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取材記者が語った「集団自決」の真実と体験者の深い心の傷跡

沖縄タイムス編集委員で「集団自決」の証言を取材してきた謝花直美さんの講演記事です。とても良い内容ですのでぜひお読みください。

 取材記者が語った「集団自決」の真実と体験者の深い心の傷跡と

困難を極めた体験者からの聞き取り

 東京都文京区民センターで4月9日、「大江・岩波沖縄戦裁判勝利!判決報告集会」が開かれました。主催は大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会(大阪)、沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会(沖縄)です。主催者挨拶(俵義文さん)、裁判報告(弁護団から秋山幹男弁護士、岩波書店から岡本厚さん、支援運動から小牧薫さん)の後、沖縄タイムス社編集委員で、この間「集団自決」の証言の取材をしてきた謝花直美さんの講演がありました。謝花直美さんは沖縄タイムス紙に「命語い(ぬちがたい)」を連載され、「証言 沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか」(岩波新書)を出版されています。講演は「証言取材を通して見えてきた『集団自決』」という演題で、本には書かれていない貴重な内容でしたので、ご報告します。

〔1年前の今日〕

 「沖縄タイムス」の謝花直美と申します。ちょうど1年前の今日、何をやっていたかというと、渡嘉敷島に渡って吉川嘉勝先生の家にご挨拶に伺い、午後には高齢者センターのデイサービスのおばあさんたちから何とか話を聞けないか、と周辺の方々にお話をしたその日でした。3月31日に教科書検定意見が出て、それから怒涛のような報道が始まり、検定というのをどう伝えるか非常に焦っていた時期でした。取材を始めていたものの証言らしいものは取れておらず、さてこれからどうしようかと考えていたところです。

 2005年5月に自由主義史観研究会が沖縄プロジェクトを立ち上げて、あらゆる出版物から「集団自決」における日本軍の強制を削除するとし、3ヵ月後に「集団自決」訴訟を大阪地裁に提訴、それに対して私たちも報道を続けてきましたが、沖縄の人々に問題の本質、沖縄戦の真実を伝えるためには、「集団自決」のことだけでなく、沖縄戦全体についてどう報道すればよいのか、と考え続けていました。

 教科書検定の問題が起こって、私たちがきっちり問題のあり方を報道していけば、必ずや沖縄の人は分かってくれ、立ち上がってくれるだろうと思いました。それはもちろん新聞だけでできることではなくて、過去の基地闘争とかいろんなことで沖縄の人が立ち上がってきたように、手を携えていけると思っていました。しかしそれまでの間に、特に慶良間諸島の体験者の証言(の取材)については、非常に困難を極めていたのが事実です。私が新聞社に入ったのは沖縄戦の報道に携わりたいということが一番の理由でした。6月23日の慰霊の日に沖縄の新聞は、沖縄戦を通して平和の尊さを考えるということで体験者の方の記事を書くのですが、そういう短期的な、わずか5回から10回の企画のために慶良間諸島の体験者の方に伺ったとしても、私たちは伝えきれないのではないかという思いがありました。それは私だけではなく、私たちの新聞がそれをやったことはなかったように思います。

〔証言者を探して〕

 沖縄戦の取材をする中で、1970年代に県史に掲載された証言について伺うと、その話になると島の人々がサーッと逃げてしまう、「どこどこに集まってね」と言っても全然集まってくれないし、遠巻きにして逃げてしまって全然お話が聞けなかった、ということを聞きました。あるいはチビチリガマでも、高校の歴史の先生が生徒さんと一緒におばあさんたちの体験を聞きたいということで、60年代、かなり早い時期にやろうとした時に、先生のところに3人の遺族の方が来られて、「あなたはいったい何をしようとしているのか」「そういう悲しい思いを伝えることがどんな意味があるのか」「この村の中にトラブルを起こさないでほしい」と言われ、始めることができなかったという話を最近聞きました。そのように「集団自決」の体験を聞くということは、地域の人々がどのような思いで生きているのかということを含めて、どのように大きな傷跡を残しているのかを考えると、私たちはメディアとして、そう簡単に取り組めないと感じていました。

 しかし1年前、教科書検定が問題になった時に、ニュースの発信点というのは那覇であり、文科省のある東京でした。いろんな報道が流れていった中で、有るべきなのに、無かったのが慶良間諸島の方々の声だったと思います。どうやってあの方たちの声を紙面に載せていったらいいのか、過去に県史などで証言されている方はいるのですが、その方たちは高齢化してお亡くなりになっており、新しい証言者を見つけなければいけないという厳しい状況があったのです。

