暗川  


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『負けるな子どもたち』 講演

 日野の保護者グループでの講演要旨です。1990年5月

 今日は「子どもたちと共に育ち合う」ということをテーマにお母さんお父さん方と話し合うという会ですが、私は約15年間学童保育という学校でもない、家庭でもない、主に遊びを中心として子どもたちとつきあうという場所で仕事を続けてきて、感じていることをお話したいと思います。

 私は本の中に詳しく書いたのですが、ここ10年ぐらいの間に子どもが変わってきたということを強く感じています。子どもが変わってきたということは赤ちゃんで生まれてきた時に、もうその持って生まれた本質が変わったということではないので、結局は社会が変わってきたということになると思います。

 子どもがどういうふうに変わってきたのかというと、一言でいってしまうなら、いつも不安感を心いっぱいに抱えている、その不安感がいったい何なのか、はっきりこうとはいえないのですが、自分がかけがえのない存在であることを信じきれないでいるのではないかという気がするのです。私たちが子どもだった頃は、子どもというのは今日生きているということだけで満たされていて、もちろんそのなかには喜びだけでなく悲しみもあったわけですが、家族がいて一緒にあたたかいごはんを食べ、暖かい布団で眠れば特に不安なこともなくごく自然に育っていったものだと思うのです。ところが今はそういうことだけでは満足できない。

 その理由としては、ひとつには子どもがまるで大人のサラリーマンのように、いやもしかしたらそれ以上に忙しいということがあると思います。私は幼児期のことはよくは知らないのですが、児童館に来る3歳ぐらいの子を見ているともう、週に何回もスイミングなどのおけいこごとに通っている子が少なくありません。小学校に入学すれば、学校は10年前よりもずっと長い時間子どもを拘束しています。勉強の中身もずっとむずかしくなっています。おけいこごとや塾に通う子が10年前とは比べ物にならないくらい増え、また低年齢化しています。子どもの自由時間は圧倒的に少なくなりました。

 忙しいとは心を失うと書きます。お母さん方も忙しいといらいらしてつい子どもに当たったり、心が荒れてしまうことを感じられると思います。ミヒャエル・エンデの『モモ』をお読みになった方も多いと思いますが、あの作品には忙しいということがどんなに人間の心を荒廃させてしまうかが描かれています。忙しいと自由な発想が押さえこまれ、課題をこなすだけでせいいっぱいになって、さらには課題を与えられないと何もできない自主性のない人間を作っていきます。そしてそうなってしまった人間は課題を与えられることを望み、自ら管理されることを望むようになります。今の子どもたちは、いいえ、大人たちも同じですが、このような状態に近いと思います。もう6、7年前の話ですが、うるさくして話を聞かない子どもたちを怒鳴ったら、「静かにさせたいなら笛を吹けばいい」と言われたことがあります。

 学童クラブではもう何年もの間、子どもたちが遊べなくなったということを感じさせられています。遊べないというのがどんな状態なのかと言うと、私がこの仕事に就いた頃の子どもたちは自分たちで話し合って、たとえばおやつの時間などに上級生が「今日は何して遊ぶ?」とみんなに聞き、ドッジボールとかラケットベースとかけいどろとかその日遊ぶものを決め、おやつが終わるとほとんど全員でひとつの遊びをしていました。大人の手など何もいらないのです。私にも入ってほしければ、早く遊ぼうと言っておやつのお皿を洗ったりするのを手伝っていました。下級生には上級生が遊びを教え、失敗しても大目に見たり手加減していました。ほんとに大人は何もすることがなかったと言ってもいいと思います。

 ところが今はひとりの子がたとえばドッジボールやりたいと言ってきて、「じゃあ仲間を集めてよ」と言っても自分ではできず、大人が声をかけてまわってやる子を集め、組み分けをするのも強い子同士が同じ組になりたがって、力が違いすぎるとおもしろくないことをその子たちに説得している間に他の子はバラバラになってしまい、またまた大声を出して集め、やっとのことで組み分けをして始めても、大人が電話などにでて戻ってみるともう誰もいないのです。下級生に対してもへまをすればすぐにけなす言葉が飛びます。自分が遊ぶことでせいいっぱいなので他者に対して思いやる余裕がないのです。

 「仲間と遊ぶ」ということは非常に自主性が要求されることだと思います。大人の手を借りない子どもだけの自由な時間の中で、子どもはどうやったら仲間と仲良く遊べるのかということを学んでいくのだと思います。けんかしながらその解決の方法を学んでいくのだと思います。そして何より、自由な時間のなかでこそ、自分のやりたいことをみつけていくのだと思います。時間がなければやりたいことをみつける暇もありません。友だちと仲良くする暇もありません。

 友だちと仲良くする暇もない今の子どもたちは、人と関係を作ることが非常に苦手だと思います。表面は明るくギャグばかり言っています。今、子どもたちの中では「暗い」ということは罪悪のようになっています。いつもいつも騒がしく、人の「受け」ばかりねらっているような子どもたちです。受けをねらい笑ってもらうことで、自分が仲間はずれにされていないことに安心しているようなところがあります。今の子どもたちは「みんなと同じ」であることに非常に敏感でちょっとでもみんなと違うところのある子をからかったり、仲間はずれにしたりする傾向が強いのです。そうやって誰かを仲間はずれにして、自分が「みんな」の側に属していることを確かめ、安心しようとしているのです。

