暗川  


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あめふり放談・その1

あめふり放談 

1981.7.10 「もっこ橋」第19号より

荒井:今日は「子どもにとって遊びとは何ぞや」という深遠なるテーマを話し合いたいと思います。身近なところでクラブの子どもたちを見ていてどうですか。

藤本:遊びは子どもの生活であり、子どもは遊びの中からさまざまなことを学びながら成長していったものですが、現在では遊びは学校や塾やおけいこの合間の息抜き程度のものになりさがってしまっていると思います。その上、学校から帰ってきて「疲れたア」と言って、ほんとうにしんどそうにごろごろしている子など見ると、まるで大人が疲れて仕事から帰ってきたみたいで、生き生きと遊ぶ気力さえなくしている子がいます。

広野:子どもたちをみていると、毎日スケジュールに追われ、大人から目標を与えられる生活をしている子が多いですね。家でもテレビを見たり、テレビゲームで過ごすなど受身の遊びが多いようだし、たまに自由な時間ができても何をしたらよいのかわからないという子が増えているみたい。自分から楽しみを見つけていくことができない子どもたちに対して、私たちはどう接していったらよいのか、この仕事について2年目ですけど、いろいろ迷うことばかりです。

田上:今の子どもは昔と違ってきていると思わない? よく言われるように子どもが追いまくられる生活の中では、子ども集団が育っていかないし、その結果として子どもたちの中で遊びも育っていかないような気がするわ。放っておいても遊べない子が増えている以上、大人が何か手段を講じて遊ばせてやる必要があるんじゃないかしら。私も初めは自分が子どもだったころのことを思い出して、子どもは友だちがいればひとりでに遊べるようになると思い、楽観していたけど、そんな考えは甘いんじゃないかと現実の子どもたちの姿をみて考えさせられたわ。

和泉:そうよね。昔、私たちが大きい子から教えてもらったコマのひもの巻き方ひとつとってみても、放っておいたら誰も教える子がいないし、したがってコマの本当の楽しさも知らないまま大きくなるわけだもの。いまさらそれを嘆いても仕方ないのだから、少しでも身近なところにいる私たちが遊びの楽しさを教えてあげないといけないんじゃないかしら。

船戸:そんなこと決めつけられないんじゃない? 私なんかこの仕事について初めてコマを子どもから教わったのよ。コマ回しなんかできなくても、ちっともコマらないわ。

田上:でもできるだけたくさんの遊びをいろいろ取りそろえて子どもに知らせることは大事なことだと思う。子どもが自分の好きな遊びを発見するために選択肢を増やしてやることは、大人のつとめではないでしょうか。それに遊びそのものを大人が教える、教えないはともかくとして、子どもの遊びが自然に育つような子ども同士の仲間関係を作っていくということは大切なことでしょう。

船戸:そうおっしゃるけど、人と人との出会いでもさびしいから求めればすぐに出会えるというものではないでしょう? 「もっこ橋」第16号に載っていた「『本を読みなさい』って言わないで」という新聞の切り抜きにもあったけど、人とホントの出会いの場合でも静かに待っている本とその本を求める人とが「ひそやかな心ときめく出会い」をするものだし、子ども同士の出会いもそれと同じで、大人が出会いの機会を増やしてやろうなんて考えるのは邪道だと思います。子どもと遊びの出会いの場合も本の場合と同じで、遊びだって静かに子どもを待っている。出会いは50%の偶然と50%の意志によって成り立っている。出会いを求める意志がある偶然と重なった場合、人と人、あるいは人とモノとは出会うのだと思います。

土井:クラブの場合は、好むと好まざるとにかかわらず、そこに毎日子どもたちが来てうごめいているわけだから、そこで子どもたち自身がどんな関係を育てるのか、育てていけるのか、時間をかけて見ていくことがまず必要なのではないでしょうか・

和泉:でも私たちは単なる子守ではなく専門職なのだから、子どもに遊びを教えることも仲間作りをすることも、子どもにまかせっきりにするのではなく、積極的にはたらきかけていかなければいけないのではないでしょうか。遊びが子どもを待っていると言っても、子どもよりは大人の方が豊富な体験を持っているし、昔の遊び、たとえばお手玉とか石けりとかまりつきなど、今では待っているだけでは決して出会えないものもあるし、大人は自分の知識や体験をできるだけたくさん子どもに伝えていく義務があると思う。それに子ども同士の出会いだって、放っておいたら知り合えないまま終わってしまう場合もあるでしょう。知り合えば仲良しの友だちになれる子同士がそのきっかけをつかめずにすれちがってしまったら残念だわ。そのきっかけを作ってやるのが私たち職員の役割だと思います。

田上:40人なら40人の子どもがクラブに毎日来ていて、生活を共にしているのだから、そこでできるだけいい仲間関係を作りたいと思うのは当然のことだし、放っておいたら子どもはなんといってもまだ行動範囲が狭いから全員の子とつき合うことはできない。だから友だちを選ぶ範囲も限られてしまう。でもできるだけ広い範囲でたくさんの子とつき合ってみて、その中から友だちを選ぶ方がいい友だちにめぐり合う可能性も大きくなると思う。友だちにしろ遊びにしろ、その「出会い」の可能性を広げてやることは大事なことで、それはその子の身近にいる大人がしてやらなければならないことだと思います。

船戸:なんだかお見合いみたいだね。お見合いというのは結婚相手を探す時、自分ひとりで探すだけでなく、いろんな人に頼んで探してもらうことによって、田上さんの言う「出会いの可能性」を広げているものですよね。そういう意味でお見合いを合理的だと言う人もいるけど、でもそれは他人におぜん立てされた出会いであり「ひそやかな心ときめく出会い」とは別のものになっていると私は思うわ。それに私は友だちになれそうな子ども同士がきっかけがないまますれ違ってしまうことがあったとしても、それはどうしようもないことで、「それが人生というものさ」と思うだけ。大人が介入して二人を絶対に出会わせたいとは思わないわ。すれ違う時はすれ違ってしまうものだし、出会う時は出会うのだと思う。それはもう運命であって、人間の手でどうこうすることは本質的にはできないんじゃないかしら。

田上:どうして「お見合い」なんか持ち出すの? 全然違う問題じゃない。船戸さんはまだ人生経験の少ない子どもに対する時の大人の立場を忘れてるよ。子どもと大人は違うでしょ?

船戸:そうかなあ。私は本質的に同じ人間であることに変わりはないと思うけど・・・。

田上:「立場」の問題を言ってるのよ。

船戸:「立場」ねえ。

和泉:船戸さんの意見で「すれ違う時はすれ違ってしまうものでそれは仕方のないことだ」というところね。それでは子どもの身近に大人がいることの意味がないのではないですか。大人は子どもの成長を助けてやらなければならないのであり、できる限りすれ違わないようにいろいろこちらで設定したり手を貸したりしなければいけないのだと思います。子ども同士の出会いも遊びとの出会いも。

藤本:船戸さんも「すれ違ってしまっても仕方ない」なんて乱暴なことを言っていても、実際にはすれ違わないようにいろいろとやっているのだろうと思います。でもそれが大人が意図をもって行事をおぜん立てするとかいうのではなく、子どもの日常生活を見ていて自然に出てくるものであるような気がします。

土井:どうも船戸さんはすぐに話を飛躍させるし、決めつけ方が極端なんだよね。だから誤解されやすいのよ。

船戸:そのことはいつも反省しています。

(つづく)
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by lumokurago | 2010-05-28 21:13 | 昔のミニコミ誌より
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