暗川  


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by lumokurago
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カバジャガン再訪記

カバジャガン再訪記 暗川61号 2003.3.12より

 1985年7月、フィリピン、サマール島ラワン近くの小島、カバジャガンを訪れた。その時の報告は“暗川”10、11号にあり、『負けるな子どもたち』にも関連した文章を載せたが、なにぶん昔のことなので最近の読者のためにごく簡単にカバジャガンの紹介をしておく。

 カバジャガンは私のフィリピン人の友だち、ニータさんのご両親の住む小島で、当時は戸数約350 戸。電気、ガス、水道がなく、あかりは石油ランプ、ご飯は薪で炊き、水は近くの井戸から運んでいた。島民の生活は自給自足、畑で作物を作り、海で漁をして暮らし、現金収入はほとんどなかった。物は生活必需品の最低限のものが少しある程度で、料理用のたらいを洗濯にも使っていた。食べるには困らないが洋服は見るからに貧しそうで、所々破れており、ほとんどの子どもははだしだった。学校にはボールもなく、教室が足りないので授業は交代制、教科書もままならない状態であった。子どものおもちゃはヤシの葉で作ったボール程度、フィリピン全土で盛んなバスケットボールのゴールは道路に手作りのものがあったがボールの空気は抜けていた。

 しかし人々の笑顔は美しく、子どもたちも満たされて生活していることが一目瞭然であった。私たちは心豊かな楽しい1週間を過ごし、たった1週間ではあっても自分で体験したことで日本の生活の貧しさへの疑問は確固たるものになり、私の日本嫌い、物嫌いはますます徹底していった。

 私たちは幾度となくカバジャガンを再訪したいと考え、ニータさんに頼んだが、当時サマール島では新人民軍(共産ゲリラ)の活動が盛んで、ニータさんの故郷、ラピニグでは村民が殺されたり、カバジャガンでも村長が殺されたりして、いつも返事は「危ないから行けない」だった。

 この5月に来日中のニータさんに会い、病気休職中の私は「最後のチャンスかもしれない。私ひとりなら目立たないからなんとかカバジャガンに連れて行って」と頼み込み、「ひとりなら大丈夫だと思う」と言ってもらい、17年来の念願が叶ったのである。

 ちょうど父の荷物、自分の荷物を整理していたので、カバジャガンで役に立ちそうな物はまとめて段ボールの箱に詰め込んだ。夏物の古着、もらいもののタオル類、せっけん、余っている洗面器、もう使わない魔法瓶、布、鍋、などなど。友だちから鉛筆、ノートも送られてきて、荷物は全部で40キロ。このうち私の着替えなどはごくわずかである。飛行機に預ける荷物は20キロまででそれ以上になると超過料金を取られる。機内に持ち込む荷物はただなので、できるだけ機内に持ち込もうとリュックに重いものを詰め込んだ。

 いざチェックインしたら、預ける荷物は25キロまでただにしてくれるということだったが、手荷物が重すぎる、普通7,8 キロまでなので減らしてくれという。壊れ物ばかりなので減らせないと説明したが、どうしても減らせとのことなので、魔法瓶1個を空港のごみ箱に捨てた。それでも重すぎると言われたが、「そのかわり私は軽いから(体重のこと)」と食い下がり、そのうち私が最後の客となってしまい、向こうも急いでいたので、なんとかOKになった。

 結局預ける荷物は28キロで3キロオーバー、超過料金4700円だった。私はOKになってから、捨てた魔法瓶も拾って手に持って飛行機に乗った。

 荷物のことで一言……ニータさんは帰国の際、超過料金15000 円を払ったとのこと。親戚などがフィリピンのためにといらない物をくれるので、断れず持って帰ることになった結果である。いらない物のためにこんなにお金を払うなんて悲しい、フィリピンの親戚にこのお金を1000ペソ(2500円)ずつあげた方がよっぽどいいと言っていた。(6人にあげられるなあ!)私も以前お世話になったニータさんの親戚に「古着を送ってほしい」と言われて送ったことがあるが、船便でも5000円位かかり、お金をあげた方がよっぽどいいと思ったことがある。矛盾だよなあ。    

