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瀕死の<時代>の子どもたち 

【追記】長いので分けて掲載しようと思いましたが、分けるとわかりにくいと思いなおし、more につづきを全部載せておきます。当時、子どもをこのように「悪く」言うと「大人はいつの時代も『いまの子どもは・・・』と嘆いてきたものだ」などと言われました。しかし、子どもの問題が深刻となっているいま読み返してみると、あのころ(1980年代前半)から変わって来ていたことがわかると思います。どこをどう直せばいいのか、それとももうこのまま進んでいくのか、一人ひとりの大人に考えていただきたいと思っています。

瀕死の<時代>の子どもたち
  『もうひとつのページ』(宮前学童クラブクラブ便り)第8号1986.12.15 より

1、子どもは変わった  いまの「大人の抑圧」とは?

 『思想の科学』1986年1月号に野呂重雄氏が「子どもの『荒廃』のゆくえ」という題で文章を書いている。それによると・・・

――昔も不良少年というのはいたが、血を見ると「われに返った」が、最近の非行は血を見ると「われを忘れる」。よく「ふざけ」と「いじめ」の区別がつかないというが、その変質に気づき、立ち止まる内面的な力「われ」が解体した。

 このことは大人もまた同じである。生徒を一発なぐるだけでなく、殺してしまった例もある。
 「非行少年・少女」が荒廃しているだけでなく「普通」の子どもたちの生活の総体も微妙に変化しており、現場の教師は「子どもは可愛い」などというロマンティシズムを失い、子どもを端的に肯定することはできず、警戒心でへとへとになっているのが現状だ。
 口で言ってわかる奴と口で言ってもわからない奴がいると、教師はいま、思っている。口で言ってもわからない奴を社会に適応させていくためには暴力も必要だ。そこから「戸塚ヨットスクール」まではもう一歩である。

 子どもらしさの変貌はたしかに存在しているだろうが、それは文字通り荒廃なのか。また「子どもの荒廃」は「大人の荒廃」の反映である。

 子どもの荒廃も変質も学校という枠の中、大人が恣意的な囲いの中に閉じ込めようとしたときの、一種の擬態ではないか。子どもはゴムまりが破けて空気がぬけ、クシャッとつぶれたように荒廃しているのではなく、大人の抑圧のためにいびつになっているだけであって、抑圧がとれれば、マリは元のまろやかさに戻ると考えるべきではないか。―― (要約)

 ここに書かれていることは、「われ」の解体、現場の教師に関する記述、子どもの荒廃は一種の擬態だという指摘、すべて的を得ていると思うけれど、ひとつ違っていると思うのは、子どもの荒廃の原因についてである、野呂さんは「大人の抑圧」とくくっていて、ここでは「学校という枠の中」に限っているのだが、私はそれを、いまの日本社会全体から日常生活の些細なことに至るすべてにあると思っている。まあ、それら全体をひっくるめて広い意味で「大人の抑圧」と呼んでもいいのだが(これを「広義の大人の抑圧」と呼ぶ)。野呂氏はここまで含めた形では「大人の抑圧」という言葉を使っていない。あくまでも「大人が恣意的な囲いの中に閉じ込めようとした時」のことで使っている(これを「狭義の大人の抑圧」と呼ぶ)。

 さて、本題に入るが、私は今までもいろいろなところで述べてきたように、私がこの仕事に就いてからの10年間だけを見ても、「子どもは変わった」と思っている。それは子どものみではなく、大人=社会も悪くなっているのだが。その一部として野呂氏が書いている「われ」の解体、現場の教師に関する記述がある。

 率直なところ、私にも「子どもは可愛い」という古典的なロマンチシズムはもうない。もちろん「かわいい」と思う場面はたくさんあるし、「心が触れ合った」と思える場面もあるにはある。でも手放しに、楽観的に「子どもはかわいい」とは思えない。いまの私にとって、だいたいにおいて、子どもは「わからない」存在である。

