暗川  


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新春放談その1

新春放談 1981.1.15 「もっこ橋」第13号より  

 学童クラブの仕事、子ども、大人について、職員が集まって話し合いました。参加者8名(主催者発表)名前は仮名です。(今からおよそ30年前のことです。登場人物は久保田さんを除き、みな20代です)。
 
荒井:最近の児童館や学童クラブの様子を見ていると、何かあわただしく、ゆっくりした気持ちで子どもに接する雰囲気がなくなってきたように感じますが、非常勤時代から学童クラブの仕事をつづけていらっしゃる久保田さん、どうでしょうか? (一同、尊敬のまなざしで久保田さんに注目)

久保田:そうですねえ、子ども自身も活発で素直な子が少なくなり、口ばかり達者だけれど遊ぶ活力の乏しい子や、お金や物にふりまわされている子が増えてきているようですね。(一同、うなずく)

船戸:やはりそう思われますか。私の子ども時代と比較して無気力な子が目立つし、なかには何を言っても通じない子が数人いて、私は「宇宙人みたい」とよく言うのですが、むかしとは違ってきているなあという気がします。テレビや受験戦争の影響、それに加えて物があふれ、そのかわり遊び場、遊ぶ時間、仲間がいないという社会のしわよせがみんな子どもたちにきてしまっているように思います。

久保田:ええ、けれどもそうやって子どもが変わったと嘆き、社会が悪いと批判する私たち自身も、実は同じ毒に侵されているんじゃないか・・・というのは、縁日、おばけやしき、もちつき大会など次々と行事を組んで子どもにサービスするというやり方をみても、次から次へと新しい刺激を求めるテレビ時代の発想という気がするし、また分科会(職員の自主的な研究会)やセンター主催の研修に参加して思うのですが、みんなが「すぐに役立つこと」を求めすぎている。これらから感じられることは、子どもたちの気持ちをまず受け止め、彼らの感性にはたらきかけるような、目には見えないけれどじっくりと腰を落ち着けた指導に取り組むことよりも、行事に子どもが何人集まり楽しく過ごしたとか、職員としてもやりがいがあったというような、一時的表面的な、しかしはっきり目に見えるために効果があがったと錯覚しやすい、そういう方法を価値あるものとする姿勢です。そういう、一見効果があがったかのように見える短絡的、安易なものに目を奪われるということは、やはり現代のマスコミなどに毒されている証拠ではないでしょうか。

船戸:私もセンターの研修はつまらないと思います。障害児とのつき合い方の虎の巻なんてあり得ないのに、研修を受ければそれが得られるかのように、みんな「障害児受け入れに当たっては研修をしてほしい」と言います。しかし障害児とつき合うということは、そのときになってその子とやってみるしかないんじゃないでしょうか。そして試行錯誤のなかからお互いに何かをつかんでいくのでしょう。障害児についての一般論を聞いても、学校の授業が役に立たなかったのと同じで、聞かないよりはましという程度でしょう。そういうものに期待するということは、みんなは自分で行動するのが怖いので「研修」という権威にすがりついているのではないかと言いたくなります。勇気をもって相手にぶつかっていかなければ、相手だって本気で受け止めてはくれないでしょう。そんなときに「研修」なんて寝言を言っていては相手にしてもらえなくなってしまいます。

榎本:「寝言」なんてあんまりだ。(一同、いうことがキツイという目で船戸さんをみる)。

土井:久保田さんや船戸さんのような行事や研修に対する見方はあまりに表面的すぎるんじゃない? 行事に取り組む指導員が行事に子どもが何人集まって楽しく過ごせたということだけに目を向けていると、簡単に言い切っていいのかしら。研修に集まる人たちだって虎の巻のみを求めてやってくるとは言えないと思います。そういう風にそれぞれの内容を深く検討することなしに、行事、研修という大枠のところで切ってしまっては、見失ってしまうものも大きいように思います。それこそ短絡的ではないかしら。

榎本:そうね、一つの研修、一つの行事のなかで取り組んだ人たちが何を意図したのか、そこから引き出されたもの、引き出されなかったものが何であるのかという中身の問題をていねいに考えていかないと、行事あるいは研修の意味のあるなしも論じきれないと思う。

