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慶応大学医学部専任講師 近藤誠(現代の肖像)

 最近のDr .Kの患者・ファンのみなさまのために(じつは私も読んでおらず、去年朝日新聞記者の取材を受けた際、送ってもらいました)、著者の米本和広氏の許可を得て、掲載させていただきます。米本さん、どうもありがとうございます。2004年のアエラの記事です。ほんとうは写真がすてきだとのことですが、写真は手に入れることができませんでした。

[発行日]=2004年7月12日

 慶応大学医学部専任講師 近藤誠(現代の肖像)

 「白い巨塔」の中の孤独
 著書『患者よ、がんと闘うな』で論争を巻き起こし、医学界の鬼っ子に。
 「抗癌剤は効かない」「手術偏重に異議あり」「癌検診は有害だ」
 「常識」を覆す発言に医師は反発、マスコミが飛びつき、患者は右往左往。
 癌と闘う気を削ぐ、患者をミスリードする扇動家--批判はついて回る。
 しかし彼は言うのだ。「すべてを疑え。私の言葉も疑え」
 (文=米本和広、写真=鈴木愛子)
 
 近藤誠(こんどうまこと)には孤独の影がつきまとう。

 学内に友人と呼べる友人は一人もいないし、それどころか廊下ですれ違うと目をそらす同僚すらいる。

 もともと近藤は将来を嘱望されたエリートだった。1973年に慶応大学医学部をトップの成績で卒業し、放射線科入局6年後には早くもアメリカ留学を命じられている。ノーベル賞物理学者の故湯川秀樹が予言したパイ中間子の、癌患者への照射実験がテーマだった。今となってはわからないが、教授は近藤にキャリアを積ませたかったのだろう。

 実際、近藤は帰国して3年後の83年には専任講師に昇任している。臨床同期でもっとも早い出世であった。

 「英語の論文数も多く、医学部の同級生(100人)の中では近藤が一番先に教授になるだろうと囁かやれていた」(慶応同期生の一人)

 だが、それ以後の出世は“塩漬け”。35歳から55歳の今日まで講師のままである。

 慶応病院の裏手にある昭和初期の古びた建物の、狭くて埃っぽい階段を汗をかきながらあがっていくと、4階に彼の研究室がある。薄汚れたドアの外に立つと、近藤が好きだという哀調を帯びたオペラが聞こえてくる。

 資料の置き場にも困る狭い空間で、廃棄処分にしてもいいようなギィギィ鳴る椅子に座りながら、近藤はインタビューにときに大笑いしながら快活に答えた。表情に鬱屈したところは微塵もない。だが、古色蒼然とした建物と廊下に流れるオペラの音色のコントラストに、どうしても孤独の影を感じてしまう。

 近藤はいつのまにか孤独にさせられたわけではない。自らの意志で、「白い巨塔」に背を向け、孤独の道を選んだのだ。

 それは87年の“事件”がきっかけとなった。

 アメリカで最先端の癌治療を目の当たりにした若き近藤は、癌と闘う決意を新たに、悪性リンパ腫など様々な癌治療に取り組むとともに、タブーとされていた患者への癌告知を試み、その一方で欧米で一般的になっていた「乳房温存療法」の普及に精力的に取り組んだ。

 温存療法は乳房をごく狭い範囲でくりぬき、放射線を照射するもので、それまでの筋肉ごと乳房を切り取ってしまうハルステッド術に比べ、後遺症は少なく、乳房を失うことがない点で画期的な治療方法だった。ところが、日本では全くといっていいほど知られておらず、東大や慶応など外科の名門にあってすら、欧米では姿を消した時代遅れのハルステッドが主流だった。

 近藤はこの状況を何とか変え、温存療法を広めようと考えた。そんなとき、自分の姉の温存療法を手がけることになった。執刀を頼んだのは医学部同期の雨宮厚(現大船中央病院外科部長)。慶応の医局にも属さず慶応病院の勤務医でもなかったが、アメリカで温存手術を多数経験していた。雨宮による姉の手術は見事な出来ばえだった。83年のことである。

 近藤は雨宮と組んで、温存療法の実績を積むことによって、世に知らしめようと考えた。だが、現実には84年に2人、85年に1人、86年に3人という程度でしかなかった。今でもそうだが、癌の初診で放射線科の門を叩く人はほとんどいない。少数の症例でも、学会や、学内誌「慶応外科」を含め医学誌で発表するように努めたが、反応は全くなかった。乳癌患者が多数訪れる慶応の外科医に直接「一緒にやらないか」と申し込んだこともあったが、ふんと横を向かれただけだった。

