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Oさんとの対話より 【「つづき」を加えました】

 昔の手紙を読み返していたら、ここに掲載して残しておきたいものをまた発見しました(いま、読み返してはかたっぱしから処分しています)。

映画『シベールの日曜日』をめぐって

Oさんへ     渡辺容子  1985.1.29

 (前略)

 『シベールの日曜日』をみました。秩序からはみ出した者たちは「掟に従って追放される」(吉本隆明)ことを、こうまで美しい映像でまざまざと見せつけられると、もう本当にまいってしまう思いです。かなしみが深く心に突き刺さり、新宿の雑踏のなかを歩きながら、どうしようもないいたみと、やりばのないせつなさに、ようやく涙をこらえていました。

 そして「(ピエールがシベールを)殺してしまえばよかったのに・・・」とつぶやきながら、シベールがシベールであり、ピエールがピエールであった日曜日の時間は、どうしてあんなに美しいのだろう、どうしてあんなにはかなく消し去られてしまわなければならないのだろうと、あらためて彼らを消し去った“秩序”という巨大な力に静かな、しかし荒々しい怒りが湧き上がってくるのでした。

 『俺たちに明日はない』『ひとりぼっちの青春』でも、『シベールの日曜日』でも、そしてより露骨な形での『カッコーの巣の上』でも、私たちが与えられた仮の<名まえ>を放棄して、本当の<名まえ>を得たとき、得ようとするとき、私たちは必ず“秩序”によって抹殺される。

 『シベールの日曜日』は特に、本当の<名まえ>が“愛”を媒介として得られるものと描かれているから、せつなさが一層深い。そして、シベールを<子ども>として設定させているために、その言葉がストレートで“愛”を凝縮させているから、よけいに深く伝わってくる。そういう意味で非常にすぐれた作品だと思います。

 一方、ピエールは大人ですが、しかし、記憶喪失という、今のところ本当の<名まえ>も仮の<名まえ>ももたない、というか、本当のにしろ仮のにしろ<名まえ>というものを捜さざるを得ない状況にあるため、非常に感受性が鋭く、しかもやわらかくなっている存在として設定されていて、だからこそ、シベールと共感し合えたというところに、象徴的な意味があると思います。仮の<名まえ>の世界に安住している世の大人たちにはわかり得ないものであるということに。でも、ピエールを理解する(しようとする)恋人と友人(彫刻家)には、ピエールとシベールの世界がわかるのです。自分たちは彼らとは違うにせよ。そのことが救いといえば救いでした。

 秩序に抹殺される者たちの世界を、このように透明な美しい世界として描いていると、秩序に対する怒りもせつないまでの切実さをもって、心の底からふくれあがってくるので、本当に胸を打つものになり得ていると思います。

 ≪ノートその11≫(注:≪ノート≫はOさんが書きつづけていた文章)は、Oさんの文体に慣れたためか、非常に読みやすく、一言一句がスーッと心に入ってくるものでした。

――にんげんはただ、与えられた仮の<名まえ>と、それはほんとうの自分の<名まえ>ではないというかすかな思いに引き裂かれて生きつづけている存在であること
――反秩序の世界というものは、秩序の世界に被われて、秩序の世界から視えなくなっているものを視ることのできる、想像力とでもいっていいような<眼>の彼方にはじめてあるものだと思える。
――自己は大切にされたり、守られたりすることによっては、何らにんげんへの重い<問い>の契機には決してなりえない。自己は<時代>の病がのぞける裂け目として、ただいつもひっそり息づいているだけである。
――<伝達>の領域では、ひとりの存在の孤立からあふれてくるものが、病んだ<時代>性と共鳴して、個別性を越えて他の同様に孤立を強いられている存在を撃ち、また結合することがあるのだということだけが、切迫した唯一の問題なのであるということだろう。

