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水俣病 隠し、無視され続けた私の半世紀―緒方正実さんに聞く

水俣病 隠し、無視され続けた私の半世紀―緒方正実さんに聞く

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 緒方正実さん(左)と最首悟さん

 9月19日、「えどがわ・水俣まつり」の企画のひとつとして、「わが水俣病―緒方正実さんに聞く」という講演会が行われました。聞き手は最首悟さん(和光大学名誉教授)でした。

◇ ◇ ◇

 最首:僕は71歳で、水俣では女島に入り、研究をしてきました。僕はぜんそく、結核、肺がんです。140cm、40kgの31歳の娘を負ぶわなければならないので、体力はありますが、そろそろ限界かな。字を書くと手が震えるのですが、筆なら震えないです。片腕の手首から肘の感覚がないです。また45cmの肺がんの手術跡がこむら返りをおこし、息がつまるんです。それからこむら返りの変形か、胸が苦しくなることがありますが、医師は原因不明と言っています。71歳のおじいさんです。

 緒方さんは建具屋をやっているので、水俣病はないだろうという先入観を持たれ、子どもの時から症状があるのに無視されてしまった。長いたたかいの末、2007年3月についに認定されました。このことをめぐって、法人としての県とか国、公人と私人ということについて考えてこられた。その辺についてお話してください。

 緒方:月の浦から来ました。申し立ててから10年、被害にあってから50年、今年の3月15日に水俣病患者として県知事から認定されました。このことを考えていただきたいと思います。被害を受けながら、自ら訴え、証明しなければならない水俣病、そのことで被害者がどんなにつらいか、なぜ国が被害を掘り起こさなかったのか? つらいことです。

 11年前、1996年まで私は被害を隠しとおしてきました。水俣病から逃げ続けていました。祖父は急性劇症で狂死しました。妹は重度の胎児性患者です。認定された人が親族に20人います。ほとんど全員ということです。まわりは救済を求める人がほとんどですが、私は水俣病のレッテルを貼られたくない一心で必死に逃げまくっていました。水俣病イコール差別だったからです。

 悪いことをしていないのに差別されました。じいちゃんは「奇病」「伝染病」と言われ、「緒方家に近寄るな」と言われました。その後、伝染病ではなく有機水銀中毒とわかりましたが、差別のつらい思いは心の中にぎっしりつまっていて、こわくて水俣病を口にすることができませんでした。誰が見ても重度の妹は認定申請しましたが、私は一見して水俣病と思う人は少ないので、ごまかそうと思えばごまかせました。長い人生を生きていこうとする時に、つらい水俣病を背負う必要はない、水俣病を背負えばさらに苦しい人生になると心のどこかで思いました。そうしてごまかしてきた38年でした。

 転機は11年前、政治解決策が打ち出された時、訪れました。私も権利のある1人でしたが、当初は手を挙げたくなく、完全に水俣病から逃げきろうと思っていましたが、まわりの人が放っておかなかったのです。やせ我慢は必要ない、なりたくてなったのではないからと必死で救済を受けるようにすすめられました。

 自分の中でものすごく格闘して、そして手を挙げました。「水俣病を引き受けなければならない」という思いと「取り消そう」という思いの繰り返しでものすごくつらかったです。その政治決着は「あなたは水俣病ではない。しかし一定の症状のある人を救います」というものでした。私のために作られたようなもので、水俣病のレッテルを貼られず、一定の救済を受けられるので、都合がよく、少し落ち着きが生まれるかなと思いました。

 普通はそこで終わるわけでしたが、まさかの結果となりました。居住歴を満たしていない、症状を確認できない、水俣病と関係ないというのです。そんなことはないのです。2歳の時の水銀値が226ppmもあったのですから。WHOの規定では50ppmを超せば何らか症状が出るだろうとなっています。水俣病と関係ないということはないのに、県は平気で関係ないと言いました。それまで逃げ続けていた38年の人生を考えれば、熊本県がそう行った時、喜ぶべきでしたが、喜べませんでした。

