暗川  


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カテゴリ:本(book)( 32 )


『邪宗門』 高橋和巳

 以下の感想は1週間以上かかって、少しずつ書き進めたものです。長いですが、お読みいただければうれしいです。

*****

 分厚い文庫本、上下2冊、読むのが大変でした。あまりにも暗く重く、悲惨な物語だからです。2000年に乳がんの初回治療をして仕事を休んでいたとき、本をほとんど処分してしまったのですが、そのときに残した本のなかに入っていました。いま、また本を処分するにあたって、1回は読みなおそうと思ったのも、内容の記憶は薄れていたものの、強い印象が残っていたからです。奥付は初版「昭和」46年、手元にある本は「昭和」51年7刷です。私は22歳でした。なぜ感動したのかは忘却の彼方ですが、今回読み返して、若かったあの頃、こんな悲惨な物語を読んで感動した自分がかわいそうになってしまいました。

  明治時代に一人の貧しい女性が興したひのもと救霊会という新興宗教団体が、昭和初期には全国に100万の信徒を誇るようになった。しかし戦争の時代となって、不敬罪と治安維持法違反で徹底的に弾圧された。そして戦後、少数の信者で復活し、順調に信徒を増やしつづけたが、無視できない存在になりつつあったことが、国家・進駐軍には脅威と感じられたのだろうか。再び弾圧。万に一つの望みをかけて武装蜂起するが、三日天下で鎮圧され、本部は壊滅。残った幹部は食事を絶って餓死した。 『邪宗門』は、弾圧と戦争、武装蜂起の悲惨さをこれでもかというほど書きこんだ重くて暗い小説である。

 厖大な内容なので、特に印象に残ったところだけ記します。

 ★ この本にも「性悪説」(性善説の否定)がでてきます。因縁なのでしょうか。引用します。

 ――一つの理想を制度として、あるいは目標として設定するためには、人と人とが信じあえる存在であるという大前提がいる。すべての共同作業、すべての道徳、すべての美が、ほとんど感傷的な人間信頼の上にでなければ成立しない。どんな心の歪みも辛抱づよい教育によって教化でき、窮地に立っても人は他者のことを心慮するという性善説。他者の犠牲にはならぬまでも、他者の苦悶を自分の心の痛みとして意識する存在でなければ、あらゆる理想主義的な計画は無意味なのだ。そして千葉潔(のちに第3代教主となる人物)は窮極のところ、それを信じることができなかったのだ。

 誰かに騙され欺かれて、人間信頼の気持ちを失ったというのではない。生れた環境や育った条件があまりにも恵まれなさすぎたからでもない。むしろ恵まれぬ状況の中にも、宝石のように光る真実と善意のあることを、恵まれなかった故にこそ彼は人並み以上に知っていた。だがまた、人間を信頼するにはあまりに恐ろしいものが、当の自分の中にあることをも、千葉潔は知っていた。心中の血をしたたらせた悪魔に気付かずにすごせる人は幸せである。それを無智と罵(のの)しろうとは思わない。だが万物は自己にそなわる。その自己の内部に巣くう恐ろしい悪の存在を知って、所詮は自己の影にすぎぬ他者を信することは出来ない。坐禅も心頭の滅却も、遂にその心中の悪魔を滅しえなかった。何故ならその悪は自らの生きようとする本能そのものに連なっていたからだった。

 彼は彼の母をーー(渡辺注:戦前の東北の貧困のなか母親は餓死し、子どもだった彼は母親に自分の肉を食べるように言われ、それを食べて生きのびた)、いや戦争中にも、窮極には信じがたい戦友たちの行為と自己の心とを見ていた。とりわけ自己の内部の暗黒は、神は知らずとも自己自身が見ている。補給の見込みのない食糧の減少を少しでも緩和するために、隊長の命令とはいえ、もはや抵抗できぬ捕虜を、玉砕命令が伝えられた直後に、彼は橋爪進らの隊員たちとともに惨殺していた。サイパンはすでに陥ちパラオも陥ち、迫ってくる敵の上陸を前にして誰しもが正常ではなく、生きて帰れる望みもなかった。だが、それにもかかわらず、当時の状況をあげつらうことによっては弁明しえない悪しき心の動きというものもまた確かに存在した。

*****ここまで引用
 

 ★ 不敬罪、治安維持法で取り調べられた磊落な教主行徳仁二郎が、拷問に耐えかねて、開祖の「お筆先」の不敬とされた文言を削除すると言いだした。信徒は信じられないのだが、人間はそのように「弱い」。私はそれでいいと思う。第二次弾圧でも刑務所で、人間的魅力あふれる教主は「今後宗教活動にかかわらない」旨を何度も申し出るが、三木清と同様に(ここだけモデルにしているのか)8月15日以降も解放されず、疥癬で死亡するのだ。いのちあってのモノダネとよく言うではないか。高橋には教主を殺してほしくなかった。『邪宗門』において教主は弾圧され、弱さをさらけだし、殺される役をやるためにでてきたようなものなのだ。戦争に翻弄されたと言えばそうなのだが、あまりにも気の毒だった。が、私は窮極の生きるか死ぬかのときに、金儲けのためではなく、自分のいのちのためにこのように弱くなれる(いのちを大切にできる)人間が好きである。

 ★ 「国には国のおきてがあるが、われらにはまたわれらの道」という教義をもっており、不敬罪で教主を官憲に奪われ、徹底的に弾圧された救霊会の人びとが、1941年12月8日の例の放送を聞いて、国民の大多数と同じように、「天皇陛下万歳」を三唱したこと。その章のタイトルは「総転向」(だったと思う)。べつに彼らはまわりの目を気にして、そうせざるを得なかったわけではない。そこには信徒だけしかいなかったのだ。それなのになぜ? ここを読んで、日本人の本質をよく描いていると思った。流されやすい。雰囲気に飲まれやすい。確たる「個」がない。群集心理に追従してしまう・・・。「いのち」のためではないのに、自分の行為の意味も考えず、信念を捨ててしまう人間。たぶん信念を捨てたことにも気付かずに。

