暗川  


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読み比べ その4

9月12日(月)(「聖徳太子」の記述が多いのはなぜ?)

 選挙結果、ひどかったですね。この期に及んで小泉がいいという人がこんなに多いなんて。戦争体験者である友人は「時代の変わり目っていうのはこういうものなんだね」と言っていました。なんかヒトラー台頭の頃に似てるような気がします。小泉が「国民をてなずけるのは簡単だなあ」とほくそえんでいる姿を想像すると、ほんとに悔しいですね。

 郵政「改革」というのはブッシュの命令に従ってやっているんですよ。ご存知でしたか? 外務省に文書が保管されており、外務省のHPでも見られます。日本の郵政「改革」がアメリカのもうけになる、それだけの話です。

 さて、本題です。

 扶桑社では、「隋の中国統一」11行も入れてですが、聖徳太子に関する記述が4ページもあります。他社では「隋」のことをほとんど書いていない教科書もあり、「隋(と唐)」と「聖徳太子」で1ページから、多くても2ページです。

 なぜ扶桑社では聖徳太子の記述が多いのでしょうか?今日はちょっと疲れているので、これは明日までの宿題として、考えてみてください。
 

9月13日(火)(天皇という称号はいつから始まったか?)

 扶桑社です。「豪族の争い隋の中国統一」の小見出しのところに、こんな記述があります。「強大な軍事力をもつ隋の出現は、東アジアの国々にとって大きな脅威だった。朝鮮半島の百済、高句麗、新羅は、隋に朝貢した。日本も、これにいかに対処するか、態度をせまられることになった」

 「隋」について、他社では大阪書籍で隋から唐に変わった経過に6行使っているだけで、帝国書院では「遣隋使」に一言触れているだけ、日本書籍新社と清水書院では「隋にかわって唐が中国を統一し」などと書いてあるだけです。「隋」とはそんなに「脅威」だったのでしょうか?

 扶桑社を読み進むとこうあります。「このような岐路に立っていた日本にあらわれたのが、聖徳太子(厩戸皇子)という若い指導者だった」 

 なるほど。この時日本は岐路に立っていた、つまり重大な転換期にあったのだな。(と思わせるに十分な話のもっていきかたですね。さすが「物語」だ)。聖徳太子の登場を印象付ける効果となっています。

 (遣隋使を送り)、「隋の強大さを知った太子は、日本が独立した国家として発展するために、大陸からすぐれた文化や制度を取り入れる必要があると考えた」。太子は「まず国内の改革に着手した」が、「太子の政治の本当のねらいは、豪族の力をおさえ、儒教や仏教の教えをとりいれつつ、天皇を中心とした国家のしくみを整えることだった」 

 ちょっと長くなるのですが、我慢していただいて・・・(2度目の遣隋使が持っていった)「隋の皇帝にあてた手紙には、『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや』と書かれていた。太子は、手紙の文面で対等の立場を強調することで、隋に決して服属しないという決意を表明したのだった」  隋の皇帝は、皇帝の別名である天子という称号を日本の君主に使うのは許しがたいとして激怒した。しかし、「日本と高句麗が手を結ぶことをおそれて自重し、帰国する小野妹子に返礼の使者をつけた」

 翌年、3度目の遣隋使を派遣する時、手紙の文面をどうするかが問題となった。中国の皇帝の怒りをかった以上、また「天子」と書くわけにはいかない。しかし「倭王」に戻りたくはない。「そこで、このときの手紙には、『東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白す』と書かれた。皇帝の文字をさけることで 隋の立場に配慮しつつも、それに劣らない称号を使うことで、両国が対等であることを表明したのである。これが天皇という称号が使われた始まりとされる。日本の自立の姿勢を示す天皇の称号は、その後も使われ続け、とぎれることなく今日にいたっている」 (注意書きに「少しのちの天武天皇(在位673~686)の時代に天皇号が使われ始めたとする説もある」と書いています)。