 水俣病にどっぷりつかった38年でした。両親が、妹が、じいちゃんが……「関係ない」と言われて、この38年間がなかったのだと突きつけられたような気がして、人間として認めてくれないのかと思いました。大げさのように聞こえても仕方がないが、楽しいこと、苦しいこと、いろいろあった38年間なのに、私はこの世にいないとでも言うのかと思いました。このことで水俣病に対する考えが一変しました。水俣病かと聞かれても「違います」と言っていたが、このことをきっかけに訴えるようになりました。いくら逃げようとしても逃げることはできないのだと自分に言い聞かせました。

 水俣病と正面から向かい合って、県に対して「あなたの判断はこう間違っている」とていねいに言ってあげれば、わかってもらえると思っていました。返事は「わかっています」でした。「だったらなんでこういう結果になるんですか?」と聞いたら、「政治解決策だから、水俣病かどうかは問題でない。たとえ間違いでも文句は言えませんよ。政治が変わればいつか認定されますよ」と言われました。それまで待てますか? 水俣病かどうかは問題ではなく、その態度が許せなかった。人間を人間と思わない行政のしくみが許せなかったのです。

 「水俣病は終わった」と言われた95年に1人で県とたたかう決意をしました。どうなるか、先のことは考えませんでした。ただ許せなかった。怒りの中で冷静に考え、行政相手に感情で突っ走っても破滅するだけと思い、あえて行政の作った法の中で主張していこうと、「公害健康被害の補償等に関する法律」(以下「公健法」)で認定申請しました。まわりからは「公健法」で救済されなかった人が政治決着というのはありうるが、反対はありえないよとよく言われました。でも私は一回も「公健法」でやったことはなく、救済を受けようという気はなく、世の中が認める形を作りたかったのです。

 そして、自分で実際にたたかっていないのに裁判をするのではなく、「公健法」で「ずさんな結果を出しているんですよ。どうしてこういうずさんなことをするのか。もっとしっかりしなさいよ」という気持でした。私は行政は世の中がよくなるように仕事をしているものと信頼感を持ち、尊敬もしていました。自分の親的存在と思っていたのに、その親から突き放された気がしました。行政に対して「立ち直ってくれ」という意味合いもあったのです。

 「公健法」の中で1度棄却され、2度、3度とできるので4回行いました。政治決着で私を切り捨てた県がずさんなことを繰り返し行っていたことが、私の申請によって判明しました。95年に切られたことにつながる、また棄却につながるできごとが10年の間に何回も判明しました。その一つは、認定審査会の中で私の小中学校の成績証明書を勝手に使用したことです。これは法的にも罪になります。もう1つは疫学調査の被害状況の親族の職業欄のことです。私が答えたことをそのまま書くなら何の問題もないのですが、おじさん、おばさんの「無職」を「ブラブラ」と記載したのです。3つ目は眼科の視野狭窄についてで「あなたの環境と人格に問題がある」と書かれました。つまり「ウソを言っているんだろう」ということです。

 そういうことを平気で県は私に対して行いました。天皇や総理大臣、県知事たちが申請したら、「ブラブラ」と記載するでしょうか? なぜ私にそういうことを行ったのか? 無意識の中で見下しているのです。私はそのことに死に物狂いでたたかいました。「こういうことだから、あなたたちが被害者をバカにしているから解決しないんだ、気づいてますか、気づいていないんでしょ」と訴えた。気づくか気づかないかです。「困っている人を救おうという気持がなければ救えないんですよ、言ってることとしてることが違う」と。 

 県知事は素直に「緒方の言うとおりです。差別していました、見下していましたと言わざるを得ません」と3回公式に謝罪しました。謝罪したことで解決に向かっていると確信しました。もちろん人間はすべての人がどこかに差別する気持を持っています。でも水俣病は国が起こした公害病で、それとは違うのです。戦後経済復興の中で50年もほったらかしにしてきたことは許されることではありません。

 最首:思いが深いので、とてもこの位の時間では語りきることはできません。問題は行政です。認定を全部医学に頼っている。77年に純医学的判断で両側の感覚障害プラス視野狭窄などもう1つの障害がなければ水俣病ではないとされた。それで認定がほとんど出なくなりました。棄却された人が納得せず、未認定の人が1万人を超しました。

