暗川  


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Oさんとの対話より その3

 まだ説明していなかったのですが、Oさんとは児童館の同僚たちの読書会《あうら》のなかでつきあっており、Oさん⇔渡辺の<便り>を4、5人で共有していました(その後、人数はもっと増えていきます)。そのため、宛名は象徴という意味で< >に入れられていました(<渡辺容子>様というように)。が、この頃から私はもう宛名を「みんなへ」に変えていました(特別な場合は除く)。「<便り>の共有~おびただしい拡がり」については今後テーマとして出てきます。

*****

渡辺よりみんなへ  1985.10.30.

ときどき、自分で自分を励ませなくなる
この先、生きていくことにとっても不安になる
ぽっかり空いた時間に、隠されていた心の空洞がみえてしまう
たぶんそれは、人間なら誰でももっている、生まれながらの「欠損した部分」
・・・一般的に言いかえるなら「孤独感」というもの
一方では「<名まえ>の渇望感」と呼ばれ、「希求性」を生み出す原動力になっているもの
もう一方では、ただただ「さびしさ」に突き落とすもの

「たったひとり」であること
そのことが力を呼び起こす
誇りを呼び起こす
と同時に、深いかなしみが流れる
それは底流だ

「欠損した部分」は誰もが生まれ落ちたときからもっている

私たちは「欠損した部分」を埋めようと他者との出会いを求める
しかしそれが埋まることはない
だから永遠に「たったひとり」なのだ
「たったひとり」であることの強さと弱さを常に抱えている
いつも綱渡りをしているような危うさのなかで

さびしいときには、好きな人の顔を思い浮かべよう
その人たちが、みんなそれぞれの場所で生きていること
ひとりひとりが、泣いたり笑ったりしながら
「たったひとり」であることの誇りとさびしさを抱え込んで生きていること
自分で自分を励ませないときは、そのことだけが私を励ます

私が「たったひとり」であること
みんなが「たったひとり」であること
「たったひとり」・・・地球上に後にも先にも「たったひとり」・・・


Oさんより<渡辺>へ  1985.12.31

 (前略・中略)

 さて、10.30付の<便り>を痛切に受けとっています。その痛切さは特に≪一方では・・・≫というコトバの繰り返しのなかから浮かび上がってきます。

 ≪一方では・・・≫というコトバは、自分の意志の志向の強さは(それが強ければ強いほどなおさら)、同時にそれとは逆の方向に引き裂かれる――ということを指し貫いていると思います。そのことについて、ぼくはこう思っています。どのようなものごとも、そのほんとうの意味は、いま当面している問題やテーマそれ自体のなかにあるのではなくて、むしろその陰にあって、まだコトバにのぼってこないところにこそ隠されている、というように。だから、また、あらゆる全てのことにおいては、いま取り組もうとしていることと同時に、そこから引き裂かれていくような力を想定して、両者を抱え込まなければだめだろうとも考えています。特に<運動>および<表現>の世界においては(もっと正確には並列ではなく、<運動>を<表現>としてあるいは<表現>を<運動>として志向する<運動>⇔<表現>の世界においては)――。

 例えば女性問題を追求しようとするとき<男性>問題を、インターナショナル性を問題にしようとするとき<ナショナリズム>を、前衛を問題にするとき<民衆>を、他者としての権力を問題とするとき<自己>を、固有性を追求しようとするとき<無名性>を・・・というように。もちろん、両者の間の、容易にまたぎ越せない困難な条件のようなものを見落としてしまうことはいけないと思いますが、対極にあるものを抱え込めない志向性は、致命的ともいえるようなおおきな脆さをつきまとわせることになることは間違いありません。

(中略)

 あることに直面したとき、判断や行動を支え~持続させていく力になっているのは、自信たっぷりのじぶんの実力なのではなくて、実はむしろいま直面している問題には一見とおく無関係に思えるものまでをも覆ってしまう拡がりが孕まれているのかもしれないという畏怖感なのではないかということです。つまり、そうした畏怖感を通して自己を切り開きつづけていこうとしない限り、直面している問題のなかに自己が縮小されて閉じ込められてしまったり、直面している問題自体の流動性によって、知らず知らずのうちに自己のあり方が歪んでいってしまったり、ということがあるのではないかと思えるのです。(後略)

渡辺よりみんなへ  1986.1.7

 (前略・中略)

 高校生の頃、リルケの『若き詩人への手紙』が好きでたくさん写していました。いまの私を励ましてくれそうな気がして読み返していました。写したものを(他の日記などと共に)私は焼いちゃったらしいけど、写した箇所はいまでもよく覚えていて、同じ箇所に感動する自分に「成長がないなあ」と思ったりして。それは例えば次のような一文です。

――私はできるだけあなたにお願いしておきたいのです。あなたの心の中の未解決のものすべてに対して忍耐を持たれることを、そうして問い自身を、例えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書かれた書物のように愛されることを。今すぐ答えを捜さないで下さい。あなたはまだそれを自ら生きておいでにならないのだから、今与えられることはないのです。すべてを生きるということこそ、しかし大切なのです。
 今はあなたは問いを生きて下さい。そうすればおそらくあなたは次第に、それと気づくことなく、ある遙かな日に、答えの中へ生きて行かれることになりましょう。

 生きること、なにがなんでも生きること。まず、生きること。生きることそのものにこんな励ましが必要なんて、なんて人間て“自然”から遠いのでしょう。海も木々も動物たちも、淡々と自らの生を充足しているのに。

 再びリルケより

――孤独であることはいいことです。というのは、孤独は困難だからです。ある事が困難だということは、一層それをなす理由であらねばなりません。
 愛することもまたいいことです。なぜなら愛は困難だからです。

 困難な道をこそ選びたいと思います。なぜなら、困難な中でこそ真剣に打開の道を捜さなければならず、悩みも多く、たくさんのことを考えるからです。安易な道は堕落の道でしょう。

 生きている限り、いつも自分を問い、問いを生き、細い1本のこみちを捜していく者でありたいと思います。
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by lumokurago | 2011-10-04 20:37 | 昔のミニコミ誌より
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