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宮崎勤君の事件をめぐって その2

 今日はきのうの続きでOさんからの手紙を載せます。暗川28号(1990.3.20)より。

*****

 ぼくも幼児誘拐事件の犯人らしい男が逮捕されてからの“その後”は予想通り(?)の最悪のコースを辿っていると思えています。このままでは殺された4人のちいさなひとたちの意味の重さは無化されていってしまう、踏みにじられてしまうと思います。場所柄(注:Oさんは入間市在住でした)、通勤の電車の中で時折、今野真理ちゃんの父親らしきひとを見ます(以前ニュースで見ただけなので確かではありませんけれど)、年齢の割に白髪のまじった中年の男性である他は、特に目立たないただの満員電車のひとりの乗客にすぎません。けれども、駅の明るい構内を抜けて夜道へと向かううしろ姿を見たとき、あらためて事件の残酷さを感じました。世間の喧騒からはじき出されたところで、ほんとうのせつなさは潜行していくのだと思わないわけにはいきませんでした。

 渡辺さんの文章に関していえば、ぼくは《全体を把握》しなくてもよいから(まだ誰にもできていない!)、《社会の問題を語ること》あるいは、この事件からより多くのことを語ることをしてもよいと思うのです。でなければ、この事件(のその後)が最悪のコースを辿っているということもよく視えてこないと思います。

 たとえば、ぼくは8月24日付の朝日新聞は読んでいませんが、そうした“良心的な”というか一見的を得たようなマスコミ報道のあり方にも疑問を持ちます。以前、読売新聞に容疑者の男の犯行の中心となったらしいアジトが発見されたという1面トップのスクープ記事がありました。“警察の捜査で続々と新証拠が出そうだという”様子や、アジト近くの目撃者の“容疑者の男が出入りしているのを見た”という証言を織りまぜながらーー。けれども、その翌日には“そんなアジトはなかった”という小さな訂正文が載っていました。マスコミ報道はさかんに容疑者の男を“現実とフィクションとの境目を喪失している”ともっともらしく指摘していますが、実在もしない“アジト”をいま見てきたように記事にするマスコミの方が、よほど“現実とフィクションの境目を喪失している”と思えます。ひとびとの“排除”の姿勢を批判する前にというか、ほんとうに批判しようと考えるなら、まず、この事件の衝撃の本質が視えずうろたえるひとびとの志向を、興味本位や事件の本質をねじまげた方向へ引っぱっていったマスコミ報道を自己批判しなくてはならないのではないかと思います。そのことなしに、ひとびとの“排除”の姿勢を批判するのは自分で焚きつけておいてそれを責めるというずいぶんひどい話だと思います。

 ではこの事件を捉える視点みたいなものは何なのかと思ってみます。この事件に限らず、犯行手口の問題や犯人の側からだけ事件を捉えていこうということにはぼくは疑問を感じます。ぼくには犯人と被害者(犠牲者といっても同じかもしれません。直接の犠牲者となったひとの家族らを含めて)との<関係>からしか、事件の本質は浮かび上がってこない気がしてくるのです。この事件の容疑者の男が《他者と関係を作ることが苦手》だったかもしれない、ということも、犯人と被害者との関係ということをくぐってみなくてはならないと思います。

 続々と明らかにされていく、ちいさなひとたちの誘拐の手口、その後の扱われ方にはぼくも目を覆います。ですが、やはり『告白文』や『犯行声明』文の方にこの事件に迫るキーワードみたいなものがあるような気がします。確かに容疑者の男は“さびしさ”として自己形成していったことは感じます。けれども『告白文』や『犯行声明』文から伺えるのは<関係>への嘲りのようなものです。他者との<関係>は、荒々しさと同時に静かな安心感をもってやってくるものです。これは充実した快さといえます。しかし、『告白文』や『犯行声明』文は<関係>をこつこつと積み上げていくことを打ち砕くことに快楽を求めているところから生まれていると思えます。今野真理ちゃんの場合、事故ではなく事件だということがはっきりした直後、インタビューされて犯人をどうしたいかと問われ、両親は「自首してほしい」と答え、また別の機会の「犯人に言いたいことは?」というインタビューでは「なぜ娘をこんな目にあわせなくてはならなかったのか、その訳を聞きたい」と答えていたように記憶しています。ここのところで通常だったら「早く警察は捕まえてほしい」「死刑にしてほしい」と親は答えてしまうと思います。ところが、今野真理ちゃんの両親は、こんな凄惨な事件の渦中でも、一貫して犯人と<対等>に<対話>しようとしています。このことにぼくはとても驚きます。そして、この両親がちいさなひとである今野真理ちゃんという娘をどんなにだいじにしていたかを伺うことができる気がしてしまうのです。容疑者の男の快楽の代償はあまりに大きかったし、代償の前でその快楽はあまりにもちっぽけな快楽にしかすぎなかったといえます。

 この事件が核心へ迫りえず、ひとびともその反応で愚行を繰り返しているのも、異端者を理解しようとしていない、排除しようとしている、というよりも、結局中途半端だからと思えます。つまり、犯人の快楽に対する捉え方への怒りが、大騒ぎの割には希薄でちゃらんぽらんだからだと思います。もし、ほんとうにその怒りが強ければ、一容疑者の存在を突き抜けて、<関係>への嘲りがどんなに許せない者であり、惨たらしいものであるのか、というところに行きつくはずです。

 最悪のコースを辿るかにみえるこの事件で、もしそれをかろうじて阻止する道があるとすれば、それはそれこそ狂気とも思える大騒ぎからはすくいとれず、こぼれおちていってしまう今野真理ちゃんの両親の、強引なインタビューに対するつぶやきみたいなものではないかと思えます。

 今野真理ちゃんと同じく犠牲者となった難波絵里香ちゃんの父親だったと思いますが、自宅近くで現場検証があり、犯人が目と鼻の先にいることをインタビューされて、「ひとつでもいいですから、犯人をなぐりたいです」と答えるせつなさの中に、非常にたくさんの意味が込められていること、言い換えれば、怒りが込められていること、それと同時に<関係>への切なさも込められていることを感じずにはいられません・・・。  S.O.  1989.9.27

by lumokurago | 2011-03-07 18:37 | 昔のミニコミ誌より
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