 九州出身の村山首相が、「今後水俣病と言わない」ことを条件にして260万円のお見舞金を1万人に出しました。正実さんは「あなたはこれにも入りません」と言われた。医者が「それまで申請していないのは症状がなかったからだ」と言ったのです。水俣病を認定できるのは熊本、鹿児島、新潟、国の4つの認定審査会だけで、普通の医師ではできないのです。96年に正実さんが棄却されたのは医者の判断です。今の審査会の認定する水俣病はごく一部の水俣病となってきています。有機水銀が脳にどうはたらいているかはほとんどわかっていません。水俣病は神経がやられるので両側性、片側だけなら脳梗塞とされています。

 緒方:幼少の時、よだれがひどく、普通はよだれで病院に連れて行こうとは考えられないですが、交通不便でも連れて行かれたほどです。垂れ流し状態だったのです。でもだんだんよくなっていきました。「治らない」というのは正確かどうか?

 最首:回復してくることもあるのです。体毛の異常はどうですか?

 緒方:なんでこんなこと言わなあかんのかな? わかってもらうために言います。腋毛、眉毛が生えてきません。眉毛は「みっともない」と言われ、365日描いています。国立水俣病研究センターに調べてほしいと申し出ましたが、こんな症状は1件もないとされました。しかし、ネコの実験ではほとんどの体毛が抜け落ちました。見た目で水俣病を判断してしまうから50年も解決できないのです。体毛が有機水銀のせいとは言いませんが、認定された私の中で起きていることです。水俣病を解明していくために必要な研究だと思います。

 最首:建具屋さんということで手先の細かい仕事をしていらっしゃいます。

 緒方:小さい時から物を作ることに興味がありました。中学卒業後、20歳近くまで漁師をしていましたが、交通事故でできなくなりました。障子、ドア、襖を作る木工に弟子入りして10年修行して30歳で独立しました。努力、苦労は並大抵ではありませんでした。毎日仕事していると、針を刺しても痛くない位の時と、調子のいい時があります。砥石で小指を一緒に研いでしまい、血を見てやっと気づくこともあります。有機水銀さえなければ優れた技術を持てたかもな、と思うこともあります。口で書く人がどれだけ努力したかを思えば、毎日努力していれば不可能なことはないんだと思います。

 最首:医学は白か黒か、割り切りです。内部では「正実さんのような水俣病もある」と言っています。症状に波があるんだろうということも言っています。どうしてこんな医学なのかといえば、行政がそうお願いしたからですが、それを認める医学って何でしょうか? 4つの認定審査会は2004年10月の関西訴訟の最高裁判決後、4つ全部休止しました。今年の3月10日に2年7か月ぶりに審査会が開かれ、15日に認定の報せを受けたのです。

 正実さんの「県知事も人間だった」という言葉に「それはおかしいんじゃないか」という声もあります。「非人間の公人だけではなく、人間の知事もいる」というと「甘い!」という人もいます。人間が顔を出す時もあり得るのですが、そうそう出さないのでみんな苦しむのです。

 緒方:人間は正直に素直に生きなければならない、ひとりの人間の力はそれしかない、そうやって訴えてきました。県行政も素直に正直に返してくれるようになりました。普通の近所のおばさんのように返してくれます。県知事は「10年間苦しみ続けてきた事実を認めます。全責任は私にある。許してください」と電話で謝りました。やっと私の訴えが届いた、「聞いてくれてありがとう」という気持、感謝の気持に変わり、行政を許すきっかけになりました。

 これが正直な気持です。ウソをつくと今後生きて行けないと思うので正直に言おうと思いました。言ったら「県に感謝するなんて!」と非難されました。ゴマをすろうという気持ちはなかった。水俣病の本質を考えると言える言葉ではありませんが、けど、中には「ありがとう」もあります。10年前、何があっても許すものか」でしたが、ことと次第によって人間は変わっていくのです。

 最首:語りにくいことも話していただいた貴重な時間でした。ありがとうございました。
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by lumokurago | 2007-09-25 11:20 | JANJAN記事
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