暗川  


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にわか障害者の思ったこと(1981年)

私は1980年4月に左股関節の手術を受けました。その1年前位からほんの少し歩いただけで左股関節が痛くなってほとんど歩けなくなりました。生まれつき大腿骨骨頭を覆っている球蓋が短く、子どもで体重が軽いうちは支えていたので痛みも出なかったが、大人になってしばらくたち(痛みが出たのは25歳時)支えきれなくなって痛みが出てきたとのことでした。いろんな病院に行きましたが、足におもりをつけてひっぱる程度の治療しかなく、ハリ治療、カイロなどなどを試みましたが、改善しませんでした。そこにちょうどテレビにこの病気の手術のうまい医師が紹介されていて、その病院に行き、結局手術することになったのです。





球蓋に自分の腰から取った骨を継ぎ足し、大腿骨を切って回転させ、球蓋との座りをよくするという「回転骨切り術」というおそろしげな術式でした。大手術である上、失敗もあり、成功しても健常者と同じというわけにはいかない人が多かったようです。しかし私はもとの形がよかったとのことで手術が大成功した例で、平地ならばいくらでも歩けるようになり、教授は私のレントゲン写真を授業に使っていました。

走ること、山登り、スキーは止められましたが、私は数年後からやっていました。股関節をかばっているので左足の腿の筋肉が大変発達しています。しかしそれでもかばいきれず、ずっと腰痛持ちで山登りやスキーでは膝が痛くなります。山が大好きなので、その膝の痛みに耐えつつ、かなり登っていました。(今ではほとんど海に転向しました)。

ここに載せるのは松葉杖、車椅子の経験をして感じたことと、当時ちょうど学童クラブへの「障害」児の受け入れ問題が出てきたので、そのことについて書いたものです。「80年代」という雑誌に掲載されました。あれから25年も経ちますが、残念なことに状況は本質的には変わっていません。

にわか障害者の思ったこと

健常者のためだけの社会

私はよくこういう夢にうなされる。自分が長い長い急な階段のてっぺんに立っていて、早く下に降りなければならないのだが、見下ろすと、階段は奈落の底に通じているかのように、はるか下まで果てしなく続いていて、目がくらんでしまう。それでも降りなければならないので、てすりに必死につかまりながら、一歩、また一歩と降りる。ところが足がいうことをきかず、私はころげ落ちる。そして目が覚める。「あー、夢だったのか」とホッとしてまた眠りにつくと、また同じ夢を見る。どうしても階段が降りられないのだ。そしてまた夢を見る。今度はちゃんと降りられる夢。「やっぱり私の足は治ったんだ。さっきはどうして降りられなかったんだろう」と夢の中で思う。そして、もう一度降りられない夢。


なぜこんな夢を見るのかはわかっている。昨年4月に足の手術をして、2ヶ月後に退院してから数ヶ月間、松葉杖を使っていて、それも初めの1ヶ月は悪い方の足を絶対に下につけてはいけなくて(荷重してはいけないという意味。もし荷重したり転んだりしたら再手術になると医者に脅かされていた)。いい方の足1本と松葉杖だけが頼りの生活をしていて、会談にものすごい恐怖心を抱いていたからである。登りはまだ下が見えないからいいのだが、下りとなると恐ろしい谷底にわずかな足がかりを頼りにおっかなびっくり降りていく思いなのである。山の、難所と言われる岩場の下りなど、比べ物にならないほどのこわさと心細さである。

「そんなら家にいればいいじゃないか」と言われる方もいるだろうが、1週間や2週間ならいいかもしれないが、1か月単位で家に閉じこもっていると、気はめいるばかりで精神状態はひどくなる一方である。今考えると私が生まれて以来、最悪の精神状態だったと思う。この経験からも私は生命にかかわる病気ではない「障害者」や「精神病患者」を施設や病院に隔離することは、絶対に間違っていると実感している。足がちょっと悪い程度であとはピンピンしていた私でさえノイローゼの一歩手前位までいったのだから、精神的に不安定な人を隔離するなど症状を悪化させるだけであると思う。私はそんな最悪の精神状態でいつづけたら気が狂うかもしれないと本気で考え、自分でその状態を打開しようと努力して外に出るようにした。