 吉川嘉勝先生については「命語い」で、3回のシリーズに書きました。彼には4月の半ば頃にお会いしましたが、彼もやっぱり最初は、戸惑いつつでした。どうやって吉川先生を探したかと言うと、彼は1回、校長先生をやっている時に新聞に自分の体験を話したことがありましたが、「集団自決」となるとなかなか本音の部分はお話しいただけないことがあったと思います。ご自身も不十分だったとおっしゃっていました。また、1年前に訪ねて行った高齢者センターのおばあさんたちは、一人ひとりがつらい体験をしていて「一人では話せないな、数人でだったら話せるかもしれない」とおっしゃっていました。でも誰かが「そこ(の場所)で、私は娘を亡くしてね」と言いだすと、みんなが「やっぱり」と言って黙ってしまって、私が取材に行ったために、楽しいリクリエーションの場を重苦しい場にしてしまったということがあって、証言してくださる方を探すのも大変でした。
 でも、過去に新聞に話したことがある人などを頼りつつ、だんだんと検定問題が広がっていくにつれて「話していただけませんか」と繰り返しながら証言者を探して、シリーズにまとめていったわけです。

〔軍官民共生共死〕

 沖縄戦とは、旧日本陸軍第32軍が国体護持のために持久戦をやって、捨て石とされた場所で、住民ともども軍と一緒に最後まで戦えという方針で行われた戦争で、それが「軍官民共生共死」という考え方(になっていったの)です。沖縄のすべてが前線と化していく中で、男性は防衛隊員として徴兵され、女性も飛行場建設などに動員され、本当に地上戦が始まると組織されていなかった人たちまでが弾薬運びとかいろんなことをやらされて、死んでいった。それが「軍官民共生共死」という美しい言葉です。

 軍隊が徹底的に支配していた中で、日本兵から「おばさんたちは死んだ方がいいから手榴弾をあげよう」と言われたという証言も(取材中に)出てきました。また、住民には恐怖が植え付けられ、女性なら米軍が来たら強姦され殺される、男性は股裂きにされて戦車に轢き殺されると徹底的に教え込まれ、追い詰められていった。そういう中で「集団自決」が起きたということがあるわけです。

〔語れない「集団自決」〕

 「集団自決」で家族が、親族が、地域の人が大勢亡くなったために、なかなか語ることができない。けれども、私が訪ねて行った北村登美さんという97歳のおばあちゃんは、お隣の人とお茶を飲みながら、検定の結果を話しながら、あまりにもひどいと泣きながら、自分たちはこうだったと話してくれました。ちょうど、おじいさんとおばあさんが3人でお茶を飲みながら「苦しいね」と話しているところに出くわして、その光景を見た時に、ハッと、この人たちは検定がきっかけだったかもしれないけれど、たぶん日常的にお互いの痛みを分かち合っているのだと思いました。なかなか話せる話ではないけれど、一人で黙っているのも苦しいし、話せる部分は地域の人と話し合っているんだな、と思いました。かといって、みんなの前で話せるということではないのですが。

 もう一人、新崎直恒さんという方は教育者だったので、平和教育として話されたのではないかと思っていましたが、とてもできず、孫が戦争当時6歳だった自分と同じ年になった時だけに話したということでした。

 いままでは「集団自決」について語るといっても、そのように地域の小さなグループでのつぶやきであったり、意義を見出していたとしても個人的なものだったというのが「集団自決」の体験者の現状だったと思います。そういう方たちを一人ひとり訪ねて行って証言を聞きましたが、30数人に伺ったのですが、実際に家族に手をかけた方はそこには2人しか入っていません。というのは、やはり一番、語りにくいお立場だからです。ある集団にそういう方がいらっしゃるのですが、私に証言してくれた人は「その方はお子さん2人を亡くした、その方には聞いてくれるな」と言いました。「聞きに行くことはできないよ、自分の話はしてあげるから書きなさい」と。それで、具体的に家族に手をかけた人の話はほとんど聞くことができません。

〔言葉少ない証言〕

 話してくれたお二人というのは、金城重明さんと中村武次郎さんです。中村さんの状況を話しますと、3人家族でお母さんと武次郎さんとお姉さんがいらっしゃいました。慶良間では手榴弾は使われておらず、紐を用いて首をお互いに絞め合うという形で、100人位の住民の中で53人が亡くなってしまいました。武次郎さんたちも米軍が上陸したということで、「集団自決」した人を見て、長い1本の紐にお姉さんが間に入り、武次郎さんとお母さんが両脇になって、首に紐を巻きつけて首を絞めたのです。結局、真ん中にいたお姉さんだけが絶命してしまったのですが、武次郎さんは自分の体験を語ることが歴史を語ることだとずっと語っていらっしゃった方で、元は村議もやっておられ、社会的な意義を感じていらっしゃるのですが、武次郎さんのお話を伺って、録音を後で聞き直してみると、武次郎さんの証言は本当に短いのです。「集団自決」をしたサーバルという場所の話になると、声がうわずっているし、吃音が出ています。言葉がつまって全然出て来なくて、(録音テープを文章に)起こしてみると数行しかないんです。でも彼はそれを言うために、自分のことを前面に押し出して、言葉も失いながら一生懸命言うわけです。その様子を見ていた時、この人たちが心に抱えているものの重さは、語ってくれているんだけど、とても語り切れないのだ、ということを感じました。手をかけた人だけではなくて、「集団自決」で家族や兄弟を亡くした方に「証言をお願いします」と言っても、あまりにもみじめな体験だから語れないということがあって、証言を聞くのはしんどい、大変なことでした。

