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「『オニ』のつぶやき」に

 もうひとつ、載せておきます。長いので時間のあるときにゆっくりお読みください。

*****

「『オニ』のつぶやき」に     S.O(児童館職員)

『暗川』第11号 1986.10.12より

 『暗川』第7号(1986.4.26)で渡辺さんが書いた「『オニ』のつぶやき」について感想をたのまれていましたが、この「『オニ』のつぶやき」という文章のテーマに関心が引かれるところもあるので、この機会にぼくのかんがえをまとめてみます。

 「『オニ』のつぶやき」と、それに応えた次号のM.Yさんという方の便りを読んで、職種は多少違っても同じく<子ども>関係の労働に携わっている者としては、そこに書かれていることはまったく大げささが含まれていない現実場面の描写だと思うと同時に、そこでも渡辺さんやYさんの対応のしかたについては、とてもすぐれていて、現時点ではこれ以上の現実的対応はなかなか見いだせないように思えます。

 この、渡辺さんやYさんの対応がすぐれているということについてちょっと補足しておけば、打開の方向性がなんら見いだせない現実場面に対して、二人とも既成の価値観=対処法と無縁に自力だけに支えられてその打破を模索しているということにあります。これは既成の価値観=対処法だけがさまざまに衣装替えしてはびこっている現在、とても貴重なものです。だから、ほんとはぼくにはほとんどなにも言うことはない気もします。  

 ただ、「『オニ』のつぶやき」やそれをめぐるやりとりというものが、受け止め手側(=読み手)の問題として、たとえ強引であろうと自己の固有な流れのなかにそれを捉えてみることがなければ、あるいは自己の固有な流れと交差してみることがなければ、それは一般的な教育問題や児童問題、また教育者としての渡辺さんやYさんの誠実さとして拡散させられて云ってしまう恐れが、<時代>の動きを背景にして十分あると思います。渡辺さんの職場である宮前学童クラブの保護者のUさんが『暗川』第9号で「『オニのつぶやき』をめぐるYさんと渡辺さんの文は、やはり私のなかで実感としてはとらえにくいものでした」と書いていることは、そうした難しさについてどこか率直に語っている面があるのではないかとぼくには思えます。

 つまり、あるひとにとってとてもたいせつなことがあったとしても、それ自体としてはそのひとにとってだけたいせつなことにしかすぎません。ましてや他者が、そのひとのかんがえかただとかにちょっと触れただけで、「わかった」と理解を示すことなどにはむしろ疑いが必要のように思います。それはほんとうに「わかった」のではなくて、じぶんの「すきま」を「わかった」ふりで他のひとの借り物のかんがえで埋め合わせていることにしかすぎないからです。そこには何の交流も、対等な<関係>性も生み出されてはいないと思います。

 だから、もし、あるひとなりかんがえに迫りたいと思うのなら、そのたいせつさのようなものに、じぶん自身のたいせつに思っているものを交差させて捉えていく以外にはありえません。もうちょっと言うなら、ほんとうの意味で<たいせつ>なものとは、そのようにしてはじめて生み出されてくるのだと言えます。これは、あるできごとなり、問いかけなり、それ自体が重要だというよりも(もちろんそうしたことがたいせつなものであることは言うまでもありませんが)、もっと必要なことはそれをどのように受け止めるのかという「受け止め方」が問題なのだということでしょう。つまり、あるできごとなり問いかけなりが、さらに豊かなコトバ~意味として言い変えられなければ―、別の言い方をすれば、さらに必然的なかけがえのなさとして視つめ直されなければ、そうしたあるできごとも問いかけも、それ以上の意味を拡げていけずに、しだいにしぼんでいってしまうことは間違いないだろうと言えます。

