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3.11以後のDr.Aとのメール その5

渡辺より 4.14

 ブログに書きました。

 隣りの子どもと愛犬をおいてきたって 

 今日の院内集会で原発から5kmに住んでいた女性から発言がありました。彼女はもとから反原発運動をしていたそうです。だから地震が起こってすぐに原発が危ないと思い、車で南下したのですが、隣の家の子どもを置いてきてしまったと泣いていました。まだ何も起こっていないのに知識のない人に「原発が危険です。避難しましょう」とは言えなかったと。

 最初の1週間はそれで泣いていたけど、そのあとはまだ避難命令がでない被曝地区の人たちが気になってしかたがなかったと。

 避難した人びとは早くも分断されているそうです。中通りは「浜通りは原発で潤った。自分たちは被曝だけさせられる」と。原発を批判したくても、隣に原発で働いていた人がいるので言えないと。

 東電は600人の避難所に謝罪に来たけど、たった10分しかいなかった。それは人びとが何も言わなかったからだと。

 怒りをぶつけていいのだ。潤わされたこと、給料をもらっていたことで卑屈になる必要はない。十分に、十二分に、取り返しのつかない代償を払わされたのだから。奴らの金儲けの犠牲になってやったのだから。

 彼女はそれに愛犬も置いてきたって、最後にぽつりと言っていました。

 自分のがんでは泣かなかったけど、いま、涙が止まらない。


Dr.Aより 4.15

 こんばんは。行動力がありますね。お疲れ様でした。

 原発はそれを推進してきた勢力が悪い。政治屋、学者、産業界、マスコミなど、たくさんいますね。エネルギーや地球環境の問題解決のためという理屈がまかり通っていましたね。エントロピーの法則が流行ったころでした。危ないという主張はなぜか掻き消されて行きましたがマスコミが原発擁護派でしたから、どうにもならない。さすが第四の権力だけのことはあります。

 国民や住民の分断はいつもの手ですね。皆、長いものに巻かれていきます。

 犬が可哀そうですので連れてきたほうがよかったし、戻ったほうがいいのじゃないかしら。無責任なことは言えませんが、ペットなど動物のことも国は考えるべきでしょう。野犬が増えているという報道がありましたね。また、牛も可哀そう。広い牧場が必要です。とにかく犬を連れてこられないのなら人間も残るしかないと思います。


渡辺より 4.16

 ああ、よかった。「犬を連れて来られないなら人間も残るべき」に賛成です。でも避難するのはほんのちょっとの間と思い、犬を置いてきた人が多いみたい。津波で離ればなれになったなら仕方ないけど、原発からの避難では、連れてこれたのにそうできずに置いてきたので悔やんでも悔やみきれないでしょう。この、発言した人は自分から逃げたのにどうして犬を置いてきてしまったのか? どうして連れに行かないのか? わかりませんが、そんなこと聞けません。やむにやまれぬ事情があったのでしょう。

 インディ系ジャーナリストのブログに牛がやせこけて歩いている、車のドアを開けたら大きな黒い犬が飛び込んできた、弁当をあげたらがつがつ食べた、と書いてありました。牛と犬の群れの写真が載っていました。こういう写真もみたくありません・・・。

 両親の故郷の川俣町の一部が計画的避難区域となり、兄同然の友人のところが入っています。彼は酪農をやっていました。妻の具合が悪くなり、去年牛を売ったのですが、自分の手で開墾した牧草地を「花いっぱいのでんでら野」にしようと言って、最近は花づくりに精を出していました。私の骨はそこにまいてほしかったのですが・・・。花の咲くころ、行ってみようと思っています。


渡辺より  4.17

 こんばんは。ピンクリボンがヒットラーというのはプロパガンダという意味とのことです。原発安全神話もプロパガンダ。世の中はプロパガンダだらけです。ヒットラーの演説は大衆を惹きつけましたが、左翼のアジ演説は自己陶酔だけで、いいところがありませんね。みんな引いてしまいます。私も「つくる会」教科書採択のときに駅頭でマイクをもって話しましたが、だれも聞いてくれなかったように思います。自己陶酔はしてなかったと思うのですが。ちらしもほとんど受け取ってくれないし、街頭に立っているだけで「へんな人」とみなされていることがありありでした。

