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『ガダルカナル』あとがき

 『ガダルカナル』あとがき 五味川純平  1980年6月

 最近防衛論が盛んになっていす。いままで防衛問題そのものが選挙の争点になることなどほとんどなかったのに、今年はそれが重要テーマになっている。アメリカから日本の軍事費の増額、したがって当然に軍事力の増強を公然と求められてから、さながらお墨付きを頂戴したかのようなはしゃぎぶりである。私はここで防衛問題を論ずるつもりはないが、たまたまいままでに行われている防衛論が、38年前のガダルカナル作戦と根本的に同質の欠陥を含んでいるので、ひどく気になるのである。

 自分の国を自分で護るのは当然だからといって、徒に仮想敵を想定し、その仮想敵からの侵略の可能性を宣伝して、防衛意識を煽るのは危険であり、有害である。日本が想定する仮想敵は、昔も今も変わりはなく、いまでは世界の二つの軍事的超大国と謂われる国の一つである。私は日本が平和政策に徹していて、紛争解決を武力に依存しようとしたり、他国間の紛争にしても何れか一方に軍事的にくみすることがない限り、外国から侵攻されることはないと判断しているが、防衛増強論者が使いたがる論法、もし万一侵攻されたら、ということが、現実的にではなく、想像的、論理的にはありうるので、次のように言っておく必要がある。侵攻があり得るとして、その場合、日本がどれだけの軍備をすれば、軍事的超大国からの想像的・論理的にはあり得る侵攻に対して、自分の国を自分で護ることが出来るというのであろうか。それが出来ないから日米安保体制を堅持するのだという論法に自主防衛は直ぐ席を譲ってしまうが、何処の国が他国のために莫大な軍事費を使い、血を流してくれると信じられるか。それが信じられないから、際限もない軍備拡張を行って、軍事大国への道を歩むのだとは、いまのところ防衛力増強論者も言いかねているのが本音であろう。

 だた、私がここでガダルカナルとの関連において言いたいのは、そのことではない。他国からの侵攻に対する 防衛戦争が想像的・論理的にあり得ると想定するのなら、日本を構成する4つの島全体がガダルカナルと同様の運命に陥ることがあり得ることも、想像的・論理的に想定されなければならない、ということである。

 周知の通り、日本はエネルギー政策一つ満足には立っていない。所要石油のほとんど全部に近い量を海外に依存している。食糧も所要量の約60%を輸入に依存している。それでいて稲作の減反など、食糧自給とは逆行する農業政策をとりつづけている。家畜〈禽〉資料までを食糧に含めれば、全所要量の80%を海外に依存しなければ、日本は生存できなくなっているのである。食糧と石油は、日本にとっては、核兵器同様に、致命的な戦略兵器になってしまっていると言っても過言ではない。

 食糧がなく、燃料もなく、軍備だけがあって、どれだけ自分の国を自分で護るというのであるか。他国からの侵攻が想像的・論理的にあり得るとしたら、そのときには、食糧の輸入も燃料の輸入も断たれていることが、想像的・論理的に予想されなければならない。厖大な輸入物資を運ぶ船舶のための海上護衛戦など、これは想像的・論理的にさえ不可能である。輸送船の上空直掩などなおさら出来ない。斯くして、日本列島は、本文に述べたガ島戦の惨状を量質ともに拡大深刻化して再現することにならざるを得ない。

 日本の軍事専門家は、昔も今も、局部的戦闘だけを問題にして、戦争を組織する後方一般に周密な思慮をめぐらすことをほとんどしない。後方を考えたら、戦争などとても出来ない条件が、あまりに沢山あるからかもしれない。

 かつて日本軍は、ノモンハン(昭和14年)でも、ガダルカナルやニューギニアその他太平洋戦域の各地でも、戦闘に際しては、確かに勇猛果敢であり得たが、戦争を組織する作戦家たちや、彼らを支持する政治家たちは、戦争組織の事務段階で粗雑であり、希望的予断に陥って思考的に未熟であった。戦力諸元の調整と準備と集中がほとんどいつも不十分であり、いつも齟齬を障子、不足を来し、ために戦闘を不如意に陥らしめた。自国の矮小の規模においてしか敵の力量を測定せず、将兵の武勇のみを盲目的に過大評価して、敵の戦意と戦力を下算し、結果として惨憺たる敗北を喫した適例が、ガダルカナルでありニューギニアであった。敵の強靭な戦意と戦力に気づいたときには、もはや火砲も弾薬も、食糧さえも揚陸不如意に陥っていたことは、本文で再三指摘した通りである。端的に言って、戦争を科学的に構想し得る軍人も政治家も、かつての日本には必要額だけ育っていなかった。現在もそうとしか思えない。何故なら、防衛問題が軍事的側面においてしか捉えられていないからである。現在の自衛隊も思考においては本質的に昔の日本軍の欠陥を、ほとんどそっくりそのまま受けついでいる。たとえば、自衛隊は、日本の備蓄石油の半分をまわしてくれれば1年半ほど戦えるなどと言っているそうである。これなど自衛隊のみあって国民生活など全く度外視していることの表れであり、自衛隊は国民のものではないことをみずから暴露したものである。自衛隊が計算上は1年や1年半ほど戦えるとしても、国民生活と生産は、燃料や原料の補給の保障がなく、僅少な石油備蓄の半分だけで如何にして成り立つのか。つまり、国民生活の破綻は自衛隊の破綻でもあることを、自衛隊は考えたくないから考えないのである。食糧事情からも、救い難い破綻が、もっと陰惨な形をとって現われることになる。昔の国軍も、開戦の前夜段階から、日本の国力に関して、悲劇的な結論が導き出されることを嫌って、考えたくないことは考えなかった。そのことは、開戦決定までの御前会議を辿ってみれば明らかである。