 最近こんなことがありました。4月に転勤になった新しい職場にやってくる子どものひとりに<あきこ>という小学3年の子がいます。この子は新しくやってきたぼくがめずらしいようで、毎日のように児童館にやってきて、閉館のときも後片付けをしているといつの間にかそばで黙って手伝ってくれて帰っていくという具合です。そんなとき、この子が2日ほど続けて「おいも(ぼくのあだ名)はじいさんだ」とかにくまれ口をきいたときがあったので、子どもなんてあてにならないところがあるから、少しいい子だなどと思って親切にしたりするとつまらぬ思いをする―というのがあらためて浮かんできて、ちょっといじわるをしてみようという気になって、わざとこんなふうにいじわるな質問をしてみたときがあります。

「ほんとうはぼくなんかこの児童館に来ないほうがよかったと思っているんじゃないの?」~あきこ「そんなことない。そんなことない」~さらにだめ押し「ほんとうかなあ。だったらこのごろどうしてへんなことばっかり言うのかなあ?!~それに対する<あきこ>の答えのしかたは予期しないもので、正直言って驚かされてしまいました。その答えはなんだったかというと―急に飛びついてきて「おいもが好きなの・・・」と言うのです。

 ―それこそぼくにとってだけしか意味がないようなこんなエピソードをなぜ紹介するのかというと、「ほんとうはぼくなんかこの児童館に来ないほうがよかったと思っているんじゃないの?」という質問に対する答えが、「好きなの・・・」というものである「突飛な」対話の成立の事実。また、そんな「突飛さ」を違和感なしに成立させてしまうというか、むしろ「突飛さ」としてはじめて切実性が表現されてくる<関係>性の(~発生の)あり方の不思議さに含まれる、かけがえのない重要性をぼくは感じるからに他ならないのです。このごろ、ぼくたちの仕事仲間ではやっている「整合性」などというコトバ~そうしたコトバを押し出してくる感性のあり方というものを、ぼくはほんとうに憎んでいます。
 
 前置きにあたる部分がずいぶんと長くなってしまいましたが、そうした前置きを踏まえていうと、ぼくにとってはオニという喩えがいいのか、悪いのか、渡辺さんのニックネームとして適しているのかそうでないのか、あるいは許せるのかそうでないのか―というふうには問題は立てられていくことはないのです。

 「『オニ』のつぶやき」を読んだとき、実はぼくには「オニの死」ということがすぐ頭に浮かびました。これは「オニの意味の死」といってもまったくおなじことです。渡辺さんには以前ちょっと話したことがありましたが、ぼくはちょっとした仕事上の理由から、オニについて調べたことがあります。そのとき、たまたま知ったオニの由来~オニのイメージの拡がりの深さについて、本当に驚かされてしまったということがあるのです。もちろん架空の存在であるオニの史実に、さらにぼくの解釈を付け加えていうと、オニの由来~イメージの拡がりは次のようになります。

 オニ・・・とはつきつめてみれば単に「うしとら」といういまわしい方角のことだけを指すという(そのためオニはうしの角を持ち、とらのふんどしをつけている)不確定な、かたちを持たない不安さとしてある。その背景にあるにんげんの現在的不安。もともとオニは神の一員であった。ところがあるとき、自らに似せて造ったにんげんの急成長する力に恐れを抱いた神たちが、にんげんを再び無に帰すため、滅亡のしかたについて相談する集まりを持つ。そのとき、唯一にんげんの滅亡に反対し続けたのがほかならないオニであった。神の仲間たちの争いに当然のようにして敗れたオニは醜い姿に変えられてにんげんの住む下界へと、再び神に戻れない者として永久追放されていく。それによってにんげんの滅亡を猶予するということを引き換えに―。

 しかし、オニによってかろうじて守られた当のにんげんのオニへの反応、オニの受け入れ方は実に残酷なものであった。にんげんたちはその由来をまったく考えず、表面的な醜さにのみ捉われて、オニを忌みきらい、今度は下界からも追放しようとする。つまりオニは天界からも下界からも追放される―あらゆる世界から抹殺されてしまうというところに追い込まれてしまうのである。

