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植民地の生活

◆ 植民地の生活 (戦争体験の証言集 その2)

本天沼在住Kさん・1926(大正15)年生まれ・79歳

私は旧満州のシヘイガイというところで生まれ、大連に移って、大連に20年間いました。引きあげてきたのは昭和22年です。

戦争中は日本の植民地だったので、日本の権力がすごく、日本人はいい生活をしていました。中国人は下積みでした。中国人でもごく一部の大地主などは、広いお屋敷に妾を何人も囲ってすごい生活でした。本妻と妾の入る家が全部違うのです。

父は山梨県出身で、家の跡取りでしたが、弟たちも多く、祖父が病に倒れ、不況で借金取りも来る生活だったので、このままでは一家全滅になると思い、満州に渡り、満鉄消費組合の委託を受けて商売をやっていました。中国人を10人位使い、店の2階に住んでいましたが、12畳とか10畳もある大きな部屋でした。満州には貧乏な日本人はいませんでした。中国人を搾取し、日本人は外地手当もついて、給料がよかったのです。引きあげてきて日本の家の小ささにびっくりしました。

父は山梨の実家の土地を買い戻し、嫁いだ姉の土地も買い戻しています。自分の弟、2人が中学を卒業すると師範学校へ入れ、下の弟は大連の工業専門学校に入れ、3年間同居しました。また、母の弟を上海の東亜同文書院大学へ入学させ、学費を負担しました。母の姉夫婦が亡くなり、2人の中学生と女子商業の子どももひきとりました。私が物心ついた頃は、家族だけの生活はほとんどありませんでした。夕食の時も、家族だけということはなく、家族7人、従業員2人、従妹弟2人、お手伝いさんと10人以上でした。おかずが足りなくなると、店から缶詰等を持ってきて追加しました。

うちは店だったので、高価なチョコレート等がありましたので、遠足の時、持って行ってみんなに配りたかったのですが、学校で十銭までと決められていたので、持たせてもらえませんでした。母は何かにつけて、「世の中には、食べられない人がたくさんいる。物を大切にしなければならない」と言っていました。着物などはたくさん持っていませんでした。母が外出する時、おしゃれ姿を見たことがありません。しかし、本箱は大きいのが6個ほどあり、本がたくさんつまっていました。あんなに忙しい母がいつ読んだのか不思議です。後で聞くと、赤ちゃんにお乳を飲ませながら読んだらしいです。

戦争も激しくなり、ある日突然、警察官が土足のままドヤドヤと2階へ上がってきて、本箱の本をぶん投げ、私は何事かとびっくりして見ていました。後で聞いた話ですが、母が通っていた教会の牧師が、天皇に失礼になることを書いたらしいのです。母は、教会の婦人部の役員をしていたので、敢然として2000年前のイエス・キリストと現在の天皇をくらべるのはおかしいと答え、3日間、留置所へぶち込まれました。

私は師範学校へ行きましたが、国語、地理、歴史・・・戦争と関係のある教科は、何でも天皇に結びつけて教えられました。何でも「天皇陛下のために」とやられるのです。そんなのに反対したら大変だから黙っていましたが、おかしいと思っていました。中国人の子どもにも「天皇陛下ありがとうございます」と言わせ、天皇の言葉を聞く時は直立不動でした。

戦争はどんどん激しくなり、父は店を止め、平和な家庭に戻ったのもつかの間、昭和18年に父は発疹チブスで亡くなりました。

終戦になった時はほっとしましたが、すぐにソ連兵が来て、時計や電球の球、大連にあった金目の物をみんな持って行きました。次に国民軍が来て、それから共産党が来ました。共産党と協定を結び、技術者を100人位残して、引きあげました。お金のあった人は終戦後すぐに適当に帰ったらしいけれど、私たちはお金がなかったのですぐには帰れませんでした。帰りたくない人もいて、30年もいた人もいます。

終戦になってからが、父も亡くなっていたし、大変でした。家族みんなが働いていました。上の弟は少年飛行隊で九州にいったけれど、飛行機がなく、すぐに終戦になったので、死なずにすみました。

戦後は2度引越し、3世帯が同じ家に住んでいました。私は引きあげてきた時、22歳になっていたので、満州の方が懐かしいです。引きあげの一時期は大変だったけれど、日本人はいい生活をしていたので、楽しかったです。今でも小学校、女学校、師範学校など、学校の同窓会が5つ位あります。

今、日本はアメリカの属国になって、一緒に戦争しようとしていますね。若い人には戦争が実際どんなものかがわからないのでしょう。私は植民地にいたので知りませんが、内地は大変でした。植民地のいい暮らしも中国人を搾取していたからできたことです。戦争だけは絶対にやってはいけません。
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by lumokurago | 2007-11-09 22:23 | 戦争体験の証言集
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