 最近「『オニ』のつぶやき」「残された『時』に」を書いて、その「わからない」理由は自分なりにある程度解明できたと思うが、それに対してどうしたらいいのかは皆目見当がつかない。

 野呂氏の文章について、私が「大人の抑圧」は「狭義の」抑圧ではなく「広義の」抑圧であると思っていると言った理由は、いまの時代は例えば「学校」とか「家庭」とか「学童クラブ」といった子どもの生活の場所をひとつだけ切り取って、そこだけでよくするということがほとんど不可能であるという、ここ5年位の経験によるものである。家庭にも別に問題はなく、クラブでも抑圧するような暮らしをしていないのに、子どもは「荒廃」していると感じる。そのことはいまから少し具体例をあげて考えてみたいが、現場の、物事を真剣に考える教師ならばそこのところで日々悩んでいるはずである。(実際、私の信頼する私よりずっと経験豊かなすばらしい教師たちからその悩みを聞いている)。野呂氏という人が何をしている人か知らないが、きっと毎日現場で子どもとつき合っている人ではないような気がする。「抑圧がとれれば、マリは元のまろやかさに戻ると考えるべきではないか」ときれいに言い切ってしまうところからそう感じる。

2、子どもの「荒廃」

 さて、子どもの「荒廃」をどこで感じるかと言えば、毎日の学童クラブの生活のなかで、はっきり目にみえるところで言えるのは、むかし(5年位前まで)だったら、特に声を大きくして叱ることもなく、普通に進んでいたクラブの生活そのものが、いまでは毎日毎日同じことを叱ってやらせなければ進んでいかないということである。もちろんむかしだって、何も言われずにみんながみんな、きちんとしていたわけではないが、「片づけや当番はいやでもやらなければならないこと」という自覚はあった。時々さぼるにしても・・・。いまは、自覚がないというわけではないが、片づけや当番に限らず、物事に取り組む姿勢が、一言でいえば主体性がまったくなく、すべて受身であるということが言えると思う。

 たぶんこのことが結局は一番違うのかもしれない。体からエネルギーをいっぱいにあふれさせ、毎日飛び回り、騒ぎまわっている子どもたち――その姿はむかしとなんら変わりなく見えると思う。でもその中身は全然違うのだ。

 主体性がないこと、受身であることの例はたくさんあるけれど・・・学童クラブで一番基本となる子どものクラブへのかかわり方について少し書いてみる。

 いまはほとんど全員の子どもが、クラブを「いやなところ」「がまんするところ」と感じて、一度そう思えばそれを自分の力でなんとかしようとせずに、4年間そう思いつづけてそのまま卒業してしまう。むかしだったら、ほとんどの子にとってはじめこそ「来なくてはいけないところ」だったが、やがて「自分から楽しんで通えるところ」となっていった。それはむかしといまでは全く違うことの一つだ。

 いまはなぜ「自分から楽しんで通えるところ」とならないのかといえば、一言で行ってしまえば、子どものクラブにかかわる姿勢がどこまでも受身であり、主体的なものに転化しえていないからであると思う。お母さんが行けと言うからしかたなく来る。そしてそのなかでそれなりには遊ぶ。楽しいこともあるだろう。しかし自分がクラブの一員として共にクラブをよくしよう、楽しくしようという意識は絶無である。かかわりかたがあくまでも受身で、自分ひとりのことで頭がいっぱい。だから子ども同士で注意しあったり、自分の意見を言い、人の意見を聞き、話し合ってみんなで変えていくことができない。

 だいたい人の話を聞くことがまったくできない。1分間も静かにすわっていられないのだから。何か大事な話をしかけても、子どもは1分もすればすぐに(1分たたないうちかも)ふざけはじめる。となりの子と勝手にしゃべり、騒ぎ、寝ころび・・・etc. それを「大事な話だ! みんな一人一人に関係あるんだ! ちゃんと聞け!」と叱る。でも、その話自体を聞こうとしない。いつまでも騒いでいる。だから本題を話すまえに「これは大事な話だ。その態度はなんだ!」というお説教だけですごく時間がかかってしまう。