荒井:行事の意味というと、行事をやりとげたことによって子どもが自信をもった、積極的になった、集団としてのまとまりができてきたなどが多いと思いますが、そういうことは大人が操作した結果にすぎないのであり、子どもの内面までは届いていないのではないでしょうか。職員はそこのところに謙虚にならなければいけないと思います。そこに気がつかず、表面的に子どもがよくなったことに自信を持ち、行事の意味も過大に評価しているのではないですか。

久保田:私の言いたいのもそういうことです。

藤本:船戸さんの言ったなかで、障害児とのつき合いについては私も同感だけれど、研修で障害児一般の症状やケースについて聞くこともまったく無駄ではないと思います。研修で得たことが現場で生かされることもあるだろうし、また障害児とつき合っていく中で勉強したいことがでてくれば自分でも勉強するでしょう。

土井:そうだよね、障害児の研修を受ける人たちがはたして障害児とつき合うことを置き去りにしてここで言う虎の巻を得ようと思っているのか・・・むしろ試行錯誤の一つとして研修も含んで考えていっていいのだと思います。

船戸:(小さな声ではばかるように)そう言われてしまえばそっちの方が受けがいいけど、本当にそうかな。みんなを見ているとそうは思えないな。

荒井:人間に対する考え方の違いね。

船戸:でもこれだけは言えるんじゃないかしら。みんな、学校の勉強が自分の成長の上で役に立ったと思ってる? 私は思わないの。学校なんかと関係なく、自分で考えたり、本を読んだり、友だちと話したりしたことの方がずっとずっと意味があったと思う。みんなもそういう部分の方が多いんじゃないかしら。でもみんなと私の違いはこういうところにあると思う。それは学校というものは社会の中で権威をもってそびえているから、みんなはそれを否定することをはばかる。権威にだまされてる。私に言わせれば。でも私は権威なんて認めないから、自分の思ったとおり素直に言えるわけ、学校なんてつまらないと。研修も学校と同じことだと思う。

土井:そりゃずいぶん主観的すぎるよ。みんながどうなんてどうして船戸さんにわかるのさ。傲慢だよ。

船戸:いつもここで違いがでるわね。今日のところは話題からそれた話だからもうやめとこうよ。本題に戻してください。

久保田:船戸さんの意見はちょっと極端ですが、私もそういう面は否定できないと思います。それから私の分科会でも工作や手芸のネタを仕入れることで満足してしまう人が多いですが、そういう技術的なレベルにとどまっていて子どもの指導ができるでしょうか。工作や手芸を教えることが子どもの感性を培う上で一体どんな意味があるのでしょうか。

土井:分科会のあり方、中身の問題はいろいろあるでしょうが、工作、手芸の技術を子どもに指導することが即子どもの感性を培うというふうにはみんなも思っていないのではないですか。

久保田:それにしてもみんな貴重な時間をさいて集まっているのですから、分科会での交流が技術やハウツウもののレベルにとどまってしまっていることは残念としかいいようがありません。

荒井:ええ。教育とは「共育」―ともに育つこと。先生と生徒、大人と子どもという枠を越えて人間としてお互いの感性を作用しあって成長していく過程なのではないでしょうか。そういう精神的な作業ですから分科会などでもすぐに役立つ技術ではなく、職員自身の感性を高めるような勉強をしていくことが必要だと思います。

本橋:さっきから言われているとおり、研修や分科会のあり方には問題はあると思いますが、それを感受性ということばとつなげて大見栄を斬られてしまうと私には少し困ってしまうようなところがあります。感受性ということばの意味が私にはよくわかりません。

藤本:私もうまくは言えないのですが、たぶん感受性とはその人が何年間か生きてきて見てきたこと、経験してきたこと、また、これからの人生でぶつかるさまざまなできごとや人との出会いに対して、どうかかわっていくのかということも含めて、その人の生き方の総体の中から自然に培われる何かという気がします。

榎本:ええ、だから手芸や工作や研修などのなかでその「何か」が培われていくこともあるのではないか、というよりむしろそういうことも含めて感受性というものはありうるのではないかと思います。

(つづく)
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by lumokurago | 2010-05-25 22:03 | 昔のミニコミ誌より
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