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『負けるな子どもたち』の感想 その1

『負けるな子どもたち』 切れ切れの<感想>  山岸光人 1990年5月

 何年かまえ、夏休みあけに子どもたちがつぎつぎと自殺したことがあった。マスコミは連日この問題をとりあげ、自殺の原因やら背景やらをそのすじの専門家や教育関係者のコメントとともに特集したりしていたのですが・・・そのなかで稲村なにがしという某大学の教授(「登校拒否」だとか「子どもの自殺」だとかの本がある)が、「どうしようもなくなったら、身近な大人にでも電話するようにすればいい」(正確ではないけどこんな内容)と発言していた。ぼくはこれを読んで「ドーゾ、ワタクシニデンワシテクダサイ」というある健康器具の宣伝を思い出した。

 稲村なにがしは自身が、電話をとおした「子どもとの相談」みたいなことをやっているから、コメントを求められてこういう発言になったのだと思うが、子どもたちが「死」へと自分を押しやっていかざるをえない<切実さ>に<死>を内化してしまった子どもは、電話などをそういう大人にするのだろうか? という疑問がいまでも離れない。おそらく、<子どもの変貌>―校内暴力・登校拒否・子どもの死など―に対する現実的な社会の対応力というのは、この程度のものになっているのだと思う。

 さて、『負けるな子どもたち』を読んでいて思ったのは、こういう<子どもの変貌>と<社会の対応力の無化>のなかで、とまどい、あせり、いらつき、しかしなおも子どもにまっすぐに関わっていこうという渡辺さん(というか、学校、教育関係の現場のガンバッテイル人たち)の大変さと子どもたちの「もうひとつの顔」というもののナゾであった。

 ――(引用)初めて「オニ」といわれた時は、正直いって驚いた。だって、私は前にいたクラブでは「やさしい」としか言われたことがなかったし、そんなにおそろしくおこっているという自覚もなかった。(略)なんでそんなにこわがられるのか不思議であったが、そんなことを気にするたちでもなく(略)適当にふざけて「オニ」の役をやってみせてきた。/ でも、おやつや弁当の時、私がひとつのテーブルにすわるとそのテーブルの子が「オニが来た」と言って、私から体を遠ざけたり、「あっちへ行ってよ」などと言った時はまいった。だけどこれは<ゲーム>なのだろうか?

 その後、異動したもうひとつの学童クラブで、私は「ルンペン」というあだ名をつけられ「オニ」の時とそっくりな体験をした。/ なぜ「ルンペン」なのかというと、私がよく子どもたちに「食べ物を大切に」「物を大切に」と言っていて、私がそういうと子どもは「ビンボー」と言ってはやしたて、「ビンボー」が「ルンペン」のイメージに結びついたため(略)と思われる。/ 「オニ」「ルンペン」には、排除すべき要素と、こわいもの見たさでこころひかれる要素とが両方備わっていて、自分の都合のよいように、その時々で使い分けられる。それは人との<関係>をも<ゲーム>にしてしまう今の子どもにとって、ぴったりのキャラクターである。――

 新聞や雑誌の、この本の紹介には、この「オニ」「ルンペン」の話がよくとりあげられていたから、簡単に抜き書きしてみた。渡辺さんも言っているように「オニ」「ルンペン」には、子どものなかで両義的な意味で無意識に使われている。ぼくも、学童の子どもと接したとき、「このトンマなおっさんヨー」と無前提に呼びかけられたことがある。「コノヤロー」と思ったが、「トンマなんていっちゃだめだよ」と軽くたしなめた。こんな言葉づかいを、ぼくも子どもの頃していたのであろうか? 先生や大人や目上の人にこんな感じで接していたであろうか? どうも違うような気がする。仲間同士ではそういうことがあっただろうけど、先生や大人や目上の人には、どんなに親しくなってもこういう感じではなかった。

 ここが、今の子どもたちをみていて「ナゾ」と浮き上がってくるところである。ぼくの子どもの頃は、目に見えない<社会性>というか、「社会的な規制力」というか「社会的な抑止力」というのがどこかで働いていた。いい、悪いは抜きにして「社会道徳」というもので、それは公的に存在していた。「目上の人には言葉づかいは丁寧に」とか「物は大切に」とか「お年寄りにはやさしく」とか・・・もろもろの生活のなかで無意識に受容していったのだと思う。だがこのごろはそういう<社会性>というものは、いいものも、悪いものもすべてひっくるめてどこかへ押しやられてしまったような気がする。ぼくは道徳主義者じゃないから、それはそれでしかたがないかなとも思うけど、そう思うこころのどこかでどす黒い不安がある。
 
 たとえば、渡辺さんは、べつのところでこういうことも言っている。

――今の子どもたちは、「みんな」とほんの少しでも違うところのある者を見つけて「仲間はずれ」とからかったり、排除することによって、自分は「みんな」の側に属しているのだということを確かめて安心するという傾向が強い。人間はひとりひとり違うもので、その違いこそが尊重されるべきであるはずなのに、きっと今の子どもたちは、みんなそれぞれ違う価値をもつ存在なのだということが認められる場がないのだろう。かわりに、みんなと同じであることをよしとする社会や教育によって、みんなと違う者を排除することに敏感になってしまっている。――

 今の子どもたちは「戦後民主主義」の、まるごとの受容者である。生まれたときから<平等>というもので縛られて育つ。一方、学校教育は「試験―成績―評価」というもので、強固な価値の画一化と序列化を完成させてしまった。このふたつが結びつけば、「試験―成績―評価」というものが<平等>というものの最低ラインにすえられてしまうだろう。「頭は悪いけど、体育はすごい」とか「学校ではダメだけど、帰って遊びになると天才的だ」とかは、昔のように価値としては子どもたちも社会も<受け入れ>なくなっている。「教育の機会均等」という「戦後民主主義」の崇高な概念は、子どもの道筋を細かい網の目のような価値(「試験―成績―評価」)に押しやってしまっているのかもしれない。そのなかで子どもたちは、渡辺さんのいうように「みんなと違う者を排除することに敏感に」ならざるをえないのかもしれない。『負けるな子どもたち』を読んで、こんなことを漠然と考えたのでした。ハイ。

 参考 「オニ」のつぶやき

by lumokurago | 2011-08-08 17:04 | 子ども・教育
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