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後藤昌次郎弁護士の言葉

 後藤昌次郎弁護士の本から共感した箇所を引用させていただき、後藤弁護士の本については終わりにしたいと思います。

 『この人を見よ 後藤昌次郎の生涯③ 冤罪の諸相』(日本評論社2010)より

 憲法が保障する自由は国家権力からの自由

 マスコミの報道は、警察のリークあるいは警察の公式報道そのままのタレ流しなんです。批判的に対応するということがない。それを報道するマスコミ、とくに週刊誌は、国民の「知る権利」にこたえるんだ、そのために言論の自由、報道の自由、出版の自由があるんだ、とこう言う。

 ところでみなさん、法律、とくに最高法規である憲法で使われる自由という言葉はどういう意味でしょう。勝手なことをやってもいいということではない。(略)国家権力からの自由ということです。憲法のいう自由というのは、国家権力に対して批判する、国家権力からの自由、国家権力に干渉させない、ということです。これが、憲法で保障する言論の自由、思想の自由、学問の自由、結社の自由の本質です。 

 ところが今のマスコミはそのような自由と無縁です。つい最近は、A少年のご両親の手記なるものを発表した。詳しく事件の内容を検討したことのない人は、A少年が犯人であるということを疑うことの出来ない前提として、ご両親の感想を媒介にして、信じ込んでしまう。それを狙っている。それがマスコミの、国民の「知る権利」なるものに対する答です。

 ご両親の手記の前には付添人をやられた弁護士の手記が出ました。それからその前には『文藝春秋』にA少年の検事調書なるものが出た。あれは国民に偏見を植えるつけるための情報操作です。あれを見れば見るほどーーあのような報道によって逆に真実が現れる。真実はごまかすことができないんです。ごまかしの中からさえ、真実は顔を出す。それを捕まえる眼が必要なんです。洞察力が。

 <くに>意識を<国家>意識にすりかえる「心の教育」

 「『神戸事件』の『「A少年」犯人説』には大きな疑問が否定できない。それに加えてマスコミがそれに対してまったく批判的論説を提示しないことは極めて危機的状況を示している。さらにこれらの現象の背景には、危機管理体制の強化をも視野に入れた日本型現代資本主義の末期的症状を強く感じざるを得ない。我々の主体的関わりが今こそ求められている」ーーこれは金沢大学経済学部教授の村上和光さんのメッセージです。(略)

 末期的症状。この事件を契機にして、「心の教育」というのをやる。政府がめざしている「心の教育」の根幹はなんであるかというと、「君が代」であり、「日の丸」の掲揚です。そのようにしていつの間にか、国民の間に間違った愛国心を植えつけようとする。

 なぜ間違った愛国心か。

 日本語の「くに」っていう言葉は、おおざっぱに二つの意味があります。一つはわれわれが故郷に帰るとき、「くにに帰る」というでしょう。それはわれわれが生まれ育ったまわりの人々、自然、風土、そういう生活環境を「くに」という言葉であらわしています。

 ところがもう一つ、「くに」はコミュニティとしての「くに」の上に君臨して、それを支配し管理する、「国家」を意味するものとして使われる。つまり国家権力です。

 国家権力としての「国」と、ふるさととしての「くに」とは、意味が全く違うんです。ところが、同じ「くに」という言葉で表現されるものですから、われわれの一緒に仲良く生きているコミュニティに対する愛情であるはずの「くに」を愛する心が、国家権力に対する忠誠にすり替えられてしまう。その手段に使われるのが「日の丸」であり、「君が代」です。(略)

 それともう一つ、「心の教育」の問題のほかに、少年法を変えるという狙いがあります。重罰を科すとか、刑罰を科する年令を引き下げるとか、いろいろありますが、特に狙っているのは検察官を少年審判に関与させるということです。(略)

 私はね、逆ではないかと思っているんです。検察庁法という法律を見ますと、検察官は「公益の代表」として行動する、と書いてある。これは、検察官は公益の代表者であるということではないんです。公益の代表者でなければならないということだ。

 重大事件では公益の反逆者となる検察官

 ところが、社会的に重大な、しかも事実関係が鋭く争われている事件で、検察官が公益の代表者としてふるまった例を、私はほとんど知らない。たいていそのような事件で検察官は、公益に対する反逆者としてふるまうんです。(略)
 
 松川事件では、被告の一生を決定する、まかり間違えば死刑になるというようなときに、一番大事なアリバイのメモ、物証を隠してしまう。八海事件の場合には、一審二審有罪、最高裁でひっくり返してまた二審に戻る。差し戻し二審で、もうはっきりと被告たちがやったのではないという無罪判決が出ても、検事はすぐ上告して、被告たちにアリバイの証言をした関係者を訪ね回って、その証言をひっくり返せと、(略)脅迫して回った。一番いい例は、この事件、神戸酒鬼薔薇事件だ。(略・・・「筆跡が同じ」とA少年をだまして自白させたことを詳しく書いている)

 権力が国民を脅かす危険の認識が憲法・刑事訴訟法の前提

 民主主義というのは世論に従うことだということを言う人がある。「民の声は神の声」だと。しかしこれは違うのではないか。民の声は神の声である場合もある。しかしながら民の声は悪魔の声であることもある。戦争中、天皇陛下のために一命を棄てなくてはいかんとか、おれは喜んで死ぬとか、日本は必ず勝つなんてことを、みんな言ってました。「いや違うぞ」なんて言う人はまずいない。(略)「民の声は神の声である」という言葉は非常に大事な言葉だと思うけれども、しかし悪魔の声にもなりうる。軍部や政府の戦争を圧倒的に支持し鼓舞したのも、民の声だったんですね。

 だから問題は、民の声を神の声にするにはどうしたらいいか、どういう条件をつくらなくてはならないかということなのです。それは、正しい情報を十分に与えるということ、十分な正しい情報にもとづいて国民が自由に討論できるという、この条件が満たされて初めて、民の声が神の声になる。(略)
 
 私はさきほど、警察や検事は悪い奴を取り締まるところであって、悪いことをするところではないと皆が考えているのは迷信ではないか、と申し上げました。全部迷信だとは申しませんが、こういうことは言える。そのような考え方と、憲法や刑事訴訟法の考え方は、根本的に違う、と。

 憲法や刑事訴訟法はどういう考え方の上に成り立っているのかと言えば、「権力は腐敗する」ということです。特に権力の中の権力、警察権力や検事権力は腐敗し、国民の人権、国民の真実を脅かす危険のある存在だということが大前提です。だからこそ、たとえば、捜査について言いますと、証拠が自白しかない場合には有罪にしてはいかんということを憲法38条が決めている。拷問、強制、不当に長期にわたる拘禁の後の自白、それから偽計による自白は証拠にすることはできない。
 それから憲法の精神を継いで、刑事訴訟法は、自白を証拠として法廷に出すときには他の証拠を取り調べた後でなければいかんと言う。どうしてかわかりますか。自白をみると、たいてい本当だと思いこんでしまうからです。やりもしない者が嘘の自白をするわけないというのが、たいていの人の頭の中身ですから、自白を最初に出したら裁判官が偏見・予断を持ってしまうということで、他の証拠を調べたうえでなければだしてはいけんと制限している。こういういろんな制約があるのは、まさに権力は真実と人権を脅かす危険があるからです。私は権力イコール悪だとは言いません。しかし真実を人権を脅かす危険のある最大の存在であるということは、断言できると思う。

****ここまで引用。この後本ではA少年の自白内容の矛盾について詳細に検討していますが、省略します。

by lumokurago | 2010-07-08 12:23 | その他裁判関係
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