 ★ 戦後、「宗教裁判」を行い、弾圧の中心だった官憲、戦争責任のある軍人らに自らの手で刑を与えるという幹部の意見に対して、教主の次女である「継主(教主亡き後、次の教主が決まるまでの代行)」は次のように考える。

 ――悪は人の心の中にこそある。その悪を特定の者に代表させて肉体もろとも火あぶりにして滅ぼす魔女裁判よりも、心中の悪がすべての者にそなわることを認め、それを牛馬のように飼い馴らそうとするのが東洋の智慧(ちえ)のはずだった。いや論理よりも、感覚的に阿貴(継主)はそういうこと(宗教裁判)をしてはいけないと感じたのだ。彼女も今度の戦争、流血そして民衆の飢餓に、誰も責任はないとは思っていなかった。しかし同胞の誰かを血祭りにあげて、教団の勢力を拡張するのは、また別な形で戦いを継続することのような気がする。痛めつけられたから相手を痛めつける。それではことは永遠の繰り返しにすぎない。何か別の、よくは解らないけれども何か別の価値が今必要なのだ。そしてそれは宗教の根本、その存在理由にかかわることのような気がする。――

 本部で決定されぬまま、一人の幹部が独断で宗教裁判を決行する。場所は皇居前広場。雨のそぼ降る日で信徒の姿もまばらだった。しかし幹部の「何々をした誰誰。有罪か無罪か。その処刑は? 火あぶりか、吊るし首か、斬刑か、石責めか?」という声が響くと、なんの関係もない野次馬が集まってきて、興奮しはじめる。腹をへらして気分は苛立ち、もって行きようのない憤懣(ふんまん)をこめて、人々は叫ぶ。「有罪、有罪」と。

 悪魔は一人の心の中には住まず、群衆の中にいる。無責任という、悪魔のもっとも好む装いのもとにーー。幹部は悪魔たちが飛び交い、火あぶり台が置かれ、処刑囚が脂をたらしながら火あぶりにされ、群衆が生血を飲み、死刑囚の尻や胸の肉にむしゃぶりついているのをみたのだった。群衆はみな、人間からこの世のものとも思われぬ姿に変わり、幹部自身も自分がその姿であるのを悟る。

 ★ 話は前後するが、戦争中の救霊会の人びとを追いかけた物語は一読の価値があると思う。ある人びとは満州開拓団となってひのもと村をつくり、途中までは満人とも仲良く希望をもって開拓する姿が伝えられる。しかしソ連侵攻後は一転、満人にも裏切られ、南へ向かう逃避行。動けなくなった子どもや老人を捨て、阿修羅のように泥沼のなかを進むが、ソ連軍の攻撃を受け、奇跡的に助かった少年2人を除き、全滅。

 ほかに、南洋、筑豊、大阪の貧民窟などの様子が人間の善をも悪をも重厚な筆で描かれている。読むのが苦痛な場面ももちろんあるが、これが「平和」で衣食住に満たされた人間からは信じがたい人間の本質というものであろう。

 ★ 教主の長女阿礼は教主が第一次弾圧で投獄されて以来、「教主代理」として8年間、教団をきりもりしていた。美しく才気にあふれるが、自分中心で(信徒に対してはそうではない。うちと外をわきまえている)、気分に波のあるきむずかしい性格である。

 教団は弾圧以来、転向、分派していく支部があり、そのなかに、九州の皇国救世軍があった。教義を捨て、時流に乗るために、軍国主義、戦意高揚を目的として転向、独立したのである。その集団のトップは救霊会時代は教主となってもおかしくないほどの人物だった。彼は救霊会を救世軍に合併しようとし、教主代理の阿礼を次男の嫁にほしいと申し出てくる。悩んだ阿礼は追いつめられて自暴自棄になり、何日も絶食するに至るが、父の教主行徳仁二郎が夢枕に立つ。仁二郎は阿礼にこう語るのである。

 ――「私は今まで一列平等を説き、距て(へだて)のない愛を全世界に及ぼすべきこと、この世界の人びとを兄弟にし姉妹にし、政治家のいう八紘為宇(はっこういう)ではなく、真に全世界を一つの家族のようにしようと考えていた。だが、それは偽りだった。いや少なくとも間違っていた。人はすべてを平等には愛しえない。父の我が子、とりわけ娘への愛は、やはりほかの者への愛情とは区別されるべきものだ。愛は差別ある愛ゆえに、愛する者にとっても愛される者にとっても尊い。親が我が子を差別的に愛し、友が親友を差別的に信頼し、身近なものを遠いものよりより強く愛する人間の本性を、私は率直に認めようと思う。

 何かの苦しみがあって、救霊会の門を敲いた(たたいた)人々も、もとはといえばすべて自分や身近の人々の苦しみが動機になっている。見も聞きもせぬアフリカや南米の騒動や火山の爆発、地球の裏側に住んで自分が寝ている時に争っているかもしれぬ人々の争いのゆえに苦しんで、入信したのではない。人間はしょせん自分の生活圏、自分の社会圏の事どもにしか反応しえぬ。であるならば、愛情に位階のあることを万人がはっきり認識したうえで、ことを始めるほうがより正直であり、より正しい。肉親を愛し、配偶者を愛するがごとく、万人を愛することは不可能だ。その愛の幾分かを分かつことのできるよう自分を訓練せよと言うことができるにすぎぬ。

 そして私にとって、お前がかけがえのない者であるゆえに、より疎遠な人々を裏切ろう。より疎遠な人々に説いてきた教義を翻そうと思う。それでよい。万人のために一人を見棄てるか。一人のために他のすべての人々と敵対するか。量からいえば前者が正しいが、愛の論理じゃ量には叶わぬ。いや、お前は私にたいして何の負担も感ずる必要はない。なぜならば愛は元来無償のものだからだ。お前がやがて、この人と思い定めた者のために他の万人と敵対する時、その敵対する者の一人に私が含まれていてもよい。阿礼よ、人はそのようにしか生きられぬ。私はその人間の運命に従おうと思う」