 つけたし……フィリピン航空のマニラ行きは朝9:30出発である。私は久我山駅を始発で出たが、京成の急行で行ったら第二空港ビルに着いたのが7:40、宅急便で送った荷物(重くて大変だった)を取ってHIS (格安航空券の会社)のチケット受け取り窓口へ行ったら、ものすごい混雑、チェックインでは上記のように手間取り最後の客になり、すべての列を「間に合わないのですみません」を繰り返して一番前に横入りさせてもらい、走って走ってようやく間に合った。ほっ。

マニラからカバジャガンへ

 8年振りのマニラで最初に気がついたことは「車が新しくなった。運転がおとなしくなった」ということ。以前は日本で廃車になったようなおんぼろ車が目立ったが、今回はジープやバスを除き、それほどおんぼろではない。しかしジープに乗ってみればメーター類は壊れており、クラクションを鳴らしながら車の間を縫って行く運転はやはりフィリピンだった。

 17年前、8歳だったペルラ(パーラ)は結婚してマニラに住んでおり、1週間前にお母さんになっていた。お兄さんのフレディは5年前からサウジアラビアで働いているが、故郷カバジャガンの年に一度のフィエスタ(お祭り)のために帰国していた。17年前は高校生で今は34歳、独身。フレディがニータさんと私についてカバジャガンまで行ってくれることになった。

 17年前はサマール島カタルマンまで飛行機で行き、そこからジープでラワン、ラワンからボートでカバジャガンという経路だったが、飛行機はなくなってしまったということで、バスで行くことになった。24時間かかるとニータさんは言う。車酔いのひどい私は酔い止めを飲み、覚悟して乗り込んだが、母島で船に慣れたせいか全く酔わなかった。 

 8時発のバスはフィリピン時間(何事も遅れる)で10:30 出発。夜中の12時にはルソン島からサマール島に渡るフェリーに乗り、終点のラウィスには夜明け前の3:45に着いた。17時間、約500 ペソ(約1250円)であった。ニータさんのお母さんがスペシャルのボートを頼んでくれて(500 ペソ)、7時頃ラウィスからボートに乗り、カバジャガンには8時頃着いた。ボートの中で私は「ここはどんなふうだったか、あそこは?」と17年前の記憶を呼び起こし、カバジャガン島が見えてきた時には、「ああ、やっと来た」と感無量だった。

カバジャガンの現在(17年前と比べ各段に変わったこと)

 まず、立派なコンクリート製の桟橋ができていた。17年前は桟橋も何もなく、珊瑚のゴツゴツした石の上に上陸したのである。上陸すると男の子たちが荷物を運びに寄ってくるのは同じ。運んでくれた子にはひとり5 ペソ払う。

 桟橋を村の方へ行くと、これまた立派なアーチができていて「ようこそカバジャガンへ」と書いてある。柱の片方には1989、もう片方には1994とある。作るのに5年かかったのか? フィリピンなら十分にありそうなことだ。仕事がのんびりしているだけではなく、途中でお金が足りなくなった可能性もあるし。立派なコンクリートの階段を登って行くと、バスケットボールのコートがあり、「立派な」教会があった。ニータさんはお祈りしてから、ご両親の家(以下エスペネシン家)へ行く。

 エスペネシン家は変わっていなかったが、まわりはすっかり変わっていた。道(目抜き通り)が舗装された。家が増えた。しかも以前はニッパヤシの家がほとんどで、コンクリートの家は村に数軒だったが、半分位はコンクリートの家になっていた。(しかし村はずれまで歩くと昔ながらの家並となる)。また、新築ブームでもあるらしく、建築中の家がたくさんある。エスペネシン家の前の家はニッパヤシの家をそのままにして、そのまわりを囲んでコンクリートの家を建築中であった。

