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2011年 08月 03日 ( 2 )


チビちゃん、お姉ちゃん宅へ

 チャー吉が来なくなってしまったので、とてもとてもせつなく(1年かけてあそこまでなついたのに)、チビ猫がいなくなれば帰ってくるかと、チビちゃんを友人(お姉ちゃんをもらってくれた人)に預けました。チビちゃんはお姉ちゃんに10日ぶりで再会。はじめこそお互いに警戒していましたが、すぐに思い出したらしく、追いかけっこ、プロレスとじゃれあい、最後には一緒に寝ていました。かわいかったのですが、猫を連れているうえ、荷物(エサなど)が重かったので余裕がなく、カメラを忘れてしまったのが残念です。引き取りにいくときには忘れずに持っていこうと思います。
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by lumokurago | 2011-08-03 19:21 | ねこと鳥 (cats&birds)

読み比べ その5

 しばらくのあいだ掲載を忘れていました。2005年の杉並区の扶桑社版採択のあと、歴史教科書8冊を読み比べました。9月18日の元日本軍兵士の証言をぜひお読みください。とても貴重なものです。


9月17日(土) (外国と仲良くできるの?)

 扶桑社。「白村江の戦いと国防の備え」。すごい見出しですね。「国防」ときたか。

 ちょっと長いけど名文なので引用します。「7世紀の半ば、朝鮮半島では、新羅が唐と結んで百済を攻めた。日本と300年の親交がある百済が敗れ、半島南部が唐の支配下に入ることは日本にとっても脅威だった。そこで、中大兄皇子を中心とする朝廷は、百済を助けるために、多くの兵と物資を船で送った。唐・新羅連合軍との決戦は、663年、半島南西部の白村江で行われ、2日間の壮烈な戦いののち、日本側の大敗北に終わった(白村江の戦い)。日本の軍船400隻は燃え上がり、空と海とを炎で真っ赤に染めたという。こうして百済は滅亡した。新羅は、唐と連合して高句麗もほろぼし、朝鮮半島を統一した。

 中略・・・白村江の敗北は、日本にとって大きな衝撃だった。唐と新羅の襲来をおそれた日本は、九州に防人を置き、水城を築いて、国をあげて防衛に努めた。また、中大兄皇子は都を飛鳥から近江に移し、即位して天智天皇となった。天皇は国内の改革をさらに進め、全国的な戸籍を作った」 ここまでで1ページまるまる使っています。ページの上三分の一には「大宰府の守り」の絵があります。

 帝国書院。「白村江の戦い」として簡単に7行書いています。「朝鮮半島では、新羅が唐と結んで、百済を攻めたので、倭国は百済を支援するため大軍を送り、新羅・唐の連合軍と戦いました。しかし、663年、倭国の軍は白村江で退廃し、朝鮮半島から手をひきました。倭国は、唐・新羅の侵攻にそなえ、山城を築くなど守りをかためるとともに、戦乱をのがれた百済の人々の知識や技術を取り入れて、本格的な国内の改革にとりかかりました」(天智天皇は出てこない)

 大阪書籍。6行だけ。「唐と新羅が連合して百済をほろぼそうとしたとき中大兄皇子は百済を助けるために軍隊を送りました。しかし、 戦いに敗れた皇子は、九州北部に防人とよばれる兵士をおいて、唐や新羅の攻撃にそなえるいっぽう、大津(滋賀県)で即位して天智天皇となり、戸籍を作るなど、国内の制度づくりを急ぎました」

 日本書籍新社。6行。大阪書籍とほぼ同じですが、最後に「戸籍をつくって、民衆への支配を強めた」という言葉が入っています。

 清水書院。6行。大阪書籍、日本書籍新社とほぼ同じ。この下に「神話と伝承」というコラムがあり、「朝廷では、皇族や豪族などに伝えられていた、神話や伝承・記録などを、天皇を中心とした国の成り立ちの話としてまとめなおした。・・・神話には古代日本人の自然観があらわれているものが多い」と書かれています。

 やはり「戦争」の記述が多いのは扶桑社ですよ、宮坂さん。他社の3倍、ページを使っています。それに「戦い」があれば、すべて外国はいつ攻めてくるかわからないから、国防につとめなければいけないと説いています。子どもたちに外国とみれば「脅威」とする疑いの目を養っていきます。このクローバル化の時代にこんな教科書で勉強して、外国と仲良くできるのかな?
 