 先ほどお話ししましたように、今の子どもたちの心の中は不安でいっぱいです。だから明るくギャグばかり言って、笑ってもらおうとするのです。「暗く」なったら自分の不安が見えてしまう、それがこわいのだと思います。しかし、本当の自分を隠していたのでは人との関係は作れない。自分の本当の思いを打ち明け、相手にわかってほしいと思い、自分も相手の本当の気持ちを知りたいと思うところからしか、関係は作れないのですから。今の子どもたちは不安な自分の心を押し隠して、表面だけ明るい、おもしろいことだけが価値があるとするかのような、まるでゲームのような関係の中で生きています。

 話は少し変わりますが、今の子どもたちが自分の存在をかけがえのないものだと感じられない、そのことにはこのように物があふれた日本の社会が大きく影響していると思います。物がたくさんありすぎるということは、どうしても人間の感性を鈍くしていると思うのです。たとえば、物がそれほどなかったときには自分のことだけ考えずに、相手のことを思いやっておやつを分け合ったり、おもちゃを貸し借りして一緒に使ったり、大事なものをなくせば心からの悲しみを感じたり、物をもらえば心からありがたいと思ったり、そういう人間的な感情が豊かだったと思うのです。

 今は食べ物はいくらでもあるから分け合う必要もありません。自分がおなかがすけば食べるのは当たり前で、おかあさんがおなかがすけば食べるのが当たり前、なにしろ食べ物はいくらだってあるのだから遠慮なんかする必要もないし、分けてあげる必要がないのだから相手がおなかをすかせていることなんかに思いをめぐらせる必要もない。何かをなくしてもまたすぐ買ってもらえるから悲しみなんか感じません。物をもらってうれしいのはその時だけ、物を手に入れた次の瞬間にはもう次にほしいもののことを考えているのです。だってこんなに物がたくさんあるのだから、今更もらったってありがたみなんかありません。わたしの本当にほしいものは「物」なんかじゃないんだよお! 子どもたちはそんなふうに叫んでいるのではないでしょうか。

 私たちは子どもに物に不自由させたくない、他の子が持っているなら自分の子にひけめを感じさせたくないから買ってやる、そう思って物を与え過ぎていないでしょうか。物がたくさんありすぎることはどうしても心を貧しくさせます。人間にとって大切なものは目に見えないからです。目に見える「物」は心の目を曇らせます。それから私たちは子どもをできるだけいい環境の中で育てたいという願いを持っています。しかし一方では何事にも負けない強い人間になってほしいとも思っています。その二つのことは実は、矛盾しているのです。何不自由ない環境で育てられた子どもが、逆境に強く立ち向かっていくような力を身につけるとは思えません。子どもの頃からときにはつらいこともあって、そこから学ぶことで逆境に立ち向かう力を身につけていくのです。順境の中で育った子どもはひよわなモヤシと同じです。そんなことを今、考える必要があるのではないでしょうか。子どもが転びそうな石があれば、先回りして取り除いてやる、子どもの将来を考えて塾に通わせる、そんなことは親の自己満足にすぎないのだとあえて言います。子どもは自分のことは自分で学び考えながら生きていくのです。子どもをもっと自由にしてほしいと、そのことだけを私は願っています。子どもが自分で学び、考える時間を与えてほしいのです。

 初めに子どもたちが変わってきたのは今の社会の影響だと言いました。そのことについて最後に言いたいと思います。今の日本の社会は経済至上主義です。金がもうかることだけが価値とされています。そのために競争社会があり、効率だけが物差しとされています。そのために私たちは非効率的な人たち、たとえば障害者を排除しています。競争のために勉強ができない子どもたちを学校は切り捨て、その子たちを傷つけています。いいえ、ごく普通の子どもたちも競争社会のために心をずたずたに傷つけられています。人間はひとり残らずその人にしかない大切なものを持っている。私はそのことを今でも当たり前に思っています。しかし社会ではそんなことはとても通らない。そんな社会は間違っているのではないでしょうか。大切なものは物じゃない、金じゃない、人間の心です。人と人とが気持を通い合わせることのできるやさしさです。ひとりひとりが大切にされる社会です。

 三分の一の子どもたちが核戦争が起こるのではないかと不安に思っているという調査があります。私たち、大人はそんな子もたちの不安に対して何をしているのでしょうか。核戦争に対する不安や第三世界の飢餓や地球そのものが破滅するかもしれない環境破壊に対して、いったい何をしているのでしょうか。何もせずに物を消費して浮かれているのです。いいえ、本当は私たちの心の奥にある不安に目をつぶり、その日ぐらしの生活をしているのです。子どもたちと共に育ち合う、そのためには自分の子どもの将来を自分勝手に決めるのではなく、今、大人として目をひらいて地球そのものと共に生きることを考えなければならないと思います。
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by lumokurago | 2011-08-12 17:17 | 子ども・教育
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