暗川  


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小出裕章さんの生き方

 次のような作業をしてくれた人がいます。まえにも聞き起こしを紹介しましたが、こちらは小出さんの言葉だけを抜き出してありますので転載させていただきます。ありがとうございます。

*****

 ビデオ・ニュース・ドットコムの「小出裕章京都大学原子炉研究所助教」放送ビデオから,小出裕章先生のお話の部分をテキストに起こしました。小出裕章先生からは,自由に使用して下さい。とのお許しを得ておりますので,皆さんでご覧下さい。小出裕章先生のこれまでの生き方が述べられています。

*****

 東京の下町上野で生まれて育った。1960年代の半ばに中学高校という時代を東京の上野で過ごした。その当時,東京では広島・長崎の原爆展がしきりに開かれていた頃だった。私はその原爆展を見に行き,原爆というのは,とてつもなくひどい兵器だということを心の片隅にすり込んだ。でも一方では,そんなすさまじい人殺しの兵器を作り出すだけのエネルギーというものがあるということも理解した。

 ちょうど日本ではその頃に1966年に東海1号炉という日本で初めての原子力発電所が動き出すということになっていて,日本中が諸手を挙げて,マスコミの人も政府もみんながこれから原子力の時代だと思っていた時代だった。70年になると,敦賀・美浜という原子力発電所が動き出すという。建設をがんがんやっているという時だった。

 私も原爆のような形でエネルギーを使うことはけしからないけれども,そのエネルギーを平和的に使えば,きっと人類の為になると思い込んだ人間だ。そこで,どうしても原子力をやりたいと思い,大学に入るときに工学部原子核工学科という所に入った。

 私が原子力に夢を持った1960年代の中頃というのは,まだ危険性に対する意識というのは殆どなかった。みんなが夢を持って,原子力に突っ込んでいった。日本もそうだったが,米国もヨーロッパもそうで,60年代から70年代の初めにかけては,とにかくこれから原子力だと言うことで,世界中で原子力発電所がどんどん建設される,計画される,そういう時代だった。

 当時の私は,原子力のメリットが大きいと思い込んでしまってデメリットに目が行かなかった。私が大学に入ったのは,1968年東北大学の工学部原子核工学科に行った。東北大学というのは,宮城県の仙台という街にある。東北地方で最大の都市で大きな街だった。そこで原子力をやりたくて,勉強を始めた。大学ではひたすら勉強をした。

 ちょうどその頃に,東北電力が原子力発電所を作るという計画を立ち上げた頃だった。計画した場所は,女川町という小さな町だった。津波でやられた町だ。仙台から直線距離で60キロから70キロ離れている。仙台には仙台火力発電所という大きな発電所もあった。原子力発電所を女川町に作ろうとした。当時は私も含めて日本中が諸手を挙げて原子力という時代だった。

 女川町の住民が,何かおかしいと言うことに気がついた。作る前の段階で少数の人が反対だと言い出した。私は原子力に夢を抱いていたわけだから,なぜ女川の人たちが反対するのだろうと。こんなにいいものだし,人類の未来を切り開くものになぜ反対する人がいるのだろうと思った。ところが,女川の人たちが言うのは実に単純なことだった。原子力発電所が安全だと言うけれど,安全ならばなぜ仙台に作らないのかと言って問われた。私はその問いの答えを見つけなければいけないと思った。それでどうしてだろうと思って探し求めた。今となってしまえば,実に当たり前な答えしかなかった。

 原子力発電所は都会では引き受けられないリスクを持っている。もうそれだけだ。電気を使うのは都会の人たちであって,その都会の人たちがリスクは引き受けたくないと,原子力発電所をいわゆる過疎地の人たちに押しつけることをやろうしているのだと。これが探し求めて見つけた答えであり,その答えを知ってしまった以上は,私にとっての選択は1つしかなくて,これはとても認めることができないと。やめさせようと思った。原子力を使わないようにという研究をしようと。とてもこんな理不尽なことは認めることができない。都会の人たちに危険であれば,当然いわゆる過疎地の人たちにも危険ではないか,いや人類すべてにとって危険なものである。

 そこで人生の選択を百八十度転換して,原子力発電所をやめさせることに,とにかく私の力を注ごうと思うようになった。百八十度転換したのは,1970年の10月23日。この日に女川の人たちが第1回の反対集会を女川町でやった。私はその集会に参加した。