 一方で、この方々は言葉が少ないけれど、一生懸命に語ってくれたことをどう伝えていけばいいのだろうか、と苦労しました。少ない言葉だと記事にするのが非常に難しいのです。座間味では、いろんな壕でいろんな方が亡くなっているのですが、渡嘉敷の場合、1ヵ所で300何人が手榴弾を使って「自決」しているので、3月28日の午前中の「集団自決」の事実を知るだけなら、(記事は)非常に短いのです。1回で書ける。でも、それをいろんな家族がどうやってそこにたどり着いたのかなどしつこく書いたので、20回くらい書きました。というのは、一人ひとりがこれだけの体験をして、それを戦後ずっと引きずっている、そして語ることができない。そういうことを書かなければ、なかなかこの「集団自決」を理解することができない。あの場所で起きた事実を知るだけでは、なかなか理解できないだろうなというのが、繰り返し繰り返し証言を聞く中で感じたことでした。

 この連載は熊本日日新聞に転載される形で載ったのですが、やはり沖縄的な状況がないということで、同じ体験が繰り返されていると言った人がいるということを聞き、正直な意見だなと思いました。でも、それを一人の体験でわかるとは思えません。いろんなふうに生きていた人たちが当時そこにいただけで、命を手折られたということの意味、それもこんなにたくさん(の人が)ということを示さなければ「集団自決」の本質は伝えられないのではないかなと思って、そういう書き方をしたのです。

〔体験者も変わった〕

 「集団自決」の証言を聞く(読む)ことによって、戦争を知らない人たちがその事実を知るだけではなくて、体験者たちが傷を持っていて語れない中で、地域の中で、家族の中で、苦しみながら生きているということがだんだんと伝わるようになってきて、沖縄戦というものが自分たちの生きている沖縄と別なものではない、地続きにつながっているのだということが獲得されていったように思います。また、体験者が証言者になってくださったことで、変わっていかれたということがあると思います。

 吉川先生は、連載だけでは自分はあまり語れていなかったとおっしゃっていました。県民大会の時にはお姉さんが出ない方がいい、小さな地域ですし、彼は教育委員長をやっているので行政としての立場もあるんじゃないかとすごく心配していらっしゃいました。彼はそこが一番きつかったとおっしゃっていました。でも自分が語らなきゃいけないという思いがあって、決心して語りました。県民大会は生中継が入ったので、お姉さんは家で吉川先生の挨拶を聞いて、ほんとよく話してくれたとおっしゃっていました。吉川先生もその話をしていて、力が抜けたような気がして思わず泣いてしまった、残りの人生は奉仕だと思って、この問題に本気で取り組みたいとおっしゃっていました。

 68歳の人が、戦争を知らない若い世代から「体験を聞かせてください」と言われ、今まで語らなかった体験を語っていくことで、伝えていくことが沖縄にとってとても大事なんだというメッセージを受けて、すごく変わっていかれたと思います。すごいなと思います。1年前には全然おっしゃらなかったことを、県民大会で「事実は厳然としてある。歪曲を許してはならない」とキチッとおっしゃるまでに変わられたわけです。彼の体験に、いろんな人からエールを送られて、彼自身も変わっていったということで、人生の先輩に対して失礼な言い方ですが、吉川先生の生き方はすばらしいなと思いました。

〔今につながる歴史〕

 また、県民大会で高校生が言った「私たちのおじいやおばあがうそをついたというのですか?」というスピーチ、あれに象徴されると思います。戦争体験のない世代が体験を聞くことによって、語り得る人の体験だけじゃなくて、あまりにもつらすぎて語れない人がいること、さらにあの時に亡くなってしまった方は、生きていたら幾つになられるのでしょう。70歳だったり80歳だったり、いまの世の中を謳歌されているはずの方々が、実はいたんだということに気がついたのです。この沖縄、私たちが住んでいる沖縄は63年前に変わったんだ、沖縄戦の後には広大な米軍基地が出来て、施政権が返還されてからは見えにくくなったけれども、本当は沖縄社会というのは何も変わっていないのではないか、若い人たちが沖縄戦と戦争で傷つけられた人たち(の話)から今の沖縄を振り返るようになっていった。これからは、それをどういう風に血肉化して動いていくか、といういろんな課題があると思いますが、「集団自決」問題が裁判、教科書検定に広がっていき、この問題が今の沖縄の若い人たち、そして体験者たちに与えたものは、体験してきた歴史が今の私たちとどうつながっているのかということを獲得していく作業だった、と1年経って思うようになりました。
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by lumokurago | 2008-04-24 20:13 | JANJAN記事
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