 店が増えた。サリサリストアという駄菓子屋兼ちょっとした生活用品を売る店があちこちにできており、子どもたちもこづかいを持って(17年前には考えられなかった)「マオパイ(こんにちは)」と来て、あめ(1個)などを買って食べている。店の前ですぐにカラをむき、捨てるので、燃えないゴミ問題のルーツ(後に詳述)となっている。

 ニータさんのお母さんも、家の横の以前サトイモ畑だった所に店を作った。一日中店番しているので、母屋の方へ行くのが面倒でこちらに台所も作り、寝るのもこちらになってしまったそうだ。お母さんは母屋の方に電気を引き、こちらは昔ながらのランプだが、ニッパヤシ作りなので母屋より涼しい。親戚の人たちの夜の談笑の場も狭くて暗いこちらで、文明の矛盾が現れていておかしくなってしまった。

(昔の人はえらい。その土地の気候風土にあった家作りをしていたのだ。フィリピンにはニッパヤシの家、ヨーロッパには石の家、日本には日本家屋が最適なのだ。それに慣れてしまえば夜は暗くて当たり前?)。

 電気の話が出たので解説。カバジャガンには電気は引かれていない。17年前にもお金持ちの家が自家発電していたが、村でたった1軒であった。その家では別に電気を売ったりはしていなかった。今では自家発電機を持っている家が増え、自家発電した電気を売っているのである。蛍光灯を夜6時から9時までと夜明け前の3時から4時まで(ラワン行きの船が4時に出るのでその準備のため)の計4時間つけて、1本が月に100 ペソである。

 エスペネシン家ではそれを2本と台所(使っていない母屋の)に小さな白熱灯1本(これはもっと安い)をつけている。ニータさんは「高い」「高い」としきりに言っていた。メーター制のマニラより割高だということだ。お金の余裕のある家では電気を買っているが、貧しい家は石油ランプのままである。一方、街灯をつけている家もあり、夜歩くにも懐中電灯がいらない位である。まさかここまでとは想像もしていなかった。

 自家発電機を持っているのは、まずフィリピン人女性と結婚したアメリカ人の家、娘さんがサウジアラビアで看護婦をして稼いでいるアポロニアの家、それと月給は10000 ペソ(25000円) と安いがローンができる教師の家である。これらの家では電気を売って稼いでいる上、ちいさなビニール袋入りの水を冷蔵庫で冷やして売っている。更にカラオケ屋、ビデオシアターをやっている家もある。カラオケ屋は一日500 ペソ、ビデオシアターは大人も子どももひとり2ペソである。

 ニータさんはカラオケ屋をやっているアポロニアのことを「アポロニアは毎日500 ペソも儲けて何に使うのか。カバジャガンではそんなにお金はいらない。その上冷たい水を売り物にするなんてひどい。冷たい水位ただで飲ませてあげればいい。ビデオもただで見せてあげればいい」と怒っていた。

 金持ちはますます金持ちに、貧乏人はますます貧乏になる構造の原点だ。17年前のカバジャガンは自家発電機を持っている超金持ち1軒を除き、みんなほぼ同様に貧しかったが、現在は貧富の差が家を見るだけで明らかである。

 ここでお金に関連してニータさんの話で印象に残ったことを書いておく。ニータさんは日本で母子家庭を20年程やっていた。初めは日本語もできず、働く場所も限られ、その苦労は並大抵ではなかったと思われる。もちろんたいした給料をもらっていたとは思えない。それなのにニータさんは「日本人はお金が余っている。私も日本で家賃を払い、二人の子どもを育てていたが、お金が余っていた」と言うのである。

 日本人の母子家庭の誰が「自分はお金が余っている」などと言うだろうか。フィリピン人から見ればこれが真実なのだ。ニータさんはまた「フィリピンではまじめに働けば、子どもを学校にはやれないとしても食べてはいける。畑を作って魚を取ればいいから。食べられないのはなまけものだから。子どもにこじきをさせる親は最低だ。カバジャガンにも働かない人はたくさんいる。畑を借りて働けばいいのに」と言う。

