暗川  


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『戦後思想を考える』 その3

第2章 体験をつたえるということ  省略

第3章 私のなかの「戦争」  省略

第4章 「滅公奉私」の時代

1、
 8月15日が近付くと<風化>が語られる。私は戦中世代として<風化>現象に批判を持つが、新しい発想と認識なしにただ<風化>を嘆いても不毛な時期にきている。敗戦の日から現在(注:1980年)に至るまでに日本社会は質的変化をとげた。それは日本が経済大国となり、第三世界との対立矛盾をかもしだす状況にふみこんだということである。

 私は1917年に生まれた。私の生きてきた60年余りを時期区分すると、第一に大正デモクラシーの時期、第二に軍国主義の時期、第三に敗戦以後の「民主」主義へ向かおうとする時期、第四に経済主義の時期ということになる。第一から第二との連続は明らかである。第二と第三とは非連続に見えるが目に見えない連続性に注意を払う必要がある。第三と第四は連続に見えるが、気づきにくい質的転換に私は注目したい。

2、
 1930年から1978年まで同一質問による日本人の意識調査の資料がある。もっとも変化の大きいものは1940年(軍国主義の時期)、<私生活>志向は6%、<公>志向は71%である。それが1976年には前者が61%、後者は18&である。後者の優位から前者の優位へと逆転するのは、1958年、経済主義の入口にさしかかったときである。

3、
 <滅私奉公>から<滅公奉私>へ。敗戦直後、<個の確立>や<労働者の権利>を主張し自由主義者やマルクス主義者が生まれた。彼らは大半が欧米に模範をとることになった。マルクス主義者にとっては社会主義は不動の政治目標であったが、既成の社会主義国にさまざまな矛盾があることが明らかになり、社会主義のイメージダウンが起こった。

 しかしいま、日本人の意識の質的な変化は、そうした思想上の論争点よりももっと深いところで生じている。高度経済成長がつくりだした現在の生活水準を維持拡大したいということが、ほとんどの日本人の願望となった。多くの人々が価値観の多様化を言うけれども、それは金を何に使うかという程度の選択であり、生活水準の維持拡大への執着という点では、価値観の画一化こそが進行している。

4、
 最近右傾化ということがいわれるが、<私生活優先>の若者たちが天皇のために一身を捧げる決心をする回路を設けることは政治技術上の難題である。たとえば金や快適生活だけが生き甲斐ではないという哲学を、民衆のなかに、新しい全体主義的な方向へつくっていくことがそのひとつであろう。そのさいの道具立てとして、元号や君が代等々がどの程度に利用できるかは未知数である。

 いまはだれが政権の座にのぼろうとも、国民大多数の<私生活優先>、生活水準「向上」の要求につきあわなければならない。しかし、今後無限のGNP増大と無限の生活水準の「向上」とが不可能であることを考えると、経済主義の時代の困難はこれからはじまるであろう。<滅公奉私>の極限状態には、大きな危険と困難がまちうけていると思う。

5、
 経済主義は、3つの大きな問題を浮上させた。

 第一に、それは人間と環境、とくに自然との関係を破壊した。いわゆる生態学的循環が破壊された。一口に「公害」というけれども、すでにそれはその文明論的意味まで問われている。

 第二に、人間と人間との関係を破壊した。人びとは、損か得か以外の尺度をほとんど失った。相互扶助の生活態度は弱まるばかりである。

 第三に、日本と発展途上国のあいだに、とくにアジアの諸国とのあいだに、潜在的顕在的矛盾をつくりだした。

 いま世界は、飽食している10億と、飢えている30億との人口で構成されている。この対立は、近代数百年の世界史の結末である。いつになればこの二つの世界に均衡がもたらされるだろうか。
 政府自民党はしわよせが経済力の弱い部分にあらわれることはやむをえないと考えている。今度節約の呼びかけが強まるだろうが、それが平等主義の立場に立つことができないという弱点がある。
 革新諸政党や労働組合は、依然として生活水準の向上、賃上げ要求等をつづけるだろう。とくに労組の場合、未組織労働者や臨時労働者にたいして、どのような平等主義を約束できるのか、できないのか。

 一方、ごく一部に、経済主義の枠を超えようとする発想が生まれている。「スモッグのなかでのビフテキよりも、青空の下での梅干を」。ある小さな労働組合では「質素であれ」という一項をかかげている。そこにはもちろん現在の大量消費社会とそのなかにまきこまれている労働者への批判がある。大企業労働者と臨時労働者の不平等への批判があり、第三世界の民衆とをへだてる巨大な経済的不平等にたいする強い批判がある。

 経済主義の時代のなかで、政府、労組ともに「生活」とか「文化」「生活の質」という言葉を新しい戦略地点としている。

ここから引用。
――文化や生活が戦略地点となるということは、現在の状況の特徴を示している。管理主義はいまやなによりも文化や生活の管理として力をふるっているからである。現在、市民にとって、文化や生活は上から、あるいは外から「あたえられるもの」になっている。おしきせ文化、おしきせ教育、おしきせ生活である。消費、情報、娯楽、余暇などもすべておしきせである。こうした受動性は政治的受動性と結びつく。いわゆる中流意識をささえているもの、中流意識が経済主義へ向かっていく同期は、こうした「おしきせ生活」を失いたくないという恐怖心である。「おしきせ生活」を失うことは下層階級への転落を意味する。

*****

 杉並区職労もいつもいつも賃上げ要求をしていました。私は「労働組合なら賃上げ」というなんの疑問ももたない決まりきったやり方に反対で「質素な暮らし」を訴えたかったけど、わかってもらえないと思ったので言えませんでした。(暮らせるだけあれば)「お金がいらない」なんて変人ですよね。でも生まれてから一度も質素な暮らしができる以上のお金がほしいと思ったことはありません。
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by lumokurago | 2011-05-28 17:53 | 本(book)
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