 はあ(ため息)、「天皇」という称号が使われるようになったいきさつを説明するためにこんなにページを使ったのですね。

 他社ではどうか。

 帝国書院。「遣隋使」のところでは「中国との対等な国交をめざし、そのすすんだ政治のしくみや文化を取り入れようとしました。高句麗と対立していた 隋は、倭国(日本)との関係を重くみて、その願いを認めました。その後、政治や仏教を学ぶために、多くの留学生や留学僧が中国に渡りました」と書いています。

 「天皇」については、もっと後になってから欄外に「7世紀後半、天武天皇のころ、君主の称号が『大王』から『天皇』に改められました」と書いてあります。

 大阪書籍。「隋との対等の立場で国交を結んで、進んだ中国の文化を取り入れようとし、遣隋使を送って、政治制度や仏教を学ばせました。外交使節や留学生、・留学僧には渡来人が多く採用されました」

 「天皇」については、大化の改新の後に、「天武天皇は、天皇に権力を集中する国家の建設をおし進めました。このころに大王は天皇、倭は日本と名のるようになりました」とあります。

 日本書籍新社。「朝廷は遣隋使を送って、隋と対等の関係で国交を開こうとした」

 「天皇」の称号については、やはり大化の改新の後に、「天武天皇は、みずから政治をおこない、唐にならって律令にもとづく政治のしくみをつくろうとした。またこのころ、『大王は神である』と歌われ、天皇の称号が正式に使われるようになった」とあります。

 清水書院。「中国とは対等の関係をむすぼうと、小野妹子らを使節として隋に派遣し、留学生や僧も同行させた(遣隋使)」。

 天武天皇の説明の後に、「『日本』という国号や『天皇』という称号も天武天皇のころから使われはじめた」とあります。

 扶桑社以外のどの教科書にも、遣隋使をめぐる「天子」だの「皇帝」だの「天皇」だのという称号については一言も書かれていません。

 歴史学者は次のように言っています。

 近年の学説では、「天皇」号が成立するのは天武朝期とされており、この教科書(扶桑社版)の2001年版でも天武朝期に「天皇」号の成立が置かれていた。今回の叙述の変化は明らかに復古調の色彩を強めるものとなっている。第3回遣隋使の国書の文は、『日本書紀』推古16年9月条記載のものであって、中国史料で裏づけの取れない記述であり、『日本書紀』編纂時の改変の可能性を想定すれば、この記事をもって推古朝に「天皇」号が成立したとは到底言えない。
※他社本では、「天皇」号の成立は、通説とされる天武朝期に置かれており、推古朝期に始まるとする記述はみられない。
(『新しい歴史教科書』の問題点・歴史学研究会編より) 

9月14日(水) (えっ!「平和志向が扶桑社」ってほんと?)

 今日は8月12日の教育委員会での宮坂委員の発言を紹介します。(簡潔にまとめています)。

 「日本は和の精神を尊ぶということが流れとして国民の中にある。『五箇条の御誓文』には『万機公論に決すべし』ということばがあり、独裁を戒めている。これは聖徳太子『17条の憲法』にもうたわれている。17条『大事は一人定むべからず もろもろの議論をすべし』。清水書院は1条から3条と17条を載せている。他は1~3条のみ。扶桑社は全部載せている。全部載せる必要がないという意見があるかもしれないが、全部載せている。17条は「独裁はいかんよ」という意味。この精神が明治憲法から今の憲法に受け継がれている。

 10条「考え方の違いで人を怒ってはいけない。話し合って決めましょう」これは怒ることはやめましょうよ、という意味。平和志向が扶桑社。他の教科書が戦争賛美というわけではないが、日本の過去は戦争ばかりと書いている。日本は平和志向が強いと思う。日本の過去は他国に危害を及ぼしたことはない」

 それなのに宮坂委員は8月4日の国語の審議の際、「現代文につきましては、国語の教科書ですから平和の志向の強いものは避けるべきだと思う」と発言しているのです。(元はこちら)。どういうこと?

 扶桑社は平和志向なんでしょ? だったら扶桑社は避けるべきじゃないんですか?