 じぶん自身が無へと追い込まれてしまうと言う信じ難さ、自らが全力を傾けて守ろうとしたにんげんの反応へのいきどおりが我を忘れさせてしまい、その醜さの由来をまったく忘れて、姿かたちの醜さとこころの醜さ、つまりはにんげんの残酷さに負けまいとする醜さとを一体化させて、対極的に一転して悪の化身となってしまう。結局、オニの姿の醜さはにんげんのあり方の投影にしかすぎないし、オニのにんげんに対する残忍さは、いきどおるにんげんへの復讐といえるのである。(にんげんがオニに豆をぶつけ外に追い出そうとするのは、どうしようもなくもう我を忘れて残忍さに走ってしまったオニへの防御の方法であるのか、それとも、自らの罪の深さのいきどおりを豆としてぶつけているためなのか)。

 ・・・このように、オニは引き裂かれた面を持った生きもの?です。逆に言ってみれば、このような架空の存在を生み出していかざるを得ないにんげん自身の引き裂かれていくしかないあり方が背景にあるのでしょう。ですから、オニの醜さ、恐ろしさのすぐ裏面には静かにおおくのものがじっと潜んでいる世界が拡がっているはずだといえます。
 
 渡辺さんに「オニが来た」と言い、「あっちに行ってよ」という『暗川』第7号にでてくる子どもたちがもしよくないとするなら、単に言葉遣いが悪いからでもなく、ケジメがなくて先生である渡辺さんに失礼さも感じていないからでもないと思います。突飛かもしれない言い方をするなら、それはただ、そうした子どもたちの「オニの捉え方がつまらない」からと言ってしまってよいように思えます。別の言い方をするなら、「オニの捉え方が貧弱だ」というようにも言えるでしょうか。一方、そうした子どもたちに対する「言葉遣いが悪い」「ケジメがなくて・・・失礼」などというおとなたちの反応のなかに、子どもたちをさらに越える「つまらなさ、貧弱さ」を感じとることができます。こうした小さなやりとりのエピソードのなかからでさえ、「つまらなさ」「貧弱さ」に閉じ込められ出口を見失って、呼吸ができなくなっている現在の<時代>の縮図をのぞきこむことができる―というふうに言ってよいと思います。ある意味で、ちょっとはずれたおとな?であるだけ、渡辺さんやYさんの周囲にいる子どもたちはまだ多少は救われているところがあるのかもしれないと思ってみたりもします―。

 オニの捉え方がつまらない、貧弱だ―ということについて、もうちょっと言っておくとこうなります。つまり一言でいってしまうなら、オニの背後に「静かなおおくのものがじっと潜んでいる世界」を感じとり拡げていく感性や思考の力がどうしようもなく欠損している―というふうに言えます。

 たしかにぼくがオニの史実に触れたことなどは、仕事を通しての偶然にしか過ぎないし、そうでなければ大して調べたりしなかっただろうというしろものです。けれども、相手に対して「あっちに行ってよ」という同義語として「オニ!」というコトバを投げかけるのなら、じゃあオニとはなんなんだ―?、オニと言うコトバが相手へのいやがらせの喩えとしてほんとうに当たっているのか―?ぐらい考えて当然だと思います。また、一方そんな子どもたちに接して、おまえたちのやり方はだめなんだ!というふうに言うのなら、喩えとしてだめなのはどうしてなのか―?、だめというオニとはいったい何なんだ―?というふうに考えていって、やはり当然だと思います。

 つまりいやがらせのつもりで「オニ!」と言う子どもたちも、またそのことをしつけの素材としようとするおとなたちも、共通によくないと思うのは、独自のオニ像を持たないままに、流布されている既成のオニへの見解だけにもたれかかって良いだの悪いだのを判断していることです。そんなところでは、たとえ結論に差があったにしても、判断の基盤になっていること自体は、いまの<時代>の秩序性に沿ったかたちで成立していることは間違いないと言えます。これはおとなにしろ子どもにしろ、ちょっとでも独自なオニ像という視点に立ってみるなら、目に飛び込んでくるオニの醜さ、恐ろしさというものが、なかなか視えないかたちで「静かにじっと潜んでいるおおくのもの」が抱え込まれてある、というか、そこから押し出されてきているということがすぐに感じ取れるだろうということです。ぼくなどにとってはむしろ、オニとはそれそのものが苦悩に耐えているすがたを漂わせているし、また楽天的ともいえるほど淡々としたたくましさを持っているように思えて、好きなのです。だから「オニ!」などと喩えられるなら「ありがとう!」と思わず言いたいぐらいです。

