暗川  


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カテゴリ:本(book)( 32 )


『逆転』 伊佐千尋著

 2月にDr.Aの佐藤医院を訪ねたとき、受付に『裁判員拒否のすすめ』(伊佐千尋・生田暉雄編 WAVE出版)があったので、驚いたことはすでに書きました。生田暉雄さんは杉並の教科書裁判を支援してくださっている弁護士ですが、Dr.Aは伊佐千尋さんのお知り合い(飲み友達)だったのです。それで伊佐千尋さんの『逆転』(1977新潮社 大宅壮一ノンフィクション賞受賞・現在は岩波現代文庫)を読みました。1964年の沖縄の陪審員制度のことを書いた分厚い文庫本なので読むのが大変かなと思っていたら、息つく暇もなく読んでしまいました。

 1964年、米軍占領中の沖縄で米兵1人が殺され、1名が負傷。4名の沖縄青年が「共謀共同正犯」(2人以上で犯罪の実行を謀議し、共謀者のある者が共同の意思に基づいてこれを実行したときは他の共謀者もまた正犯とする)で、殺人の容疑をかけられました。この裁判は当時沖縄で行われていた陪審員制度(現在行われている裁判員制度とはまったく別もので、12人の陪審員が有罪か無罪かを判定する。全員一致が求められる。1名でも反対意見があれば、裁判は別の陪審員のもとで何度でもやり直し)のもとで行われ、伊佐さんは陪審員として参加したのです。被告らの供述調書は警察官に誘導されたもので、被告らは内容をまったく確認しないまま、署名捺印させられたのです。12名の陪審員のうち沖縄人はたったの3名、それでなくとも米軍支配下で米軍の力の前に沖縄人は差別されていた状況で、当然のごとく、陪審員たちは4名とも有罪であると判断します。その中で伊佐さん一人が無罪を主張。紛糾した議論の末、「逆転」させるのです。どうやって逆転させたかはぜひ本をお読みください。

 陪審員の判定が(殺人に関して)「無罪」であるにも関わらず(傷害は有罪)、被告人らには執行猶予なしの「懲役3年」という法律家にとって常識外の非常に重い刑が言い渡されました。彼らは「見せしめ」にされたのです。

 占領下の沖縄の状況、陪審員制度について、非常にわかりやすく読みやすく書かれています。裁判記録もなく、調べるのも非常に苦労したそうですが、力のこもった大作で、解説にはすでに古典となったと書かれています。すばらしい作品です。
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by lumokurago | 2010-08-02 19:05 | 本(book)

『精神療法面接のコツ』

 この本は精神科の面接のやり方について専門的に書いてあります。むずかしいのでこれ以上の引用はやめて処分しようと思いますが、気になる一文だけ・・・。

 「親子関係で『自立』するための最も有効な方法は親孝行であり、最も効果の薄い方法は家出である」

 たしかにその通りだと思います。親から「自立」するということは、親との関係をみつめ、自分のなかに位置づけ、親と子どもが認め合う(「和解」)することだと思うからです。そのためには「関係」から逃げるのではなく、逆に入り込んでいく必要があるのだと思います。

 真の意味で親から「自立」している人は意外に少ないのかもしれません。
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by lumokurago | 2010-07-22 20:31 | 本(book)

「精神療法面接のコツ」 (神田橋條治)

 今日は松下竜一さんはお休みして、まったく別の領域から・・・。でも同じようなことを言ってるんですよ。結局、どんな専門分野でも人間として「同類」の人はいるんですね。精神科医の神田橋條治さんの本より引用します。

 「ヒトから人へと発展した個体はみな、爆発的に拡大したコトバ文化を生きている。しかし、人は依然ヒトでもある。動物としての個体を生きていもいる。そして、二つの生きかた間の矛盾の結末として、本来枝葉であるコトバ文化が、しばしば母屋である生体を侵害している。そのとき、生体にとって文化は癌腫である。ちなみに、もし他の生物が口をきけたらきっと、『ヒトって、地球に生えた癌ネ』と言うのではないだろうか。

 近年、世界中で湧きあがっている自然保護運動と『身体』への関心の高まりとは、同じ起源をもっているのだろう。すなわち、コトバ文化の跋扈への生体からの危機感、の表明である。しかし、戦いの場では、新しいものが古いものを圧殺するのが常である。自然保護の運動に勝ち目はないだろう。そして、新しく生じたものが、自己の源である古いものを圧殺しおえた時が、新しいものの滅亡のスタートであるというのも、癌の場合に限らず、われわれが見聞きするすべての事象に共通する鉄則である。古いものは新しいものを支えている存在であるからである。新しいものが生き残るには、古いものを自己の一部として大幅に取り込み保存するしかない。
 
 はたして、いまからでも間に合うものかどうか、わたくしには分からない。ただ、癌の場合と異なり、地球環境の悪化の結果、人類は比較的早い時点で消滅する。その時点で地球環境のさらなる悪化は停止し、地球に具わっている自然治癒力が事態を好転させるであろうと期待できることが、せめてもの心の安らぎである」