 「お父さま」と阿礼は言った。「私は苦渋のうちにも別のことを考えておりました。人は差別的に愛するその愛を、永遠に伏せつづけるべく定められた存在なのではないかと。お父さま、私はそう考えました。父母の愛から生まれ、父母の肉によって受肉した存在は、父母のもとへ帰ってはなりませぬ。いつまでもその無限の愛に包まれていることも許されませぬ。強いてでも裏切らねばならないのです、お父さま。同じように、全き同じ信念をもちえた者同士が互いをかばいあうことのみに、人は安住してはならないのです。お父さま、また、その一つの信念だけで全世界を覆おうとしてもならないのです」

 「・・・・・・」

 「私たちは懸命に耐えてまいりました。でも、その間に、私たちの宗教的信念に新しい何かが加わったということはありません。もちろん稲を刈るも米をつくもすべて信心の道。日々生きていくことをはずして思想もありませぬ以上、私たちも生きること自体によって考えるつづけてはおりました。でも、開祖の時代には開祖の教義、お父さまの時代には社会の改変や事業経営の、新しい開拓がございました。代理とはいえ、阿礼は8年ものあいだ教団をおあずかりしながら、一つの新しい指針、1冊の著述すら、この世のために造ることができませんでした。でも今、私はその行為において、人々の悲哀の鏡となり、人々のくやしき指針となることができるのです。

 阿礼は一つのことを悟りました。それは、その本性を異にする男と女の結びつきによってしか新しい生命は生れ出ませぬように、異なった信念の血なまぐさい結びつきによってしか、新しい信念も生れないということなのです。世界の言葉を一つにしようという試みは、バベルの塔のように空しく崩れます。山も谷もなく平坦な沃野に、季節の変化もなく、人がすべて同じ考えをもって、珍宝に囲まれて生きるという弥勒世は、救済の世であるよりもむしろ死の世界ではないでしょうか。

 お父さま。考えの違った人々との妥協をおそれて、この世に力あるたった一つの運動も成立ちえませぬ。しょせんはどちらかがどちらかを圧倒し、どちらかがどちらかを征服するものであっても、長い時間を費やす日々の抗争のうちに一つの生命を生み育むことができるはずなのです。阿礼は身をもって、そのことを行おうと思います。阿礼は何としても女、大勢の人をひきつけ、自分の考えを声高く人にすすめるのは苦手でございます。お父さま、阿礼のことを思いやってくださるなら、神は身近の山や森に居て私たちを見守るだけはでなく、<時間>の流れの中にこそいて、争いのうちからも生れくる生命を見守るものであることを、人々にお教えくださいませ・・・」

 「お前は私を追いぬいたのかもしれぬ。お前の信仰はおそらく私より美しい。しかし阿礼よ、人はお前の行為をそのようには見ぬ。一つの行いがその本来の意味通り理解されるためには、条件がいる・・・私が、その条件、いやその礎石になれる日まで・・・」

 阿礼は悩んだ末に教団のために皇国救世軍に身を売る。弾圧で停止させられていた織物工場に仕事をまわしてもらうという暗黙の約束で。しかし、政府の方針の変更でその約束は守られなかった。傷心の阿礼は母行徳八重が特赦で釈放され、病気が重いことをきっかけに、一人息子を連れて教団に帰る。

 阿礼は自分の犠牲が教団にとって無に帰したこと、救世軍の夫が離婚を許さないため、「行徳阿礼」に戻ることもできず、父母の死後は妹阿貴が「継主」となり、教団に自分の居場所がなくなってしまったことで、「苦い薬(アルコール)に身をやつすようになってしまう。

 ★ 戦後、生き残った数少ない幹部と、子どものころ、母親の遺言で救霊会本部に遺骨を埋葬にやってきた千葉潔を中心に、彼の連れてきた第三高等学校出身の青年たち(千葉の友人)が企画院となって、教団の復興をめざす。しかし農地改革のやり方一つとっても、政府+進駐軍の政策は中途半端であり、彼らは早いうちから武装蜂起をめざし、旧日本軍の遺した武器を収集するようになる。

 継主は教主の次女阿貴であるが、姉の阿礼と千葉潔ら幹部は阿貴が教団が供出米をださないかどで(地元の組合にまわしていた)警察の取り調べをうけ、本部を離れているあいだに、阿貴の名前で第三代教主を千葉潔にする旨の手紙を偽造し、信徒をだまして決めてしまった。

 そして進駐軍が本部を見学?に来たとき、突発的な事件(誤解から信徒が黒人兵を殺してしまう)が起こり、家宅捜査で武器が発見されることを防ぐために、突然蜂起することになる。各地でも連動して小さな蜂起が起こるのだが、所詮国家には勝てない。日本の警察にはまかせておけない進駐軍が攻めてきて、多くの犠牲者をだし、三日天下で壊滅させられる。

 私はこの武装蜂起を許すことができない。なぜならば、彼らに理想があったことは否定し得ないが、中心人物のみなが、この世に絶望し、死に場所を求めていたからだ。万に一つの可能性を求めたと彼らは言う。しかし客観的にみて、万に一つも希望はなかったのである。弾圧されつづけてきて、敵の大きさがいやというほどわかっているはずの彼らに、そのことがわからぬわけがない。

 彼ら(主に千葉潔と阿礼と満州で妻を失った足利正・彼は宗教裁判も行って失敗した)は死に場所を求めていたのだから、それでもいいだろう。しかし、武装蜂起の意味もわからず、何の罪もない一般信徒たちまで道連れにしたのだ。彼らにそんな権利はない。

 指導者(前衛党でもいいが)が民衆を利用し、犠牲にするなど、絶対に許すことはできない。私たちはどうしても一人ひとりが自分の頭で考えることをはじめなければならないのだ。
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by lumokurago | 2012-01-17 20:13 | 本(book)

『死ぬ気まんまん』 佐野洋子

 堅い本ばかり読んでいたので、合間に佐野洋子を読んだ。ちょっと! 困るなあ、こんなに有名な人がこんな無責任な本書いちゃあ!

