに出てくる当事者をよく知っているんです。それでその内容には全く根拠がないということをたまたま私は知ることができたのですが、その記者さん一人の責任をどうこう言うより、報道体制として、どうしてこの「シカゴの奇蹟」という被ばく者や支援者、反戦・反核運動家たちを励ますような物語を作ってしまう傾向があるのかということをむしろ、考えなければならないと思います。

 簡単に申し上げると2007年に広島市主催の原爆写真展がシカゴ市のデュポール大学で開催されました。その時に、オバマが民主党の大統領候補になるための選挙運動をしていたのですが、そのオバマ候補がたまたま会場を通り抜けたという話です。私の友人がデュポールの先生なのですが、この「シカゴの奇蹟」という心温まるお話の中では、オバマ大統領が通って原爆の写真を見て、プラハ発言につながったのではないかとそういう逸話ができた。しかしこれは全く根拠のないことなのです。そういう記事が出てしまったわけです。

 その時の演説でオバマ候補はすでに核廃絶を言ったらしいのですが、写真展を通り抜けたからではなく、彼の学生時代の信念が元になっているのだと思います。それに、たまたま私の友人は被ばく2世と名乗るようになっているのですが、被ばく2世でアメリカで教えていて大学で原爆展を開催して、オバマ候補が通って、プラハ発言ってとってもいい話じゃないですか。そういう根拠のない希望を作ってしまうというのは非常に問題だと思います。

 もう一つ問題なのは、彼女はなぜ自分を被ばく2世と言うのをためらうのかというと、自分が苦しんではいないこと、被害者の特権みたいなものが独り歩きしてしまうことを恐れているのです。彼女がもっと問題にしているのは、「つくる会」の教科書につながってくるのですが、自分が反原爆運動をやっているのは小学生、中学生の時に広島で受けた平和教育があったからであって、被ばく2世であるということはつい最近まで自覚もしていなかったということです。被ばく2世、被ばく2世と報道陣につかわれることは教育の重要性を否定してしまうということで、大変残念に思っているのです。

本当に核のない世界にしようと思うなら

 そういうこともありまして、マスコミの書いていることというのはいつもある程度信じきってはいけないと理解するんですが、昨日東京に着いて、いくつかNHKの番組を見て、昔と比べていくつもこの季節に放映される番組ができてるんですよね。その一つ一つは大変充実していると思うのですが、何年経っても感動する物語が紹介されるわけじゃないですか。本当に感動しますし、特に若い人たちが出てきて、自分たちが受け止めなければならないと言った時に涙が出てくる思いがするんです。
 
 でも同時に思ってしまうのは、来週になったらどうなんだろう、16日になったらどうなんだろう。マーシャル諸島じゃないけれども、昔は敗戦記念日と言ったのが終戦記念日に代わって、記念日の名称が変わっていくように人々の意識も記憶も短くなっていく。16日になったらもはや選挙の報道だけになっていくと思うのですが、その時に前の2週間に取り上げられた問題がどれだけ意識されるのかと思うんです。

 一つ思ったのはこういう番組に出てくる方たち、ゲストとして招かれる方たち、それから麻生首相も出席するわけですが、原爆投下反対、核兵器使用反対と言わない方はいないわけです。だけど実際どこまで確信を持ってそれを言っているのか、原爆報道、場合によるとドキュメンタリーなんかは思っていることから切り離されて伝えられるのだろう。
 
 たとえば麻生首相は非核三原則を守ると言っているけれども、翌日にはアメリカの核の傘を口にしているわけです。本当に核のない世界にしようと思うなら、「原爆には反対です」という人たち一人一人に、北朝鮮がああいう行為に出たとしても原爆はいらないと言えますかとつきつけたいと思います。報道陣の責任でもあると思いますし、私たちもそれをやっていかなければならないと思います。

 でもそれは脇においておいた方がいいんですよね。感動する物語に感動して、我々の決意を毎年儀礼的に繰り返して、だけど、そこに大きな問題がある。いつも思い出すのは、90年代になって細川政権の時、従軍慰安婦などについていろいろ問題になって侵略戦争を認めたわけですが、あの頃に、故人になりましたけれども私の敬愛する歴史家の網野善彦さんが、インタビューで植民地支配のことを聞かれた時に、日本が植民地にされたとしてもあの戦争を起こさなければよかったと思います、と答えたんです。

 私たちは最悪の時にどうなのか、というところまで自分たちの信念を問わなければならない。植民地支配するよりもされる方がいいんだと網野さんはおっしゃって、後で自分は内村鑑三の思想を繰り返しただけだとおっしゃっていましたが、北朝鮮が何をしようと日本は核を持たないし、アメリカの核の傘に入らないんだというところまで言えないんだったら、反原爆とは言えないと思います。

 それを言えないとしたらなぜ言えないのか、それならどういう核縮小の運動に力を入れるのか、そういうことを1ステップずつクリアにしていかないと、みんながはいはいと言えるようなお話で終わっていくのではないかという危惧を感じています。

 もう一つここでお伝えしたかったのは、これは沖縄の平山牧師さん、松井やよりさんの実弟の方だと思いますが、彼が流された報道です。それはアメリカの「憂慮する科学者同盟」という会の一人の人が4月中に作ったビデオで、ユーチューブで流されているのですが、オバマ大統領のプラハ発言を受けて、アメリカの核政策が変わるのではないかと日本政府内で憂慮している人が多くて、そういう人たちがアメリカの国務省などに今の核政策を変えないでくれと働きかけている、それを日本国民が知っているのかどうか。これはそれこそ今立ち上がらなければならないことで、というのは9月、10月にアメリカの政策が再検討されるので、日本の人たちは日本政府に対して働きかけてほしい。そういうものをユーチューブで流したのでお伝えします。

