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2011年 09月 27日 ( 1 )


Y氏への便り 1987.12.20

 このころ(1987年)、『負けるな子どもたち』を執筆しており、Y氏が相談に乗ってくれていたため、子どものことを書いています。

*****
 
 (前略) 
 
 私はたまに勤めている学童クラブの子どもの写真を撮ることがあります。写真はまったくの素人ですが、子どもたちの姿が美しいなと思ったとき、「写真家だったら、きっとこれを写すんじゃないかしら」と思い、撮ってみることがあるのです。

 最近、ひさしぶりに子どもたちの写真を撮りたいと思ったことがありました。それは、あばれんぼうの男の子たちが「馬乗り」という遊びをしていたときのことです。「馬乗り」という遊び、ご存じですよね。私の通っていた小学校では危ないからという理由で禁止になった記憶があります。

 その遊びをしているあばれんぼうたちは、体ごと解放された楽しくてたまらないという表情で、見ているだけで血が騒ぐのでした。しかし、そのように痛快なほど明るく遊んでいたのは、馬乗りがはやり始めた初めの数日間だけで、それはやがて「いじめ」に近いような形に変わっていき、私は写真を撮る機会を失ってしまいました。

 Yさんも書かれていたように、アジアやアフリカの子どもたちの表情の豊かさに通ずる<契機>(それは月並みなことばでいえば「いのちの美しさ」と言えるでしょう)は、日本の子どもたちのなかにも必ず存在するはずのものであるのに、やはり日本の子どもたちは、数々の抑圧を受けるなかで、その<契機>はどこか奥深くに閉じ込められ、息もつけない状態にさせられているのだと思わずにいられません。

 長谷川龍生の詩についてのYさんの感想も、よくわかります。――「悲しみ」という個個の側に還元される感情の問題としてではなく、ある種の自明の現実として互いに支え合っていこうという呼びかけを感じるのですが――というところ。

 私は「かなしみ」ということばを、ひらがなまたは「哀しみ」という漢字を使って多用していた時期があります。「かなしみ」ということばで私が表現しようとしていたものが何なのか、それは、自分が抱える、どこか満たされない感じから、私には絶対にまちがっていると感じられる社会に対して、自分が何もできないのだという無力感と怒りまで・・・さまざまな感情をひっくるめてしまったことばだったのですが、そんなわかったようなわからないような感傷とは無縁なつよさが、この詩には確かにあると思います。

 (中略)

 去年まで、毎年年度末に、学童クラブで文集を作っていました。冬休み明けから3月初め頃までの間に、子どもたちに作文を書いてもらうのですが、ただ書くのではなく、一人ひとりの子どもと話をしながら、普段は表現していない「見えないもの」を引き出していました。それがうまくいったと思える年も、うまくいかなかったと思う年もありました。写真家だったら、子どもたちの美しい姿をシャッターを押すことで捉えるところ、私は文章(作文)を書くという作業を通じて、子どもたちの心をとらえたいと思ったのです。

 しかしこの作業は、年々困難さを増しています。子どもたちがより長時間学校に拘束されるようになり、遊ぶ時間が足りないので、落ち着いて作文など書く余裕がないのです。また、まじめになって自分の心をみつめて表現するということができにくくなっています。今年はあまりに落ち着かないし、頼んでも書かないだろうと思うので、文集作りは断念するつもりです。

 私たちくらいより上の世代が昔、体制に異議申し立てをしていた時には、基本的には、ことばで表現する術を心得ていたと思います。それがどんどん失われて、暴力とか違う形になっていきました。私の見ている範囲内の子どもたちもそうなのです。

 最近、暴力とは何なのか、表現の一種と言えるのかと考えています。表現ではあるのでしょう。暴力を使えばおこられたり、止められたり、必ず相手を振り向かせるから。その意味ではせっぱつまった過激な表現と言えるのかもしれません。しかし、それだけ切実であるにもかかわらず、中身は何も伝わってこないのです。どう考えても子どもたちの中には、おこられること覚悟で、それでも振り向いてほしいというギリギリの気持ちがあって、暴力をふるっていると思います。おそらく無意識でしょうが。

 しかし暴力では人とコミュニケートすることはできません。子どもたちは自分でもことばにできないモヤモヤした気持ちを暴力で表現し、でも、大人はその気持ちをくみ取ってくれないのでますますイライラしてエスカレートするのかもしれません。コミュニケートするためには、子どもが自分のことばを探す作業を手助けしてやる必要があるのでしょう。それをどうやってやればいいのでしょうか・・・。

 これからまたいろいろなことを考えて原稿を書き直すのかと思うと、頭が痛くなってきます。でも第1稿を書きあげたことで、自分は大きく変わることができたので、今、考えているゴタゴタをなんとかまとめることができれば、またひとつ何かを乗り越えることができる、と信じてがんばることにします。  

 山口泉様                  1987.12.20  渡辺容子
  
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by lumokurago | 2011-09-27 12:01 | 昔のミニコミ誌より