 困る記述を抜き書きする。はじめはエッセー「死ぬ気まんまん」から。

 「ガンが再発して骨に転移した時、お医者は、死ぬまでに治療費と終末介護代含めて1千万円くらいだろうと言ってくれた」 おいおい、これは抗がん剤(猛烈に高い)やビスホスホネート(骨転移に効くとされているこれも高価な薬ーDr.Kは効かないと言っている)で積極的に治療するからであって、対症療法(ホルモン剤とたまに放射線)ならこんなにかかりませんよ。桁が違うんじゃないの! 人びとを脅さないでほしいなあ。

 「根が貧乏性の私は物欲がない」のに、イングリッシュグリーンのジャガーを買って「私の最後の物欲だった」だってさ。 すごい金持ちだなあ。なにが「物欲がない」だ。ちゃんとあるじゃないの。ウソつかないでほしい。「貧乏だった」「貧乏だった」って書いてあるけど、戦争中~戦後すぐのことでしょう。自分が金持ちだってこと、自覚すべきだよな。東京に家2軒、軽井沢に別荘、車も持ってるんですよ。

 「毎週点滴をしにゆく。よくわからないが、免疫力を強める薬と、骨を強化する薬を点滴するが、痛くもかゆくもなく、気分が悪くなることもない」 自分が点滴されている薬を「よくわからない」では困るのだ。勉強してくださいよ。って、もう死んじゃったから遅いけど、医者がちゃんと説明すべきなのだ。

 「医学の進歩は、朝と夕方では違うほどらしい。骨に転移しているので、骨のための点滴と、なんのためだかわからないハーセプチンという薬を点滴してもらうために、週1度、病院に行く。・・・略・・・先日、先生が何か注射してくれたら、頭が1日でツルッパゲになってしまった」 「医学の進歩は、朝と夕方では違うほどらしい」=大ウソである。がんは40年前から治るようになどなっていないのだ。作家ともあろう人がいい加減なことを書くな。「ハーセプチン」は抗がん剤の一種である。前のほうに「抗がん剤はやらない」と書いていたので医者にだまされていたのだろう。何の薬か聞かないからこういうことになる。ツルッパゲになる薬の名前も聞くべきだった。はげるのは抗がん剤である。また、だまされている。

 「医者がまたなんだかわからないツルッパゲになった薬をもう1回打つ時、私は「何のための薬ですか」ときいたら、「そうだね、佐野さんは延命しないでいいって言ってたね。僕は佐野さんはもっと生きていて欲しい」  このあとが省略しすぎでちょっと意味が通じない。こうつづく。「私はポーっといい気持ちになった。息子と同じくらいの若いいい男がこんなこと言ってくれる。一瞬この医者のために長生きしようかと思った。「わかりました。止めましょう」 よーし、この医者のためにも立派に死んでやろう。しかし立派な死に方がどういうものなのか今もわからない。 医者はこの薬を打つのを止めたのだろうか? 薬のなまえがわからないだけでなく、文章が説明不足だと思うのは私だけ?

 次は平井達夫氏(築地神経科クリニック理事長)との対談から、同じく困るセリフを抜きだす。

 平井:早期発見して取れば治るという時期を逸すると、ものすごい労力と、ものすごいお金と、ものすごい精神的苦痛を味わうことになります。だから、早く発見して、早く手を打たないと、ガンは治らないのです。 どうしてここまで人びとを脅すのか? 無治療では自分の仕事がなくなるからであろう。それともただの無知?

 平井:ガンは早期発見の治療しか完治できません。いま日本で一番すごい検診は、国立がんセンター中央病院、検診センターでやっていますよ。20万円ですけど、それぞれの分野の癌専門医がついて上から下まで全部ガンの検診。 金儲け、金儲け! 金儲けをして人びとを脅す最低の医者たち。

 平井:ガンはだいたい1期、2期、3期、4期と分かれます。1期は小さいのが臓器の中にあるんですが、精密な検診とかでわかって、取れば治ります。2期は2、3センチのものが見つかりますが、これも臓器の中にあるんです。医者も、治せるかもしれないと張り切るわけですよ。 1期でも100%治る(がんもどきである)というわけではない。小さくても転移しているがんもあることを知らないのかな? 

 平井:脳卒中も予防が大切で脳ドックは絶対に受けたほうがいい。 脳ドックを受ければ40歳以上の人には小さな脳梗塞が必ず見つかる。脳ドックで見つかった小さな梗塞を手術したおかげで、なんでもなかったのに障害者になってしまった人を知っている。

 佐野:ええ、父も家で死んだものですから家の中で死人を見ていますが、父の死に方が立派でした。
 平井:最高学府出のエリートですからね。
 死ぬにあたって最高学府出もなにもないだろう! こんなことを言う人、信頼できないね。

 最後にエッセイ「知らなかった」について。

 ここで佐野さんは「私は、病院に行く気はもうなかった。薬は怖かった。どんな医者も信用していなかった」と何度も何度も書いている。しかし、薬が怖くなったのはなぜなのか。医者を信用しなくなったのはなぜなのかは一言も書いていない。読者はそれを一番知りたいのではないだろうか。

 そしていろいろなところが痛くてたまらないのに、自分はどこも悪くないと書いている。この痛みは骨転移からくる神経の痛みだと思う。「あばら骨がメリメリ音をたてて粉になるかと思うほどで息もつけなくなった」と書いてあるのが、少し大げさだがいまの私と同じだからだ。ほんものの上手な緩和ケア医のところに行けばよかったのに、それまでに医者を信じられなくなっていたのである。なんと気の毒なのだろうか。

 知り合いの編集者が佐野さんの息子さんをよく知っている。佐野さんはやはり一癖も二癖もあるむずかしい人らしいが、とにかくおおざっぱでがんの勉強なんかするわけないと言う。でもね、死んだ人にこんなことを言うのは申し訳ないけれど、自分の体は自分で守らなければ。そのためには勉強するしかないのだ。医者は信用できないのだから。

 佐野さんの本は売れるだろうなあ。第一『死ぬ気まんまん』というタイトルがひきつける。この人ががんのことを勉強して、よくわかって書いてくれていればなあ。影響力、絶大だったのに、残念だ。少数派はやっぱりここでも少数派で、売れない本を書くしかないんだなあ。

 ま、それが少数派の運命だから、仕方ないか。 
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by lumokurago | 2011-12-15 13:14 | 本(book)