 むかしだったら、こんなことは話を持ち出すこと自体、大人がやる必要はなかった。ほぼ完全に自主管理できていたのだから。なにかあれば上級生から話し合いの提案があり、司会は4年生がやっていたのだ。(いまでは4年が一番ふざけている)。

 人の話を聞くことができないということは、人と関係をつくるうえで致命的な欠陥となる。もともといまの子どもは、人と関係をつくりたいという欲求が希薄である。いつも「自分を見ていてほしい」「自分を認めてほしい」「自分だけを相手にしてほしい」という欲求だけでいっぱいで、その底には自分の存在に対する「不安」がいっぱいで、その気持ちはよくわかるのだが、それは「人と関係をつくりたい」というものとは違っている。なぜならば「自分」「自分」「自分」しかないから。もちろんその延長上では、逆向きの矢印がかえってくることを期待しているのだろうけれど、いまはそれが見えないし、あまりに遠くにありすぎる。

 このあいだ、私が大事な話をしようとしたのに、子どもが騒いだとき「なんでそんなに騒ぐのか」と聞いたところ、一人の子が「静かだとイライラするの」と言っていた。別の子は「そんなに静かにさせたいなら、笛を吹けばいい」と言っていた。私はここにどうしようもない子どもの「荒廃」を見る。
 つづく



3、表現できない子どもたち

 むかしといまの子どもを比べて「違う」と思うことのもうひとつに、絵や作文が書けなくなったということがある。

 むかしの子どもは学童クラブでは、評価にとらわれないその子独自の味をもつのびのびとした絵を描いていた。大人も一緒にどんなところに住みたいとか、いろいろな会話を楽しみながら、想像力をはたらかせながら、いろいろな絵を描いていた。いつも、大人が何も言わなくても、自然に絵を描いて楽しむ子どもたちがいた。ところがいまの子どもは絵を描くことなど皆無に等しい。たまに描いている子どもがいても、それはマンガでありキャラクター商品についている動物などの真似や写しである。こちらから「クレヨンで絵を描かない?」と声をかけてみても「イヤダ」という答しか返ってこない。子どもがそう言っても自分が描いている姿を見せれば、子どもも描く気をおこしたりするかもしれないのに、なにしろクラブの生活を進ませるだけのために(片づけ、当番など)声をからしているくらいだから、自分が絵など描く余裕がない。

 むかしの子どもたちはクラブ通信や文集のさし絵を頼むと、1年生でもそのページの作文や詩を読んで、その内容に合ったさし絵を描いてくれた。いまとなっては夢のようである。

 作文については、私は毎年年度末に文集をつくってきたが、以前いた高井戸学童クラブには、その他にも時々、作文や詩を書く子どもがいた。クラブ通信に子どもの作文や詩を載せていたから、頼むと書いてくれたり、だれかのが載ると自分も書く気になったりして、けっこう書いていた。年度末の文集には全員の子に作文を書いてもらっていた。題は自由だが、困っている場合は、一番身近で子どもの思いも深い「おとうさん」「おかあさん」のことを書くように言い、1対1でいろんなことを問いかけ、子どもの言葉を引き出しながら作文にしていった。

 人はだれでも「感じる心」さえもっていれば、その人なりの味のある文章を書くことができる。高井戸時代の子どもの作文はそれぞれの子どもらしさがよく表わされたすぐれた作文だったと思う。でもいまは子どもの作文を書く力は確実に失われてきている。だいたい作文を書くために机に向かい、自分の心に精神を集中させることができない。書けない(=表現できない)ということは、感じる心自体が失われてきたことのあらわれである。心の中が「不安」でいっぱいで、何か感じたり、それを表現したりする余裕がないのである。

