暗川  


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おびただしい便りの拡がり

 これまでに掲載した手紙を何人かの人に送ったところ、ある人(Kさんとします)からいただいた手紙の最後に次のような文章がありました。

――「そこに帰れば自分を必要とする人がいて、安心できる場所というもの。私にとってはそれは自分しかない・・・自分をつよくしなければならないと思う」という所、私自身にとっての生きている限りの課題でもあります。好きな人(恋人、友人、家族・・・)がいて、大いに励まされ、生きる喜びを感じていても、でも、やはり私は私なのです。


渡辺よりKさんへ  1986.1.7

 (前略―OさんにKさんの手紙を見せたら喜んでいたという内容)

 ただ、お手紙の最後にあった「私は私」というところは違っていると言っていました。「私は私」と言ってしまうと、“私”は“私”のなかで完結すると認識していることになるが、それはまだ“自分”というものを知らないのではないか、人間は自己完結できないものであり、そこに“共同性”の問題があるというのです。

 私も「私は私」とだけ言い切ってしまうことには違和感があります。Mさん宛て手紙に書いたのですが、私はこの間、自分が話すことが苦手ということにすごいコンプレックスを持っていて、Yさんなどに憧れを持っています。彼女はとても生き生きと話すので。私は書くことに対してはかなり自信を持っているけれど、それだけでは対処できない場面が多いので、「話せなくても書けばいいんだ」とも思えず、自己嫌悪に陥っていました。

 12.28にMさん、Oさん、私で忘年会をやった時、そのことについてOさんが「象徴的なことだが、Yさんは『渡辺さんはすごい』と言っている」という話をしました。『共犯幻想』というマンガに「自分の体温を知るためにも他者の左手が必要」というテーマがあります。その通りだと思います。

 Mさんは“役割分担”という話をして、「“自分”がたくさんいる」と言いました。私は“役割分担”と言ってしまっていいのかはちょっとわからないけれど、「“自分”がたくさんいる」という感覚には同感です。“共同性”とは「“自分”がたくさんいる」ことの自覚なのでしょう。

 山口泉さんの『吹雪の星の子どもたち』(径書房)に「吹雪の星」に生まれた子どもたちには“星外脳”という欠損した部分があり、それを求めて宇宙に旅立つというテーマがあります。Aさんという人がこの本への感想に「みんな私の“星外脳”なんだな」と書いています。私もそう思います。他者とは自分の欠損した部分を埋めてくれるものに違いありません。

 だから「私は私」と言い切ってしまうことには「違う」と思うのです。私の“星外脳”はOさんであり、Mさんであり、Kさんであり・・・etc.の人たちなのです。

 “星外脳”とは、人と人との“出会い”のことでしょうか?


渡辺よりMさんへ  1986.1.17

 (前略)

 “選択”ということは、単に二つの、あるいはいくつかの道のうちから1本を選ぶということではなく・・・1本の道を選んだ私は、選ばなかったもう1本の道、あるいはその他のすべての道をひっかかえて、背負いこんで生きているのだという気がします。うまく表現できないのだけれど・・・。
 
 どっちの道を行った方が“幸せ”なのかわからない、ということはある。それに“幸せ”が“不幸”になったり、また、その反対だったりすることはよくあることだから、ほんとに何がいいかなんてわからない。(中略)

 私は元夫が地元(名古屋)に就職して実家に帰ったとき、ついていかなかった。その理由は名古屋に仕事がみつからなかったから。それは「“愛”か、仕事か?」という二者択一問題では、私にとってはなかった。私は物心ついて以来「一生仕事をしていく」ことは当たり前だと思っていたから、まったく迷わずに東京に残った。それでよかったと心から思っているけれど、「あの時、ついていったらどうなっていたか」とは思うことがある。

 今頃は小学校にあがる位の子がいたかもしれない。それはそれで“幸せ”だったかもしれない。でも、今、私のまわりにいてくれる人たちとは出会わなかっただろう。別の人たちと出会ったかもしれないけれど、今の“私”とはかなり違った人間になっていたと思う。あの時、名古屋に行かなかったことが(これがすべてではないが、きっかけとして)私をこれほど世間から見れば変わった考えの持ち主にしてしまったとは、おそろしいものだなあ。

 もっと昔の話で、今思いだしたんだけど、高校時代の先輩が私に言ってくれたことがある。私はお茶大(お茶の水女子大学)の、今は亡くなった周郷博という先生が好きで、お茶大の児童学科を受験した。けど、試験当日熱がでて落ちた。受かったのが早稲田の一文(第一文学部)だったので、そこに入学したんだけど、早稲田の一文を受験した理由というのが、私はなぜか数学ができた(他の科目よりましだった)ので、私立の文系で数学が選択できる唯一の学部だったからなわけ。それで先輩に自分には他にやりたいこと(児童学)があるのに不純な動機で入学してしまったというようなことを話した。そしたら、その先輩は「たとえ希望の大学に入ったって、しっかりとやりたいことを持っている人なんていない。やりたいことがあるんならどこでもできる」と助言してくれたのです。この場合は自分で選んだというわけではないけれど、同じことだと思う(実際には私の大学時代は内ゲバに翻弄されてしまったが)。

 “選択”ということは、その言葉一つで括れないものを含んでいると思います。一方の道を選んだ私は、選ばなかったもう一方の道を引き連れていると思います。選ばなかった道のすべてを、カッコよく言えば“止揚”した形で、今、この道を歩いていると思います。(後略)
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by lumokurago | 2011-10-07 17:12 | 昔のミニコミ誌より
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