『わが心は石にあらず』 高橋和巳

 この小説は「昭和」39年から41年にかけて雑誌『自由』に連載された。私が読んだのは「昭和」52年、23歳の時である。この時代にはいままで記してきたように(大江健三郎、安部公房、柴田翔、五木寛之・・・)人間の生き方を描こうとすれば、学生運動や労働運動または反秩序、反権力がからんでくる小説しかなかったのであろうか。20代の私が好き好んでそういう小説を選んで読んでいたのか。それともやはり<時代>がそうだったのだとしか言いようがないのだろうか。

 高橋和巳は大好きな作家だったはずである。一番好きなのは『邪宗門』で、とってあるのでこれから読もうと思っている。しかし・・・『されどわれらが日々』も『内灘夫人』もそうだが、読むのには努力がいった。特に『わが心は石にあらず』はなんでこんなに組合のことばっかり書いてあるのか、もういいや、めんどくさいから読むのはやめてこのまま捨ててしまおうとまで思った。

 「組合」・・・なんて古いんだろう。三井三池闘争でおさらいしなくても、先日の三里塚闘争でも同じこと。人間が団結し、落後者をださないことは、人間にとっての「カネ」の魅力と人間生来の弱さからして、ほぼ確実に無理なのだ。少しの「カネ」で飼い馴らされていくほうが、「カネ」に見向きもせずに信念を貫くよりも、よっぽど「人間らしい」のである。

 この小説でも企業が合理化攻撃をかけてきて、組合が試練を迎えると、第二組合ができ、組織の中枢から裏切り者がでて、ストライキは破られ、組合は負ける。組合の委員長である主人公は企業から重役に招かれたのを断り、最後まで組合を「指導」するのだが、結局、会社は合理化され、彼は馘首されるのである。

 私も公務員という「恵まれた」職場ではあったが、就職直後から分会役員をやってきた。児童館・学童クラブという少数職場(併設の場合、児童館職員3名、学童クラブ職員2名。単独学童クラブは2名)にも行革の一環として人員削減攻撃がかけられてきて、併設で5名の職員を1名削減、代わりに月16日勤務の非常勤職員が入った。職員1名削減の提案が当局からあったときは、分会は「1名削減撤回」で一致していたが、共産党系の区職労指導部から横槍が入り、すぐに条件闘争に移行。日曜日も開館していた児童館の日曜日を休館にすることと引き換えに、人員削減をのんだのだった。(学生時代も共産党のきたなさはいやというほど知らされたが、再び憎む以外ないほど体験)。

 その後、組合は労使協調路線をひた走り、自分から合理化をすすめ、私が乳がんとうつ病で休んでいた2000年はじめ頃、分会は学童クラブの民間委託に同意した。自分の職場を自分から売ったのである。2005年3月、私は仕事を辞めた。(人員削減攻撃のとき、区側との交渉窓口だった区職の書記長→委員長はすんばらしいポストに天下り)。

 (参考:いまは学童クラブも企業が経営する時代ーこれは一例です。子どもは商品にさせられた。私はかなしい)。

 話は変わるが、いま、私は要介護1で、週に2回、介護ヘルパーのお世話になっている。ヘルパーの労働条件は劣悪である。一番ひどいのは、1日に6か所~10か所もの家庭を訪問するのに、移動時間は労働時間とはみなされず、給料がでないことである。私の場合、たまたま1回2時間であるが、普通は老人のおむつ交換などで1回30分の訪問が多い。10か所訪問しても労働時間は5時間にしかならず、移動時間が同じくらいあるだろう。父の頃は「見守り」も許されていたが、介護保険はどんどん改悪されて、いまは見守りなどとんでもない。病院のつきそいも、病院での待ち時間は入らないのだ。待たない病院があるだろうか! さらに介護保険は改悪されるらしい。

 もともとヘルパーは夫が働いている家庭の主婦の片手間の仕事で、年収は配偶者控除枠103万円以内(いまはいくらになったのかわからない)を予想してつくられた制度であろう。だからばかにしきっているのである。移動時間も拘束されているのだから、当然労働時間に入れるべきである。こういうことはそれこそ組合を作って全国規模の闘争を起こして厚労省に交渉する必要があると思うが、現状では大変むずかしいだろう。

 Dr.Aは訪問介護ステーションをつくって、介護ヘルパーに暮らしていけるくらいの賃金を保障して運営していたが、とてもやっていけなくなり、数年であきらめた(閉鎖した)という。現場の努力では不可能なのである。少しまえに、有名な訪問介護ステーションが不正をはたらいたというニュースが報道されたが、不正ぐらいはたらかないとやっていけないのだ。悪いのはだれなのか?! 介護老人をかかえた家族以外は介護に関心がないだろうが、人間だれもがいつかは年をとる。年をとってから制度がおかしいと思っても遅いのである。

 話がいろいろと飛んでしまったが、『わが心は石にあらず』は組合を通して、人間というものを考えさせてくれる小説ではある。人間ってろくでもないものだ。(いいところもあるのを否定しないけど全体ではね)。

 やっぱり、私は「性悪説」である。
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by lumokurago | 2011-12-14 10:53 | 本(book)

『ブンとフン』 井上ひさし

 生来のストーリーテラー、ナンセンス作家、井上ひさしの究極のナンセンス小説。売れない小説家フン先生の小説「ブン」から飛び出した四次元生物のブンは、光の速さの四分の三で移動する世界を股にかけた大泥棒。その盗むものが奇想天外、抱腹絶倒の「ブン現象」。

 「ブン」が12万部も売れ、1冊1冊から「ブン」が飛び出したため、「ブン現象」も12万倍に・・・。

 笑いたいかたはぜひお読みください。

 井上ひさしは大好きで、劇もずいぶん見たし、小説も読んだけれど、妻に対するDVがひどいと聞いて、全部捨ててしまった・・・はず・・・だったが、この本は特に古いので、片隅に忘れられていたのだろう。そのあと、芸術院会員にもなってしまって、がっかりしたなあ。

 そのことを気にしないかたには、「12人の手紙」を推薦します。
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by lumokurago | 2011-12-11 18:32 | 本(book)