 フレディ、パーラの兄弟の一人はマニラで結婚して子どももいるが、お金が入ればお酒ばかり飲んで働かないと言う。一方、ポールはまじめで働き者なので食べるには困らない。しかし現金収入がないので子どもを学校にやることはむずかしい。ポールには今、3人の子どもがいるが、ニータさんは「子どもを愛しているなら、もうこれ以上生んではいけない」と言っているそうだ。

 ニータさんは息子二人を育てていた時、フィリピン流に家事の手伝いをさせようとした。しかし子どもたちは「友だちはだれもそんなことやってない。なんで自分だけやらなきゃいけないのか」と言い、やらなかったという。物を大切にしないのも日本人と同じだそうだ。ニータさんはレジ袋も何回も洗って使うし、洗濯物はシーツなどの大物やたくさんたまった時以外、水がもったいないので洗濯機は使わず、手で洗っている(マニラでの話)。

 息子さんたちは小学生の頃、ニータさんが友だちにフィリピンのおみやげをあげようとしても「フィリピンは貧乏だから恥ずかしい」と言っていた。そのためにいじめられたこともあったようである。しかし成人した今はフィリピンのことを理解し、お母さんに会いに行く時に、ユーフォーキャッチャーでとったぬいぐるみなどを持って行き、近所の子どもたちにあげているそうだ。

 カバジャガンの話に戻る。あと17年前と比べて変わったことは、自転車を結構みかけること。子どもたちがリュックを背負って学校へ行くこと(ない子もいる)。ビーチサンダル、傘が普及したこと(まだはだしの子もいる)。アイス売りが鈴を鳴らしながら売り歩いていること。驚いたのは電気のある金持ちの家に電子ピアノがあったこと。音の出るサンダルをはいた子ども、ゲームボーイをやりながら歩いている子もみかけた。

 17年前は毎夕、夕飯のお米を手作業で脱穀していたのだが(石臼に籾を入れ、丸太でつき、箕でふるって籾殻を吹き飛ばす)、5年前から機械になり、石臼は今は植木鉢になっている。

 私にとって一番残念だったのは、夜、大音響のカラオケの音があちこちから響き渡り、ギターを奏でながら歌うような雰囲気が全くなくなってしまったこと。私はまだみんなが集まってギターを弾いて歌っているものとばかり思い、ギターは運べないのでウクレレを買って持って行ったのに……。人間はなぜギターよりカラオケが好きなんだろうか?

 しかしカバジャガンにはまだテレビはなかった。そうそう! 村に一台だが電話があるんだった! 友だちにかけて驚ろかせようと思ったが、なんやかやでかけずに終わってしまった。

 今度の選挙に出る人が2年後に電気を引くことを公約にしているそうで、フィリピンだから遅れるだろうが、いずれカバジャガンにも電気が来る。村の人にとっては待ちに待った電気だ。どんなにうれしいことであろう。

カバジャガンのフィエスタ

 6月19日、20日は年に一度のお祭りである。この日のために村ではお金をかけてサマール島でも有名なバンドをやとい、徹夜で踊る。お金を払えば中央で一人またはカップルで踊ることができる。その踊りはセブ地方の民族舞踊で「コラチャ」という。その踊りの時、目立ちたがりやの人が出て行ってお金をまく習慣がある。

 フレディはサウジアラビアで働いてお金持ちだが、一晩1000ペソのテーブル(そのまわりにすわって踊りを見たり休んだりする)を2晩とも買い、コラチャのたびにお金をまいて、すっからかんになってしまった。ニータさんの話では5年もサウジで働いて、フレディに貯金はないそうだ。アポロニアの娘さんはサウジで看護婦をして働いて、豪華な家を新築し、サリサリストア、カラオケまでやっているというのに。女性はしっかりもの、男は使ってばかりというのがフィリピンらしい?!