 ここまで矛盾したことを言われると、何がなんだかわからなくなりますね。一体「平和」をどう思っているのですか?「他の教科書が戦争賛美というわけではないが、日本の過去は戦争ばかりと書いている」とまで言われると、むっときますね。これまでみてきたところですでに、扶桑社が一番戦争の記述が多くて長いんですよ。
「平和の志向の強いものは避けるべき」ということは、「戦争の志向の強いものを選ぶべき」ということです。扶桑社が一番戦争についてたくさん書いており、それを推していることからみても、どう考えても宮坂氏は「戦争志向」としか受け取れません。宮坂氏が自分でそう言っているのです。私、間違ってるでしょうか?

 ところで、日本人にとって最も身近な「聖徳太子」とは旧一万円札なのではないでしょうか。あの肖像画は「聖徳太子」だと信じていましたよね。ところが初めて知ったのですが、清水書院にはあの肖像画について「聖徳太子を描いたものではないとする説もあります」と書いてあったのです。帝国書院に載っている肖像画にも「聖徳太子と伝えられる肖像」とあります。なんだ、なんだ、いい加減なものです。あの肖像画を「聖徳太子」と信じ込んでいた自分が悪いのですが、信じ込ませたのはいったい誰?(責任転嫁してごめんなさい)。

11月8日(火) (立憲主義・元社会科教員Aさんより)

 『17条は「独裁はいかんよ」という意味。この精神が明治憲法から今の憲法に受け継がれている。』

 とんでもな発言です。日本国憲法は権力者はこの憲法に書いてあること以外はしてはダメというもの。17条憲法は官僚の道徳的訓戒を内容としたもので同じ「憲法」という言葉をつかっても指す内容はまったく違います。

 分かりやすく言うと日本国憲法を守るのは権力者(99条の中に国民はない)、17条憲法を守るのは官僚(天皇は守らなくてもよい)ということです。

>上記についてーー(私自身このことを学校で教わったのかどうか覚えておらず、最近の憲法論議の中で知った次第です・・・お恥ずかしいですが)
>大事なことなのでぜひ多くの人に知ってほしいです。(管理人の返事より)

 えーと立憲主義って言葉聞いたことありません? 「憲法を制定し、それに従って統治すること」言い換えれば権力者は憲法に書いてあること以外だめというのが立憲主義の意味です。

 そして、法律によっていくらでも制約できる憲法は立憲主義の形を取りながら実際は違うということで外見的立憲主義と言います。授業では「上の立憲主義は大切なんで覚えましょう。下の立憲主義は大日本帝国憲法の時、詳しくやります」といって伏線を張っておきます。

 私が教壇に立ってたときは「日本国憲法99条に国民が無いのはなぜだ」なんて話をして「日本史の知識は日本史だけでなく他の教科と結びつけて考えないとダメだ」という話に持っていき、「今憲法改正草案が出てるけど今までの学習内容と比較してどうか考えてください」なんていって、この話をしめるところです。

 生徒に考えさせるやりかたでは弱いのか。「自民党案は立憲主義もしらないトンデモ案だ」という結論までいかないとダメではこまったなあ(笑)  元社会科教員A

 すいません。無知な管理人でした。

9月15日(木) (扶桑社の描写に力が入るところは?)

 大変だけど、5冊の読み比べを続けます。

 おととい比べましたが、扶桑社は「天皇」の称号の由来について詳しく書いていましたね。2001年版では近年の歴史の学説に従い、天武天皇(在位673~686)の時に「天皇」号が成立したと書いていたのに、今回の改訂版で、わざわざ間違って608年(3回目の遣隋使の手紙)まで戻ってしまったのでした。不思議なことをするのですね。

 もう一つ。「歴史の言葉・中国の『皇帝』と日本の『天皇』」というコラムに、「『皇帝』という君主の称号は」「中国の歴代の王朝で使われた。周辺諸国は、皇帝から『王』の称号をあたえられることで、皇帝に服属した。日本も、かつて、『王』の称号を受けていたが、それをみずから『天皇』に変えた」「中国ではしばしば革命がおこり、王朝が交代した。それに対し、天皇の地位は、皇室の血すじにもとづいて、代々受けつがれた。皇帝は権力を一手ににぎっていたが、日本の天皇は、歴史上、権力からはなれている期間のほうが長かった。政治の実力者は時代によってかわったが、天皇にとってかわったものはいなかった。日本では、革命や王朝交代はおこらなかった」と書いています。