『戦争童話集』 野坂昭如

 1971年に『婦人公論』に連載された作品だそうです。出版は1975年中央公論社。野坂は「ホタルの墓」で有名ですが、こちらも傑作だと思います。

 1、小さい潜水艦に恋をしたでかすぎるクジラの話
 2、青いオウムと痩せた男の子の話
 3、干からびた象と象使いの話
 4、凧になったお母さん
 5、年老いた雌狼と女の子の話
 6、赤とんぼと、あぶら虫
 7、ソルジャーズ・ファミリー
 8、ぼくの防空壕
 9、八月の風船
10、馬と兵士
11、捕虜と女の子
12、焼跡の、お菓子の木

 「昭和20年、8月15日」で始まる12話中7話に動物がでてきます。何の責任もない、意味もわからない戦争で命を落とす動物たち。人間の子どももそうです。特攻隊の青年(少年?)にも責任はありません。責任のまったくない、戦争の意味もわからない動物たちや子どもたちが犠牲になるのが、もっとも理不尽です。もっとも理不尽なものを表現すれば、もっとも人びとの心を打ちます。この動物たち、子どもたち、青年たちはなぜ死ななければならなかったのだろう? 登場人物(擬人化した動物も含め)があまりにもやさしい。戦争さえなければみんなどんなに幸せな人生を送ることができただろうか。戦争が憎い。
 
 私たち(市民の芝居作りのあつまり)はこの童話集を紙芝居にしました。勤務していた学童クラブのお楽しみ会などに読み聞かせしました。今回、この紙芝居を含め、山木屋の菅野浪男さんの作った童話集から子どもたちが絵を描いて紙芝居にしたものなどを、地域の文庫に寄付しました。子どもたちに読み聞かせていただければうれしいです。余裕がなくて写真を撮れなかったのが残念。写真があればここに載せられたのにね。

 ところで、何かに似ていますね。そう、「原発さえなければ」です。

 非常に言いにくいのですが、冷酷な性格の私ぐらいしか言う者がいないと思うので思い切って言いますね。動物たちは別として、子どもたちにはいまは責任がないけれど、成人すれば、いまの大人たちと同じように、ある人びとは「原発ムラ」をつくり、戦争大好きになり、人を人とも思わず金儲けばかり考える人間になるのです。そのときに、彼らにだまされずに自分の頭で考えて、戦争や原発を止める力をもった子どもたちを育てなければならないのです。そのためには大人が変わらなければならないし、教育を変えなければなりません。それができなければ永遠に同じような残酷なことを繰り返すことになるのです。
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by lumokurago | 2011-12-11 15:47 | 本(book)

『内灘夫人』 五木寛之

 『内灘夫人』 五木寛之もずいぶん読んだが、残っていたのはこれ1冊。出版は1969年で私が読んだのは1976年、22歳のときである。

 石川県金沢市の「内灘」で米軍試射場反対闘争があったのは「昭和」27、8年頃のことらしい。つまり1952、3年、私が生まれる1、2年前だ。主人公の霧子=内灘夫人は大学時代、この闘争にかかわり、学生結婚した師であり同志であり恋人であった夫がいまは事業に成功、変節したことで、心が離れ、きままな有閑マダム暮らしをしている。表面的には堕落した怠惰な暮らしなのだが、心のうちではいまだに内灘闘争のころの純粋で充実した時間の記憶から離れられないのだ。

 霧子が生きる「いま」は内灘闘争から15年ほど後、1960年代後半の再び学生運動が盛り上がった時代である。霧子はむかしの自分と夫のようないまを生き生きと生きる学生と知り合う。彼らは生硬に権力に抗うのだが・・・。

 三木卓の解説より引用する。

 ――街頭におけるデモ行進や、反戦・平和の式典があるたびに最近のわたしを襲ってくる思いは、つまるところ、わたしたち政治に対する意志表示の行為が、わたしたちの生活を支えている場においてなされなければ本質的な力になり得ないだろう、ということである。戦後25年有余、日本の反体制運動があれだけ派手に闘ってきたにもかかわらず、日本の体制がともあれ着々と自らを発展させて来得たのはつまるところそういうことなのだろう。街頭でのデモなどが行われるが、それは職場からも家庭からも離脱したポイントで政治的行為が行われるということである。極端な話をすれば、軍需工場の職工は、殺人兵器を製造する手を休めて反戦集会に参加し、また戻ってくればその続きを作り始めるのだ。

 いわば、そのような意味において、日本の民衆の体制に対抗する政治的行為は、かなりの部分、<青春>の場を設定することによって成立し得たものであったのではないだろうかと思う。とすれば、それはいわば観念的な場であり、その人間の持続していくべき生に対して十分な影響を与え得ない、というのがまず普通であろう。もし与え得るとしたら、それは、その人間がその政治的行為を、政治を超えた魂の問題として自らが進んで深く受けとめようとした時である。しかし、そのことによってかれは破滅するかもしれない。

 『内灘夫人』のなかで、わたしの心に最も深くとどまったのは、霧子が自分たちの学生運動と時を隔てて現在ある学生運動を比較して考える終りに近いあたりである。彼女は、自分たちの戦いのほうに<もっと有機的な、みずみずしい、青春という爽やかな果実の匂いが漂っていたのではなかろうか>と思い、若い恋人である<克己たちの戦いは、すでに政治の裡の姿をむき出しにして、コンクリートの荒野で戦っている感じがする><彼らの青春は、最初からその荒涼たる灰色の世界に投げ出されているのだ>と考える。そして<その灰色の世界を作っているのは、それは取りもなおさず、このわたしたちだ、という気が>するのである。

 ここにわたしは、われわれの国の歴史の、のがれることの困難なひとつの構図があると思う。それはわれわれに痛みをもたらさないではいない。現に1950年、60年、70年に大きな結節点のあるこの国の戦後の歩みを見ても、この酸鼻の構図から免れてはいないし、また未来をのぞき見ても未だに一すじの可能性もわたしには感じられない。挫折したものは乗り越えられるべき屍体となるのではなく、その敵対する側にまわってしまうのだ。積極的か消極的かの差はあり、それは同一視はできないものの、この円環をどこかで断ち切ることがない限り、この世界の質を変革することはむずかしいのだ。後略――