9月18日(日)閑話休題(今日は何の日?答は最後に) (小さい字の説明は大辞泉より)

 今日、「戦場の加害と抵抗」と題する、元日本軍兵士だった方たちの講演会に行きました。

 お一人目は前田光繁さん(89歳)。元日本人反戦同盟の方です。中国で鉄道労働者の監督として働いていた前田さんは1938年7月末、八路軍(中国の抗日戦争期に華北で活動した中国共産党軍)の襲撃を受けて捕虜となりました。以下前田さんのお話をごく手短にまとめます。

 まず八路軍の最前線まで連れて行かれ、そこでケガの手当てを受けた。食べ物はみんなが粟飯を食べているのに、自分だけうどんやマントウで、卵か肉の一品を添えてくれていた。なぜかと聞いたら、「粟飯はくったことがないだろうから」と言われた。捕虜というより、友だちのような態度だった。後でわかったことだが、「捕虜を殺すな。優待しろ」という命令が出ていた。

 歩けるようになったら、護衛兵一人とさらに奥地へ行った。その人と仲良くなってしまい、逃げようと思ったこともあったが、逃げたらその人に悪いとまで思うほどになった。奥地とは129師団司令部があったところで、張香山がいた(私は不勉強で知りませんが、有名な人らしいです)。「いらっしゃい」と迎えられて驚いた。八路軍は捕虜を殺さないという軍律を持っていた。のみがひどくのみに殺されると言ったら、他の場所に連れていかれたくらいだった。

 八路軍は初め3.4万だったが、終戦の頃には80万になっていた。こんなに増えたのは日本軍が中国にひどいことをしたためである。日本軍は1942年から三光作戦(日中戦争下、日本軍が行った残虐で非道な戦術に対する中国側の呼称。三光とは、焼光(焼き尽くす)・殺光(殺し尽くす)・搶光(そうこう)(奪い尽くす))を行った。

 自分は日本兵が死ぬことは名誉の戦死ではなく、無駄死と感じた。また、中国人の被害を少しでも少なくしたかった。この二つの理由で、1939年8月2日、八路軍に参加し、反戦活動をした。この頃には粟飯もだんだんおいしくなっていた。

 反戦活動は口とペンを使って行った。宣伝ビラを書いて、百姓に頼んだりしてトーチカ(機関銃や砲などを備えた、コンクリート製の堅固な小型防御陣地)の近くや、日本軍のやってくるところで配った。また、戦争をしている時に、夜霧にまぎれて呼びかけたり、トーチカにメガホンで呼びかけたり、電話線に針金をつなぎ、携帯用電話機を使って呼びかけた。

 初めて呼びかけたのは、岡崎大隊で200名が死亡、30名が残っていたので、「自分は日本人だ。あなた方は完全に包囲されている。これ以上戦ってもむだだから、降伏しなさい」と呼びかけた。しかし、隊長は「あれは朝鮮人のうそだ」と言って、玉砕した。一人が偶然穴に落ちたので助かって捕虜になっただけだった。
よびかけは危険で、二人が銃撃されて亡くなった。その二人の慰霊碑を建てに戦後中国に行ってきた。

二人目は坂倉清さん(85歳)。BC級戦犯。

 坂倉さんは千葉県の貧農出身。作った米の半分は年貢で取られてしまい、家族の食べる米もなくなる状態だった。貧乏から抜け出すために軍隊に入りたいと思っていた。昭和15年、甲種合格し、12月に中国へ。そこで教育を受け、昭和16年6月から山東省で実戦に参加した。

 坂倉さんのお話はあまりにも生々しく、ここに書くのもつらいくらいなので、ごくごく短くします。「私は中国で数え切れない中国人を殺し、家を焼き、略奪した。八路軍の情報を知らないかと村の人びとを拷問し、何のとがもない農民にガスをガス燈10本分も浴びせて、気を失ったところを放置した。

 敗戦前に朝鮮に行き、ソ連の捕虜になってシベリアへ。寒さの中ばたばた人が死んでいった。埋葬しようにも土が凍っているので穴が掘れない。遺体の上に落ち葉をかけた。春になったらオオカミが肉を食うと言われた。