 なるほど。鎌倉幕府とか江戸幕府とかはあくまでも「政治の実力者」であって、その間も「万世一系」の「天皇」は代々引き継がれて京都にひきこもっていらしたのですものね。日本の天皇制というのはつくづく奥が深いのだ。でも他社でこんなことを書いている教科書はありません。

 さて、扶桑社が他社にないことをいろいろ書いている聖徳太子にこだわっていると、いつまでたっても先に進まないので、このへんで「大化の改新」に移ります。それぞれどんな表現をしているでしょうか?

 まず帝国書院。隋のことは「遣隋使」以外何も書いていません。

 「東アジアの変化とヤマト王権」の「東アジアの変化と大化の改新」のところに、「7世紀はじめ、中国では唐が大帝国を築き」、「朝鮮半島にも勢力を伸ばしました。このような情勢を受けて、倭国も国力を強めようとしました。聖徳太子の死後、蘇我氏の力がいっそう強くなったことに危機感をもった中大兄皇子(のちの天智天皇)は中臣鎌足(のち藤原鎌足)らとはかり、645年、蘇我氏をほろぼしました。そして中国にならった国づくりをめざして改革に着手しましたが(大化の改新)、その実現には、まだ時間が必要でした」(「改新」の中身は 何も書いていません)

 大阪書籍。「3.日本の古代国家の形成」の中の「中国・朝鮮の統一」に隋、唐のことや朝鮮のことが他社に比べ、詳しく書いてあります(1ページと3行使っています)。

 「大化の改新」のところに、「隋に代わった強大な唐に対しては、日本は、唐の制度の優れたところをとり入れて、唐に対抗する国力を高めようとしました。そこで遣唐使を送って国交を結ぶとともに、隋の時代から留学していた人々を帰国させ、唐の制度をもとに国づくりを実現しようとしました。唐にならって天皇家が主導権をもつ国家をつくるため、645年、中大兄皇子や中臣鎌足(のちの藤原鎌足)は蘇我氏をたおして政権をにぎりました」とあります。(以下「改新」の中身の記述は清水書院とほぼ同じ)

 日本書籍新社。「3.古代国家のあゆみ」の「蘇我氏と厩戸皇子が政治をおこなう」の初めに、「隋・唐の中国統一」があり、「中国では、7世紀はじめに隋にかわって唐が中国を統一し、強大な帝国を作った」と書いています。

 「大化の改新」のところには、「厩戸皇子(聖徳太子)の没後、蘇我氏の勢力はさらに強くなり、ほかの豪族も蘇我氏をおそれた。また、強大な帝国となった唐が朝鮮半島の諸国や日本に大きな影響をおよぼしはじめた。そこで、中大兄皇子や中臣(藤原)鎌足は、645年に蘇我入鹿とその父蝦夷をたおし、権力を集中する政治改革をおこなった」とあります。(以下は清水書院とほぼ同じ)

 清水書院。「3.律令国家の形成」の「聖徳太子の政治と大化の改新」の初めに「隋と唐の登場」があり、7世紀はじめに隋が唐に代わり、「周囲に領土を拡大して大帝国を築き(「世界をみる3」「8世紀の世界」に 、2ページを使って唐とイスラム帝国などについて説明しています)」~。「こうした強大国の出現は、朝鮮や日本など周辺諸国に大きな不安を与えた」とあります。

 「大化の改新」については、「(聖徳)太子の死後、蘇我氏がさらに強大になり、政治を支配するようになると、645年、中大兄皇子と中臣(のち藤原)鎌足が中心となって、蘇我氏を倒した。これは、強大な唐や朝鮮の動きに対抗して、日本でも天皇が直接政治をおこなうしくみをつくり、国力の強化をめざしたものである。そして、唐から帰国した留学生たちの最新の知識を生かして、新しい政治のしくみを考えはじめた。その方針は、天皇一族や豪族の土地と人民を国家のものとし(公地公民)、地方支配のしくみをあらため、人民に一定期間土地を分け、新しい税をとることであった。また、中国にならってはじめて年号を定め、「大化」とした。これら一連の改革を大化の改新という」 とてもわかりやすいです。