 私もみんなに踊れ踊れと言われ、フレディにお金を払ってもらってコラチャを踊った。これは目立つ。日本人が来たことがカバジャガン中に知れ渡ってしまった。そのため後で面倒なことになる。

 フィエスタの日はどの家でもとびきりのごちそうを用意し、お客さんを待つ。私たちは17年前にお世話になった人々の家をまわり、懐かしい再会をした。

カバジャガンの日々

 まず、フレディが17年前にもピクニックに行ったバイタンビーチに連れて行ってくれた。アポロニアの息子さん、娘さんやその友だちなど、若者が集まる。パンシットという焼きビーフンの食べ物、バナナ(こちらではゆでて食べるバナナが主食のひとつだ)、パイナップルなどを持って行く。

 村の人たちもおおぜい来ていて、みんな服のまま海に入り、おしゃべりしている。服のまま海に入るのは水着がないからというよりも、日に焼けずにすむからなのではないか。私が水着に着替えると言ったら、「フィリピンのやり方は服のまま」と言われた。海に入ったら泳ぐのが普通だろうが、こちらの人々はお風呂に入るように海につかって涼んでいる。

 とにかくみんな底抜けに明るい。若者もお年寄りも大きな声でおしゃべりし、誰かが何か言うたびに大きな声で笑っている。日本にいて忘れてしまったが、17年前にも同じことを感じた。なんてよく笑うのだろう。この人たちの笑顔をみていると、日本人は笑うことを忘れてしまったのだと気付く。

 今回ポールの舟で2回海へ出た。ポールの舟にはエンジンがついていないが、ニータさんの弟さんの舟初め多くの舟にはエンジンがついていた。これも大きな進歩である。ニータさんの弟さんは17年前にはマニラの大学生だったが、今では結婚して女の子が3人、週日は仕事先のラワンに住み、日曜日に帰ってくる。弟さんは仕事があるからエンジンもつけられるが、ポールは魚を売っているだけなのでエンジンのお金はないということだった。

 カバジャガンは珊瑚礁の小島で、港はマングローブの林に囲まれた細長い入り江の奥にある。波はほとんどない。手こぎボートで進んでいると川のようだ。入り江を抜けてラグーン(礁湖)に出る。浅いため途中からボートをおりて歩いていく。珊瑚の中には海草のほかにヒトデ、海蛇、ウニが多い。

 ここの人はウニを食べない。私とニータさんのためにポールが少しとってくれた。新鮮なウニはおいしい。海の中に棒をたくさん立て、網をはって魚を追い込む。網にからまった小さな魚は子どもたちがつかまえていた。その魚を海水で煮てお昼ごはん。あまりに暑いのでみんな海に浸って食べる。

 潮が引いた浅い海で貝拾いもした。海草がからまった貝をみつけるのはなかなかむずかしく、みつけても小さい場合はまた海に戻すので、私はほとんど拾えなかった。潮が満ちてくると白い小さな砂山がどんどん海に吸い込まれていく。すわって絵を描いていた砂山も水浸しになって、またボートに乗って家に帰る。

 ところでニータさんのお父さんは少しぼけてしまったため、畑仕事が満足にできず、畑は荒れていた。ポールは奥さんの実家の畑の仕事で手一杯らしい。それでもココナッツの木は立派で、パイナップルもたくさんなっていた。 

 エスペネシン家の近くにある共同井戸には、私の子どもの頃使っていたようなポンプがついた。いつも子どもたちが水汲みに来ている。大きな子は片手でポンプを押すが、小さな子は両手でぶらさがる。まわりでは女の人たちが洗濯している。こんな光景は変わっていない。ただ昔は草原の上に洗濯物を干していたが、今は草原に家が建ってしまったので、柵などに干している。 

 私はスケッチブックを持っていったので、村のあちこちで座り込んで絵を描いていた。するとあっという間に人々が集まってきて、珍しそうに覗き込む。「似顔絵を描いてくれ」という人もいて、大変だ。しかし、これは村の人気者になるよい方法だ。この後フィリピン旅行の間中、スケッチは村の人とのコミュニケーションに大いに役立ってくれた。