 戦後66年たった現在、「日本の反体制運動があれだけ派手に闘ってきた」ことを知る者すらほとんどいないであろう。私もその一人だ。三木の解説に「学生運動は青春の自己証明の一つの方法としていつの時代にもあった」とあるが、私の学生時代(戦後35年頃)にすでにそんなものは消滅していた。内ゲバしかなかったのだから。「その灰色の世界」を作ったのは、霧子らの世代であり、そのまた下の「全共闘」と言われる世代である。(いつも言っているように私は「全共闘」世代を恨んでいる)。

 いま、原発事故のおかげで(まさに「おかげで」)古い世代の「夢」が再び活気づいてきた。「政治」にどっぷりつかった彼らは、ほんとうに純粋な気持ちから反原発の運動をしているのか? どこかに新しく登場したお母さんたちや若者たちを自分たちの「政治」や「運動」に利用しようという下心があるのではないか?

 話がずれたが、青春に囚われ、夫の経済力に頼って有閑マダムをやっていた霧子は、小説の最後に内灘(金沢)で仕事を探し、汗水たらして働くことを始めようとするのである。人間の「生活」を。

 「おそすぎた出発だが、出来る限り遠くまで行ってみよう、と、心の中で呟きながら、霧子は風に逆らう1本の樹のように、いつまでも夜の中に立ちつくしていた」・・・これがラストです。



 
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by lumokurago | 2011-12-06 12:00 | 本(book)

柴田翔

 柴田翔を読んだきっかけはなんだったのか、何も覚えていない。が、4冊も取ってあったことを思えば、当時(20代前半)は傾倒していたと思われる。

 『されど われらが日々――』 この本の奥付 1977年 (出版「昭和」39年)
 『鳥の影』 出版「昭和」46年
 『贈る言葉』 出版「昭和」46年
 『立ち尽くす明日』  出版「昭和」50年

 『鳥の影』の加賀乙彦の解説より引用する。

 ――若い頃の希望や夢は、いつかは破れていく。その希望や夢が明るく大きいものであればあるほど挫折の傷は深い。柴田翔を読むとき、そこには、失われた青春とそのことに傷ついた人間たちがよく現われてくる。その傷を癒す手立ては若い頃にも現在にもどこにもない。行く手には袋小路がひかえるのみ、といった状況をこの小説家は執拗に描いている。

 作品のある部分が、作者の核となる気分や興味を鮮明に映し出すことがある。たとえば、『贈る言葉』の主人公の女子学生は、メーデーに参加をしている嬉々とした学友たちを見て次のように言う。

 「それは、どんなにいいことだろうかって思うの。あんなに明るく、自分のしていることは正しいんだ、それは誰にも否定できないことだって、信じていられるとしたら。だけど、いつか、あの人たちだって気づかない訳には行かないのよ。私たちは決してそんなに明るい社会になんか暮らしてはいないってことに。私たちのまわりの社会派、決して、将来へ向って進んでなど行かない。それは、暗く、陰気で、精一杯に生きて行こうとする人の心の願いなど、少しもかえりみようとはしない社会なんだ。そこでは、もっとmずるく、もっと、頑なに、ただひたすら自分に執着するほか、生きていく方法なんかありはしないんだってことに。そして、あの人たちがそれに気づいた時は、もう総て手遅れなんだわ。その時は、自分を捨てて、死んだように生きていくほかはないのよ」

 ここに柴田翔という小説家の重要な傾向が要約されている。――

 もう一つ、私が当時書き写した文章がある。

 「人生への強烈な関心というものは、おそらく、その強烈さに見合うだけの、一つの思い込みにも似た強烈な観念、例えば永久革命、例えば永遠の反抗、更には絶対的愛、絶対の自由、純粋な性といった強烈な観念に、転化することなしには、存在しつづけることができない。それらの観念はみな「絶対」あるいはそれに準ずる形容詞を要求するのであって、つまるところはただ一つ、漸く始められた人生を力の限り生きたいと願う若い人間のあがきなのだ。だが、そうやって形成された排他的な観念は、自己の強烈さに見合うだけの対象を、この世界に発見できない。それゆえ、あまりに強い関心を人生に懐くものは、必然的に、身のまわりの事柄には全く興味が持てず、自分をごまかして二十日ねずみのように空虚な行動の車を踏みつづけるか、あるいは、外見的には完全な無関心、無気力のうちに陥ってしまう他はない」

 若い男女の関係や「結婚」「家族」にひそむほころび、幻想や矛盾、打算もいやというほど書かれている。『されど われらが日々――』の最後に主人公の女性が自分の生き方を求めて旅立っていくところにとても共感した20代の私だった。
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by lumokurago | 2011-12-04 16:25 | 本(book)

『壁』 安部公房

 『壁』 安部公房  これも古い。奥付は「昭和」44年、ということは1969年。いま読めばいろいろと象徴的な意味など考えてしまうが、当時はおそらく自由きわまりない発想、シュールな展開に引きつけられたのだろう。なにしろ、人間から「名刺」が分離して、そちらが本物のようにふるまい、本人は広野で果てしなく成長する壁になってしまうのだから。

 こんなお話がかけたらおもしろいだろうなあ・・・。と思って、安部公房は何冊も読んだが、『壁』以外は処分してしまったようだ。

 『砂の女』の感想を最初にだした通信『Burst』に載せた覚えがあるので、ここに掲載したいと思ったが、家の建て替え騒ぎのため、どこかにしまいこんでしまった。もしみつかって、間に合えばあとで掲載します。主人公が砂の穴に閉じ込められ、脱出するために四苦八苦するのだが、いざいつでもでられるとなったときには脱出などどうでもよくなった、そんな物語だったと思う。人間の希望とはなんなのか。発想を転換させればまったく違うものが見えてくるということを学んだ覚えがある。
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by lumokurago | 2011-12-03 11:44 | 本(book)

大江健三郎初期作品

 『われらの時代』 大江23歳のときに書き始めて、不眠症を呼び起こし、睡眠薬とウィスキーのみで数日を過ごすという生活になったという。その後、睡眠薬の中毒症状から回復し、この小説を完成させたそうだ。