 Oさんの言うところの“仮の<名まえ>”とは、私が『BURST』(注:私のはじめての個人通信)の初期に使っていた<役割>という言葉と共通するものだと思います。私たちは、いろいろな場でその場その場での<役割>を与えられ、それを演じることを要求されています。そして、その<役割>をこなしていれば、事は無事に過ぎていく。でも、そのどれもが本当の自分(<名まえ>)とは違うような気がする。「引き裂かれて」いる。その「引き裂かれ」た自己が、遠くこの秩序の世界からはなれたところにある、本当の自分(<名まえ>)を見つめようとしている。そこに秩序の世界に生きていながら、そこからあふれだしてしまう存在が生まれるのだと思います。

 私は以前、高井戸学童クラブで出していた保護者向け通信『ユーカリ』で、「ひとりの人間として」という言葉を多用していました。「ひとりの人間として」とは、「学童クラブ職員として」「公務員として」「大人として」ではない、本当の<名まえ>を見通す者として、という意味にここではおきかえられると思います。(余談ですが、私は去年組んでいた相手(同僚)に「『ユーカリ』のような通信をだすなんて、公務員として『政治的中立』を守っていないと言われたのですよ。『ユーカリ』には『政治』などいっさい出てこなかったのに。つまり彼女にとって自分の意見を表明することは『中立』ではないのでしょう)。

 <名まえ>ということで思い出すのは『ゲド戦機』です。第一部『影との戦い』でゲドは「引き裂かれた」自己を統一します。第二部『こわれた指輪』でテナーという少女が本当の<名まえ>をとりもどします。もし、まだおよみになっていらっしゃらないなら、ご一読を。岩波少年少女の本です。

 
Oさんより渡辺へ 1985.2.8

 先月の3通の便りをありがたく受けとっています。正確には便りを受けとる一般的なうれしさを越えて、感謝のきもちなしでは受けとれないものとして、ぼくにつきささってきているといわなくてはならないのかもしれません。

 それは、渡辺さんの3通の便りがぼくの≪ノート≫と交差する位相で対話しはじめようとしているからだと思えています。もちろん≪ノート≫のことなどはどうでもよいことで、重要なのはその位相だと思います。つまり渡辺さんは≪ノート≫と交差することで、実は≪ノート≫を押し出しているぼくの捉われる存在の<不安>性と交差しようとしていると思うのです。

 ≪ノート≫でも繰り返し、いろいろなかたちで言ってきたことですが(誤解を恐れずに言えば)、ぼくは完結した個人の営み(さらにいえば、ほんとうはそうしたものがありうるのかさえ疑問ですが)には関心がありません。それは、その営みがいくら苛酷に満ちていたとしても、他者(のここと~意識の根底)を撃つことはありえないからです。完結した個人の営みがどうして他者を撃つことがないのかを考えると、それは、例え楽しみに被われていたとしても、逆に苛酷さに被われていたとしても、そこには<じぶん>への全面的な信用~疑いのなさ、があるからではないでしょうか。守ろうとするところには、ほんとうは個人性の問題など一片もありません。このように言ってみることはできないでしょうか――もしかすると、ほんとうには<じぶん>自身を撃っていないから、他者が視野に入ってくることもないのではないかと。

 <じぶん>を切実に捉えたいと思いはじめたとき、誰もが次のことに気づかざるをえないと思います。<じぶん>は強いられた<時代>の一断面にしかすぎないと。だから<じぶん>とは<時代>との最も切実な闘いを探りつづける不確定な存在であること――。

 ぼくのいう存在の<不安>性とはそういうことです。他者との思いがけない交差にしても、それは一見具体的な相手を問題にしているようでありながら、実はひとりの存在を通して視えてくる<時代>の病の深さから受ける衝撃だけが問題にされているのだと思います。同じ<時代>に生きる者としての交差は、お互いの存在を根底から揺り動かさざるをえません。そうした意味で、渡辺さんが自らの必然を辿るようにして、ぼくの視野に交差してきてくれたことは、ぼくがいま抱える存在の<不安>性を運動化させていってくれるだろうと、衝撃をもって期待しています。