 私が大学に入った68年というのは,大学闘争が始まった年だ。東大のせい医連という医者達が始めた年で,私はその当時は大学闘争というのは何なのか全然分からなかった。ひたすら原子力をやりたかったので,他の学生達が色々やっているときに何をやっているのだろうと,勉強しないのかくらいにしか思わなかった学生だった。女川の問題に突き当たって,自分のやろうとした原子力というものが何なのかということを考えざるを得なくなった。それはアカデミズムと言われているものの一端だった。アカデミズムの実態を知れば知るほどアカデミズムは価値中立ではないと思うようになった。

 原子核工学科は,もともと原子力発電をやろうとする牙城だ。私はその原子核工学科で原子力をやめさせようとしたわけで,教員達と毎日論争をした。今言うのもおかしいが,大抵私が勝った。そうすると彼らが何と言ったかというと,自分には妻もいるし,子もいると言った。生活があると言った。

 私と一緒に女川の原発に反対していた人たちは,もちろん原子核工学科の中にもいた。その当時は大学闘争のあった時代なので,かなりたくさんいた。その中で私とごく親しい友人,私より2つ年上の人がいた。その人は,生活を言い訳にするようなことはしたくないので,どうしたらいいのかと考えたあげくに,捨てるものがなくなればいいのだと。要するにアカデミズムなんかにしがみついていなければいいのだと言って。原子核工学科の大学院をやめて,土木業者,鳶職になった。捨てるものをなくすということに立った上で,彼は女川町原発の反対運動をずっと続けて,今でもその中心メンバーにいる。

 私は,彼がその選択をしたときに,私はその選択をとらないと言った。原子力を進めている学問体系,アカデミズムの世界が現にある。その世界の中で原子力に反対する人間は必要だと思うと。だから,私はこの場に残ると言った。そのかわり,生活の言い訳は絶対にしないと彼に約束をして,私はこの場に残っているというそういう経過だ。

 大学闘争という時代だったので,学生はいやがおうでも自分が学ぼうとする学問が何なのかということを考えざるを得なくなった。教員の方も日常的に学生の方から論争を挑まれてそれを受け止めざるを得なかった。しかし,たいていの人は生活があると言うことで,逃げ込んで原子力を推進するための旗を振った人が殆どだった。私は多分,原子核工学科の教員の中からはずいぶん嫌われていたと思う。それでも私を自分の研究室に迎え入れてやろうというそういう教員,教授もいた。大学院まで学問の道を進むことができた。

 原子力というものは,国家の根本をなす政策である。原子力は核と同じものであると私はずっと言っている。国家が原子力=核を進めると言うことを国家の根本に据えた。その周辺に電力会社,巨大産業,ゼネコン,土建屋,子会社が群がった,その全部で過疎の村々の生活を何とかしてやるぞと,ブルドーザーで押しつぶすような形で進めた。それに抵抗しようにも誰も如何することもできなかった時代であったと思う。

 学者は何も聖人君子でも何でもない。1人1人生活を抱えており,出世もしたい,名誉も得たい,給料も良くなりたい。原子力をやろうとすれば,一番近道なのは国家に協力することである。

 原子力に関しては絶対安全と,国が言い続けてきた。多くの日本人は,国や東京電力が言っているのだから,事故なんか起きないだろうとしか思わないまま,原子力をずっと許してきたという歴史だと思う。携わっているアカデミズムの人たちも,まさか大丈夫だろうと言うぐらいの気持ちで来たのだと思う。

 大学のポストは,大学の思惑あるいは,京都大学は国立大学なので国の意向がもちろんある。「6人組」と呼ばれてきた私の仲間には,もうその人がいなければ日本だけでなく世界の学問が成り立たないという仕事をしていた人もいる。しかし結局,誰も教授になれない。と言うか,私は一度も教授になろうと思ったことはない。74年に原子炉研究所に助手として採用されてここに来た。今も助手=助教であり,37年間最下層にいた教員としてギネスブックに申請すれば載るのではないかと思う。

 とてつもなく居心地の良い職階である。37年間誰からも命令を受けたことがない。誰にも命令したこともない。雑用を追う責務も人を動かす責務もないので,自分の好きなことだけをずっとやり続けることができた。とてもありがたい職階である。国にしっぽを振れば,研究費が来るとか企業との共同研究ができるとかあるが,そこまでしてお金が欲しいと思ったことはない。

