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「オニ」のつぶやき

「オニ」のつぶやき

 『暗川』第7号 1986.4.26より もとは宮前学童クラブの文集に載せたもの
 『負けるな子どもたち』(径書房1989)にも載せました。

 私は宮前学童クラブでは「オニ」で通っている。あだ名は「ナベセン」だから、「ナベセン」と呼ばれることがほとんどで、「オニ」と呼ばれることはないが、いつのころからか(異動してきてすぐだろうか)、「ナベセンはおこるとオニになる」といううわさがたちはじめ、そのイメージはすべての子どもに固定してしまい、あまりおこられないような子でもなにかというと「オニ」「オニ」という毎日である。

 去年のいまごろ、髪型や服装に興味のない私に、妹が白いピン止めをくれたのだが、私はそれをつけて鏡を見たとたん、「これは“角(つの)”って言われるなあ」と思った。その白いピン止めは先がとがっていて、「オニ」の私がつけると角が生えたように見えるのだった。案の定、翌日クラブに行ったら、子どもたちの間で「ナベセンに角が生えた」と評判になった。ごていねいに「もう一つつければ角が2本になるからもう一つやったほうがいい」と言ってくる子もいた。

 はじめて「オニ」と言われた時は正直言って驚いた。だって私は前にいたクラブでは「やさしい」としか言われたことがなかったし、そんなにおそろしくおこっているという自覚もなかった。異動してきたばかりで関係も作れていない子には、気心知れた子を怒鳴っていたように強くおこれるはずもなかった。なんでそんなにこわがられるのか不思議ではあったが、そんなことを気にするたちでもなく、「ほんとは私、オニなんだぞ。角だって生えてたんだけどみんながこわがるから切ったんだ」などと言うと、子どもは私の頭をなでて「ほんとだ。ここに角のあとがある」などと言い、適当にふざけて「オニ」の役をやってみせてきた。

 でも、おやつや弁当のとき、私が一つのテーブルにすわると、そのテーブルの子が「オニが来た」と言って、私から身体を遠ざけたり、「あっちに行ってよ」などと言ったときはまいった。だけどこれは“ゲーム”なんだろうか? そう思ったから、最初は心の動揺をおしかくし、「オニだぞう」と指で角を生やしてみせたりしたが、たび重なると無視したり、虫の居所の悪いときやすごくまじめになっているときは、「そんなふうに言われると、すごくいやな気持になる」と子どもたちにぶつけたこともある。そう言ったとき、子どもは黙っていた。悪かったと思っただろうか、それとも冗談の通じない頭のカタイ「オニ」だと思っただろうか。

 子どもは私を「オニ」と言ったり、「こわい」と言ったりするわりにはぜんぜんこわがっておらず、むしろ甘くみているようだ。ほんとうにこわければ、そんなふうに面と向かって言えるはずもない。今回の作文に私のことを「いちいちうるさく叱るいやな先生。先生がいやでクラブに行きたくなかったことがある」などとたくさん書いた子がいたので、私は「本当にいやならなおすから、どういうところがいやかちゃんと話してほしい」とまじめに言った。でもそんなふうにまじめに受け取られると、子どもは困るようだった。「まじめに話す気がないなら、どうしてこんなこと書いたの?」と聞くと、「クラブの先生の悪口を書くとおもしろいから」という答がかえってきた。

 「おもしろいから」・・・よくわからないが、子どもは本気で「いやな先生」と言っているのではなく、結局は私に甘えて反応を試しながら楽しんでいるようなのである。子どもが私を完全にいやな奴だと思ったり、100%きらっているわけではない。甘えるときには甘え(直接的に)、けっこう頼りにもしているようだ。それがからかうように「オニ」と呼んで楽しみ、冗談で席をかわれと言い、「いやな先生」と作文にまで書いてみせるのがいまの子どもたちである。

 むかしの子どもたち、私を「やさしい」と言い、すなおにストレートにかかわって、おやつや弁当のときには「先生、こっちに来て」と言っていた子どもたちとなんて違うんだろう。むかしと言ってもたった4、5年前の話。4、5年前のことが20年もむかしのことのように牧歌的に思い出される。

 いまの子どもはユーモアがあるとか、パロディ精神に富むとか、よく言われるようだ。ここまで書いてきたこともパロディ精神のうちに含まれるのだろうか。でもどこまでが“冗談”ですませられるのだろうか。

 「オニ」と呼ぶことぐらいはともかく、席をかわれと言ったり、作文にまで書くような感性は私にはわからない。私は驚き、傷ついてしまう。私はそういう冗談を言うような環境には育っていないし、そういうことばは人を傷つけると思ってきたから。ほんとうに真剣にいやだと思っているなら、まじめに話し合えばいい。しかし、いまの子どもたちのはまじめに受け取ったりしたら白けてしまう“あそび”や“ふざけ”である。“あそび”や“ふざけ”でそういうことを言っていいものか。そこにいまの子どもと私とのギャップがある。