 1960年代初期という時代の閉塞感のなか、主人公の青年や10代の弟たちは「勃起したい」「出発したい」。しかし日常はだるく暑苦しい。出発できそうだった主人公は湧き上がってくる「良心」を無にできず、その権利を放棄。弟たちの途方もない夢も「誇り」が頭をもたげてきたため、殺人、爆死へと急展開。出発もできず、弟を失った主人公には「自殺」というアイディアが浮かぶ。

 友情、連帯、情人、同性愛・・・なんでもいいのだが、これほどまでどろどろした濃厚な人間関係はだいぶ以前から消えつつあるのではないだろうか。現代の若者がこの本を読んだらどう思うのか。若かった大江も生きるのは大変だっただろうが、いまはまったく違う意味で大変だろうなと思う。人間というものはここまで変わるものなのか。いや、変わったのは<時代>なのか。しかし<時代>を変えてきたのは人間である。

 大江の初期の作品でほかに『見るまえに跳べ』があった。これは短編集だが、同じくすべてが濃密で暗い。その後の大江の作品も何冊か読んでいるはずだが、乳がんの初回治療のときに処分したらしく、もう残っていなかった。
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by lumokurago | 2011-11-30 17:00 | 本(book)

『わが三里塚 風と炎の記録』戸村一作

 『わが三里塚 風と炎の記録』 戸村一作 (田畑書店1980)

 この本も比較的古い部類にはいる。26歳頃に読んだと思われる。

 私は三里塚には3回行ったことがある。一番はじめはいつだったか忘れたが、教育社という出版社で就職してすぐに組合をつくって解雇され(1970年前半のことだと思う)、定年退職になったいまも裁判闘争をつづけている(つまり40年以上)T学童クラブの父母Mさん夫妻と集会に行った。子どもがまだ小学生だったから、おそらく30年以上まえのことだと思う。Mさんの車で行ったのだが、このような集会に参加したことのない私は検問で車が列になって止まり、警官がトランクまで開けさせるのに驚いた。Mさんの車は子どもと女二人が乗っていたので、何も調べず素通りだったが(ほんとうは怪しいのに! というのは冗談。Mさん夫妻はこんなに優しい人がほかにいるだろうかというほど優しいが、当局には「極左暴力集団」と言われて恐れられていた(笑))。どんな集会だったのか、すべては忘却のかなたで、このことしか思い出せない。

 2回目、3回目は三里塚空港の暫定B滑走路の南伸を止めている7軒の農家に遊びに行ったのだ。これは彼らから有機農法野菜を宅配してもらっている杉並のKさんに連れて行ってもらった(私もKさんに紹介されてから野菜を取っている。とてもとてもおいしく、そのうえ日持ちがするのでびっくり)。
 そのときの記事はこちら。三里塚の原風景が残されています。

 私は三里塚闘争のことを何も知らない。高校時代、大学生の先輩がワンゲルのテントに「三里塚空港粉砕」などと書いてしまい、それをもって山に行っていたくらい。

 戸村一作さんは空港反対同盟委員長でキリスト者だ。そのくらいのことしか知らずにこの本を読んで、驚くの驚かないのって! 機動隊っていうのがこんなにひどいものだということをはじめて知った(東大安田講堂事件をテレビで見たがまだ中学生だったし、機動隊が安田講堂に放水しているところを覚えているだけで、実態は知らなかった)。

 三里塚闘争では学生の側にも機動隊の側にも死者をだしている。

 東山薫は21歳の学業半ばで三里塚に来た。赤十字のゼッケンを胸につけ、救護所を機動隊から守るためにスクラムを組んでいて、5mという至近距離からガス銃で撃たれた。頭にはヘルメットもなかった。完全に殺意による銃殺だ。東山27歳。犯人は同盟の撮影した写真により2人の機動隊員のうちのどちらかに絞られたが、結局うやむやにされた。これが学生であれば、理由もなく逮捕し、不当な理由をつけて起訴するのに。

 新山幸男はトラックでドラム缶を運搬中、ドラム缶をピストルで撃たれ、燃料に引火、新山の服にも燃え移った。機動隊は燃えている新山に大盾を撃ちおろし、手錠をかけ、空港の倉庫に4時間も放置した。新山は全身やけどで死亡。

 九州から移ってきた前田俊彦(どぶろくで有名な思想家)は「これはもう戦争だ」と言ったそうだ。ベトナム戦争と比べ、30年つづければ勝てると言ったらしい(当時すでに13年つづいていた)。

 知っている人は少ないだろうが、1966年に成田空港を政府が閣議決定、1昨年が成田空港開港30周年だったので、B滑走路の南伸を止めている農家は40年以上闘っていることになる。石井恒司さんもお父さんから2代目だ。

 この本を読むと、政府、空港公団、機動隊など権力側のあまりのひどさ、農民は虫けらという扱いに愕然とするし、農民側も次々に脱落して土地を売ってしまうので絶望的になる。石垣新空港が建設されつつある石垣島白保も同じような目にあったのだろう。全国の空港やダムや道路や・・・がこうして権力が人民を踏みつぶし、蹴散らしてできあがった。

 しかし恒さんたちが残っている。

 私ははじめて恒さんに会ったとき、どうやってこの土地を奪われずにすんだのかと聞いたが、笑っていた。もちろん簡単に答えられることではないだろう。飛行機の騒音によって恒さんが突発性難聴になってしまったと最近聞いた。写真を見ているだけならのどかだが(リンク参照)、騒音がものすごい。人の暮らす土地ではないのである。

 もういいよ、引っ越せばいいよ。と思ってしまう私なのだが、彼らは住みつづけ、耕しつづけている。

 最近、羽田空港が拡張され、成田はいらなかったみたいな話になりつつある。まったくなんのために戸村さんや恒さんのお父さん、恒さんたちは闘ったのか。成田空港は壊して、元の大地に戻せばよい。なぜそれができないのだろうか。

 ほんとうはもともといらなかったのである。
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by lumokurago | 2011-11-29 10:58 | 本(book)