 シベリアが終わったら、今度は戦犯と言われ、中国解放軍に捕まった。その時は天皇陛下のためにやったのに何が悪いんだと思っていた。勉強してやっと悪かったとわかった。帰国する時、中国側に『今日から友だちだ』と言われた。帰国して仕事もなかったが、東大に勤め、その頃学生運動があったが、学生が正しいと思った」。最後に「やっと、こうしなきゃならないと自分で判断できるようになりました」とおっしゃいました。

 主催者挨拶で、坂倉さんと同じ部隊にいらして、行動を共にしていらした方(お名前がわかりません)より。
「5年間中国で坂倉さんと同じ体験をし、敗戦前に『ソ連と戦え』と言われて朝鮮に行かされ、シベリアで6年、その後戦犯として中国で5年間、忠君愛国のために計16年間費やした。日本に帰って、近所のおばあちゃんに『おまえはいいなあ。16年経っても生きて帰ってきたんだから』と言われた。そのおばあちゃんの倅は戦死した。靖国神社に眠る英霊の家族の涙を思ってほしい」

 前田さんが中国側から「銃を放せば兵隊も被害者。我々の友」と言われたとおっしゃっていました。

 二度と戦争を起こさないために、自らの戦争体験を語るこの方たちの人生を思うと、その重さに言葉もありません。

 戦争は絶対にやってはいけないのです。

 1931年9月18日、(日本軍は)奉天(今の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を自分たちの手で爆破した。そしてこれを中国軍のしわざだとして、事前の計画にしたがってただちに軍事行動に移り、たちまちのうちに満州全土を占領した(満州事変)。(日付まで書いてあったのは、8社のうち日本書籍新社のみでしたので、これは日本書籍新社からの引用です)
 

9月19日(月) (「律令国家の形成」と「日本という国号の成立」、どっちが大事なの?)

 帝国書院。「壬申の乱」「大宝律令」について14行使い、「こうして、ヤマト王権は、全国を統一的に支配する体制をつくりあげました」とまとめています。次は奈良時代です。

 大阪書籍。「壬申の乱」「大宝律令」について10行でまとめています。4社の中で一番簡潔でわかりやすいので、引用します。(この連載で日本史の勉強もしているので) 。ただし律令国家について詳しいことは何も書かれていません。この点、清水書院と対照的です。

 「天智天皇の死後、政治方針のちがいと皇位をめぐって、壬申の乱が起こりました。この争いに勝った天武天皇は、天皇に権力を集中する国家の建設をおし進めました。このころに大王は天皇、倭は日本と名のるようになりました。また、唐の都にならって奈良盆地南部に藤原京がつくられ、701年には大宝律令が定められて、改新(注:大化の改新)の方針は実現しました。このように律令に基づいて政治が行われる国家を、律令国家といいます」

 日本書籍新社。他の3社にはない(扶桑社にはある)「壬申の乱」の大海人皇子と大友皇子の名前が出ています。それでも「大宝律令」と合わせて15行です。

 清水書院。「壬申の乱」は簡単に触れているだけですが、「律令国家」について詳しく書いています。これがとてもわかりやすく、計22行です。この「節」のタイトルが「律令国家の形成」であることからも、「律令国家」に力を入れているのがわかります。

 扶桑社。本当に「戦い」が好きなんですね。詳しく書いてあります。「略・・・天皇の子の大友皇子と、天皇の弟の大海人皇子のあいだで、皇位継承をめぐって内乱が起こった。これを壬申の乱という。大海人皇子は、地方の豪族を 味方につけ、機敏な行動で大勝利を収めた。この争いの中で豪族たちは分裂し、政治への発言力を弱めた。こうして天皇を中心に国全体の発展をはかる体制がつくられていった」 「大宝律令」も合わせて、30行です。大阪書籍の3倍です。その分書き足りないところが出てくるはずですね。それはどこかしらね。

 最後に「唐に朝貢していた新羅が、独自の律令をもたなかったのに対し、日本は、中国に学びながらも、独自の律令をつくる姿勢をつらぬいた」という一文を入れるのを忘れていません。朝鮮に対して日本が優位にあるということを強調しています。

 ちなみに扶桑社のこの部分のタイトルは「日本という国号の成立」です。
 帝国書院:「中国にならった国づくり」
 大阪書籍:「律令国家をめざして」
 日本書籍新社:「「律令国家が成立する」
 清水書院:「律令国家の形成」です。
 その会社が何を大切にしようとしているのかがタイトルでわかりますね。
 
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by lumokurago | 2011-08-03 08:17 | 中学校歴史教科書8冊の読み比べ