 オニという喩えをめぐって、つまらない、貧弱だ―と言ったことは、むしろ一種の不幸と言ってもよいことなのかもしれません。オニという喩えは相手にダメージを与えることをめざしながら、その実、自らの膠着してしまったどうしようもなさだけを表している―と言うことができるからです。これも、前にでてきた<あきこ>が言ったことにこんなことがあります。

 あきこ「おいもってブルドックみたい」~内心、いやなことを言うと思いつつ、すぐ忘れてしまう)~同じ日、工作を子どもたちと一緒にしていて、ぼくが「ひとり一枚ずつだけ自分の一番好きな動物の絵を描いてあげる」と言う~そのとき、<あきこ>の言った動物は「ブルドッグ。ここで思い出してしまうのは、一冊の絵本のなかにでてくるコトバです。迷子になってしまったとき、母親の特徴を聞かれた子どもが「わたしのお母さんは世界一の美人」と答えるという、それがそのまま題名にもなっている絵本なのですが、結局お母さんが見つかります。ところが、そのお母さんといったら、世界一・・・どころか、俗に言うひどい「ブス」なのです。ふつうだったらあきれられて、みんなから冷たい目でみられてしまうところなのでしょうが、むしろその子のあまりの自信たっぷりだった言い方にみんなは笑いだしてこう言います。「美人だから好きなんじゃない。好きだから美人なんだ」・・・。

 オニの意味の変貌―。ブルドックの意味の変貌―。「美人」の意味の変貌―、こうしたなかにのぞきこめるのは、秩序から与えられる単一の意味(ひとつの<名まえ>にひとつの意味しか読めない、それ以外は排除していく、というのが秩序性の根本)に拘束されない<眼>~感じ方の奔放さです。たとえば、「美人」の意味の変貌―について考えてみると、ひとりの<子ども>に既成の美的な価値観などどうでもよくなってしまったり、あるいはいわゆる「ブス」のなかからこそ母親の「美しさ」が視えてきてしまうのは、その<子ども>が母親のことが「好き」でしかたがないという、「たったそれだけ」のことにすぎないのです。

 このことはとても象徴的なことです、つまり、既成の価値観~秩序から与えられる単一の意味が消えてしまったとき、はじめてある対象へのじぶんにとってのほんとうの意味が視えてくるのだし、これは<関係>性のあり方によって、ものが視えなかったり視えたりすることがあるのだということだと思います。言い方を変えれば、オニとか「ブルドッグ」とか「美人」とか・・・という<名まえ>は<関係>性によってはじめて生かされてくるといえるし、さらにその深さによって奔放にたくさんの切実な意味がそこに招き寄せられ、込められていく―ということだと思います。

 ここまでくれば、『暗川』第7号にでてくる子どもたちのオニの捉え方のつまらなさ、貧弱さというものがどこからやってくるのかということが明らかになるはずです。そこに欠けているのは言葉遣いの問題でもなく、ケジメの問題でもなく、ただ―<関係>性ということだけです。<関係>性(への希求)を欠いたコトバであるからこそ、こころを通じ合わせる<伝達>のコトバとしてではなくて、いやがらせのコトバとして駆使されていってしまうのだと思えます。ただ、言っておかなくてはならないのは、こうしたことは『暗川』7号にでてくる子どもたち特有のことというように捉えるべきではなくて、いまの<時代>の動き方そのものが<関係>性の拡散~喪失への方向へと傾斜しているという、そのことを背景にしていると捉えることのなかにしか、ほんとうに切実な問題は浮かび上がってこないということだと思います。
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by lumokurago | 2010-06-08 06:34 | 昔のミニコミ誌より
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