4、自由ということ
(1)自由を扱えない子どもたち

 私は高井戸時代から、いわゆる「管理」を極力排して子どもも大人も自由を大切に、本質的なところでは対等な人間同士としてつき合うというクラブをつくるよう努力してきた。もちろん、職場の相棒やお母さんがたとともに。

 むかしの子どもたちは自由ということの本当の意味を受けとめ、自由の風の中でのびのびと自分自身を表現することができた。ところがいまの子どもは自由ということの意味を受け止め上手に扱えるだけの力がないので、自由にしておくと自分勝手にワーワーと騒ぐのみで収拾がつかなくなる。自由ということは本当はとてもむずかしい、高度なことなのだと思う。自由にするためには、自分に責任をもち、自分自身の判断をしっかりもって生きていける力が必要である。それがないところで自由にしても、子どもはその自由を生かすことができず、逆に自分勝手にするだけなのである。

 ある程度管理されたところでは、子どもはのびのびとした表現もできないが、いまの宮前のように自分勝手でどうしようもないひどい状態にもならないのだと思う。管理されていないところでは、良くも悪くも子どもは本来の姿を表すのだと思う。

 いまの宮前学童クラブなど、ほんとうに「管理」がないから収拾がつかない典型のようなものである。管理すれば子どもはおとなしくなるだろう。でも、それだけはすまい、したくないと思っている。子どもが自分で言っていた「静かにさせたいなら笛を吹けば」と。そこまで地に堕ちた子どもたちの感性をどうやってとり戻せばいいのだろう。こちらから言葉を押しつけて子どもにわからせようとするのではなく。子どもが自分でわかっていってほしいと思う。笛が鳴ったから静かにするのではなく、ひとが一生けんめいに語りかけてくる声に耳を傾けたいという気持ちをもつことによって、静かになってもらいたいと思う。

 自由ということが一番はっきり目に見える形になって現れることに、おやつの席がある。私はもともとおやつの席は自由がいいと思っている。しかし自由の意味を悪用する子どもたちのあまりのひどさに、また、自由ということのほんとうの意味を教えるために、2年前、グループごとにすわる机を決めた。次はそのときの話し合い(?)の描写である。

渡辺:きのうはおやつのときもおかえりのときも、みんながすごくうるさくて、私は喉が痛くなったの。ほんとうはみんな一人ひとりが気をつけて「いただきます」や「さよなら」のときはすぐ静かにできれば一番いいと思う。けど、4月からいままでのみんなの態度を見てると、とてもそうできないみたいだし、先生たちは静かにさせるために喉が痛くなるなんて、あんまりひどいと思う。おやつのときに仲よしの子ととなりあってすわると、ついうるさくさわぎやすいし、特に3年生はいつも同じ机に陣取って騒いでいるから、これから席を決めることにします。

子:えーっ! やだあ! (の声で騒然)
渡辺:ヤダなんて言ってもだめです。こんなに喉が痛くなるほどうるさいなんて困る。
子:わたしたちのせいで痛くなったの?
渡辺:そうだよ。普通の声で言ったって、みんながうるさいからぜんぜん聞こえないじゃない。席の決め方だけど当番の班が月~金まで5つあるでしょ。机も5つあるからこの机は何曜日の班というふうに決めます。
子:やだ! やだ! やだ! (など騒然)

渡辺:私たちだってほんとうは席なんか決めたくない。だけどみんながあんまりひどいから、しかたなく決めることにしたんだよ。それに対していやだと思ったら、「やだ」「やだ」なんてさわいでいたって私たちは絶対にゆずらないから、本当にいやなら静かに真剣になって、どうしていやなのか考えなさい。そしてどうしたら自由席のままでやれるのか考えて、私を説得するだけの意見を言いなさい。

子:ワーワーと騒いでいるのみ。
子:これからは静かにするからさあ!

