暗川  


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2011年 09月 22日 ( 1 )


Y氏の便りより その1

Y氏より渡辺へ  1987.10.21

 (前略) 《暗川》をいただいたことで、新たに私の必読メディアが増えたことになります。一般に人が自分の思想をつたえようとする手段を、私は「メディア」と定義しますが、《暗川》は、ただ単にその意味で見事なメディアであるというばかりでなく・・・中略、表現するという営みの孤独に徹しきった渡辺さんの姿勢にも深い共感を覚えました。

 (中略) K自身の思想に踏みこんでいえば、初対面のその場からずっと私が指摘しつづけている問題のひとつとして、彼における「ふつう」という概念のもちいられ方があります。Kが自分を「ふつう」の人間の一人と規定し、その立場から物事を眺めるのだと語るとき・・・一般に想像されるより、ほんとうははるかに強力な《普通者》の集合体のなかに自らを意図的に溶解させてゆき、その最も厚い層のただなかに達したのち、ある種の余裕をもって《世界》に向きなおるとき――実は私には、つねに巨きな不審が兆すのです。

 彼が「ふつう」という言葉でそれと対置しようとしている事柄・相手がどういうものであるかは明白ですが、と同時にこの地上にはその「ふつう」という概念のなかにどうしても自分を同化させることのできない存在、どうしても自分を「ふつう」とすら言い得ない存在が間違いなく生きつづけていて、それらの人びとにとってはこの「ふつう」という概念の行使のされ方は、あまりに横暴であると感じるのですね。「ふつう」というのは、実はこれ以上はないほどごう慢な言葉ではないでしょうか。

 この問題に関して私の考えを述べるなら、私はむしろ、自分を絶対に「ふつう」とは呼ばない、呼び得ない立場――排除され、孤絶し、決定的に疎外された立場に拠りつつ、しかも無限に隔てられた《他者》に――《世界》の全体性に、もう一度、繰り返し、やむことなく関わっていこうとする試み、その欲望の方をいっそう信じたいという気持ちがするのです。この次元に達したとき、人はすでに、自分があれらのもの(Kや、渡辺さんや、そして私がともに批判し、乗り越えようとしているものたち)と異なった場にいようとするのだという意志の表明方法として、「ふつう」という言葉など用いる必要はないはずです。

 その意味では、彼の言う「自分が考え、行動すること」というのは、やはりある種の余裕をもった、中間的な過程での在り方かなという気がしないでもありません。私は、最終的には「生きていること・ぼろぼろになりながら、まだ自分が息をしていること」という事実意外に、なんの拠りどころも存在しない――そんな状況を、つねに想定してしまうのです。

 あなたがK書簡につづけて載せられたあなた自身の返信は、Kの優れた思想の読み解きとしてと同時に、こうした領域をも、はるかに視野の一角に納められた見事なものと思いました(にしがやさんの引用も、適切だと思います。当時、一部で論議をよびながら、必ずしも実りある論争とはならなかった彼女のエッセイは、こうした文脈のなかに置かれなおしたとき、改めてその創造的批判というものの輪郭が鮮明になってくるようです)。Kの提起に対し、それへの共感が語られると同時に、その最も繊細な差異がひとつひとつおさえられてゆく展開は、K書簡にみごとに拮抗しています。問題の所在が双方向から照射され、論理の倍音がたしかに共鳴していることを確認しました。

 ほかの文章・ほかの号にも、こうしたあなたの志向ははっきりうかがうことができるようです。詩というジャンルを重視されているのも、好ましい印象をもちました。《暗川》は、その存在を知ることによって、深い部分から励ましと希望を与えられる営みのひとつであると思います。(中略)《暗川》を読んでいても感じたことなのですが、あなたの文章の美質は第一に「正確なこと」(もちろん、国語の授業や作文教室のような意味のそれではなく――)だと思います。これは事物を批評しようとする主体性そのものの力に関与する問題になるでしょう。

 あなたがお手紙(注:当時執筆中だった『負けるな!子どもたち』について編集者に宛てて書いたもの)で書かれていたことは、非常によく理解できます。作品改変の作業は大変だと思いますが、成果を期待しています。すでにあるテクストより巨きく深い拡がりをもったものとしようとするとき、それまでの作品世界では支えきれない異物やまったく新しい要素を意図的に投入して、いったんは成立していた全体性に根本からの揺らぎを生じさせ、それを呑みこんだうえでさらに新たな地る所を獲得しようという運動をさせることで、もう一度、テクストが活性化することがしばしばあるようです。(後略)
 山口泉  1987.10.21

*****

渡辺よりY氏へ  1987.11.5

 (前略)
 Kさんのお手紙について言えば、「ふつう」という概念の扱いについてのYさんのお考え、よくわかります。実は私は親しい人たちの間では「ふつうの人」ということばをよく使うのです。それは、私が職場の人などの感じ方、考え方と自分のそれとが全く違うものだと感じたときに(いつもですが)。自分と「ふつうの人」とを対置させて使っているものです。Kさんの言い方でいえば、私も「ふつうの人」のひとりです。金があるわけでもなし、権力をもっているわけでもない「民衆」のひとりです。でも、ものの考え方、感じ方という点では、「ふつうの人」にとって私は異物であり、排除すべきものでしかありません。私は秩序を乱し、混乱と不安を招きますから。

 「ふつうの人」は基本的に変化を望みません。楽な現状維持を望みます。変化(変革)には多大なエネルギーが必要とされるからです。変革を望み、志向するためには、だから、そのためのエネルギーを生みだすもととなるだけの強い希求性(理想)が必要です。よりよい自分、よりよい関係、よりよい社会を心底から求めることなしには(なんか倫理的なことばでいやですが)、変革のためのエネルギーは湧き出ず、ぬるま湯である現状に満足してしまいます。私が「ふつうの人」との違いを最も強く感じるのは、この希求性をもっているかどうかという点においてです。

 私はよく、「ふつうの人」は「みんな」と自分を比べて相容れない部分を感じて疎外感を覚えたりすることはないのかな・・・などと思うことがあります。すごく演技が上手で、人前では自分をださず、みんなに合わせているのかなあ・・・などと。本音はどこでだすのかな・・・それとも本音がないのかな。

 私はKさんが自分を「ふつう」だというとき、逆説として言っているのではないかしら、と思ってみたりします。本音をださず、まわりに合わせて、決してほんとうの関係を作ろうとはしない「ふつうの人」たちのなかで、Kさんは「自分が考え、行動する」と言っています。それはどう考えても今の「ふつうの人」とは違うのです。でもそれをあえて「ふつう」だと言いきってしまう。そこにKさんの意志の強さを感じるのです。(後略)
 渡辺容子 1987.11.5


 
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by lumokurago | 2011-09-22 16:46 | 昔のミニコミ誌より