 近藤は焦りにも似た気持ちに駆られた。〈このままの状態が続けば日本の女性の乳房は抉り取られるだけだ〉。そこで、温存とハルステッドの術後の比較写真と資料をいつもカバンに入れ、事あるごとに知人や、つてをたどって新聞記者に温存療法の存在を伝えた。近藤が笑いながら当時を振り返る。

 「あの頃は、飲み屋に行けばそこの従業員にも写真を見せながら説明し、笑われたもんですよ。でも、それが縁で受診に来た人もいた」

 近藤の運命を変える“事件”は、看護実習生からの情報によって発覚した。

 「新聞記事で乳房温存療法を知った患者さんが近藤先生の受診を頼んだそうですが、受付で外科に回され、切除手術を受けることになっています。その患者さんは担当医や看護婦さんに『近藤先生に聞いてくれ』と頼んでいました」「どうも、近藤先生が進行度の高い癌だから温存療法は無理と判断されたと思っていらっしゃるみたいで、手術することに同意されたようです。この話、ご存じですか」

 近藤は驚き、やがて怒りが湧いてきた。〈これは犯罪じゃないか〉

 看護実習生に連絡役を頼み、患者の希望通り温存療法を施すことができたが、この後も同じようなケースが生じることが予想された。しかし、一放射線科医が巨大医局に怒鳴りこんでも解決することではなかった。実績を積み、情報を発信していくしかなかった。

 深刻な選択を迫られたのは翌年のことである。「文芸春秋」から原稿執筆の依頼があり、手始めに乳癌治療のことを書いてみないかと言われたときだった。

 乳房温存療法を紹介し、「東大など日本の大学病院ならどこでも乳房を切除している。治癒率は同じなのに、勝手に切るのは犯罪行為ではないか」と書いても、慶応の2文字さえ入れなければ大きな波風が立つことはないだろう。しかし、慶応医師の肩書で執筆すれば慶応の外科でも温存療法をやっていると読者に思われてしまう。そうなれば、受付でまた勝手に外科に回され、乳房を失ってしまう女性が出るかもしれない。それに東大の名前を入れて慶応を書かないのは不公平だ。

 だが「東大、慶応など」と書けば、出世の目はなくなり講師のままで終わる――。

 こう考えていけば、どんなに良心的な医者であっても「出世か患者か」という二律背反の選択肢にぶつかり、悩むことになる。だが、近藤の思考回路は違った。

 〈社会に広く情報を公開していくにはどちらがいいだろうか。教授になれば社会的発言力は増すが、他科との関係など様々な制約を受けることになる。うーん、社会に発言していくには講師程度の身分のほうがちょうどいいか〉

 この選択によって、近藤は抗癌剤の危険性、外科手術の危うさ、癌検診の有害性などについて次々と発言し、医学界に大論争を巻き起こしていくことになる。

 近藤は何か行動を起こすときには常にシミュレーションして考える。「白い巨塔」からの激しい怒りは予測できた。もっとも悩んだのは次のことだった。

 〈最大の問題は「孤独」になるということだ。それにぼくは耐えられるだろうか〉

 ときに、近藤は39歳。孤独についてどう考えたか。

 「誰か一人ぐらい、ぼくが書いたものを読んで良かった、ぼくと出会って良かったと思う人が出てくるのではないか。そうであれば生きてきた意味があるのではないかと考えました」

 学内からの「反発」はすぐにやってきた。「文芸春秋」発売日の翌日のことだ。狭くて古びた階段をダッダッと駆け上がってくる音が聞こえてきた。放射線科の教授だった。

 「外科のA先生(教授)が犯罪行為とはどういうことだ!と怒っているぞ」

 A教授は日本外科学会の会長であり、乳癌外科の専門医。つまり「白い巨塔」のドンである。

 その日以降、近藤が予想した通り、周囲の風景は一変した。

 まず、外科や内科などから患者紹介がなくなった。放射線治療が必要な他科の患者は近藤以外(水曜日以外)の放射線科医に回された。意図はどうあれ、兵糧攻めだ。昨日まで話していた内科や外科の医者も、近藤と顔を合わせるや、まるで化け物でも見たかのように顔を背け、急にタッタッと小走りになって通り過ぎていった。