 6人組と呼ばれている私達の仲間は,世代では4人と2人に分かれる。上の4人は60年安保世代に学生だった。自分のやろうとしているアカデミズムが社会的にどういう意味を持っているのかを学生時代に問われた世代である。今ここに残っているのは私と今中さんの2人だけで,いわゆる70年安保で大学闘争という世代,学生の時にどうしても自分のやろうとしている学問が社会的にどういう意味を持っているかを問われて,その答えを探し求めた人間であった。それがきっと6人組という集団を作ったと思う。

 今はそんなこともなく,自分の学問がどういう意味かと言うことを問われないまま静かな大学の中で学問をしていくという,そういう世代がずっと今日まで続いていると思う。ひたすら,社会的な問題は考えない,自分のやっている学問のことをやるだけという人が多いと思う。この実験所にも80人ほどの教員がいて,順番に定年でいなくなり新しい人が入ってくる。新しく入ってくる人で社会的問題を考えるという人はあまりいなかった。でもゼロだったかというとそうではない。

 私達がやっていることに共感をしてくれて仲間になろうとした人たち何人かいた。しかし,その人たちを積極的に私は誘わなかった。6人組という名前は,当時の中国に文化大革命の4人組があって,要するに犯罪集団として後ろ指を指されたグループがいた。こういう社会では犯罪集団という意味を込めて誰かが6人組と言った人たちがいた。

 周りから見れば,私達のやっていることは国家にたてついているわけで,面白くないと思っている人が多かった。アカデミズムの世界で言えば,国家の片棒を担いで原子力を進めようとする人たちが多いわけだから,原子力に抵抗すると言うことは,いわゆるアカデミズムの世界で安穏と生きていこうとする限りは,その道を閉ざすことになる。

 だから,私達の仲間に入ってくれようとした若い人たちを誘えなかった。そう言うような立場にさせてしまうことは。積極的に一緒にやろうと言うようには誘わなかった。そういう人たちは,この原子炉実験所から去って,別のところでまた職を得て,それなりの活躍を今でもしている人たちがいる。

 誘わなかった,そして6人組という,初めに決意をして集まったメンバーだけでやってきて,4人が既に,瀬尾さんはお亡くなりになったし,3人はもう定年でいなくなって,既に2人になった。私にしてもあと数年で定年で辞めることになり,今中さんも今にすぐやめることになる。私と今中さんがここからいなくなった時には,いわゆる大学という世界で原子力に抗議と抵抗を続ける教員はいなくなるのかなと思う。物理学や地震学をやっている人で抵抗をしている人はいるが,原子力の世界の中で原子力に抵抗するという人はいなくなると思う。

 原子力の本質というか,ファウスト的取引と言うときには,膨大な危険があるという一方で膨大なメリットがあるという。しかし,原子力には膨大なメリットすらないと私は言っている。私はもとは原子力に夢を持ち,未来のエネルギー源になると思いこんだ人間である。原子力で使おうとする燃料ウランというのは,地球上には殆どない。石油に比べても数分の1,石炭に比べても数十分の1しかない資源,もともとメリットなんかない。

 今の世界のエネルギーをすべて原子力でまかなおうとしたら,40年も持たない。とても貧弱なものであり,そんなものを膨大な危険と秤を掛けて取引なんかする必要もないという馬鹿げたものであった。

 原子力というのは,ウランの核分裂反応を起こさせてエネルギーを取ろうとするものだが,核分裂反応でできるものは核分裂生成物という死の灰,それを生み出さなければエネルギー自身取り出すこともできない。核分裂生成物というのは人類,生命にとって圧倒的な危険物だ。どんな意味で言っても危険物だ。火力発電所を動かしたら,二酸化炭素ができるからとんでもないとみなさん言っているわけだが,冗談を言わないでくれと私は思う。

 火力発電所で出すものはせいぜい二酸化炭素。二酸化炭素というものは,この地球という惑星にとって絶対に必要なもの。生命系を維持するために。それがあたかもものすごい悪者であるかのように言いながら,原子力が生み出す核分裂生成物については一切何も言わない。それで,地球環境に優しい,エコだ,クリーンだというような宣伝がまかり通るというような,とてつもない宣伝というかウソというか,まかり通っていると思う。

