暗川  


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by lumokurago
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森達也氏講演

自分の頭で考えよう~PARC自由学校

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 6月1日、PARC自由学校「オルタナティブ・メディアをつくる!」~「放送禁止」「自主規制」「翼賛化」のメディアに抗して自分の頭で考えよう、 発信しよう~が開かれました。講師は森達也さんでした。森さんは自分の専門は映像で、食えないので書いているが、とにかく作品を見てほしいというお話から始められました。

 今日は「放送禁止歌」と「ドキュメンタリーは嘘をつく」のDVDを持ってきているが、どちらを見たいかと聞き、みんなに手を挙げさせました。多数決では「ドキュメンタリーは嘘をつく」の希望が多かったのですが、森さんはなぜか「放送禁止歌」を見せたいらしく、こちらの方が話も広がると思うと言って始めたのですが、残念なことに音が小さかったので、結局、「ドキュメンタリーは嘘をつく」を見ることになりました。なぜ森さんが「放送禁止歌」にしたかったのかは謎ですが、「ドキュメンタリーは嘘をつく」を2度見るのはつまらないとおっしゃっていたので、そのせいかもしれません。

 「ドキュメンタリーは嘘をつく」の内容はそのタイトルの通りなのですが、ここに登場した原一男氏、佐藤真氏、緒方明氏プラス森さんのお話を簡単にまとめると……ドキュメンタリーとは現実を再構成したフィクションであり、現実とは違う何ものかである。

・テーマを選んだ瞬間にフィクションになる、自分にとっての真実。
・100人いたら100通りのドキュメンタリーになり、真実はない。

 ということでした。

 DVDを見終わって、森さん(以下、僕)のお話に入ります。

 「ドキュメンタリーは嘘をつく」というタイトルは「メディアは嘘をつく」としてもいいのです。過激なタイトルですが、嘘をつく気がなくても嘘になるし、つく気になればいくらでも嘘をつくのです。僕の中を1回通過するので、そうなるのです。例えば、ここにカメラが入れば、皆さんの服装からして違うでしょうし、質疑応答の内容も変わるでしょう。撮影するということは状況が変わるということで、「現実」は「カメラが介在した現実」に変わるのです。

 ドキュメンタリーは撮る人の主観・視点と撮られる対象の相互作用によって作られます。「インサート」という技法があります。誰かのしゃべりの中に聞き手の顔がインサートされることがあります。1台のカメラで両方同時に撮れるはずがないのだから、違う時間の映像をはめているわけです。その音に対して「うなづく」のか「あくびする」のか、どちらの映像をはめるかによって、状況を作ることができます。つまり編集で世界を作れるということで、これは「嘘」ということになります。

自分を裏切ったディレクター

 「やらせ」で「納豆問題」がありました。「やらせ」の最初はアフタヌーンショーで暴走族のリンチ場面をお金を払って「やらせ」たことで、プロデューサーが解雇されました。NHKの「ムスタン」では砂嵐、流砂、日照りといった苛酷な状況を「やらせ」で再現し、お金を払って雨乞いを「やらせ」たのです。

 この二つの「やらせ」と「納豆問題」は方向が違います。前者の「やらせ」はディレクターが自分の思いをどう再現するかの中で、リンチはある、日照りはある、雨乞いもある、ただ、今撮れない、それで「やらせ」たということで、濃淡はありますが、実際にやっていることです。それに対して「納豆問題」は、納豆など全く知らないアメリカ人が「効果がある」と言ったことにした。ディレクターは視聴率という自分の主観でないものに囚われ、自分を裏切っているのです。

 似たものとして「吹き替え」(voice over)があります。昔は「吹き替え」が使えず、テロップでしたが、今は「吹き替え」が普通です。なぜかというと「わかりやすい」からとされていますが、単純化、簡略化が進行しているだけで本当は「わかりやすさ」とは違います。

 僕がなぜ「吹き替え」を使いたくなかったかというと、前の音をつぶしてしまうからです。前の音をつぶせば、何でもありになってしまいます。そっちに持っていきたいという自分の衝動を抑えるのが大変です。その人の表情を消したくない、残したいので「吹き替え」ではなくテロップにするという現場へのこだわりが今は消えています。人の一瞬のためらいとかどもりという微妙な表情を視聴者が求めなくなったのですね。

 それからリモコンができる前はテレビのチャンネルを替えるのが大変だったので、ある程度は我慢して同じ番組を見ていたものです。今はちょっとわかりづらいとチャンネルを替えてしまうので、視聴率が下がり、営利企業にとっては、いかに視聴者をひきつけるかということで刺激とわかりやすさが求められています。わかりづらく複雑なことはどんどん削られ、世界が簡略化しています。

表現には欠落が大事

 ベトナム戦争当時は、報道媒体は写真でした。写真が「この戦争はおかしい」という世相を喚起したのです。アメリカはメディアと表現に負けたと言ってもいいでしょう。トンキン湾事件は謀略であり大義はないとされました。しかし、イラク戦争で同じことが起こっているのに世相が立ち上がってきません。ベトナムは映画や音楽にもなりましたが、イラクには人々は関心を示さないのです。戦争だけでなく、ビアフラの飢餓に対しては世界中がなんとかしろと立ち上がり、ジョージ・ハリスンも活動しました。しかし、今、スーダンについては報道されず、世界は関心を示しません。