駅まではとても歩いて行けないので、まずバス停まで歩いてバスを待ち、バスの乗り口の高いステップを松葉杖を2本まとめて左手に持ち、右手でてすりにつかまって、いい方の足でジャンプして飛び乗り、駅の階段をまわりの人がぶつかってくるのではないかと気にしながら、全神経を「転ばないこと」に集中させて突破する。私と一緒にリハビリテーションに通っていたおじさんは、退院した翌日、病院へ行くバスに乗る際、転んで病状が悪化してしまった。再手術にならなかったのは不幸中の幸いであった。その話を聞いて、一緒にリハビリに通っていた人たちは、「こわくてバスには乗れないね」と言い合っていた。お上は障害者はタクシーに乗れと言うのか。ただでさえ入院したり治療したりすれば、お金が信じられない位の速さで飛んでいくのに、この上タクシーに乗れと言うのか。金は誰が払うのか。

松葉杖で表を歩いていても、普通の人(健常者)はほとんど気を使ってくれない。こっちは「転んだら再手術だ」と必死の思いで、まさに足1本をかけてピョコタンピョコタン歩いているのに、ぶつかりそうになっても道を譲ってくれる人は稀だし、電車の中で席を譲ってくれる人も稀(譲ってくれた人のことは今でも全員覚えている)。ひどい人などは階段でぶつかってくる。病院のリハビリの先生は、私が人が来た時よけようとすると、「向こうがよけてくれるからそのままでいなさい」と言っていたが、そうしてくれるのは病院内の人たちだけで、外に出ればそういう人ばかりではない。でも、松葉杖が使えれば、階段のこわさに耐えれば、もちろん長い距離など歩けないし荷物も持てないが、ある程度の外出はできる。普通の人とは比ぶべくもないが。

しかし車椅子となると話はもっともっとひどくなる。車椅子では階段は登れない。バスにも電車にも乗れない。それどころか道路も満足に歩けない(交通の邪魔だ!)。ほんの2、3センチの段もひとりでは越えられない。坂道は登れない。下りはスピードがついてやはりダメ。ほんとにひとりではどこにも行けないのだ。

私は数回、7階の病室からエレベーターで下に降り、ちょっとした坂(車椅子にとっては。普通の人は「坂」とは認識しないだろう)を通って外に出、病院の前の道路を横切って、ポストに手紙を入れに行ったことがある。また、別の病棟にリハビリテーション部があって、そこに行く時は長い坂道(ゆるい坂だし、長さも20メートル位だが、車椅子にとっては)を通るのだが、その時に感じたことがある。車椅子がどういうものかをよく知っている病院関係者は、エレベーターの乗り降りや坂道の登りなどに気を使ってくれるのだが、外からの見舞客のような人は全くそうではないのである。その違いは顕著なものであった。エレベーターの前に車椅子がいるのに、自分たちだけさっさと乗ったり、車椅子を置いてけぼりにしてさっさと降りたり。私と同室だった人はあやうくエレベーターにはさまれそうになった。私はエレベーターに乗ったら「すみません、向きを変えますから」と言って場所をあけてもらって向きを変え(というのはバックでは降りる時大変だから)、すぐ降りられるように一番前に行くようにした。

坂道の上りでは(坂道の上りと言っても前述したように普通の人は坂とも認識しない程度のゆるい坂で病院内なので距離も短い)、初め見舞客のような人が押してもくれず通り過ぎていくと、こちらも意地でも頼んでなんかやるものかと、手に力を入れてバックしそうになるのをこらえ、必死に押していた。しかしそれでは通り過ぎていく見舞客のためにもよくないと気がつき(彼らはこれを坂とも感じていないのだから)、できるだけ頼もうと思ったが、実際はこちらが必死で押している時に、向こうはすごいスピードで(車椅子から見れば)通り過ぎて行ってしまうので、なかなかその機会がつかめなかった。