 (「対話的精神療法の進め方 その1『抱え環境の育成』について述べているなかで・・・。『抱え環境』とは純粋の外界ではなく、主体(患者)と外界との関係のこと)「現在の環境が、抱え環境として望ましくない環境であるさいは当然、望ましい方向へ環境を改変する努力がなされるだろう。そのとき、精神療法にとって最も根源的な問いが生じる。すなわち、抱え環境をしつらえることが治癒にとって最も基本的方策であり、なかでも外部環境を整備するのが、生体への負荷の最も少ない理想的な方策であることは確かなのだから、癒しの作業における最良の方策は、外部環境の改善すなわち社会改革である。それをなおざりにして、個人のいわゆる内的世界の改変や外部環境への適応法の改善を目指す精神療法は、個人を体制に順応させることを指向する、馴致・洗脳の一種ではないか、との問題提起である。

 わたくしは、この告発は正当なものであると思う。そして精神療法というものの本質の少なくとも一部分として、体制への妥協、屈服、迎合の姿勢があると考える。そのように受け入れたのち、実際の治療対話の場に望んでみると、実は、一人の患者のなかに、体制への迎合の志向と反発の志向が、入れ混じり化合して存在していることが見えてくる。内省精神療法で明らかになってくる葛藤の実態は、このせめぎあいの構図であることが多い。とはいえ、それら葛藤する力の双方は共につまるところ、いのちのわがまま性の種々のありように過ぎない。治療者であるわたくしたちの作業としては、体制への迎合の志向と反発の志向とが充分にのびのびと葛藤できるように配慮することが望ましい。終極には、その個体のいのちのわがまま性が、わがままに選択をするはずである。したがって、対話精神療法において、このテーマが登場することは、特別に歓迎すべきことである。そして、外部環境を改変したい気持ちや改変方法や改変の可能性についての検討をするのが、対話精神療法である。患者の「意欲と能力を引き出す」抱えの技法である。

 しかしこうした検討の対話は、ときとして行動への鼓舞として作用し、結果的に「揺さぶり」の効果を果たしてしまう危険もある。不安定な患者ほどこの危険があるので、第7章で再度とりあげて論じる。いまここで、述べておかねばならないのは、われわれの人生において、環境を操作し、いのちのわがまま性にあうよう変えてゆくことは不可能な場合が多いという点である。典型的には『老・病・苦・死』がそうである。そもそも人が内省するのは、外部環境の捜査が滑らかにゆかぬ、あるいはできなかったときが多い。一種の退却である。そして退却した位置から状況全般を見直そうとしているのである。したがって、精神療法においての、抱え環境として望ましい外部環境とは、とりあえず退却して事態を見直すためのモラトリアム空間である。抱え環境の育成を最終的な目標としてはならない」

『精神療法面接のコツ』(神田橋條治著 岩崎学術出版社)より
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by lumokurago | 2010-07-21 12:04 | 本(book)

整理中の本

 次の本を差し上げます。希望される方はメール(lumokuragoあっとまーくybb.ne.jp)まで住所、氏名をお知らせください。

・『泣いていいんだよ』 青木悦著 けやき出版 2004  親子関係で悩んでいる人向け

・『「子どものために」という前に』 青木悦著 けやき出版 1998  子育て論 

・『「いのちの授業」をもう一度』 山田泉著 高文研 2007  山ちゃんの記事はこちら

・『医者が泣くということ』 細谷亮太著 角川書店 H19 小児がん専門医の診療日記

・『アメリカ弱者革命』 堤未果著 海鳴社 2006 ここに記事があります。

・『戦場で心が壊れて』 アレン・ネルソン著 新日本出版社 2006 記事はこちらです。

・『沖縄戦の真実と歪曲』 大城将保著 高文研 2007

・『絶望禁止』 斎藤貴男著 日本評論社 2004 平和と平等の理想を希求する18人へのインタビュー

・『ある軍国教師の日記』 津田道夫著 高文研 2007 書評はこちら(JANJAN)

・『若者の労働と生活世界』 本田由紀著 大月書店 2007 書評はこちら
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by lumokurago | 2009-10-22 21:57 | 本(book)

光市母子殺害事件について

 余裕のない私がメモですませた「光市事件 弁護団は何を立証したのか」(光市事件弁護団編著、インパクト出版)について、松田まゆみさんが丁寧な記事を書いておられます。とてもわかりやすいので興味のある方はぜひお読みください。
光市事件とは何だったのか?

