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読み比べ その2 大和朝廷? ヤマト王権?

9月6日 (「大和朝廷」と「ヤマト王権(大和王権・政権)」のなぞ)

 昨日、「比べるのはやめて、扶桑社だけ読んで書く」と書いたけど、今までのところがどのくらい違うかと見てみたら、まあまあ、全然違うのです。これはやはり皆様に知らせなければと思いました。今日は今使っている帝国書院の教科書です。

 昨日の続きで、縄文・弥生の次に「邪馬台国」が出てきます。中国の歴史書「魏志倭人伝」に書かれていることですね。次、2節「東アジアの中の『倭』」「1.さかんになる朝鮮半島との交流」、とここまで読み進んできて、奇妙なことに気がつきました。

 私は51歳です。私の習った頃は「大和朝廷」という言葉が教科書に書いてありました。扶桑社には「大和朝廷」と書かれていたので、私は疑問も持たなかったのでした。

 ところが帝国書院の教科書にはその言葉はなく、何のまえぶれもなく「ヤマト王権」という言葉が出てきます。「化石人間」の私が初めて聞いた言葉だ。これは何?

 帝国書院版には欄外に注意書きがあって、「中国から倭王の称号をあたえられた、のちの大王(おおきみ)を中心とする豪族たちのゆるやかな連合勢力」と書かれています。ふーむ。ちょっとよくわからない。他のも見てみよう。

 大阪書籍では、「3世紀の後半から4世紀には前方後円墳とよばれる大型の古墳が大和(奈良県)地域に作られ、このことから、この地域に強大な権力を持つ王が存在していたと考えられます。この王たちが作った政権を大和政権といいます」と書いてありました。ちょっとわかった。

 次、日本書籍新社。これは大阪書籍と同じ論でした。

 清水書院も、3世紀半ばにつくられた前方後円墳と同じかたちの大きな古墳が、4世紀後半にかけて東北地方から九州地方につくられていったことから、近畿地方を治めていた勢力が全国へ支配をひろげていったことがわかり、この勢力を「ヤマト王権」という、と書いています。清水書院が一番わかりやすいですね。

 さて、扶桑社に戻ります。話はそれますが、こんな一文を発見。先日は見逃したようです。「中国を中心とした国際関係」という小見出しの下に「卑弥呼の時代に、すでに日本は、こうした中国の皇帝を中心とする東アジアのきびしい国際関係の中に組みこまれていたと考えられる」とありました。
他の教科書には一切書いてないことです。こういうのを「布石」というのでしょうか。なんの「布石」だかわかりますよね。ヒント・納冨教育長:戦争はなくならない。(8.12))

 話を戻して・・・他社にない記述を拾ってみます。

 邪馬台国と「厳しい国際関係」の後に、「6.大和朝廷と古墳の広まり」「大和朝廷による国内の統一」に「中国の歴史書で『倭国』とよばれていた日本は、4世紀のころ、中国の文字記録からまったく姿を消してしまう。・・・朝鮮半島の統一国家への動きの記述(略)・・・

 日本列島でも、小国を合わせて統一国家をつくる動きが生まれた。その動きの中心は、大和(奈良県)を勢力の基盤にした大和朝廷とよばれる政権だった。大和朝廷の始まりについては、同時代の文字による記録はない。しかし大和朝廷が強大な政権になった時期が、4世紀前半のころであることは、次に述べる古墳の普及のようすから推測することができる」

 「豪族たちの連合の上に立つのは、のちの天皇にあたる大王でその古墳はひときわ巨大だった」
次のページに「神武天皇の東征伝承」という神話が「読み物コラム」としてあり、「これが大和朝廷のおこりであると伝えられている」と書かれています。

 扶桑社版では大和朝廷はすでに「天皇」(大王)であり、34ページに聖徳太子をめぐる系図が載っていて、天皇の即位順もわかる。(つまり 大和朝廷からずっと天皇がきちんといたことになる。大和朝廷をおこしたのは神武天皇)。

 しかし他社では、いつ天皇が出てくるのかはっきりしない。

 帝国書院では、5世紀後半にヤマト王権の王ワカタケルが「大王」を名のり、「鉄剣を関東や九州の豪族にあたえた」(埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣と熊本県江田船山古墳出土の鉄刀の写真入り)という記述があるが、その後は蘇我氏が物部氏を倒し、「対立する大君(名まえが書いてない)を殺害し、額田部皇女(のちの推古天皇)をおしたてました」。というところまで、「大君」という言葉はなく、「のちの推古天皇」が初めて出てくる「天皇」という言葉です。

 大阪書籍ではどうか。「5世紀後半には、九州中部から関東地方までの各国の権力者は、大和王権の支配下に入ったと考えられます。その支配者を、中国では、倭王、国内では大王とよんでいます」 
 次が大事。「朝鮮や中国の記録には、4世紀ごろから倭が朝鮮半島の国々と交渉をもったことや、5世紀の倭王が、5代にわたり中国に使いを送ったことなどがみられます」