私は右足が健康だったので、2~3センチの段は、右足を下につけて体重を支え、手で瞬間的に車椅子を持ち上げて段を越すというやり方で越えることができた。しかし、両足とも不自由な人は、人に持ち上げてもらわぬ限り、それっぽっちの段でも越すことはできない。道を横切る時は、これも下り(歩道→車道)はいいが、登り(車道→歩道)は苦労だった。車道と歩道の境目がどうなっているか詳しく観察したことのある人はほとんどいないと思うが、断面図は下図のようになっている。


これは車椅子には2重の苦労である。上右図のように、段があってもその先が平らになっている場合は、段を越える苦労だけですむが、左図のように段の先にほんの少しでも上り坂があると、段を越えてホッとする間もなく、ずり落ちないように必死で車をこがなければならないからである。普段、段など気にもとめず、1歩で乗り越えている健常者はこの段というものが車椅子にとってどういう存在なのか考えてみたこともないだろう。私自身、実際に車椅子を使ってみるまでは想像もしないことであった。階段はともかく、これっぽっちの段が、車椅子にとってはこんなに大きな障害であったなんて。

このようにこの社会の構造は、健常者にとってのみ有利なようにできあがっている。健常者は少しくらいの階段があっても平気だから、線路を高架線にして踏切をなくし、車の渋滞の緩和をはかっている。道路には歩道橋を作る。このような例を挙げればきりがないだろう。しかし、このように構造からして障害者を排除していて、何の社会と言えるだろう。社会というものは障害者や子ども、老人など弱者こそが住みやすいように作られるべきものではないだろうか。

車輪の一歩

以前、NHKで車椅子の青年たちと健常者との交流を描いたドラマがあった。「車輪の一歩」という題で、山田太一氏の脚本であった。車椅子の青年数人が健常者への恨みを晴らすために、若い兄妹にとりついて、車椅子の苦労を体験させようとするところからドラマは始まる。彼らは単に恨みを晴らすことだけを考えて、映画を見たいと言っては映画館の入口の階段を車椅子をかついで登らせたり、アパートを追い出されたと兄妹のアパートに転がり込んできたりする。しかし兄妹はそのことに対して全く悪く受け取らず、親身になってアパートを探したりする。しかし、障害者が住むとわかっただけで、どのアパートからも断られたりして、兄妹は視聴者と共に、障害者がこの社会からどれだけ邪魔者扱いされているのかを知るようになる。そして、車椅子の青年たちを応援しようという意志を強く持つようになる。

ここに一人の車椅子の少女が登場し、彼女は以前何かあったのか、全く外に出ようとせず、毎日家に閉じこもって暮らしている。車椅子の青年たちは彼女を何とかして外に連れ出そうとする。しかし、1回は彼女が失禁してしまい、1回は線路のレールの間に車椅子の車がはまって危険な目にあい、少女はますます家に閉じこもるようになってしまう。青年たちも少女の車がレールにはまってしまった時、何もできなかった自分たちの無力さ加減に、少女を外に連れ出そうとした自分たちの気持にも自信をなくしてしまう。

この少女や青年たちは共通に、自分たちは外に出るとみんなに迷惑をかけると思っており、そのために少女は家に閉じこもるし、青年たちは外には出るが自分たちで何もかもやろうとするから、当然無理が出てくる。それに対して、健常者であり、例の兄妹の上司である年輩の男はこう言う。「君たちは外に出るとみんなに迷惑をかけると思っているが、それは決して迷惑なんかじゃない」。言い回しまでは覚えていないが、障害者にも外に出る権利があるのだから、外に出る際、自分一人ではできないことがあれば、それを健常者に助けてもらうことは、決して迷惑をかけることではなく、当然なことなのだという風に私は受け取った。

そう言われてから彼らは、外に出る時、健常者の助けを借りることに偏見を持たなくなり、堂々と助けを要求するようになる。駅員には階段を車椅子をかついて登ることを要求するし、あんなにかたくなだった少女も、とうとう外に出て、階段の前で「誰か、私を上まであげてください」と大きな声で言えるようになる。そしてすぐにではないけれど、何度か少女が訴えるうちに、運んでくれる人が現れるところでドラマは終わる。

