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暗川  


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ほんとにばかな戦争

◆ ほんとにばかな戦争

(久我山在住Kさん・1923(大正12)年生まれ・82歳)

戦争中は四谷に住んでいました。父が早く亡くなって、女ばかりの家族5人で暮らしていました。自分のうちは絶対に焼けないと思って、焼夷弾を「きれいだな」とのん気に眺めていたのですが、空襲警報で、親と別々の方向に逃げ、私はガード下に入りました。母は防空壕に入っていましたが、出て、四谷見附に逃げました。新宿まで焼け野原でした。足袋屋があって、その中に入っていたら、兵隊が来て「ここにいたら死ぬぞ」と言われ、出て逃げました。家族全員がなんとか助かりました。本当に運がよかったのです。

焼夷弾が落ちてきた時、なにもわからなかったので、バケツリレーや箒でたたけば消えると言われ、ありえないことを信じてやっていました。空襲で亡くなった人も多いです。焼夷弾の時は、まだよかったですが、機銃掃射になると、完全にその人をめがけて撃つので、一発であの世行きでした。戦争だけは二度と起こしてもらいたくないですね。迎賓館をめがけた弾がうちに来たのです。ものすごかったです。

母の弟が本所の服部時計店にいて、焼け出されて、真っ黒な顔で逃げてきたのを覚えています。私は死人を見ていませんが、そこらじゅう死人の山で、死体を踏み越えて四谷まで来たと言っていました。友だちは、妹を助けようと舟に乗せ、自分は乗れなかったのですが、その舟に焼夷弾が直撃して、自分は生き残って妹が亡くなりました。自分は家族に亡くなった人はいません。自分はよかったけれど、まわりは亡くなった人ばかり・・・。

とにかく食べ物がなくて苦労しました。子どもだったので、アカザの葉っぱを取ってくるのですが、しょうゆ、みそ、塩など何もないから食べようもなく、逆に母からおこられました。千葉に買出しに行きましたが、習志野連隊があって、道路に穴ぼこがたくさん掘ってあって、夜行くと、まっくらなのでその穴に落ち、大変でした。妹はがっしりしていましたが、自分は体も小さいので半分位しかしょえず、本当に苦労しました。 錦紗の着物は農家にあふれ、木綿がほしいと言われましたが、木綿は焼けてしまってないのです。妹が陸軍にいたので、地下足袋をもらい、食べ物に換えてもらいました。

下の妹たちは小学生だったので、集団疎開しました。母が会いに行ったら、歯磨き粉を食べていたそうです。当時は粉の歯磨き粉があって、甘く感じたので、子どもたちが食べていたのです。妹たちは服や頭にシラミがついて、一日中シラミ取りをしていたそうです。母はどんなにかつらい思いだったろうと思います。

また、水みたいなおかゆを並んで買うのですが、「今日はもうないよ」と言われれば、せっかく並んでも終わりです。あのおかゆを作っていた人はいい思いをしていたのではないでしょうか。
なんでも配給で、銘仙の生地が半丹とか来ても、もんぺ一人分にしかならず、5人で分けようもないのです。落下傘のミシンかけをやっていたので、落下傘の布をもらってきて、シュミーズを作りましたが、生地が分厚いので夏など使えませんでした。

終戦は買出し先で聞きました。今日から電気をつけられると思い、ほっとしました。負けるとは思っていませんでしたが、総司令官の山本さんが亡くなった時に、近所で「日本はもう絶対に勝てない」といううわさが広まりました。おおっぴらには言えませんでしたが、本当はもう絶対にだめだとわかっていました。山本さんが戦争に反対していたことは、人づてに伝わって、知っていました。外国に行った山本さんが無理だと言っていたのだから、本当に無理だったのです。陸軍が血気高かったんですね。でも当時は考えている余裕がありませんでしたし、勝つと信じていました。反対なんて言ったらすぐにひっぱられたのですから、そんなことを言えるような状態ではありませんでした。

本当におそろしい世の中でした。助かったのが不思議です。

夫はサイパンにいた時に終戦を迎えましたが、後方部隊と離れてしまっていたので終戦を知りませんでした。穴倉に住み、夜、岸壁を降りて、カニをつかまえて、生のまま食べていたそうです。最後に2人残っていましたが、夫は覚悟を決めて出て行ったところ、アメリカの捕虜になりました。アメリカは寛大なところがあり、夫は音楽をやっていたので、うろおぼえで吹いてあげたら喜ばれて、よくしてくれたそうです。前線に出ていたのに死ななかったのは運がよかったのでしょう。終戦後結婚したので、これは結婚してから聞いた話です。

夫の兄が亡くなったので、亡くなってから50年間、お寺にお金を送っていました。靖国神社のことも、中国、韓国からはよく言われませんが、戦死した家族としたらいつまでも冥福を祈る気持があり、私もおまいりに行っていました。戦犯を排除したらいいと思います。

進駐軍は鷹揚で、私は気が小さいので行っていませんが、近所の人はチョコレートもらいたさによく行っていたようです。食べ物はよくしてくれました。トウモロコシの配給があって、北海道出身の人にゆでてつぶすとおかゆのようになっておいしいと教えてもらい、そのようにしました。食べるものがないので、それが最高においしかったです。あのひもじさは今の方に言ってもわからないと思います。ほんとに何もないんですものね。

南京陥落の頃は、軍の指令で日の丸をかざしてちょうちん行列をしました。私は何もわからなかったので、YMCAの2階から見て喜んでいました。それが一変してあんなふうになって、あまりにも刺激が強すぎて、忘れられません。

日本はアジアの国を痛めつけたから、やがては仕返しをされても仕方ないという気持があります。日本人なので「知りません」じゃ通りません。日本は中国で本当に残虐なことをしました。もし戦争に勝っていたら、軍人がもっと残虐なことをするようになっただろうということで、「負けてよかった」と言う人もいます。軍人は沖縄で防空壕から女の人を外側に追い出して、自分たちが奥に入ったり、身勝手なことをしていたので、その意見もわかるような気がします。士官級以上の軍人にはいくらでも物が手に入ったので、売って歩いた人もいます。軍はほんとに自分勝手でした。

今の世の中は不安なので、切実に感じます。今の日本をまわりから見たら、アメリカに加担していると見えます。戦争は勝ったところで死人は出るので、絶対にしてほしくないです。自分がそういう立場にならないとわからないのだと思います。今の若い人たちや子どもに話してもどこまでわかるか疑問です。自分の子や孫も、食べ物の大切さはいくら言ってもわかりません。物にあふれ、すべてにあふれ、物を大切にする心が乏しいですね。

ほんとにばかな戦争でした。あまりにも外国を知らなすぎたと思います。

by lumokurago | 2007-12-08 20:47 | 戦争体験の証言集
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