渡辺:そんなこと口で言ったって信用できないよ。あんたたちのいままでの態度はひどすぎるもの。さっきも言ったように自分で気をつけて静かにできれば一番いいと思うけど、そうできるとは思えなくなっちゃったの。だからグループごとに席を決めることにしました。私の喉が痛くならないように、どならなくてすむように静かにできるなら、ちゃんと態度で示しなさい。そうしないと信用できません。
子:自由がいいよお! ワーワー!

 この話し合い(?)から2年が経ち。そのかん、このおやつの席という子どもにとっては最も身近なテーマで「自由」について話そうとしたことが何回かある。しかし、なにしろ話を聞く耳がないので(ふざけて騒ぐので声が聞こえない)、じっくりと話ができないままいまに至っている。

 それで、いまはどうしているかというと、最近「おやつ当番でないのに手伝った人は自由席」というのをやっている。私たちはほんとうはおやつ当番についても当番など決めないで、その時々に手のあいた気がついた人でやれれば一番いいと思っている。それでおやつの準備のときには、当番だけでなくまわりでウロウロしている子どもにも手伝うように呼びかけている。そのとき、手伝った子は自由席になるというわけである。このように何かとひきかえにするのは決してほんとうの自由ではないのだけれど、自由の裏には自分で自分の行動に責任をもつことが必要とされるのだということを教えるためには、悪いことではないだろうと思っている。

(2)関係を求めない子どもたち

 ところで自由とは何かについて、もう一つの例をあげながら私の考えを述べたいと思う。

 昨年の児童館の地域懇談会で感じたことである。地域懇談会とは年に1回、この児童館の近隣の幼稚園、小中学校の先生方や民生委員、PTAのお母さんなどが集まって話し合う場である。

 その場で「どんな子どもに育てたいか」という話になったとき、西宮中の生活指導主任の若い男の先生(体育)が、「体育の時間に言われなくても遠くにころがったボールを拾いにいったり、進んで白線を引くような子どもに育てたい」と言った。すると即座に高二小のPTAのお母さんが「そんな先生のごきげんとりをするような子より、ボールなど拾いに行かず、白線も引かない子のほうが好ましい」と言った。生活指導主任の先生の発言のニュアンスは「先生のいうことをよくきく、従順な管理しやすい子どもを育てたい」というようなものだったので、それに対して何か言いたくなる気持ちはわかるが、PTAのお母さんの言ったように反抗(?)さえすれば管理されていない頼もしい子だから好ましいとも私には思えない。

 ひどく管理される一方の学校などでは、その管理に反抗するために押しつけられることのすべてをやらないとか、逆のことをやるということもあるだろう。そんなところでは、先生との関係などはつくりようがないし、反抗することでしか自分を表現できないだろうから。

 でも、すべての場所で(管理されていないところで―いまの時代、ある程度の管理はなくすことができないが、できるだけ管理しないようにと大人も悩んでいるようなところで)反抗だけするのはただのわがまま、自分勝手である。

 またむかしのことを持ち出して恐縮だが、むかしの子どもたちは確かに、クラブならクラブで「先生と関係をつくりたい」という気持ちをもっていた。だから一年生で入ってきて半年もすれば、ある程度の信頼関係ができる。それはもちろん一方通行ではなく、お互いに心の中に何かをもつのである。そうなると日常のいたるところで交流ができるようになる。それは些細なことでは、おやつのお茶のおかわりをついであげたときににこっとするとか、そんなことなのだが、いまの子はそんなこともしない。
 
 強い信頼関係ができると、子どもは理屈ではなく、自分の好きな先生が何か一生けんめいに話しているということだけのために話を聞こうとする。たとえその内容がわからなくても、好きな先生が一生けんめいに自分に向かって話しているから、自分のやったことはまちがっていたのかもしれない、というわかりかたでわかるのである。好きな人が話しているから聞こうとする。わかりたいと思う。このことは人間関係をつくるうえで最も大切なことに違いない。