 扶桑社では「中国の歴史書で『倭国』とよばれていた日本は、4世紀のころ、中国の文字記録からまったく姿を消してしまう。」と書かれていたんだけど・・・どっちが正しいの?
大阪書籍でも「天皇」ということばは、「聖徳太子はおばの推古天皇をたすけて、蘇我馬子とともに政権をにぎりました」まで出てきません。ただ、扶桑社と同じ系図は載っていて、天皇の名前は書いてあります。

 日本書籍新社。古墳から解き明かして「この政権を大和政権という。大和政権の王は大王といわれた。大王が政治をおこなう場所を、朝廷という」と扶桑社以外の教科書でははじめて、「朝廷」という言葉を出しています。
 
 また、本文にはありませんが、「ワカタケル大王の鉄剣」の写真を載せています。そして、「5世紀の倭国の大王は、5代にわたって中国の宋の皇帝に使者を送った。大君は倭国王としての地位と、朝鮮半島南部を支配する、将軍としての地位を認めてもらおうとつとめていた。『武』という大王は、中国の皇帝に手紙を送り、ほぼ望んだとおりの地位を認められた」とあります。

 やはり扶桑社の記述は間違いか・・・

 それから「592年に即位した女帝の推古天皇は、おいの厩戸皇子(聖徳太子)を摂政とした」と書いてあり、帝国書院、大阪書籍と違って推古天皇を主体として描いています。

 清水書院。「倭(日本)では、6世紀はじめにヤマト王権に対する大規模な反乱が北部九州でおこったが、ヤマト王権は1年5ヶ月かかってこれをおさえ、その後全国への支配と強めた」と書かれています。清水書院も「ヤマト王権」を「倭(日本)」の中の一勢力と見ています。

 「天皇」ということばが初めて出てくるのは、「蘇我氏はそのころヤマト王権の財政や外交を担当し、渡来人やその子孫を重要な役に用い、大王(天皇)の親戚となることで勢力を強めていった」というところです。ここでカッコの中ですが、「天皇」という言葉が初めて出てきます。

 そして、「593年、女性の推古天皇が即位し、聖徳太子を摂政とした」とあります。(系図あり)
推古天皇が蘇我氏によってたてられた(対立する大君を殺害して)ことが書かれているのは、帝国書院だけですね。

 長くなりました。疲れてきたけど、もう少しです。

結論

1.扶桑社の「中国の歴史書で『倭国』とよばれていた日本は、4世紀のころ、中国の文字記録からまったく姿を消してしまう」という記述は、大阪書籍、日本書籍新書の記述と違う。どっちが正しいのか歴史の専門家に聞かなければ。
2.扶桑社は「ヤマト王権(大和王権・政権)」のことを「大和朝廷」と呼び、「大和朝廷」のおこりは神武天皇であるとし、「大王」を「天皇」とし、そのまま推古天皇につなげています。しかし他の教科書ではこのあたりのつながりははっきり書かれていません。というよりも「わからない」と言った方が正確でしょう。本当はどうなのか、これも歴史の専門家に聞かなければわかりません。
3.それに「ヤマト王権」の呼び名も統一されていないことがわかります。歴史学者の間で意見が分かれているのでしょうか?歴史を勉強していて、こんなあいまいな「王権(政権)」は他にありましたっけ?

 大変長くなりましたが、本日はこれで終わります。はあ・・・(疲れたので思わず、ため息が出てしまいました)。ここまで読んでくださった方もお疲れになったことでしょう。どうもありがとうございました!! これに懲りず、明日もまたお付き合いくださいますよう!

*****

 社会科教員Yさんから投稿がありました。Yさん、ありがとうございます。

「ヤマト王権」か「大和政権」か「大和朝廷」か?

 HP管理人さんの問いに少しでもヒントとなれば幸いです。(Y記)

 まず、結論を先に言うと、現在歴史学の常識では「ヤマト王権」と表記するのが一般的です。

 最近の「発見!○○古墳の・・・古代史に新事実」というような新聞記事が出ることがありますよね。そういう時に「解説」で出てくる研究者のコメントは今は一般に「ヤマト王権」です。歴史教科書にこれが載るには時間がかかります。このことはちょっとおいておくとして、まずは、いくつかのことをコメントします。

1.「ヤマト」か「大和」か?

 まず、前提としなければならないのは、古代史での文字資料がきわめて少ないということです。日本に残っている「紙」に書かれた文書資料は4、5世紀のものはなく、いくつかの手がかりから探るということになり、まだまだナゾの多いところです。手がかりとしては、

1.8世紀以降に書かれた現存する『日本書紀』などの文書史料
2.中国の歴史書や朝鮮の歴史書
3.考古学的な史料

 などがあります。1.2はそれぞれの国のその時代の立場から書かれているので、それを3と照らし合わせて考えるということになります。早い話が、まだまだ断定できることはなく、教科書でも「少なくともこういうことが言える」という形での記述が多くなるなるわけです。