嘘の希望と本当の敵

 「希望」ですけれども、もちろん人間は希望なしには生きていかれないし、こういう運動は続いていかない。けれども、嘘の希望はあった方がいいのか悪いのか。私自身自分に言い聞かせて半信半疑で、だけどその半疑の方が非常に重くなるんですよね。自分で自分をだますほどつらいことはないわけですから。それを長年続けてきて、8月付近にこういうふうに集まって決意を固くして、でも本当は信じることはできない、何も変わらないだろうと思ってしまう方は多いと思います。

 嘘の希望に頼るより、厳しい現実に立ち向かった時こそ怒りと力が湧いてくると私はこの頃思うようになったので、そういう意味でも8月の儀礼的な原爆報道の問題を再検討すべきではないか。それからせっかく集まった時に、やはり集まるということは力なんですから、本当の希望はなんなのかということを考えたいと思います。

 そこで多喜二に言及しますと、彼は恋人の田口タキさんという―強いられた境遇に育った女性ですが―彼女についてある時、こういう人たちを扱っている場合には希望を書き込むことが嘘になるんではないかということで、それはできなくなってきたと日記に書いているのです。私もそういうものだと思うんです。フィクションの中にも嘘の希望は書き続けられないと認識した多喜二をみなさんの念頭に置いておいていただきたいと思います。

 また、多喜二の登場人物の中には階級的憎悪とか敵という言葉が出てきます。憎しみというのは運動の中で一番大きな、大事な感情として出てくるわけですが、そこで大事なのは誰を憎むかというのを間違ってはいけないということです。

 多喜二は繰り返し言及しているのですが、たとえばタコ労働、悲惨な労働、奴隷労働を民営化したみたいな・・・。犬を使って虐待するストーリーがあって、犬をどうにかしてやるというセリフが出てくるのですが、後に多喜二は犬は犬でしかなくて犬を操るのが誰かということを見抜かなければいけないと。

 みなさん、ここでは『蟹工船』のストーリーをご存じの方が多いかと思いますが、あそこでもやはり鬼の浅川監督が敵ではない、敵をみきわめるには丸の内の帝国海軍やそういうところに視野を向けなければ、本当の敵を見間違えてしまうということを、ちゃんと書いているわけです。

 ですから構造的な敵がどこにあるのか、これは本当に大変な問題なのです。人間の形をした敵を憎むのはたやすいのですが、構造に対する怒りをかきたてるというのは難しいことです。しかしそれなしにはやはり私は今の反貧困、反戦争の運動というのは進まないと思うので、怒りの質、怒りの矛先をどこに向けるかということも議論して、みんなでしっかり確認していかなければならないと思います。

アラン・バデューの「共産主義仮説」

 「シカゴの奇蹟」という一つの逸話の嘘の希望の話をしました。またちょっと違う視点で、友人が今話題になっているフランスの哲学者のアラン・バデューという人の「共産主義仮説」というエッセイを送ってきて、どう思うかと聞いてきました。私は最近、哲学者のそういうものを避けているのですが、バデューは共産主義こそ近代なんだと言っています。共産主義仮説を嘘だと退けてしまったら、我々は集団的行動をあきらめることは当然であって、そういう思想を追求する必要がなくなってくる。共産主義仮説の根幹が何かというと、競争原理、それから少数者が多数を支配するという社会に対する絶対的な信念と行動、それが彼の言う共産主義仮説なのです。

 彼は二つの時期を設けていまして、最初がフランス革命からパリコミューンまで、つまり1792年から1871年まで。それから戦争をいくつか、第一次大戦を含め、第2期が1912年、17年、1976年、ボルシェビキ革命、ソ連革命から中国の文化革命までの二つの実質的共産主義仮説が追求された時期の後に、今我々は生きている。それをどうするかということなのです。その意味ではこの哲学者の検討も私にとっては非常に意味が深かったのですが、もう一つ実存主義で有名なサルトルの言葉を引用しています。サルトルにとって共産主義というのは、思想とは何かというと、それは人間であることは何なのかということ。その思想をあきらめた段階で人間は動物と同じになって当然なんだ、つまり弱肉強食の世界になって、それを阻止する理念もなくなるということなのですが、これを読んで私が思ったことは二つあるんです。

 バデューさんは、哲学者として、またフランスの移民問題活動という実践もされているのですが、かなり高い所から近代を見ています。今の状況を見たら戦争が来るのは避けられず、戦争の時期の後に何が来るかということに、我々は視野を持たなければならない。今、我々は19世紀に戻りつつある。貧困、搾取労働、お雇いインテリゲンチャのマンネリ化、それはもう20世紀でもなくて19世紀に戻っていく、けれども第2期、第1期の共産主義仮説ではなくて、やはり21世紀にいる以上は違った共産主義仮説を追求しなければならないとバデューさんは書いているのです。

 つまり戦争が、彼は確実に来ると言っているのですが、あきらめるのではなくて、だからこそその先に共産主義仮説をどうやって実践に移すかということを一生懸命考えようと呼びかけています。それは私も大いに賛成なのですが、彼のように哲学者ではないので身近な人たち、周りに今いる人たちをどうにかしなくちゃいけない。やはり私たちの範囲の中の苦しみに対してどうやって向き合っていくのか、そういう問題を私は捨てることができない、ここで多喜二とつながってくると思います。

(つづく)
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by lumokurago | 2009-10-01 01:27 | JANJAN記事
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