 ところで、渡辺さんが短時間のぼくとの対話から≪シベールの日曜日≫を観に行ってくれて、それへの感想を1.29の便りに書いてくれたことは、渡辺さんとぼくとの存在の<不安>性の交差をより深いものにさせていく予感を運んできてくれます。詳しくはまた書きますが、≪シベールの日曜日≫という映画が美しいのは、<シベール>と<ピエール>とがはかないほどの必然の<出会い>をもつからではないでしょうか。そうした<出会い>が秩序からは見えないからこそ、ふたりは追放されざるをえなかったと考えます。逆に言えば、秩序から対極的に遠いところでふたりの<出会い>はあったといえます。(後略)

 
【つづきを加えました】

Oさんより渡辺へ  1985.4.24

 便りします。映画≪シベールの日曜日≫を借りて語りはじめると、渡辺さんもきっと感じたに違いないと思いますが、この映画でもっとも美しいのは<名まえ>というコトバの響きであり、そのコトバを発するときの<シベール>や<ピエール>の表情やしぐさ・・・であると、ぼくは思っています。

 そして響きが美しいのは<名まえ>というコトバに、存在するということ自体がまとわりつかせている<あやうさ>という意味が込められているからに違いありません。<シベール>は周囲の善意を装った保護者達から<フランソワーズ>と呼ばれ、認められているにもかかわらず、こう言ってしまいます・・・≪わたしには名まえがないの≫。一少女のこの魂の叫びには、ただ胸がしめつけられます。それは、そうした透徹した眼を不幸と感じるのではなく、むしろ当然のこととして信じているあどけなさのためだと思います。

 ≪わたしには名まえがないの≫という<シベール>の叫びは、実に深い象徴的意味をもっているとぼくは考えます。<シベール。は≪名まえがない≫と叫ぶことによって、かろうじて与えられていた呼称<フランソワーズ>を喪うことになります。これは存在する価値などない者、存在していないも同然な者ということが意味されています。けれども、ほんとうにそうでしょうか?

 ぼくは<シベール>は、存在する価値などない者、存在していないも同然な者――どころか、むしろ全く逆に≪名まえがない≫と自らに叫びかけることによって<フランソワーズ>などという仮着に閉じ込められることから脱して、存在するということへのとおい実感へ向けてはじめて歩み出せていると思うのです。つまり≪名まえがない≫とは、秩序から与えられた呼称からは全くみえないところで、あらゆる<名まえ>をもつ可能性の前に佇んでいること――というふうにもいえると思います。じぶんの<名まえ>というものは、きっと本来そうしたものです。もともと自分の<名まえ>が決まっているなどということはないのです。<名まえ>とは切実さの代名詞であって、そうした意味で一つの<名まえ>はより深い切実さに吸い寄せられるように、新たな<名まえ>へ向かういわば永久運動であると思えます。(一方で、ひとつの<名まえ>だって重すぎてうまく負いきれないということだってありますが――)。≪名まえがない≫とは、だから<名まえ>が「まだ」ないということです。

 そうしたことを考えるとき、思い浮かぶことがあります。それは<シベール>という<名まえ>とは何なのかということです。≪シベールの日曜日≫のラスト近くで、実にささやかだがこころあたたまるクリスマス自体をクリスマスプレゼントにした<ピエール>に対して、これ以上ないだろうと思われる美しいプレゼントを<シベール>が用意していたのを憶えています。そのプレゼントとは、幼い字で≪シベール≫と書かれた粗末なちいさい紙切れだったわけですが、ぼくはどうしてこの一枚の紙片が美しいのか、別の言い方をするとどうしてこの一枚の紙片がこんなにもかけがえのない切実さを孕んでいるのだろう――と思わないわけにはいきません。<シベール>は自らの本名を大切にしていたといえます。でも、それは<フランソワーズ>などという与えられた呼称を一見引き受けてまで、本名をかたくなに隠し、明かそうとしなかったのかは説明できません。そんな<名まえ>の捉え方などは、とうてい秩序的な世界(のひとびと)からはみえるはずはなく、またそうした世界に同化させてはならないことを<シベール>は実によく知っていたに違いありません。