 ガダルカナルやニューギニアの戦訓は、40年近く経っても生きている。日本は職業的軍隊を作って、それが武器をとって戦えるような国には出来ていないのだ。軍隊が重武装したからといって護れるような国ではないのである。今日日本人は日本が経済大国にのし上がったことを誇っている。実はこの経済大国、先に述べたように石油の面からいっても、食糧の面からみても、膨らむだけ膨らませた風船玉のような「経済大国」でしかないのだが、形の上だけのことにもせよ、とにかくここまで来たのも、敗戦後軍備に金を使わず、もっぱら経済再建にいそしんできたからにほかならない。それが、重要資源も食糧も自給率のきわめて高い真の経済大国であるかのような尊大な錯覚を起こして、軍備による防衛などと主張しだすと、日本4島はガダルカナルの悲劇をみずから拡大する途を選択するにひとしいことになる。

 軍備が強大であるからといって、国家も民族も尊敬されはしない。まして、愛されることはない。「万一」犯されれば、民衆がこぞって抵抗に起ち上がる。その決意と気概が民族の威厳を保つのである。

 現在の防衛力増強論者は、斯く斯くの施策をもってすれば、日本がガダルカナルの戦史が遺した悲劇を繰り返す懼れはないという物的証拠を明示したうえで、増強論を唱えるべきである。先のオイル・ショックのとき、たかがトイレットペーパーで大騒ぎをした日本人の醜態は、まだ世人の記憶に残っているはずである。食糧の輸入や石油の輸入を、謂わば累卵の危うきに置いたままにして、防衛力増強論者は彼らが好んで言う「万一」のときに、破滅的事態を如何にするつもりなのか。補給を断たれた場合には備蓄に依存し得る機関など僅少であることは明白であるにもかかわらず、それには一切触れずに、防衛力の増強を煽って国民を惑わすのは、無責任である。

 同時に、一定の戦力(一定という概念はきわめて不確定だが)を持つことが、他国の侵攻に対する抑止力になるという論法は、40年前の日本自身の行動に鑑みれば、虚しい迷信に過ぎないと知るべきである。当時、日本は、世界の兵器廠をもって自認していた米国に対して戦争を仕掛けた。あのころ、石油備蓄が600万トンしかなく、仏印(ベトナム)産米七百万石を捕らなければ食糧の需給調整が出来ず、戦略重要物資の生産高の比較が米日の間で74対1でしかなかった、国力衰弱が誰の目にも明らかであった日本がである。つまり、戦力を持つことは、それ自体では侵略に対する抑止力にはならないことを、日本はみずから証明したのである。

 日本人は、よくよく、失敗の教訓を教訓とはしたがらないらしく見える。軍人や政治家が特にそうである。ノモンハンからガダルカナルまでちょうど3年、ノモンハンでしたたかな実物教育をくらいながら、ガダルカナルではより深刻な用兵の失敗を繰り返した。40年近く経って、まだその認識と反省がないのはどうしたことであろうか。ガダルカナルやニューギニアで餓死した夥しい壮丁は、40年後、祖国の進路の選択に関して、何も言うことは出来ない。実際には、彼らを餓死せしめた罪の一端を負うべき者が、現在の日本の進路の決定にあずかっていたにもかかわらず、死者は永遠の沈黙を強いられたままである。

 (中略)

 追記
 あとがきを書き終わったとき、選挙史上初の衆参同時選挙の開票の最中であった。結果として、自民党が衆参両院で圧倒的多数の議席を獲得した。選挙戦最中の大平首相の突然の死が劇的な作用を及ぼしたという側面はあったにしても、あれだけ自民党の金権腐敗体質が批判の対象となっていたにもかかわらず、選挙民の意志表示は、政治が汚れていようが腐っていようがかまわない、ということを数字で示したのである。これで、80年代初頭からの数年間に日本が著しく右偏向することが明らかになったといえるであろう。

 それと符節を合わせるかのように、6月25日の新聞(毎日新聞夕刊)は、米国政府専門家グループによって作成された報告書が、日本の今後の防衛力拡大で「核武装選択ありうる」と明記していると報じた。日本の軍事力拡大論者は、これでますます勢いづいて、国民が軽率に自民党に圧倒的多数の議席を与えて一党独裁を許して機関に、日本を「軍事大国」の道へ意気揚々と推進することになるであろう。その過程で負担と犠牲を強いられるのは、ほかならぬ国民だが、具体的にそうなるまで、国民の過半数は、1980年6月の自分たちの政治選択の意味を知ることはないのかもしれない。
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by lumokurago | 2011-09-16 15:46 | 平和
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