 学外の「白い巨塔」からも一斉に反発の声があがった。温存療法を支持する市民団体の電話相談をしていた女性が話す。

 「外科のお医者さんから脅迫めいた電話が殺到しました。切除手術の良さとか温存だと再発率が高いとか、延々としゃべり続ける。怖かったですよ」

 しかし、学内外で孤立していくのと反比例するように近藤の受診を希望する乳癌患者は急激に増加した。この10年間に執刀医の雨宮とのコンビで温存療法を施した患者は3000人、実に日本の乳癌患者の1%にも及ぶ。

 近藤は孤立したが、患者に支えられた。そして、『がん専門医よ、真実を語れ』『ぼくがすすめるがん治療』などを出版し、社会に向かって情報を発信し続けた。

 大論争となったのは『患者よ、がんと闘うな』である。表題が刺激的であったこともあって、「白い巨塔」からは一斉に反発の声があがった。だが、近藤は癌治療を拒否せよと呼びかけたわけではない。東京の癌研病院に勤務したこともある名取春彦は、著書で次のように述べている。

 「近藤誠の主張は、『患者よ、がんと闘うな』で十分説明されている。それは(1)抗がん剤の使いすぎ、(2)手術のやりすぎ、(3)がん検診の行きすぎの三つに絞ることができる。いずれも正論である」

 名取は、こうした正論は以前から言われていたことだが、世間から注目されるためには「穏健な言葉ではなく、挑発的な言葉でセンセーショナルを起こさなければならなかったことも忘れてならない」と分析している。

 病理医の並木恒夫(日本病理研究所副所長)もこう語る。

 「近藤さんの本は多数読んでいるが、事実において間違った記述は私の知る限りなかった」

 近藤批判に根拠があるとすれば、一部の患者が近藤の主張を曲解したことが大きい。ある病院の乳癌患者会の一人が話す。

 「リンパ節切除は多くの場合必要ないという部分だけを読んでか、リンパがばんばんに腫れているのに、手術はノーという。そんな患者が来たらお医者さんは怒りますよ。それで近藤先生の本はデタラメが書いてあると思い込んでしまう」

 近藤に診察してもらったことのある女性はこんな体験をしている。

 「高田馬場にある病院で近藤先生のことを話したら、『なぜ、あんなやつのところにかかっていたんだ』と怒鳴られた。結局、別の病院で治療を受けることになったけど、そこでは近藤先生と今後かかわらないという念書を書かされました」

 抗癌剤も手術もノーと言われれば医者は感情的になり、近藤は患者をたぶらかす扇動家だと思う。

 不幸なことである。なぜなら、近藤は100年以上も前のマルクスのように、こう書いているのだから。

 「すべてを疑え。私の言葉も疑え」(『ぼくがすすめるがん治療』)

 慶応の2文字を入れたあのときから、はや16年。大学内での近藤の位置は全く変わっていない。他科からの患者は相変わらず回されないし、近藤が診察した患者で手術が必要な患者は他の病院を紹介せざるを得ない。

 孤独な生活スタイルも何一つ変わっていない。

 水曜日の診察、それ以外の曜日の授業や治療を除けば、恐ろしく平凡である。朝5時に起き、犬の散歩をして、7時に古びた研究室に入る。読者への手紙を書き、原稿を執筆し、一段落するとオペラを聞きながら海外の論文を読み、そして夕方には家に戻る。

 慶応の若い放射線科医、川口修は「歴史的経緯は知らないが」と断ったうえで、近藤への不満を語った。

 「先生はよく勉強もしているし、経験も豊富です。チームをつくって勉強会なんか組織してくれてもいいのに、やろうとしない。酒に誘われたこともないし」

 この話を近藤にぶつけると、眉間にしわを寄せて黙り込んでしまった。

 医学部同期の飯野病院(東京都調布市)院長の飯野孝一が、近藤から聞いたという話をしてくれた。

 「チームをつくったりすると、自分のシンパとして学内で反発を受ける。今のままでいいんだと話していた」

 こんなエピソードもある。92年頃のことだ。近藤が博士論文を指導した学生がいた。論文の末尾に近藤への謝辞を書いていたことから、不合格にされそうになったというのだ。この話にはオチがあり、「結局、論文はパスしたが、その学生がある教授の子どもでなければ不合格になっていたでしょう」(同期生の一人)。