 ぼくが重要だと思うのは、<シベール>がそのようにちいさな手のなかで育んでいた<名まえ>が、必然的に<出会い>(の要素)をも孕んでいたということです。だから<シベール>と<ピエール>が出会ったことはあながち偶然とはいえず、ましてや<シベール>と<ピエール>の<出会い>が透明感をもっているといっていいくらい静かで美しいのは、まったくの必然性に支えられているといえます。

 <シベール>と<ピエール>とがあんなにも深く交差しえたのは、<シベール>の、そして<ピエール>の渇望感の深さのためだと思います。この渇望感とは<名まえ>の渇望感とでもいえるでしょうか。文字通り<ピエール>は記憶喪失であり、じぶんの<名まえ>が何なのかを探し求めることが生きることそのものだというのはとても象徴的です。<シベール>も<ピエール>も周囲の世界がじぶんに与えてくる呼称になじめないで、つまり≪名まえがない≫と思うしかなかったため、自らのほんとうの<名まえ>を探し求めてさまよわざるをえません。そして、このときの<名まえ>とは、前にもいったように切実さの代名詞ですから、切実さに吸い寄せられるように引っ張られていくことが、生きていくことの一つひとつの実感になっているといえます。別の言い方をすれば、切実さにみつめられて歩む、というふうにいえるでしょうか。

 そうしたなかでの他者との<出会い>はきわめて貴重なものだと思います。他者との<出会い>もまた、切実さのひとつの形だからです。ただ、さらにいうなら、切実さの深さを通してもうひとつの切実さの過程と交差しえたのだというようにいえます。そうした意味で、他者とはもっとも異質な(もっとも見知らぬ)切実さのことだ――といえるように思います。みつめることが同時にみつめられることであり、みつめられることが同時にみつめることである――ということが可能になるところで、自ら歩んできた切実さと目の前にしているひとの歩んできた切実さを全く同じ重さで思わず捉えてしまうということが、とりあえず視線のぬくもりを生み出しているといえます。でも、さらには目の前にしているひととの<出会い>に込められている切実さによって、じぶんがどこに運ばれていくかわからないことをも厭わない、ということがほんとうのぬくもりを生じさせていると思うのです。

 (長い中略)

 ぼくが恐ろしく思うのは、ひとが“何も話したくない。何も聞きたくない。身近なところから発せられる切実かもしれない声にも関心がもてない”というふうに自らの内に閉じこもったとき、ほんとうにそのひとは全てに対して口を閉ざし、耳を閉ざしていくことを貫けるのだろうかという点です。切実な声とはつぶやきに近いものですから、あえて耳をすまさなければ何も伝わってはこないと思います。ですが、あえて耳をすまさないですむ、つまり<伝達>へ向かう姿勢の安易さが作ってしまう空洞には、一挙にあたかもそれが先験的なものであるかのような無意識の強制力をもった秩序的な声や発言への秩序的な強制が、なだれ込んでくるしかありません。“何も話したくない。何も聞きたくない”ということはあたかも空白であるかのようですが、実はそこには秩序が発したり秩序がかき集めた声がぎっしり詰まっていると思います。切実性への空白と秩序的な侵入とのバランスがうまくとれているため、それが空白のように思えるだけです。

 前にも言ったことはありましたが、ぼくはこれが実は秩序発生の基盤だと考えています。秩序は最終的には存在を押しつぶすだろうけれども、そこに至るまでは感性をマヒさせたまま徹底して生きさせ続けるだろうからです。(後略)
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by lumokurago | 2011-10-01 15:11 | 昔のミニコミ誌より
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