 その核分裂生成物の危険性がとてつもなく大きすぎて,ヘタをすれば今回のような福島の事故のようなことになってしまうと言うことだ。そのことはみんな初めから知っていた。だから都会には建てられないと。それで過疎地に押しつけると言うことをやった。そのツケを日本というこの国で払っていると言うことだ。

 60年代から70年代初めにかけて,世界中が原子力に夢を持った。米国で言うとその夢から覚めたのは74年,それまでものすごい勢いで原子力発電所を作り上げて運転させる,建設する,計画するというのはうなぎ登りで上がってきた。74年をピークにしてそれ以降はどんどんキャンセルということになった。計画中のものはもちろん殆どキャンセル,建設中のものもキャンセルされるという時代に入っていく。79年にスリーマイル島での事故が起き,またそれからどんどん計画と建設が減っていった。もう米国では30年にもわたって一機も新規立地もない。そういう状態で,原子力産業が米国では崩壊してしまっている。ヨーロッパもそうで,ヨーロッパが原子力から見切りを付けたのは,77年か78年,うなぎ登りに上がってきた運転中,建設中,計画中が次々とキャンセルされるという時代に入っていった。

 でも,日本だけはそうならなかった。米国などではメリットとして考えたものはもう無い,デメリットはとてつもなく大きいと気が付いて撤退を始めている。日本だけはそうならなかったという理由は,この日本という国の長い歴史にあって,お上意識というか,お上がこうだと言うことを決めてしまえば,それに殆どの人が付き従っていくという,そういう歴史の中で,日本の国家というものがどうしても原子力をやると言い続けたというのが一番の理由だと私は思う。その他に,電力会社の儲けの話であるとか,三菱・日立・東芝という巨大原子力産業の儲けであるとか,そういうことはあったが,なによりもあるのは国家としての思惑だと思う。

 2010年秋,NHK番組「核を求めた日本」で描かれたことは,日本では原子力を平和利用だと言いながら原子力発電を続けることで,核兵器を作る能力を手に入れたいということで,初めからそうだったということだ。日本は先の戦争で負けて,敗戦国として2等国になった。が,いつまでも2等国でいたくないと言って同じ敗戦国であるドイツに対して,核兵器を作らないかという話をもちかけたという,そういう番組だった。

 政治や外交の中枢にいる人たちがそう考えると言うことはムリもないことだと私はある意味では思う。国連常任理事国というのは,米国・ロシア・中国・イギリス・フランスで,それはどうしてこれら5カ国が常任理事国であるかというと,先の大戦で勝ったからと言うことがあるが,もう一つは核兵器保有国だということだ。核兵器を持っていると言うことが,現在の世界を支配するための一番基本的な条件だということはある。日本は,何としても1等国になるためには,いつでも核兵器を持てるという条件を懐に入れたいということは必ずあったと思う。

 番組ではそのように放映されたが,元々政府の外交文書にきちっと書かれている。核兵器の材料になるプルトニウムを手に入れる。そしていつでもミサイルに転用できるロケット技術も懐に入れておくということは,政府の文書にあちこちに書いてある。日本という国はちゃんとそれらを国家として進めてきたということだと私は思っている。

 1970年に私は原子力はダメだということで何とかやめさせようと思った人間だ。あれから40年経った。いつかこんな事故が起きると私は警告してきたが,とうとう起きてしまった。何とか起きないように起きる前に,原子力を止めたいと願い続けてきたが,私の願いは届かなかった。こんなことになってしまって,何とも言葉がない。

 こういう事故が進行中であるのにも関わらず,日本で原子力発電所がまだ動いている。なぜ動いているかというと,夏になって停電したらイヤだからと。電気は絶対必要だと。そういう人が日本には多いようだ。そのことについては,既に私はデータをつけて発言しているが,今現在,即刻,原子力発電所を全部やめたとしても,日本の電力供給に何の支障もない。だから,やめるのが良いと思うが,私は実はそのこともどうでもいい。

 電気が足りようが,足りなかろうが,原子力などというものはやってはいけないというふうに私は思っている。そういうふうに日本人の人たちが思えないということに私はかなりの絶望感を持って,現実に向き合っているという,そういう状態だ。
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by lumokurago | 2011-05-11 09:48 | 原発
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