 でもいまは、子どもは私たちと関係をつくりたいとは思っていないように感じる。だから好きになることもなく、信頼関係もできないので(できたとしてもむかしと比べればごくごく弱く密度が薄い)、むかしのような交流(ほほえみなど)もないし、話を聞こうとしないし、叱ったときなど、大事なのは理屈だけになってしまう。叱るとき、理屈で子どもを言い負かさなければならないというのはほんとうに疲れることだし、不毛である。理屈で言い負かしたとしても子どもは「負けた」という悔しさしかないし、心にはなにも残っていないだろう。心に響くように話をするということは、大前提にお互いの信頼関係があって、はじめてできることなのである。

 いまの子どもは何を言っても「やだ」を繰り返す。それはいったいなぜなのだろうか。口癖、みんなの真似、意味のない枕詞・・・? ほんとうにいやだと思っている? わからないが、何か言えば即拒絶である。そのあとの会話のひろがりが生まれようがないし、遊びに誘いたくても誘いようがない。

 地域懇談会の話に戻ると、子どもがすすんで先生の手伝いをすることが、はたして大人のごきげんとりなのかどうかは、すべて「関係性」のありかたにかかっているのだと思う。ほんとうは気に入らない先生なのににらまれたらいやだとかのために何かをするとしたら、それはごきげんとりなのだが、そうではなくてその先生と関係をつくりたいとか、好きな先生を助けたいとかいうことならば、それは決してごきげんとりではない。

 クラブでもいつもはなんにでも「やだ」を繰り返している子どもたちが、ほんとにたまにだが自分のやっていないものでも片づけたり、当番でもないのにおやつのしたくを手伝ったり、お皿を拭くのを手伝ったりしてくれることがある。そういうときはほんとうにうれしいし、忙しくしているときはとても助かる。「いい子だなあ」と思う。それは決してごきげんとりではなく、忙しくしている人を手伝おうという、人間らしいやさしい気持ちの表れであると思う。まあ、通知表も内申書もない学童クラブでは、「ごきげんとり」自体意味がないから、子どもも職員もお互いの気持ちでしかつき合っていないわけだが。

 でからこれはクラブだから言えることなのかもしれないが、生活指導主任の先生の発言に対して、PTAのお母さんが「ごきげんとり」と単純にくくってしまうのは、人の気持ちとか関係性ということを無視した乱暴な話だと思う。子どもがほんとうにいやなことは「いや」と言えるだけの力をもることはもちろん大事なことだが、そのことに目を奪われてもっと大切な人の気持ちや人間関係のつくり方の基本的なしつけ(この言葉は悪い意味でつかわれることもあるが)の面で、最近の大人は子どもをあまやかしているのではないだろうか。

 子どもが人の気持ちを無視した人を傷つけるようなことを言ったときは、そういうことを言うと相手がいやな気持になることを、きちんと一つひとつ教えていかなければならないと思う。子どもはそういう言葉を平気で言うものだとか、子ども同士、そういうことを言い合っていくなかで自然に思いやりなどを学んでいくのだとかいうまえに、私の目に触れるところで起こったことならばできるだけ見逃さないで言っていきたいと私は思っている。

 真の自由というものはわがままや自分勝手で大人に反抗さえすればいいなどというものではなく、人の気持ちがよくわかり、お互いに育て合っていけるような関係をつくれる力があるところにしか育ちえないものである。

 いまの時代、子どもだけではなく大人も完全に管理された社会に生きている、自由などほど遠いところにいるのは子どもも大人も同じ。そのなかで、自分は管理されたくない、子どもを管理したくない、自由がほしい、と思う大人は、これまた管理されたくないと大人以上に強く思っているはずの子どもたちと、同時代をともに生きる同志として、一つひとつ関係を修復し、大切に育てながら「時代」に立ち向かっていくしかないと思う。

