暗川  


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「いまどきの子ども」たちと私 最終回

 『暗川』第30号 1990.5.11より

 これは「子ども」と言っても前回までの小学生ではなく、そのころ文通していた15歳の女の子の手紙です(そのころもう学校には行っていなかった)。「『「いまどきの子ども』たちと私」の感想を書いてくれています。

栄香ちゃんの手紙

 前略……

 『負けるな子どもたち!』に渡辺さんが書いた事と同じ事になると思うけど……。やっぱり今の子供達は大人そのものを表しているんだと思います。

 渡辺さんがいくら説明しても(F君のことを)まじめに聞いてくれないのは、話を聞く気持ちがないから。「やっぱりシンちゃんだ」の「やっぱり」は私たちが普通に使う物事を考えてみた後での“やっぱり”じゃないんじゃないかな。大体の子は“まじめ”になったことはないかも。怖い人の前だと一応おとなしく聞いてるけど、大人はそれをまじめだと思ってるけど、本当は違って。それがやっぱり学校の先生じゃない渡辺さんになると、暴力になって出てくるんですね。子供には何があってもまっすぐ育ってほしいし、その力が本当ならあるはずなんだけど……。

 「『いまどきの子ども』たちと私」を読んでると、皆可哀相になってくる。

 F君に対する態度や渡辺さんに対する態度がその子達の“生きる力”なのかなぁ……。

 K君たちって中学生の時、いつも図書室に来てた皆とよく似てる。図書の先生は“Y達はちょっと普通の人より優しいから、きっとこれからも優しいままだと思うよ”って言ってたけど、その先生も皆のことで悩んでた。自分に関係あることは一生懸命になるけど、関係ないことは本当に知らんぷり。図書室はその男の子達のたまり場になってて、いつもさわいでて、イスや机をボロボロにしちゃって、他の人も困ってた。けど、先生が何回注意しても聞かなくて、話し合おうとしても「俺は悪くない」って言って聞いてくれないし。あと、その先生は皆から“チャボ”って言われてて、「チャボのバーカ」とか言うから、先生が嫌がってたの。私は「先生のこと、好きだから言うんだよ。だって、嫌いな人の所にわざわざ休み時間の度に来る?」って言ってて、その時は本気で思っていたけど、最近違うんじゃないかなぁと思って……。

 私にだって機嫌の良い時は優しくするけど、また、私がおとなしいときは良いけど、少しでも「いーじゃん、別に」なんて言うと、「なんだぁ?」って怒って口きかないもん。全然態度が違ったもん。

 皆にとって先生や私は、好きな人でも嫌いな人でもなくて、自分にとって都合の良い時はちょっと好きで、悪い時は全然関係ないんだって思うの。世の中のほとんどの人が自分中心だから。最近気付いたんだけど、普通の人は自分の為に生きてて、私は違うからみんなと気が合わないんだと思う。でも、私は人と合わせるのが上手だから、一緒にいる人に合わせてどんな人間にでもなれる。誰にも好かれたいからだって言われるかもしれないけど、私はそんな事思ってない。嫌われるのはイヤだけど、別に好かれなくてもいい。ただ、一人でも多くの人に気持ち良く、楽しくなってほしいから。今まで自分の事より他人の事を考えて生きてて、それが当たり前だと思ってたけど、普通の人はそんな風に生きてないって知って驚いた。でも小さい時から、普通の人の普通と私は違うんだと思ってきたけど。だからたぶんいつも淋しいんだろうけど。だから渡辺さんとくんちゃんと、いろんな人に会えるんですね。これは言わなくても私たちは分かってる事だと思うけど。

 私が昔、友だちに言われた言葉、「テキトーにやってくしかないよ」すごいショックだったけど、今、渡辺さんに言うとしたらこの言葉かも……。渡辺さんを傷つけるって、すごい傷つけるってわかるけど。ごめんなさい。

 「テキトー」っていうより、ちょっと本音は押さえて(でもF君は守って)、K君たちに合わせて少しの間様子をみてはどうですか? そしてだんだん元の渡辺さんに戻ってく……。あっ、でもそんなことしたら、男の子達が渡辺さんも普通の大人か……って思っちゃうかな?

 私にはこれだけのことしか書けません。どうか無理をしないでください。後略……。

 1990.4.10  栄香(15歳)


栄香ちゃんへ

 栄香ちゃんの手紙、ほんとのこと言って、こわかったです。なんでこわいかっていうと、栄香ちゃんがここまで冷静に、というか覚めた目を持って人の心をみつめていることがこわかったのです。

 栄香ちゃんの言ってることは正しいと思います。子どもたちだけでなく大人たちも、大多数の人たちは自分中心に生きていて、人に対しては「自分にとって都合の良い時はちょっと好きで、悪い時は全然関係ない」のだと思います。そしていつも「テキトー」に人に合わせているだけなのです。