 ところで大前研一は原発推進派で週刊金曜日で批判されているようです。事故が起こってからしおらしいことを言っているだけでは? ネットでは「原発御用学者」「反原発学者」などのリストまで作られています。「反原発ではないがまともそう」というジャンルに近藤先生が入っていました。日刊現代などに低線量被ばくについて記事を書いていました。

 今回の災害で赤ちゃんからお年寄りまで2万人以上の人があっという間に亡くなりました。彼らはまったく死を予想していなかったでしょう。死を予想し、覚悟して生きている私が残されたということはまだやるべきことがあるということでしょうか。


Dr.Aより 4.17

 こんばんは。死の訪れには色々な場合があるので、比較することは間違っていると思っています。事故死もあれば震災死もあるでしょう。癌死もあれば脳血管障害死など疾病による場合もあります。何れにしても死は結果だと思いますので、受け入れるしかありません。震災で亡くなった方々は、お気の毒ではあるが、防ぐことの出来ない死でした。世の中には、末期がんと診断され生きている人も当然存在しているわけで、種々のケースがあるのです。その中で、少数派でしょうが災害に遭遇せず幸運だったと思っている人もいるでしょう。このような人がいたとしても当然だし、それで構わないと私は思います。

 しかし、あるいは、死を望んでいる人も少なくないと考えます。私など常々自分の乗っている飛行機が落ちないかなと期待している方ですが、同じような感覚の末期ガンの人もいるのではないでしょうか。一気に逝くほうがよいと思っているのですね。

 多くの人々は健康という幻想を抱き、人間は90歳以上生きなければならないと思っている。親達を観てると90歳を越えて生きるのは大変のようですが。

 自然の中で生かされている人間は、死に方も多様であるし、震災死もありえる。ですから、偶然性の高い今回の震災に驚きはありません。万単位の死にも驚きはありません。死は人間にとって日常的に意識すべき対象です。死んではならないというのは、人間の我儘に他なりません。死は意識させられる対象ではなく、意識すべき対象なのです。メメントモリは受身ではないのですね。

 原発事故は人災ですから、これは許せませんね。大前研一はやはり推進派でしたか。そうだったはずだと記憶していたのですが、インターネットでビデオを観てころりと騙されてしまいました。私もとんだ甘ちゃんでしたね。


渡辺より 4.18

 今日はまた、小学生が6人もクレーン車の暴走で殺されてしまいました。運転手もまだ26歳。ほんの一瞬の気のゆるみでしょうか。どちらも気の毒です。人の生き死にはほんとうに予測できません。自分がこうして生き続けていることが不思議に思われます。

 死についてもっと自然に考えられればいいと思います。人間、いつかは死ぬ。子どもでも突然死んでしまう。生きているのが当たり前なのではない、生き続けることは希有なことなのだと考えたいです。

 でも普通に生きている人はこんなふうには考えないでしょう。お医者さんとか末期がん患者とかは別として。生きることと死とがあまりにもかけはなれてしまったのは不幸なことだと思います。たぶんそんなに遠くない昔、生と死はもっと近くにあり、つながっていたのですよね。それは人間の暮らしが生き物としての実感から遠くなってしまったこととも関係あるかもしれません。人間が生物であること、食べたり、飲んだり、排泄したり・・・が人工的になり、人間関係も薄くなっています。話が飛ぶのですが、秋葉原事件のような事件の遠因にもなっているような気がします。
 
 ところで民主党はせっかく政権をとったのだから、事故が起こったとき、「原発をつくった自民党の責任だ」と言って、すべての原発を止めればよかったと思います。そうすれば国民も見直したかも。責任は自民党にあったのに、いまとなっては事故の責任は民主党にあるみたいになってしまいました。ばかだなあ。


Dr.Aより  4.18

 こんばんは。生物はDNAによって生き続けるように操作されている。すなわち、単純なDNAの乗り物にすぎないという見方がありますね。DNAは乗っている生物の死を望んでいないでしょう。それに逆らっているのが、私たちのような人間でしょうか。DNAの思うようにはさせないと頑張っているわけですね。