私はこの年輩の男と同じことを考えていたので、「そうだ、そうだ」という感じで見ていたのだが、一緒に見ていた父は「とてもいいドラマだった。ああいう考え方もあるのだということがわかった」と言っていた。そうだ、こればドラマになるということは、この年輩の男のような考え方が社会全体のものとはなっていないことの証拠だということなのである。ざんねんながら。

この年輩の男は、「障害者も外に出る『権利』がある」という言い方をしていたと記憶しているが、私は「権利」以前の問題として「障害者も外に出るのが『自然』なのだ」と言いたい。障害者も健常者と変わらぬ生活をするのが自然なことで、「障害」者はどこかに「障害」があって普通の人と同じようにはできないのだから、それはまわりにいる健常者が補うのが当然なことであると思う。車椅子を階段の上まであげることは、健常者にとって「迷惑」でもなければ「親切」でもない。それはごく「自然」なことなのだ。

しかし私はこのドラマを見ている間中、こんなことできるわけないと思いつづけていた。それは絶望的と言えるほどの怒りにつながっていた。なぜならば、この青年たちが外に出ようとし、この年輩の男が「健常者の助けを借りることは迷惑なんかじゃない」と言っていても、街には車椅子用のトイレなど皆無に等しいからだ。

健常者も障害者もない世界へ

私たちはこの「健常者だけのための社会」に住み、物心両面において障害者を排除している。障害者はそういう社会において健常者と一緒に生活することは物理的にも心理的にも困難なので、施設に入れられたり家に閉じこもらされたりしている。そのように障害者が自分たちに見えるところから隔離されてしまっているので、健常者は自分たちが障害者を排除していること、自分たちが排除した障害者が普段一体どんな生活をしているのかということについて自覚する機会を持たない。子どもの頃から障害者と一緒に普通に生活していて身近に障害者の友だちもいれば、彼らがどういうところで不自由なのかがよくわかり、自然に助け合える大人になっていたと思うが、不幸にして私たちはそうではない。車椅子についての知識も皆無である。身近に接したことがないので、障害者に対しどうしたらいいのかがわからない。この文の前の方に、私が車椅子を使っていた頃、また松葉杖の頃、健常者が配慮してくれなかったことを書いたが、彼らが意地悪でそうしていたのだとは思いたくないし、思わない。みんな車椅子や松葉杖がどういうものであるかを知らないから、配慮することができないのだと思う。また、白い杖をついた人が歩いていた時、手をひいてあげた方がいいのか、そんなことをするとかえって逆に彼のプライドを傷つけてしまうのではないか等々、やさしい人もそんなことを思い悩んでしまう。これも障害者に対する無知と、そこから来る不安のためなのだろう。なぜもっと自然にできないのだろう。私たち五体満足な者は、目の見えない人の目となり、足のない人の足となるのが当然のことなのに。

今、学童クラブでは、障害児の受け入れについて話し合っているが、障害児受け入れの際、障害児の「発達成長」ということを大前提に考えている人の多いのに驚いた。「発達成長」を大前提とすると、まず、健常児との混合保育の中で「発達成長」できる「程度」の障害児のみ受け入れ、次に混合保育して、健常児、障害児共に「発達成長」できる「適正な」、健常児に対する障害児の割合(枠)までしか受け入れないということらしい。しかし、この社会全体に「適正な」障害者の枠などあり得ない。好きで障害者として生まれてくるわけではないのだし、私だって今日にでも交通事故にでも遭って障害者になるかもしれないのである。こんなに空気も水も汚染され、毒に囲まれて生活している私たちだから、将来障害児を産む可能性だって大きくなる一方であろう。私は障害児を「発達成長」のために受け入れるという考え方はおかしいと思う。障害児が「いる」から受け入れるにすぎない。