 メディアの進化でよりリアルに同時代的に感知できると信じていましたが、逆でした。表現には欠落が大事なのです。情報量が少ない方に、より刺激されるのです。写真を見た時はその前後を考えるでしょう、欠落しているから、僕らは前のめりになって想像するのです。でもビデオはそれをさせない。イマジネーションは低下し、後は相互作用です。

メディアの持つ負の属性

 メディアは戦争や争いを促進する機能があるのです。Kさんが生放送で「ラジオって本当に何しゃべってもいいの?」と聞いてから、「北朝鮮が攻めてきても何ら恐れる必要はない。自衛隊の10の1で蹴散らせる。だいたい攻めてきません。北朝鮮もそんなバカじゃない」としゃべり、「テレビではこれ、言えないんだよ」と言っていました。テレビでこんなことを言うと視聴率が落ちて干されるからです。「危ない、こわい」と言った方が視聴率はアップするからです。

 人間は敵を求めるものなので、仮想敵を作れば安心し、それが終わればまた別の敵を作るのです。アメリカがまさにこれです。オウム事件のあった95年以来、異物がこわいとなって、異物がみつからなければ作るようになりました。その構造にメディアがのっかっています。市場原理の中で人々をあおっているのです。メディア・リテラシーの「リテラシー」は本来「識字」という意味です。1895年にはルミエール兄弟が映画を作り、3年後には浅草で活動写真が始まりました。ラジオは1920年です。数年後NHKが実験放送を始めました。ラジオは砂漠に雨が降るように世界中に広がりました。なぜでしょう? それまで文字を読める人は何人いたでしょう? 文字を読める人が少なかったので、それまで「マスメディア」といったものは存在できなかったのです。

 字が読めなくても存在できる映像、ラジオにはよい部分もありますが、副作用もありました。ファシズムです。映画とラジオが広がった時期にファシズムが起こったのです。ファシズムはそれ以前はありませんでした。映像とラジオを使って危機意識をどんどんあおり、やられる前に立ち上がれとプロパガンダを浸透させたのです。危機をあおるためにはメディアは不可欠です。戦争が終わって、ファシズムも終わりましたが、テレビというとてつもない化け物が現れ、それから50年、60年経って、メディアの持つ負の属性があらわになってきました。かつては僕も無邪気に番組を作っていましたが、今はとんでもないことになっています。納豆位はいいけれど、納豆と同じレベルで戦争とか憲法のことがもっともっとと消費されています。防衛庁が防衛省に昇格した日、テレビは松坂大輔の契約金の話題で持ちきりでした。みんなが関心を持つことをメディアは取り上げるからです。松坂の方がみんなの関心が高いので仕方がないのです。

 NHKは本来、市場原理から解放された、長いスパンで物事を見たり、ニュースの優先順位を決めたりできるオルタナティブだったはずです。民営化してNHKをつぶして、困るのは僕たちです。NHKの政治部はダメですが、現場は悩んでいます。若い人は悩んでいます。朝日はどうしてもっとがんばらなかったかと言っています。上層部がダメなんです。

いかに多面性を刺激するか

 オルタナティブ・メディアはネットの世界に生まれつつありますが、平均値を気にして、他と同調するというむずかしい国民性をもった日本人にそれができるのか疑問に思います。でもそんなことを言っていたらみんな死ぬのですね。日本で「自分の意見を持つ」「自分の意見を語る」という土壌はいかにして形作られるのでしょうか。事件、現象には多面性があります。普通は一番わかりやすく、刺激の強いところから見るのですが、ちょっと視点をずらすと違う部分が見えます。全部伝えるのは無理なので、どれかになってしまう。ドキュメンタリーがマスメディアと違うのは多面性を意識していることでしょう。「納豆問題」で「信頼を裏切って申し訳なかった」という言い方がされますが、それは間違いです。テレビを信頼してはいけないのであって、嘘を見抜けなかったのです。見抜くのは無理としても、多面性を意識し、今、ここで伝えているのは一つの見方であり、視点を変えればいくつでもあるということを覚えておかなければなりません。

 ドキュメンタリーは単純化、簡略化しつつも、いかに多面性を刺激するかを考えており、複雑な世界を複雑なままにして、答を出さない、というよりも答が出せないものです。最近ジョージ・オーウェルの「1984年」を読み返しました。あのBIG  BROTHERは1回も登場しない。つまり存在しないのに、忖度しているのだと気がつきました。独裁の方が安全だと、勝手に夢想してフェイクしているのです。悪い人がコントロールしているのではなく、みんなが自縄自縛しているのです。ブッシュも安倍も悪意を持っているのではなく、よかれと思っている。善意があるからこわいのです。

筆者の感想

 森さんの話を聞くのは2度目ですが、いつも全面的に共感します。「文明の進化」は決して良いことばかりではないと、筆者は1970年代初めから感じていますが、メディアに関してもやはりそうなのだと思わされます。不便なこと、欠落していること、不十分なこと・・・それらがあってこそ、人間は人間らしく感じ、想像し、創造したのだと思うと、すべてが「過剰」の中で育った子どもたちがかわいそうでならなくなるのです。また、ブッシュも安倍もよかれと思っているという指摘がすばらしく鋭く、こわいです。すべての戦争は大義のもとに始められる「自衛戦争」です。彼らはそれを「名目」にしているのだと思いがちですが、心底そう信じているのでしょう。それに対抗するにはこのことを自覚しなければなりません。
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by lumokurago | 2007-06-09 22:25 | JANJAN記事
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