暗川  


写真日記
by lumokurago
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
検索
リンク
ご感想をお寄せ下さいmailto:lumokurago@yahoo.co.jp

嫌がらせコメントは削除させていただきます。

必ずしもリンクするHPの意見、すべてに同調するわけではありません。ご自分で情報を選んでください。

原子力資料情報室

小出裕章非公式まとめ

沖縄タイムス

暗川メインページ
私の下手な絵などを載せています。

杉並裁判の会
私たちの裁判の会です

ポケットに教育基本法の会

「つくる会」教科書裁判支援ネットワーク

もぐのにじいろえにっき
もぐちゃんのページ

プロテア
リリコおばさんの杉並区政ウォッチング

鬼蜘蛛おばさんの疑問箱
松田まゆみさんのページ

熊野古道の路沿い
鈴さんのページ

風に吹かれてちゅちゃわんじゃ
小笠原父島で農業をやっているサエちゃんのブログ

三宅勝久さんのブログ
杉並区在住のジャーナリスト

カテゴリ
以前の記事
ライフログ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧

Oさんとの対話より その2

Oさんより渡辺へ  1985.4.24

 はじめにちょっと書いてみると、実はぼくも便りという形式はとても好きです。それと関連して“下書き”という習慣もありません。渡辺さんと似ていますね。これは好みと言われてもしかたない面もありますが、ぼくはそうした好みを越えたところでこのことを捉えています。

 ぼくはただ他の形式に比べて便りという形式がいいということでなくて、書かれたものの極限は意外と恋文(ラブレター)だろうと思っているのです。つまり、もしかしたら相手のこころに届かないのではないかという思いを抱きながらも、たったひとり~のために必死でじぶんを届けようとする、そのことはどこか表現の本質をついていると思います。(・・・だからいわゆるベストセラーや煽情的なアジビラ、それから一転した自己陶酔型の作品表現――などはにんげんにとってそれほど必要不可欠なものではないのだろうとぼくは思っています)。

 さらにいえば、あて先の書かれていない恋文もあるし、むしろそれだから一層切実な恋文だということもあります。便りをもらってくれそうなひとがいるから恋文を書くのではなく、もらってくれるひとを探して恋文を書きつづけるということがあるからです。空白のままになっているあて先をうずめる<名まえ>を求めて・・・。ぼくが≪読書会≫へ届け続けている≪ノート≫もやはりメンバーへの(不可視のメンバー~)を含めて)恋文のつもりなのです。

 また、下書きなしの表現をぼくは勝手に「囚人書き」などと呼んでいます。届くかどうかもわからない恋文を書き続けているすがたは、書き直す時間も、それから紙の余裕もないままに囚人が孤独に誰かに便りをしている光景にどこか似ていると思いませんか?

 渡辺さんの便りを“長い”“言い方がストレート”ということでどちらかというと否定的にみているひとが多いとのことで、渡辺さん自身もそうした意見をのみ込んで(だからといって“長い”“言い方がストレート”をやめる気もなく)いるところもあるようですが、“長い”“言い方がストレート”ということも、恋文からみた場合否定すべきものどころか、むしろ訴えかけるところのあるいい恋文の可能性を感じさせるものです。“長い”“言い方がストレート”ということを否定的にみるひとには、どれだけ書いたら、またどのように書いたら自分がうまく表現でき、そしてそれがうまく他の存在に伝わっていくのだろうという思いに迫られ続けながら書くしかない恋文の切実さがどこか欠けていると、ぼくは思わないわけにはいきません。
 
 今回の便りで触れたいのは、渡辺さんが便り(3.10)のなかで、じぶんの他者との関係の基本的視点だといっていた≪①人に誠実であるということは、その時その時の自分を正直に語っていくということ ②苦しい時、悩んでいる時、ひとりで耐えることはつよさなんかではなく、自分をさらけ出すことこそがつよさであること≫――などについてです。

(中略)

 この辺のことは渡辺さんが他者との関係の基本的視点だと考える①の問題とも対応すると思います。人間関係というのは何も理想的なにんげんの組み合わせなどではありません。先ほどぼくが言った≪働きかけ≫ということも、直接的な他者への≪働きかけ≫という狭い範囲に限定されたところで問題にしたいわけではありません。まず、他者と出会えるような自らへの≪働きかけ≫というものが不可欠だと思います。いつでも自らの歩みの過程を確かめられるほど(渡辺さんのコトバで言えば≪その時その時の自分を正直に語っていくということ))、淡々とひたすらじぶんを追求することができなくて、どうして他者を撃つことなどがありえるでしょうか。
(中略)

 再び渡辺さんが他者との関係の基本的視点だと考えるものに戻って、②の問題について言うと、まず、苦しさや悩みに直面しているとき、どうして≪ひとりで耐え≫てはならず≪自分をさらけ出≫していかなくてはならないのか――という疑問に答えなくてはならないでしょう。渡辺さんは≪ひとり≫では弱いから救いを求めて・・・などと言っているわけでは決してないでしょう。渡辺さんが≪つよさ≫というコトバを使っていることがそのことを示しています。