 そのギャップをどうやって埋めようか? 時代はどんどん変わっているし、いつまでも古くさい感性のままでいたら子どもと仲良くなれないから、それに自分は大人だし、ある時点からこっちが自分をまげて子どもに近づこうと思ってきた。しかしどこまでを“冗談”として認めたらいいのか・・・その判断はもともとはしっかり持っていたのだが、いまの時代、まじめな子は「ぶりっこ」と言われ(私は根っからまじめなのでこういう言い方は大嫌い)、テレビやマンガでギャグ(? 私はほとんど見たことがないのでよく知らないが)がはやり、おもしろいことはいいことだとされる風潮のなかで、むかし通りの判断では子どもに受け入れられないと思ってしまう。

 たとえば、問題になった中野富士見中の、生徒の葬式ごっこに先生がサインしたという件だが、詳細は当事者によく聞いてみないとわからないが、この件だけを切り取れば、いまの私だったらその先生と同じにサインしたかもしれない(背景をぬきにこの件だけ切り取ることはできないが)。いまのクラブで子どもが葬式ごっこをやったとして、私はそれを止めるだろうか・・・むかしの私ならすぐに止めたが、いまは止めるにしても迷うだろうと思う。

 こういうことで迷っているうえに、いま、私は子どもに対してむかし何のためらいもなくしていたように、ストレートに自分をぶつけることができず、いつも「ちゃんと聞いてくれるか」「また何か口答えするんじゃないか」「そしたらどう言おう」と身構えている。いまの子どもはふつうに名まえを呼んでも返事もせず、ふりむきもしないことがたびたびあるし、おやつやお帰りを知らせても、ウンでもなければスンでもないことがよくある(要するに無視する)。目の前でやったことを目の前で叱っても聞こえないふりをしている(これも無視ということ)。そうでないときは叱っている最中にふざけ、ちょっときつく言うと、今度はいつもすごく口の達者な子が貝のように黙りこくってしまう。たまにすなおな反応が返ってくると、身構えていた私は気がぬけてしまうほどだ。

 何年もこういうことをしていると、もともとの自分がどうだったのかわからなくなってくる。返事をしない子ども、口答えやあげ足取りばかりする子どもに慣れてくると、それがふつうのことになり「こういうもんだ」と思うようになる。ときたまハッと眠りから覚めたように「やっぱりこれはおかしい」と思う。

 時代があまりに目まぐるしく変わるので、私のもともとの感性ではとてもついていけずとまどっている。新しい時代の子どもを「こういうもんだ」と受け入れ、向こうの土俵に乗って辛らつなことばをポンポンとやり取りし、それを楽しめればいいのだが、私はつい立ち止まってまじめになってしまうので、「ほんとうにこれでいいのか」と迷い、それでも子どもに近づこうと無理をし、結局、中途半端なのである。このごろはなにしろ無理をするのはよくないから、子どもからなんと言われようが私のもともとの感性を押し通し、時代錯誤だろうがなんだろうが自分にとって一番自然な姿でいればいいんだと開き直った気持ちになることもある、子どもは学童クラブの“先生”はガンコババアだったと覚えていくことになるだろう。それはそれで子どもにとっては自分とはまったく違う一人の人間を知ったということだろう。

 いまの子どもとむかしの子どもとの一番大きな違いは、いまの子どものほうが格段に“うるさい”ということである。意味もなく突然叫び声をあげたり、静かにすわっていることができず、落ち着きなく立ち歩き、さわぎたて・・・そのようすをみていると静けさがこわいのだと思わざるを得ない。家でもおそらくいつもテレビの音と共に暮らしているのだろう。

 静けさは自分を自分に向かい合わせる。たぶんいまの子どもは(大人も同じだが)そのことに耐えられない。なぜならば自分のかかえている<不安>が見えてしまうからだ。いまの子どもはみんな<不安>をかかえている。どんなに親にかわいがられていても。その<不安>は“時代”からくる。物があふれる一方で心の空虚さはますます大きくなり、それを埋めようとして求めるのはまた物であり、それは悪循環となって、空虚さは2乗され3乗されていく。その悪循環にどこにも歯止めがかけられない時代。いつかきた道を再び歩み始めているような状況のなかで、おもしろおかしいことがよいことのように宣伝されている時代。それは<不安>から目をそらさせようとする大きな意図と、<不安>から逃れ、忘れようとする小さな毎日とによって、両方から支えられている。

 言うまでもないが子どもが<不安>ならば同じ<時代>を生きる大人もまた<不安>をかかえている。子どもの<不安>を(そして自分の<不安>を)解消させたいと思うなら、勇気を持ってその<不安>と向かい合うことから始めなければならない。
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by lumokurago | 2010-06-07 20:19 | 昔のミニコミ誌より
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