 古代史で、日本での最初の文字の使用例として出てくるのが、管理人さんが書いている5世紀の「ワカタケル大王」の鉄剣の銘文のころです。このころから、漢字が国内でも使用されていたことが分かります。でも、そこでの表記の方法は現在の文字の使い方とはおよそかけ離れた使われ方です。
いつから「大和」という表記がされるようになったのか、明確なことはわかりませんが、「大和」という国名は、少なくとも古代の国家のしくみを整えてゆく中で、「国」(簡単に言うと今の「県」にあたる)という行政単位ができてからのことです。つまり、早くても「大化の改新」(645年)以後、又はその後の壬申の乱(672年)以後の天武朝ごろではないでしょうか。

 ちなみに「天皇」という称号が正式に用いられるようになったのも、この天武天皇のころというのが通説になっています。(この点も扶桑社は大いに違うわけですが。)

 つまり、7世紀半ば過ぎのことなんですね。ですから、断定できないことは「かな書き」で示しておいたほうが良い、ということになります。

 高校の教科書では、それ以前の古代王権を「ヤマト王権(倭王権)」と示している場合もあります。つまり、「倭」でヤマトと読ませているわけです。

 また、3世紀に、「邪馬台国」が登場します。この卑弥呼の治める「邪馬台国」という漢字の表記は、中国の歴史書の「魏志倭人伝」に出てくることは、広く知られています。しかし、よーく考えてみると、この表記を「ヤマタイ」と当時読んだという証明はまったくないのです。実は、「倭」の使者が中国に行った時、「ヤマト」と発声していたことばを、中国の記録係が漢字で「邪馬台」と文字を当てたに過ぎないのかも知れないのです。文字のほうが後からくっついているわけですね。

 最近の歴史の本では、「邪馬台」をヤマトと読ませていることも多くあります。つまり、「邪馬台」=ヤマトと読むということであれば、邪馬台国がどこにあったかは別にしても、3世紀前半の邪馬台国と3世紀末以降に出てくる「ヤマト王権」とが、連続的にとらえられるわけです。

2.「朝廷」はいつからあったか?

 次に「朝廷」がいつからあったのか、という問題です。

 「朝廷」とは王権が成立後、「大王」の住まいである「宮」の「庭」で、この王も含んで豪族などの当時の政権担当者が集い、会議を行ったことから付いた語だといわれています。そのため、歴史家の網野善彦さんなどはその出版物で「朝庭」とあえて記述しています。(以前は生徒がテストで「朝廷」を「朝庭」と書いたら×つけられるところだったのにね!)

 古代史の書物を読むと、このような、「朝庭」での会議が行われるようになったのは、6世紀の半ばごろ、欽明朝のころといわれています。中学の歴史書ではあまり出てこないところですが、蘇我氏が登場し、廐戸皇子(聖徳太子)の出てくるちょっと前のことということになります。

 だから、古墳が登場する3世紀末ないしは4世紀から朝廷があったかのような扶桑社の教科書の記述は正しくないということになります。

 「王権」というのは、その字の通り「王の権力」です。まだ、朝廷というしくみが整う前、弥生時代の半ばごろの紀元前後の時代から祭祀を軸にした「王」の存在は、墓のあり方など考古学的な発見からも認められています。中国の歴史書でも登場します。はじめは各地に分立した小国で「王」が登場し、これが次第に近畿地方~九州に統一されていくのが、前方後円墳という同じ形の古墳が出てくる、3世紀後半と考えられます。

 つまり、「王権」ということばは、その時代によって祭祀を中心に行ったのか、軍事的な権力者なのかなど、性格は違っても、とにかく王の存在があったという点から見た用語なのです。

 つまり、「ヤマト王権」とは、邪馬台国の登場する3世紀の前半から、「王」の性格を考えながらその権力のあり方を考えようとする用語であるわけです。そこには、王権の交代や勢力争いもあり、その支配のあり方も変化していることも含んでいます。

 「大和朝廷」とは、古代史のはじめから大王=天皇が明確な支配をしていたと考えようとする用語です。そこには、日本の国家は最初から一貫して天皇の支配があったのだという主張が読み取れます。現在の歴史学ではまず使われません。

 なお、「大和政権」は、ちょっとその点をあいまいにした用語といえるでしょう。長い間、ヤマトは「大和」と書くというように信じられていました。だから、なかなかそこから脱しきれないわけです。「政権」という表現は、王の権力を含んで何らかの政治のしくみがあったということから古墳の登場する時代から使われているのだといえそうです。

3.オマケ!

 長くなりましたが最後につけたしです。

 「大王」という語は、それを「オオキミ」と読むかどうかは別にして、現在最初に国内で確認できる文字は「ワカタケル大王」の鉄剣などの5世紀の古墳から出てくる剣などに刻まれた文字から確認できます。

 ただし、この「大王」の語は、倭国の古代国家独自の称号ではなく、朝鮮などでも出てくる語です。つまり、中国の「皇帝」から朝貢関係の中で「あなたは、○○国の王のなかの王、<大王>ですよ。」と承認されて使われるようになったと考えられます。
こうして、まだ国境のない古代ですから、東アジア全体の中で考えていくことが、最近の研究では意識されています。

by lumokurago | 2011-06-26 16:28 | 中学校歴史教科書8冊の読み比べ
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