 扶桑社を読んでいきます。「10.大化の改新」の最初の「7世紀のアジア」には、「7世紀の中ごろになると、国力をつけた唐は、対立する高句麗を攻撃した。朝鮮半島の3国に緊張が走り、日本も危機に備えて国家の体制を強化しなければならなくなった」 とあります。他社に比べ、「物語」調ですね。

 次、「蘇我氏の横暴」 「ところが、聖徳太子が亡くなったのち、蘇我氏の一族が横暴をきわめるようになった。蘇我馬子の子の蝦夷は、天皇のようにふるまい、自分の息子をすべて王子とよばせた。蝦夷の子の入鹿も、聖徳太子の長男の山背大兄王をはじめ、大使の一族を一人残らず死に追いやった」。この後も蘇我氏が滅亡するまでを長く物語調で説明しています。「大化の改新」と合わせて22行。他社は6行から12行です。
扶桑社はどうも、こういう「誰かが誰かを倒す」というところになると描写に力が入り、物語調になるようです。蘇我氏の滅亡についてはすでに他社より10行以上多いのに、、さらに「歴史の名場面」として「蘇我氏の滅亡」の物語を詳しく載せています。これって何ていう古文書に書いてあるのかな。出典を知りたいです。この中にある「蘇我入鹿、斬られる」という絵には十二単の女性がいるのだけれど、十二単って確か平安時代じゃなかったっけ? この時代にもあったんですかね?

 あと気がつくのは、「大化元年」について、「東アジアで、中国の王朝が定めたものとは異なる、独自の年号を定めて使用し続けた国は日本だけだった」。「大化の改新」について、「天皇と臣下の区別を明らかにして、日本独自の国家の秩序を打ち立てようとしたものだった」。他社はどれもこんなことは言っていません。

 今でも「平成」って使ってますよね。わお、これって「大化」からつながってたのか。今、初めて知った。(←これは間違いでした。教育出版に「年号(元号)が継続して用いられるようになるのは、大宝律令が制定された701年からである」という明確な記述がありました)

 でもすっごい不便。私はいつも、役所の文書などにもともと書いてある「平成」を消して、西暦で書いています。だって、役所の文書でくらいしか使わない「平成」何年なんて覚えられないし(覚える気がないからですが)、「昭和」とごっちゃになると計算があまりに大変なんですよ!(母は自分の誕生年を「昭和」でしか覚えておらず、ぼけ始めて自分の年齢がわからなくなり、今が「昭和」何年かを計算し、そこから誕生年を引いてやっと自分の年齢がわかる)

 「平成」は世界に通用せず、役所だって世界に発信する時は必ず西暦を使っていますよね。このことって「つくる会」の自国中心の独善主義を象徴していませんか? 日本国内でしか通用しない「平成」なんかにこだわるってすっごく幼稚。第一、「つくる会」の立場に立ってあげたとしても、「平成」にこだわったって「天皇」を崇拝する人が増えるわけでもなんでもない。

 そういえば今日の区議会の松浦芳子区議の質問もおかしかった。南京大虐殺(とは言ってなかったけど)で殺された中国人の数が20万じゃなくてたしか5万だとか言ってた。これっていろいろ散らかして「片付けなさい」と叱られた小学校低学年の子どもが「オレ、これしかやってない。後は何々ちゃんだ」とか弁解するのと同じレベルじゃない? だいたい加害者が弁解がましくこんなこと言うなんて仁義にもとる。

 松浦区議は最後には「南京事件は本当にあったかどうかもわからない」と言っていました。そして最後の最後には「南京事件はなかった」と断言していました。だったらなぜ犠牲者は20万じゃなくて5万だったとか言うのかな?

 第一、殺したということは人数の問題じゃない。何百万人でもたったひとりでも、殺せば同じこと。だってその「たったひとり」は誰かにとっては「その人がすべて」なのだから。
 
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by lumokurago | 2011-07-06 13:20 | 中学校歴史教科書8冊の読み比べ
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