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今でも物が捨てられません

これは私が取材して「杉並の教育を考えるみんなの会」のHPに掲載した戦争体験の聞書きですが、とてもよい内容なので、ここで紹介します。

◆ 今でも物が捨てられません 【戦争体験の証言集 その1)

(荻窪在住Nさん・1939年生まれ・66歳)

私は浅草橋で生まれました。戦争が激しくなって、物心つくかつかない頃、世田谷の用賀に疎開しました。その頃の用賀は田舎だったのです。庭を畑にして、周囲に花を植えていたのを覚えています。防空壕 も掘りましたが、役にも立たない代物でした。家が焼けた時に備えて、茶碗等を庭に埋めたりしていました。

たぶん東京大空襲の時だと思いますが、東の空が真っ赤になっているのを見ました。その後、伯母の家があった栃木県の那須、芭蕉の歩いた道として有名な遊行柳のあるところに縁故疎開しました。黒磯に陸軍の工場があったので、焼夷弾が降ってきて、畑にも家の軒下にも落とされました。

御殿山という裏の山に横穴式の防空壕が掘ってあって、周囲の人が皆、逃げていきました。私たちも逃げていきましたが、東京者だからと入れてもらえず、畑のトマトか何か の間に隠れたことを覚えています。焼夷弾がたくさん降ってきて、とてもこわかったです。

東京から一緒に疎開した伯母(父の姉)が、那須のもう一人の伯母にいじめられてよく泣いていました。那須の伯母は強い人であまり好きではなかったのですが、今ではいつも「遊びに来て」と言ってくれます。子どもの頃と全く違うおばさんになったなあと、戦争にな り食べるものもなく貧しいと、人の心は変わるとわかりました。物が豊かになると人間らしい心になるのです。

父は結核で兵隊には行かず、1945年8月17日に亡くなりました。今から考えると気の毒だったと思います。父は病気になって仕事はどうしていたのか、給料をもらっていたのかはわかりません。

戦後、伯母と一緒に帰京しました。配給がさつまいもばかりで、食べるものがなくて大変でした。母の苦労は並大抵ではなかったと思います。子どもに食べさせようと農家に買出しに行き、着物と引換えに、食料をもらってきました。用賀では畑も作っており、近所の魚屋さんに働きに行き、そのうち再婚しました。昭和24年、10歳違いで妹が生まれました。

1946年4月に小学校に入学しました。墨塗り教科書でしたが、墨を塗ったのは誰かわかりません。
何もないので父の背広からかばん、ぞうり袋、服を作って写真屋で写真を撮りました。かばんと靴は抽選で、抽選にはずれると何もなかったのです。 下駄履きの子もたくさんいました。入学式は校庭でした。明治一桁にできた古い小学校でした。二部授業で、青空教室でした。雨が降ると階段で授業をしていました。東条英機の家のすぐ近くで、東条の息子が 上級生でした。

東京では貧しくてもみんな助け合って、隣近所は仲良くしていました。母が働きに行っていた魚屋は弟の同級生の家でした。食べるもの、お金のみじめさはあったけれど、精神的な貧しさはなかったと思います。 那須では、9歳か10歳位の従兄が母親を助けるために、肥桶をかついで畑にまいていました。

戦争というと、貧しかったことしか思い浮かびません。あとは疎開中のみじめさ、いじめです。従兄は東大に入ったので、今、那須の家に花見に帰ると、いじめておいたくせに人が寄って来るので笑ってしまいます。戦争のこと、貧しい時代のことは幼心に覚えていて、今でも「戦争になったら・・・必要になるんだから」と物を捨てることができません。鉛筆一本でも最後まで使わなければ買ってもらえないので、サックして使い、つないで使い・・・ 洋服など、お下がりは当たり前でした。

戦争は人の心を悪くします。二度とやってはいけないと思います。でも、私のまわりには「つくる会」教科書を読んでも「懐かしいわね」などと言って、事の重大さを理解しない人がほとんどです。その人たちも戦争は二度とやってはいけないと思って いるのですが、戦争と「つくる会」教科書、戦争と国家の関係が理解できないのです。
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by lumokurago | 2007-11-09 00:31 | 戦争体験の証言集
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