 もしも不死が可能だとすれば嫌ですね。漫画家の黒鉄という人が言っていましたが、鶴は千年、亀は万年と言われ、亀のほうが良いように思われがちですが、これだけ寿命が長いと差はなく、長寿であることが良いとは言えないというのですね。人間ですと80歳も90歳も変りがない。亀は鶴になりたいと思う。これを亀の鶴化現象と言うのだそうです。

 突き詰めて言うと何歳で死のうと、どういう死に方をしようと死は死である。その事実だけが重要なのであって、個々を比較してもしかたがないということになりますね。

 民主党に関してですが、国民の期待が大きすぎた。菅や仙谷などの世代は薄っぺらな知識しかなく、風見鶏のように動いてきたんだということが分かっていなかった。だから、一見リベラルに見える彼らだが「原発廃止」ということができない。自己保身に走っています。保身がみえ見えなので、政治責任が問われることになったのでしょう。


渡辺より 4.19

 先生と私は「お医者さんと末期がん患者」だから「DNAに逆らう」というわけではありませんでした。ごくごく少数派なのでした。「死は比較できない。比較しても仕方ない。死という事実だけが重要である」ということばは重いです。私はついつい比較してしまいますが、よく考えてみます。

 不老不死というとスーザン・ソンタグを思い出してしまいます。彼女は「元気で」長生きしたいとは言っておらず、「QOLはどうでもいいから一瞬でも長生きしたい」と言っているのですね。どんなに痛くてもいい、寝たきりで意識がなくてもいいというわけではないのでしょうが、こういう考えはとても理解できません。本人がそれを望んでいるのだからまわりがどうこう言うことではありませんが、私は楽に死にたいです。

 柳原和子さんも生への執着がすごかったです。これも本人の自由ですが、がん患者全員が自分と同じ考えであることをつゆほども疑わず、主語を「私」ではなく「がん患者」にしていたのには驚きました。私を入れないでよと言いたかったです。作家なのにそれくらいのこと(人の考えはさまざま)も想像できないのかと思いました。

 哲学者の池田晶子さん(40代でがんで亡くなった)の本のコピーを友だちが送ってくれました。ちょっとだけ引用するのはむずかしいのですが・・・。

*****

 人は、人は必ず死ぬと思っていても、どうしてかしら自分だけは絶対に死なないと思っている。よく考えると、これは不思議なことである。哲学的には、これは自己意識不滅の問題と深くかかわってくるのだが、一般的に推測すると、たぶんたんに人は死ぬのが恐いのである。自分が死ぬということなど、思ってみるだけでも恐いので、それ以上深く追求するのをそこでやめるのである。(中略)自分が死ぬということを恐れて生きているということは、生きているということそれ自体が常なる恐れである。そのような人生が、深くなんらかの喜びであり得るのだろうか。(中略)がんでなくても人は死ぬ(近藤先生のことば)ということが、きちんと認識されてさえいるなら、がんであるということと、死ぬということとは、なんら関係がないということも、わかるはずである。在るのは現在だけである。すなわち、死は存在しない。

*****

 この部分よくわかります。逆説的ですが、「死は存在しない」という感覚がよくわかります。長くなったのでつづきはまた。


Dr.Aより 4.19

 こんばんは。がんもどきであるから生きているのに、助けられたと勘違いしている人は結構いるでしょう。彼らの医療への信仰は大変根強いですね。そして、死を想うことは信仰に反することになっているでしょう。DNAを乗せている生物としては死を避けようとするのは当然です。衝突を避けとっさにハンドルを切るように。

 しかし、それでは面白くないのです。主体は本当は存在しないと思いますが、決定するのはDNAではなく自らであるという意識があっても良いと思います。がんであろうとなんであろうと死はやってくる。それを受け入れる能動的な主体がいるわけです。また、生きている限り死は存在しないし、自らにとって死んでしまえば死は無いも同然であるし、結局、死は存在しないことになりますね。問題はやはり、生きている今、死をどうとらえるかメメントモリのような気がします。
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by lumokurago | 2011-04-20 15:49 | Dr.Aとの往復メール
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