 近藤はよく食べよく酒を飲む。決して口にしないが、若い医師を酒席に誘わないのは、彼らに迷惑がかかるのを恐れてのことだろう。

 そんな近藤が昨年末から落ち込んでいる。唯一チームを組んできた雨宮のことだった。一人の患者が持ち込んだ領収書から、彼が長年にわたって医療費の不正請求をしていた事実を知ってしまったからだ。検査づけの診療スタイルはそれ以前から気づいていたが、改めて調べてみると、これまで執刀していたのが雨宮本人ではなく8割近くを部下にやらせていたことなどもわかった。

 「雨宮に確かめたところ、否定しなかった。すべての患者さんに返金するように言ったのに、なかなか実行しない。いい医療をやろうと頑張ってきたのに」

 と近藤は寂しそうに話す。

 その後、病院は患者の一部だけに返金をはじめたが、苦悩の末、雨宮と決別し、患者を別の病院に紹介することにした。また孤独の道を選び、ついにひとりぼっちになってしまった。

 近藤の診察を受けた患者からは、「ぶっきらぼうで冷たい」という不満も聞かれる。治療の選択肢とそれぞれのメリット・デメリットを示すと、質問がない限り、黙ってしまうというのだ。誘導せず、患者と一緒に病を考えたいと思うから自分の方から積極的に発言しない。それが冷たく見えてしまうのだろう。

 実は近藤誠はよく涙を流す。患者の間で「泣き虫まこちゃん」と言われているほどだ。後輩が立派な仕事をしたと言っては泣き、亡くなった患者さんの話をすると泣く。私が取材しているときも、雨宮のことを質問すると、涙を浮かべた。

 最近、近藤はホスピス病院に入った患者たちを見舞っている。同行したとき、その女性(40)は近藤に今朝作ったという俳句を渡しながら、私にこう語りかけた。

 「近藤先生はとてもやさしいんですよ。元気がいいときには水曜日の外来に行って、オペラの話をする。それが今の私の楽しみです」

 余命幾ばくもない彼女の澄んだ目が印象的だった。

 2カ月後、その人は亡くなった。そのことを教えてくれたとき、近藤は涙を浮かべていた。(文中敬称略)

 
 米本和広 1950年、島根県生まれ。横浜市立大学卒業後、繊研新聞の記者を経てフリーに。著書に『洗脳の楽園――ヤマギシ会という悲劇』『カルトの子』など。
 
 ■こんどう・まこと
 1948年 東京都生まれ。
   73年 慶応大学医学部を卒業後、同大の放射線科に入局。
   79年 アメリカに留学。
   83年 帰国して乳房温存療法を開始。専任講師に昇任。
   88年 初の著書『がん最前線に異状あり――偽りのときに終りを』を発表。
       「文芸春秋」6月号に「乳ガンは切らずに治る」を発表。その後、次々と情報を発信していく。
   90年 『乳ガン治療・あなたの選択――乳房温存療法のすべて』出版。
   94年 『患者と語るガンの再発・転移』『抗がん剤の副作用がわかる本』出版。
   95年 『ぼくがうけたいがん治療――信じる医療から考える医療へ』出版。
       医学鑑定に取り組む「医療事故調査会」の発足にかかわる。
   96年 『患者よ、がんと闘うな』がベストセラーに。大論争が巻き起こる。
   97年 『「がんと闘うな」論争集――患者・医者関係を見直すために』出版。
   98年 『なぜ、ぼくはがん治療医になったのか』出版。
 2000年 『本音で語る! よくない治療ダメな医者』『医原病――「医療信仰」が病気をつくりだしている』出版。
   02年 『成人病の真実』出版。
   03年 『医療ミス――被害者から学ぶ解決策』(共著)出版。
 
 【写真説明】
 医学は進歩してきたと言われているが、癌による死者の数は増える一方である。医療事故も後を絶たない。近藤は近代医学の意義を自分に問いかける。
 印税の一部を市民団体に寄付してしまう。金銭には無頓着だ。いまだ住まいは狭い賃貸マンション。愛犬が孤独を救ってくれているという。
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by lumokurago | 2011-05-26 16:08 | Dr.K関連記事
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