6、「不安」を取り除く作業を

 これだけ長く書いて考えているうちに、いまの子どもの問題が自分のなかではっきりしてきた。それはいまの子どもが人との関係を求めていない(あるいは求める気持ちが非常に小さい)ということに集約される。逆に自分をかわいがってもらいたいという気持ちは異常に大きいが、かわいがられるのみでは「関係」ではない。

 むかしの子どもたちは自由の風のなかでのびのびとさせておきさえすればみるみるうちに茎や葉を伸ばして、美しい花を咲かせることができた。しかしいまの子どもたちはそうはいかない。学童クラブに入ってきた6歳の段階で、すでに苗そのものの質がそこなわれてしまっているのである。生まれたての赤ん坊はむかしもいまも変わらず、無限の可能性を秘めているはずなのに。

 そのように苗そのものがそこなわれ、人間の最も人間らしい欲求である、人との関係を求める気持ちさえ失われてしまったのは、「残された『時』に」にも書いたが、子どもたちの心の湖が不安に侵され、水がにごり、湖面に荒波が立ってやむことがないせいなのだ。子どもに主体性がなく、受身であるのも、自分のことで頭がいっぱいで人のことを考える余裕がないのも、みんなそのせいである。子どもは不安だけでいっぱいで、その不安があふれだしてこのような荒廃になっているのだ。そんな子どもたちに人間らしい気持ちとか意欲とか主体性とか・・・が入り込むすきまはなくて当然である。不安を取り除き、湖を透き通った水をたたえたすべらかな水面に戻してやらない限り、子どもは赤ん坊のときにもっていたはずの力を取り戻すことはできないだろう。

 この不安はどこから来るのか。それはいまの時代から来るとしか言えない。いまの時代のかかえる複雑多岐にわたる問題の数々・・・ここでその問題にまで言及して論を進ませる余裕はないし、第一私の手に余るが、そのことだけは確かである。どこかで聞いたような言葉だが、時代は確実に病んでいる。もう瀕死である。それなのに、日本人の大部分がいまの日本を肯定し、満足して生活しているという事実が、二重に時代を病ませている。どうしようもない。救いようもない現実・・・。

 いまの時代は私たちが養分を吸収する土壌そのものが病んでいる。私たちの呼吸する空気そのものが汚染されている。これは単なる比喩でなく、物理的にもそうである。ここだけでも農薬、食品添加物、その他食べ物に関する問題、放射線汚染など核、原子力発電所に関する問題、大気汚染などの公害問題等々が関連してくる。

 子どものことをここまで否定的に悲観的に言う人は、本をだしているような名の知れた評論家などにはいない。本ではなくとも、文章にしたのなんて、日本中で私ぐらいかもしれない(?)。私はこれほどにいまの子どもの状態を危機的だと感じている。それはただ、学校が管理抑圧するから悪いとか、抑圧がなくなればマリは元のまろやかさをとり戻すとか、そんな簡単な、単純な話ではない。

 この社会自体が私たちから子どもを奪いとっている。そしてこの社会にぬくぬくと安住している私たち大人一人ひとりが、子どもの心の湖に不安を投げ込んでいるのだ。私はいま、ほんとうにせっぱつまった気持ちでいる。いますぐになんとかして子どもたちを私たちの手にとり戻さなければ、いまに、人間の心そのものが変質すると本気で考えている。心が変質し、子どもたちと言葉が通じなくなってもかまわないのならば何もする必要はないけれど、私たちが年を取っても大人になった子どもたちと心を通い合わせたいと願うならば、この社会に安住してはいけない。いますぐに立ちあがって始めなければならない。子どもたちの心から不安を取り除く作業を。私が子どもと言ってきたのはあなたの子どものことなのだから。
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by lumokurago | 2011-04-02 10:33 | 昔のミニコミ誌より
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