暗川  


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“左手請求権”

Aむつみさんへの返信 『暗川第17号1987.2.28より

(前略)

 Aさんが『暗川』にでてくる人たちについて、「実際に会ったり話をしたりしなくても、その人がいま、同じ地球の上に生きているんだなと思うだけでうれしくなる」と言ってくださっていますが、私も『ぱらん』(Aさんのはがき通信)を読むたびにまったく同じことを感じています。

 私は自分が読んでよかったと思う文章はすぐ友だちにも読んでほしいと思うし、いいことがあったらすぐ知らせたいと思います。なぜかというと、その友だちが一緒に喜んでくれることがわかっているからです。だから『暗川』には「こんなことまで載せるの?」と言われそうな私信とか私的なことまで載せているのです。この号に載せたOさんへの便りなどもそう言われると思います。Oさん宛て便りをこういう形で載せたのははじめてですが、私はいつもいろんな人におびただしい便りを書いていて、それをその時々、共有できそうな人たちにコピーして配っています。それは別に『暗川』に載せてもかまわないのだけれど、事情などを詳しく説明しないとわかりにくいから載せていないだけです。

 『共犯幻想』(マンガ真崎守作)のテーマのひとつに“左手請求権”というテーマがあります。Aさんは『ぱらん』21号に、「他の人と手をつなぐ、他の人の手の感触~そしてもうひとりにふれられている自分の手、つなぎあっている手と手の間には目に見えない何かがゆきかっている。手、手はもうひとつの目」と書いています。“左手請求権”とはまさにこのことを請求する権利のことです。

 『共犯幻想』の一場面に、他者と手をつないで他者の体温を感じると同時に、はじめて自分の体温を感じるという場面があります。人間は自分の体温を感じることさえひとりではできない。他者と手を握り合ってあ、はじめて自分の体温を感じることができる。象徴的なことだと思います。

 人間には“左手請求権”があると思います。手を握り合って相手の体温を感じ、自分の体温を感じ、そうして共感し合って生きているのだと思います。

 表現するということは、以前Oさんが書いていたのですが、「とりあえず自分に対して自分を語ってみる」ことであると同時に、“左手請求権”の行使のひとつの形であると思います。以前『暗川』を“恋文“だと書いたら、Aさんも『ぱらん』を恋文だと言っていましたね。こちらが左手をだしたら、相手も左手をだして握り返してくれる。“恋文”を受けとってくれる人を探しているのです。

 『共犯幻想』には「ひとり遊びを禁じる」というテーマもあります。以下は『共犯幻想』からの引用です。

 「ひとりでボール投げしようと思うと、空にむかってボールを投げるしかない。ボールをなくさないためにはボールが天空から返球されるまでにその落下点に走りつかねばならない。そうやって遊ぶうちに、ついにボールを自分の走行範囲外に投げることができなくなって、走行範囲の円のなかでボールを投げる者の世界は自閉してしまう」

 「ひとり綾とりを禁じたのは私に遠投力をつけさせるために? 違うでしょ?」

 「円の外の草むらでボールが来るかもしれないと息をつめて待つ側への無視をお兄ちゃんは禁じたはずよ」

 「ひとり綾とりを禁じたのはぼくのためだ」

 「ありがとう」

 「ボールなんかいくつなくしてもいいの。草むらのなかにボールを投げて幻の返球を待ちたいことだってある」
 
 そして、この<涼子>は「日記はひとり遊び。お兄ちゃんのくれた万年筆で日記は書けない」と言うのです。私ももう長いこと日記(というか、だれにも見せない文章)を書いていません。むかしは、ただ自分だけに向かって、だれにも見せない文章をたくさん書いていたのですが。6、7年前から私は日記の代わりに手紙をたくさん書くようになりました。

 「読んでほしい」という気持ちが強まったことと、私の書いたくだらない手紙にも共感してくれたり、また、私の手紙によって励まされるという人がいることがわかったからです。私はいつもものすごくたくさん書いて人に読ませるので、いつも「たくさん読ませて悪い」という気持ちがありました。でも、ある人が「手紙をもらうってうれしいね」と言ってくれた。職場の机のなかに私の手紙の束を入れておいて、読むと元気になるとか、私の手紙を繰り返して読んだため私の“10年間”を覚えてしまったという人とか、私の手紙にとりつかれているという人たちがいました。だから日記より手紙がいいのだと思うのです。

 “左手請求権”のため左手をあげていると、ずいぶんたくさんの人たちと出会うことができるのだということがわかりました。

 「円の外の草むらでボールが来るかもしれないと、息をつめて待つ」人を私は大切にしたいと思います。そしてそれは同時に「ボールなんかいくつなくしてもいいの。草むらのなかにボールを投げて、幻の返球を待ちたいことだってある」ということなのです。

 さいごに読者のみんなのために『ぱらん』のなかで私が一番好きな文章を載せさせていただきます。

――緑のくさはらが好きだ。たとえ狭くてもくさはらの上にはまあるい空がひろがっている。腫れても曇ってても雨でも雪でも。朝でも昼でも夕方でも夜でも。くさはらの上には空気が生きている。地球の素肌が息してる。地球の素肌はやはらかで足にやさしい。くさはらをかけると足の先から地球のやさしさが私の中にしみとってくれるような気がする。くさはらにあおむけになり地球に抱かれ空をみあげる。そう、ほら私たち空の中にいるんだよ。地球に抱かれ、空に抱かれ。こんどはうつぶせになって地球を抱いてみようか・・・くるっと体をまわしてエイヤッとうでたてふせ。あー地球って重たいね。
         1985.7.1 『ぱらん』6号より
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by lumokurago | 2011-04-17 12:20 | 昔のミニコミ誌より
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