 娘さんがサウジで働いているアポロニアの立派な家でお孫さんたちと遊んでいた時のこと、子どもたちが画用紙にちょっとだけ描いて間違えると、消さずにすぐに次のを欲しがるのには驚いた。これじゃ日本の子と同じじゃないか。紙がもったいないから消して書き直すようにと言いながら、昔ポールが器用にのりを使って張り絵をしていたことを思いだした。(日本の子どもはのりの使い方を知らない)。カバジャガンの子どももだんだん日本の子のようになるのだろう。 

カバジャガンのごみ問題

 17年前、カバジャガンにはもえないごみの類いがほとんどなかったが。今はお菓子のカラ、お金持ちが売っている冷たい水のビニール袋、缶、ペットボトルなどが道のあちこちに落ちており、村外れにはごみが散乱している。人々はこのごみが腐らず、半永久的に残ることを知らないのだろうか? 

 ニータさんはフィリピン人にごみを捨てないように話しても、ほとんど意味がないと嘆いていた。いずれこの小さいカバジャガン島はごみだらけになってしまうだろう。そのごみは海にも流れていく。母島の海岸も外国から流れついたありとあらゆるごみ(ペットボトルを初めとしてテレビ、冷蔵庫などの大物もなんでもある)がいっぱい。拾っても拾ってもきりがない。地球規模で協力しなければ解決しないのだ。しかし食べるにも困っている第三世界ではごみどころではない。でもカバジャガン島の中だけでもきれいにしてほしいなあ。

ロジェが強盗殺人犯になっていた!

 17年前に村一番の歌い手だったロジェ。コラチャを踊った私をみつけ、声をかけてきた。「明日家へ遊びに行ってもいいか」。何も知らない私は「いいよ」と答えた。ところがニータさんにその話をすると、ロジェはカバジャガンの金持ちの家に強盗に入り、3人以上殺し、刑務所に入っていたという。ロジェの奥さんがサマール島の有力者を知っていたので釈放になったという。

 びっくりした。自分が生きている間に強盗殺人犯を見ることがあるとは夢にも思わなかった。私がエスペネシンの人たちにこの話を聞いたと思ってか、ロジェは直接訪ねては来なかったが、ポールの奥さんや子どもたちをつかって手紙をことづけてきた。ニータさんのお母さん、弟さんたちは非常に心配し、暗くなってからは家を出ないようにと私に言った。ニータさんは「昼間は人がいるから大丈夫」と言い、「助けて」という言葉を教えてくれた。ロジェのことはカバジャガン中の人が知っていると言う。そんなところによくしゃあしゃあと帰って来れるなあ。強盗殺人犯が普通に歩いているというのも日本ではめったにないだろう。

 「フィリピンはこういうところがよくない。アヨロ大統領も同じ。私がアヨロ大統領の親戚なら、人を殺しても罪にはならない」とニータさんは言う。

 私はまさかロジェが私をどうにかするとは思わなかったが、なにしろ強盗殺人犯なのだからエスペネシンの人たちは心配し、帰る日もラワンへの定期便を避けて、スペシャルのボートでこっそりと旅立ったのだった。荷物が多かったせいもあるがポールをボディガードにつけて。

 (おまけ)カバジャガンの港のすぐそばに50万で売り出している家があった。ニータさんと「この家を買って日本からお客さんを呼ぼうか」と話していたが、ロジェがいる限り危なくてだめとなってしまった。来年もカバジャガンに行きたいが、ロジェがいるとみんなが私を心配して迷惑をかけるのでだめになってしまう。それまでに刑務所に入ってくれればいいのだが。

 17年振りのカバジャガンはとても楽しかったけれど、17年前の方がもっとずっと楽しかった。あの頃はまだみんな同じように貧しく、物もなかった。でも暖かな気候と自然に恵まれ、食べるには困らず、与えられた楽しみがないので、みんなで楽しみを作り出していた。

 人間はなぜあの楽園のような暮らしよりも便利な暮らしを好むのかなあ? いや、私のようにごくごく少数のものは便利な暮らしよりも楽園のような暮らしを好む。ただ少数なので埋もれてしまうのだ。島を一個もらえたら少数派で集まって独立できるのになあ!
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by lumokurago | 2011-03-26 19:40 | 昔のミニコミ誌より
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