 「関係ない」っていうことば、今の子どもたちがよく使うけど、私はこのことばを憎みます。偶然今の父と母の間に、今の日本に生まれた私だけれど、それは何万分の1の確率かわからないほど“偶然”のできごとであり、もしかしたら生まれなかったかもしれないし、どこかよその場所に、いつか別の時代に生まれていたかもしれない。そして、今私が日本で物にあふれかえる暮らしをしていることは一方で、食料がなく餓死していく人々がいるということです。どんなことでも自分に関係がないなんていうことはありえない。世界中のすべてのことに私たちひとりひとりは責任を負っていると思います。

 でも今の日本ではこのことをまじめに考えている人はごく少数で、日本全体としてはアジアの国々から搾取し、自然を破壊し(自分の国ばかりでなくよその国の自然も)……、全く恥知らずな傍若無人なことをしています。大多数の人々はそのことを知ろうともせず、知っていても「自分には関係ない」と知らんぷりしています。そんな大人たちですから、子どもたちがすぐに「かんけぇねぇよ」と言うのも無理はないですね。

 人との関係ということでも、ほとんどの大人たちはまじめに考えていないと思います。表面的に仲が良さそうに見えればそれで良しとして、本当の意味での“関係”を作ろうとはしません。それどころか意見を言うと相手の意見とぶつかり合って“ケンカ”になり、表面的な仲の良さが壊れることを恐れて、意見も言いません。いいえ、もともと自分の意見なんてないのかもしれません。私はこんな大人たちにほとほと愛想が尽き果てています。ひとりひとりが自分の意見をしっかりと持ち、それを出し合い、ぶつけ合って交流することからだけ、人と人との関係は生まれるのに。

 そんな大人たちに比べて、子どもたちはやはり正直なのだと思います。K君たちにしても私に対して、「(障害者のことを)ほんとうは気持ち悪いと思ってんじゃないの?」と聞いたり、私が社会を変えたいと言ったことに対して「やくざに殺されてもいいのか」と言ったり(私はこのことばを聞いた時、長崎市長の顔が思い浮かびました。注:長崎市長とは本島等元長崎市長で議会で「天皇に戦争責任はある」と言った)、大人だったらそこまで突っ込まずにすませてしまうことを、彼らは遠慮なく突っ込んでくるのです。私はうれしいです。ほんとうは大人たちとこういう話をしたいけれど、できない現在、彼らは私が対等につき合える大事な友人になっています。

 栄香ちゃんの言うようにK君たちも私に対して、「好きな人でも嫌いな人でもなく、自分にとって都合の良い時はちょっと好きで、悪い時は全然関係ない」のだろうと思います。でも話は聞いてくれなくても、正直に自分をぶつけてきてくれることだけでも私はうれしいのです。大人が自分のことだけしか考えていないなら、子どももそうなって当たり前だし、でも、大人と違ってそういう自分を表面で取り繕ったりせずに、そのまま表してくることがいいところだと思います。相手が表面的なところから一歩も出ようとしなければ、こちらとしても突っ込んでいくことがむずかしいのですが、中身はどうであれ(自分勝手なことを言っているだけにしても)表現してくれれば、私も自分をぶつけることができます。そんなふうにして、私は彼らとの関係を作っていきたいと思っています。

 「テキトーにやってく」というのとは違うけれど、私はK君たちに合わせて(このことばが適当かどうかわかりませんが)いるところもあります。児童館の他の大人たちはこんなことはしないけれど、私は彼らと一緒に「てめえ、なめんじゃねえよ」とか悪いことばを使ったり、ぶりっこして「Kくーん! かっこいい」とか言ってふざけています。きっとそばで見ていると漫才みたいだと思うと思います。こんなぐあい……

 たとえばK君が1年生の持っていたボールを取っていじわるして……
 私:いじわるしないで返して! (などと最初は普通に言っていて、いうことをきかないので) てめえ、いいかげんにしろ、返せ!
 K:おれとやる気かよ! (などとすごんで私をけろうとする)
 私:Kくーん! かっこいい! (とぶりっこの声で言う)
 K:(急に態度を変えて)K君、かわいいーっ!(と両手の人差し指を立ててほっぺたに持っていく。ボールを1年生に返す)

 K君は極端から極端へめまぐるしく表情が変わる子で、“ツッパリ”やってたかと思うと、次の瞬間には“ぶりっこ”に変わり、また次の瞬間には「てめえ、ちょっとこっちこいよ」などとすごんでみせます。この子はくんちゃん(別の文通していた子ども)が書いていたように、弱い自分を見たくなくてこうやって演技しているのだと思います。私が『負けるな子どもたち!』に書いたように、<不安>でいっぱいでほんとうの心を見るのがこわくて、見ないようにしているのだと思います。

 今、私はK君につきあって追いかけっこをし、ふざけあい、いいところをみつけてはほめ、懸命に語りかけようとしています。そうすることで私はK君に、自分の心を見つめるようになってほしいと願っています。くんちゃんが、そして“I will”(『ロックよ静かに流れよ』径書房刊をめぐり、私と文通していた子どもや大人の手紙を文集にしたもの)のみんながしたように。

 1990.4.16  渡辺 容子
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by lumokurago | 2011-05-10 17:25 | 昔のミニコミ誌より
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