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『内灘夫人』 五木寛之

 『内灘夫人』 五木寛之もずいぶん読んだが、残っていたのはこれ1冊。出版は1969年で私が読んだのは1976年、22歳のときである。

 石川県金沢市の「内灘」で米軍試射場反対闘争があったのは「昭和」27、8年頃のことらしい。つまり1952、3年、私が生まれる1、2年前だ。主人公の霧子=内灘夫人は大学時代、この闘争にかかわり、学生結婚した師であり同志であり恋人であった夫がいまは事業に成功、変節したことで、心が離れ、きままな有閑マダム暮らしをしている。表面的には堕落した怠惰な暮らしなのだが、心のうちではいまだに内灘闘争のころの純粋で充実した時間の記憶から離れられないのだ。

 霧子が生きる「いま」は内灘闘争から15年ほど後、1960年代後半の再び学生運動が盛り上がった時代である。霧子はむかしの自分と夫のようないまを生き生きと生きる学生と知り合う。彼らは生硬に権力に抗うのだが・・・。

 三木卓の解説より引用する。

 ――街頭におけるデモ行進や、反戦・平和の式典があるたびに最近のわたしを襲ってくる思いは、つまるところ、わたしたち政治に対する意志表示の行為が、わたしたちの生活を支えている場においてなされなければ本質的な力になり得ないだろう、ということである。戦後25年有余、日本の反体制運動があれだけ派手に闘ってきたにもかかわらず、日本の体制がともあれ着々と自らを発展させて来得たのはつまるところそういうことなのだろう。街頭でのデモなどが行われるが、それは職場からも家庭からも離脱したポイントで政治的行為が行われるということである。極端な話をすれば、軍需工場の職工は、殺人兵器を製造する手を休めて反戦集会に参加し、また戻ってくればその続きを作り始めるのだ。

 いわば、そのような意味において、日本の民衆の体制に対抗する政治的行為は、かなりの部分、<青春>の場を設定することによって成立し得たものであったのではないだろうかと思う。とすれば、それはいわば観念的な場であり、その人間の持続していくべき生に対して十分な影響を与え得ない、というのがまず普通であろう。もし与え得るとしたら、それは、その人間がその政治的行為を、政治を超えた魂の問題として自らが進んで深く受けとめようとした時である。しかし、そのことによってかれは破滅するかもしれない。

 『内灘夫人』のなかで、わたしの心に最も深くとどまったのは、霧子が自分たちの学生運動と時を隔てて現在ある学生運動を比較して考える終りに近いあたりである。彼女は、自分たちの戦いのほうに<もっと有機的な、みずみずしい、青春という爽やかな果実の匂いが漂っていたのではなかろうか>と思い、若い恋人である<克己たちの戦いは、すでに政治の裡の姿をむき出しにして、コンクリートの荒野で戦っている感じがする><彼らの青春は、最初からその荒涼たる灰色の世界に投げ出されているのだ>と考える。そして<その灰色の世界を作っているのは、それは取りもなおさず、このわたしたちだ、という気が>するのである。

 ここにわたしは、われわれの国の歴史の、のがれることの困難なひとつの構図があると思う。それはわれわれに痛みをもたらさないではいない。現に1950年、60年、70年に大きな結節点のあるこの国の戦後の歩みを見ても、この酸鼻の構図から免れてはいないし、また未来をのぞき見ても未だに一すじの可能性もわたしには感じられない。挫折したものは乗り越えられるべき屍体となるのではなく、その敵対する側にまわってしまうのだ。積極的か消極的かの差はあり、それは同一視はできないものの、この円環をどこかで断ち切ることがない限り、この世界の質を変革することはむずかしいのだ。後略――


 戦後66年たった現在、「日本の反体制運動があれだけ派手に闘ってきた」ことを知る者すらほとんどいないであろう。私もその一人だ。三木の解説に「学生運動は青春の自己証明の一つの方法としていつの時代にもあった」とあるが、私の学生時代(戦後35年頃)にすでにそんなものは消滅していた。内ゲバしかなかったのだから。「その灰色の世界」を作ったのは、霧子らの世代であり、そのまた下の「全共闘」と言われる世代である。(いつも言っているように私は「全共闘」世代を恨んでいる)。

 いま、原発事故のおかげで(まさに「おかげで」)古い世代の「夢」が再び活気づいてきた。「政治」にどっぷりつかった彼らは、ほんとうに純粋な気持ちから反原発の運動をしているのか? どこかに新しく登場したお母さんたちや若者たちを自分たちの「政治」や「運動」に利用しようという下心があるのではないか?

 話がずれたが、青春に囚われ、夫の経済力に頼って有閑マダムをやっていた霧子は、小説の最後に内灘(金沢)で仕事を探し、汗水たらして働くことを始めようとするのである。人間の「生活」を。

 「おそすぎた出発だが、出来る限り遠くまで行ってみよう、と、心の中で呟きながら、霧子は風に逆らう1本の樹のように、いつまでも夜の中に立ちつくしていた」・・・これがラストです。



 

by lumokurago | 2011-12-06 12:00 | 本(book)
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