「発達成長」を前提にすると、職員の立場はどうなるのだろうか。「発達成長」を目的として障害児を受け入れたとすると、職員は障害児の「発達成長」を保障する立場となる。これは極端な例かもしれないが、例えば杉並の学童クラブの中には、健常児も含め子どもの「発達成長」のために1泊キャンプなどの行事を行っているところもある。しかし私は今のところ足のため無理がきかないので、1泊キャンプなどとてもやることはできない。ということは私は子どもの「発達成長」を保障できない職員なのだろうか。万一、私の足がもっと悪くなり、車椅子、或いは松葉杖になったらどうなるのだろう。子どもたちを公園に連れていくどころか、こっちが連れて行ってもらうことになる。行事の準備など何もできないだろう。その時私は子どもの「発達成長」を保障できない職員ということでクビになるのだろうか。そんなむちゃくちゃなことってあるだろうか! こう考えてくると、「発達成長」という考え方には無理があるということがわかると思う。職員にも障害者がいたっていいのだし(誰がいつ障害者になるかもわからないのだし)、子どもにも障害者がいたっていいのだ。「発達成長」など云々せず、障害者も健常者も同じ人間なのだというところで自然に考えればいいのである。

私は今、クラブで以前のように外に出て子どもとドッジボールをすることもないし、遠足にも行けない状態である。子どもをおんぶもできないし、とっくみあいもできない。子どもたちはそういうところで少しさびしいと感じているかもしれない。しかし私は職場復帰する前も、松葉杖をついてたびたびクラブに遊びに行ったりしていたので、子どもたちは足の悪い人とはどういう風なのかをよく理解している。1年のやんちゃ坊主がうしろからタックルしたりすると、上級生が「先生は足が悪いんだからそんなことしちゃだめだよ」とたしなめてくれる。私が足が悪いことは今ではクラブ全体の了解事項になっていて、私がおとなしくしていることに嫌気がさして、ちょっと無理して何かやってみたりすると、かえって子どもに注意されてしまうような状態である。

この間、子どもたちが占いに凝っていて、どこでみつけてきたのか私を占って、「これからいろんな困難にぶつかるが、乗り越えていける」と言った。私が「そんな運命、いやだなあ」と言ったら、ある子が「先生はもう一つ困難を乗り越えてるじゃない」と言う。足が悪いということだと言う。私はそれを聞いて、うちのクラブの子どもたちは遠足には行けないが、もっと大事な価値ある勉強をしたなあと感じた。職員が足が悪くてもいいこともある。

冒頭の夢の話に戻ると、私が今でもあんな夢にうなされ、熟睡できないのは、今の社会が私に対してなした不当な差別のせいだと言える。私などほんの短い間の障害者だったが、普通の障害者の人は四六時中不当な差別を受けているのだ。それは私など想像もできないような苦しみだろう。私たち差別している側からはそれを感じ取ることはむずかしい。かくいう私も自分がごく短い間ではあったが、差別される側にいたからこそ、こんな風にはっきり言えるようになったのである。

私はこれまで文中で「障害者」「障害児」という言葉をカギかっこなしで使ってきたが、煩雑さを厭わず、全部にカギかっこをつければよかったと思っている。カギかっこはつけなかったが、私はこの言葉を「現在社会で心身にハンディキャップがある人たちを指して総称している、いわゆる「障害者」「障害児」という意味で使っている。しかし学校でも職場でも地域でも、「障害者」が自然な形で「健常者」と共に生活できるようになれば、こんな言葉はいらなくなるであろう。学童クラブでも「障害児」も「健常児」も差別なく受け入れるようになれば、その時は「障害児」も「健常児」もなくなり、ただの「子ども」だけになるのである。

 (『80年代』野草社 No.13・1982.1.1)に寄稿したもの
 初出『もっこ橋』15号1981.3.15

P.S.

ここに出てきた「車輪の一歩」が、最近知り合った本間康二さんの作っていた「月刊障害者問題」から生まれたとは、驚きでした。25年を経て、まさかこんな出会いがあろうとは! 人生っておもしろいですね。

本間さんが山田太一さんにインタビューした記事はこちらです。
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by lumokurago | 2007-12-02 20:59 | 昔のミニコミ誌より
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