 そのことについてぼくはこう思っています。確かに≪ひとり≫がどうしようもないような苦しさや悩みを負ってしまうことはあります。こうした苦しさや悩みはその≪ひとり≫が徹底して負うべきだと思います。と同時にぼくには、そうした苦しさや悩みを負わされるのは、ほんの偶然にしかすぎないという思いがあります。苦しさや悩みが個人にまとわりつく不幸だというのは、絶対に間違いだとぼくは思います。苦しさや悩みというのは<時代>のほうからやってきており、そうした意味ではそれらは誰が負ってもほんとうはいいものです。ただ、その負い方や重さが異なっているだけです。

 だから、いまじぶんが苦しさや悩みに直面しているということは、<時代>が病んでいるということの予感として受け止めていいはずです。このことは同時に、他者の苦しさや悩みに直面するすがたは、自らの影だということにもなります。より苛酷さに直面している影のほうが、ほんとうはじぶんなのかもしれません。≪自分をさらけ出す≫とはつまり、じぶんがいま直面している苦しさや悩みは単なる不幸なのではなく<はじまり>として捉えるのだという意志を表しているといえます。≪ひとりで耐える≫とは渡辺さんが言うように、ほんとうは≪つよさ≫でもなんでもありません。≪ひとりで耐え≫ているのは、苦しさや悩みに対してではなく、ほんとうは<はじまり>の怖しさのほうに耐えているだけだからです。


渡辺よりOさんへ  1985.4.25

 昨日の話のなかで、今の私にとって最も関心のあるテーマは「表現を伝える際の受け手の側の必然性」ということです。(中略)

 人間が開放されていく過程とは、幼い頃から両親や学校などから「こう感じなさい」と教え込まれ、刷り込まれてきたことを、一つひとつ検証し、否定していく過程であると思います。人はそうやって「自分の感受性」を獲得していくのではないでしょうか。もともと感受性の鋭い人、豊かな人ももちろんいるでしょうが、凡人はかなり与えられた(強制された)感受性から抜けきれなくて、それを捨てて枠の外に飛び出すには、感受性をひらき、磨く作業を不断に行なう必要があるという気がしています。普通にしていれば、秩序的な感受性に大きくおかされていて、それに支配されてしまう。だって、その方が“楽”ですものね。その“楽”な場所から抜け出して反秩序の世界を遠く見据え、求めていくようになるためには、自分を投げうつ覚悟をさせてくれるようなエポックがあるのだと思います。(少なくとも私の場合はそうでした)。それはこの間使っている言葉で言えば、「<名まえの>渇望感」の求める意志とも言えると思います。

 私は人に対して、またひとりの人の表現に対して「こたえなくちゃ」という思いが強いです。なぜって、私自身がそうであるように、人はギリギリのところで生きているし、ギリギリのところで表現していると思うからです。だから私も、ギリギリのところでそれにこたえたいと思います。

 「受け手の側の必然性」とは何なのでしょう。以前ある人に(ミニコミに)「障害児」について何か書いてと言ったら、「でも、自分のクラブに障害児が入会するとか、自分に障害児が生まれるとかでなければ、障害児のことなんか考えない」と言われました。彼女には必然性がなかったのです。なぜ、自分から遠い世界のことも感じてしまう人とそうでない人がいるのでしょう。「自分から遠い世界」と言っても、それは決して「遠い世界」ではない。「遠い世界」でのできごとが、結局、今の時代の差別や何かを作りだしている。そこには自分自身も密接にかかわっている。ただ、それがみんなには見えないだけ。一人ひとりの抱えている病は、結局<時代>の病なのであること。忘れてはいけない。

 (中略)

 Oさんは「書かれたものの本質は恋文だ」と書いていましたが、私も手紙というものはすべてラブレターだと前々から思っています。手紙というものは一応、語りかける相手を想定していて、書いている間、その相手と向かい合っているような気分になるということがあると思います。読む方も読んでいる間は相手と向かい合っているような気になると思いますが、書くために費やされる時間の方が圧倒的に長いので、どうしても書き手の思い入れの方が大きいと思います。それもなんだか“恋文”らしいところだという気がします。

 (中略)

 「あて先の書かれていない恋文」というのは、私の『暗川』などもそうです。何か言ってきてくれる人は「あて先をうずめる<名まえ>」に名乗りをあげてきてくれた私の恋人です。やっぱり『暗川』も恋文なんですよね。
 
 「囚人書き」という表現はおもしろいですね。Oさんは“思想犯”で刑は禁錮だからピッタリ。例えて言えば私たちはひとりひとりが独房にいるのと同じです。高い窓から差し込んでくる一筋の光が、一日が流れていくのに従って移っていくのを感じながら、光になって飛び出したいと思い、自由を渇望する。そして、届くあてのない恋文をひっそりと書いている。私なんかが、壁を叩く暗号でほんの少しコミュニケートしたりして。目に見えるようだ。(後略)
[PR]

by lumokurago | 2011-10-03 17:41 | 昔のミニコミ誌より
<< 内海さんの写真より 東金女児殺害事件 知的障害者は冤罪 >>