暗川  


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戦争中の結婚式

◆ 戦争中の結婚式
(阿佐ヶ谷在住Tさん・1925年生まれ・80歳)

戦争の時のことを話してくれと言われても、まとまった話はできません。終戦後、古いことはみなだめと言われ、忘れるようにしたんです。若い人は誰も聞いてくれなかったし、忘れよう、忘れようとしたことですし、思い出したくないことでもありました。若い人に話してもわからないので、なるべく言わないようにしてきました。だから、とぎれとぎれの話になると思いますが、それでもいいですか?

私は北海道で生まれ、弘前で育ちました。8人きょうだいでしたが、ずっと女ばかりで、弟は5歳でした。だから、父が、「近所はみんなお国のために兵隊を出しているのに、うちは肩身が狭い」と言って、「おまえを兵隊だと思って東京に出す。親が危篤になっても決して帰ってきてはいけない。兵隊はそういうものだ」と言われて、東京に出ました。

挺身隊で日本電気に行っていました。作っているものは内密で何か全然わかりませんでした。残業して夜食が出ましたが、豆カスといって、大豆の油をしぼったカスのスープで、傾けると汁ばかり。それがほんの少しでした。食べ物は配給でサツマイモ一個でもあればいい方。しまいには配給もなくなりました。肥料がなかったので、かぼちゃもサツマイモも水っぽくて、今のようにほくほくでなく、おいしくないのです。サツマイモの 茎もかぼちゃの葉っぱも茎も全部食べましたよ。アカザという草も食べていました。お米がなくて、おイモとアカザのおかゆを食べていました。

一番こわかったのは空襲です。目黒の洗足にいましたが、B29が来て焼夷弾がバラバラ落ちてきました。雨あられと落ちてくるんです。防空壕に入っていましたが、ニュースで見ました。小さな防空壕だったので、よく生きていたと思います。一晩中空襲があるので、夜眠れないんです。一晩ゆっくり眠りたいとどれほど思ったか・・・とにかく眠かったです。

日本電気も爆撃を受け、明日元気にまた会えるかわからないので、毎日さよならの時は握手して別れていました。若いみそらにお化粧をすると非国民と言われ、 着るものもなく、おしゃれもお化粧もできませんでしたが、戦地の兵隊さんを思えばなんでもないと思い一生懸命働きました。あんなにいやな戦争なのに、今でも軍歌を聞くと気持が高揚するので、体に染み付いたものは本当にこわいです。こんな話でいいんですか?

私は昭和20年7月6日に結婚しています。 相手は同じ日本電気の人です。シナ事変に3.4年行って、帰ってきて日本電気にいました。後輩のお別れ会の時に台所を手伝っていたら、夫のお姑さんに包丁の使い方が気に入られ、親が決めて結婚したのです。子どもだったので男の人がどういうものかもわからない。恋愛もない。結婚式の日に初めて相手の顔を見たなんていうことも普通でした。三越の地下に結婚式場があって、そこで結婚式をあげました。何もない時代 でしたが、夫の親戚が一人一口ずつくらいお赤飯を持ってきてくれました。 結婚式の最中にサイレンが鳴り、B29が来たので、シャッターを下ろして出入りのできない状態でした。

結婚の許可を得るために弘前に帰ったのですが、汽車の切符もなかなか買えず、同じ課にいた駅長の息子に頼んでやっと買ってもらいました。一日二日で帰ってきたら、東京 は焼け野原でした。 やっとの思いで寮のあった渋谷に行ったら、立て札があって「田園調布に来てください」と書いてありました。下町の空襲の時は遺体もみつからない、みんな川に入って死んだそうです。私はそんな思いはしていないのでいい方です。隣の奥さんがとてもきれいな人だったのに、顔にやけどをして気の毒でした。

友だちに広島の人がいますが、その人の話を聞けば、こんなもんじゃありません。川が死体で埋まったそうです。「水、水」と言いながら死んでいったそうです。その人も長い間広島の話はしませんでしたので、聞いたのは何十年も経ってからでした。

それにしてもあんな不発弾を竹ぼうきや、水や砂でよく消せたものです。白い割烹着を着て、たすきをかけ、バケツリレーで消したんですから。敵が来たら竹やりやなぎなたで向かっていって死ぬのが前提でした。なにしろ無知でした。とにかく日本は勝ち戦をやっていると報道していましたから。本当はアメリカに暗号も解読されていたんですものね。そんなアメリカが今、なぜ把握できないのか不思議です。

戦争に負けて日本はさぞがっかりするだろうと思ったら、若い人が進駐軍と手をつないで歩いていたのでびっくりしました。生きていかなければならないから体を売ったのですね。進駐軍からの配給で、ソーセージの缶詰と乾燥バナナをもらった時は、この世にこんなにおいしいものがあるのかと思いました。戦争が終わってもすぐにはよくならず、子どもにみじめな思いをさせたくないとがんばりました。平和な世の中になったのは昭和30年後半でしょう。

特攻隊のことは忘れてほしくないです。今の日本があるのは行きたくないのに行ったあの人たちのおかげですから。靖国の遺言は検閲もあったでしょうが、みんな立派なことを書いていて涙が出てきます。国と親兄弟を守るために戦争に行ったのです。あの時はみんなで波のように戦争に向かっていきました。反対すれば「非国民」と言われ、憲兵に引っ張っていかれたのです。

もう二度と戦争はいやです。
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by lumokurago | 2007-12-16 20:42 | 戦争体験の証言集
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