 松田さんは「なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日」も読んでおられます。
再度、光市事件を考える

 そして、少年の実名を出して話題になっている本も
「福田君を殺して何になる」を読んで

 私も読んでみようと思っています。松田さん、丁寧な考察、いつもありがとうございます。
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by lumokurago | 2009-10-19 23:48 | 本(book)

先週読んだ本(メモ)

1、『我々はどこへ行くのか』 川良浩和著・径書房 2006

 NHKスペシャルを150本作った川良さんの力作。昭和天皇の死からベルリンの壁崩壊、冷戦構造終了後激しくなってしまった民族紛争、ヒロシマから見える世界、2001年9.11まで、文字通り激動の世界を圧倒的な取材力を持って番組作りをしたドキュメンタリストからのメッセージ。旅行中に再読しました。自信を持ってお勧めします。(「NHK特集」に替わる新番組「NHKスペシャル」の1本目、1989.4.9に放送された「拝啓 長崎市長殿ー7300通につづられた“昭和”」には私も一瞬映っています)。

2、『光市事件 弁護団は何を立証したのか』 光市事件弁護団編・インパクト出版会 2008

 10日に行われた死刑廃止の催しで興味を持ち、買ってきました。光市事件については無知でしたが、この本ですべてが心に落ちた気がします。「問われているのは司法の頽廃である」、帯の言葉です。安田好弘弁護士はじめ、事件の真実を明らかにした21人の弁護団に敬意を表します。

 この事件の場合被害者の夫の声がメディアを席巻し、影響力が大きかったようですが(私はテレビを見ないのでうわさで聞いているだけ)、マスメディアに煽られて弁護団の懲戒処分申し立てに動いてしまったおおぜいの人間・・・本当に恐ろしいです。先入観や偏見を持たずにまっさらなところから真実を見極めようとすることの難しさを教訓としたいと思います。

 今回の旅行で山陽本線「光」駅を通過してきました。少年の実名を出したルポも読んでみたいと思っています。
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by lumokurago | 2009-10-18 22:29 | 本(book)

『心の病いはこうしてつくられる』 2

 あるテーマで共感できる人というのは、なぜ全く違う別のテーマでも同じ意見なのでしょう? とても不思議です。『心の病いはこうしてつくられる』(2006批評社)の貸し出し期限がとうに過ぎてしまったので、急いで写しておきます。石川憲彦さんは経済問題でも私と同じ考えなので、驚いてしまいました。こういう考えは少ないけど、やっぱり私だけではなかったんだ!(あと、ダグラス・ラミスさんもそうです)。

*****「ニート」に関する議論の中で*****

 私は日本経済が縮小するということを踏まえた国策を打ち出さなければならない時代だと、30年間ずっと言い続けています。日本は確かにまだ格差社会になっていないというのは、そのとおりだと思います。アメリカやイギリスは過去に植民地という凄まじい資産を戦後まで持っていて、海外の植民地がなくなれば国内だけですから不利になった上流階級は没落して切られる傾向が早かったと思います。日本は、そうした海外資産を失ったところから戦後がスタートして、徐々に海外で搾取して収奪する行動を強めていってそこで成功してきたので違うと思っています。

 これからは日本人が格差社会でない社会を希望する場合、上流階級をごく一部だけ残して、あとは戦後社会が持っていたみんな貧しいという、あのような共有感が大多数の人々に生み出せるようになるしかないという正にその点に、私はひきこもる希望を感じます。

 限られた世界のパイをめぐってインドが参戦し、中国が参戦する時には、経済を縮小していくという政策を考えない限り、一部の上流階級の利益だけを考える企業社会として拡大発展していくという国家エゴイズムを貫くような道はあり得ようがないと思います。そうしますと、縮小するというテーマを考えたときに、私は日本の少子化現象というのは、日本国民が生物として素直な証拠だと思っています。将来の確固たる見通しも希望もない今の社会で、社会保障も徐々に切り捨てられる状況のなかで無理して子どもを生み育てる必要は何もない。そういう意味では、人類として正しい選択を意識的にしていると思います。生物としての生き物はある一定数を超えて増え過ぎたら自然に減少する。贅沢し過ぎたら経済社会が萎む。そういう波動の繰り返しを受容できるイデオロギーが成熟するまでは、二―トや「ひきこもり」を相対化して一緒にしてもいいのではないかと思うのです。なぜなら、そのような格好でしか自己表現できない私たちの社会的状況にそもそもの問題があると思うからなのです。

 しかも、そうした社会状況でありながら、一緒に生きられるということをどこかで見つけ出していくことに逆に希望を感じます。それは明治期以来あった「美しき村」とか、「ヤマギシズム」とか、様々にある実験のように、自ら小さく自然主義に戻るのではなくて、社会の波で押し切られても生きていく方向の選択として「少子化」は面白い現象だと思うのです。これが、ひきこもる社会の希望です。(P.134)
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by lumokurago | 2009-07-12 14:26 | 本(book)

大好きな石川憲彦さんの本

 最近、JANJAN記事のがん関係のご意見板への返事に追われ、またまたその関係の本をひっくりかえしたりして、ますます詳しくなってしまいました。本当に冗談でなく、おごりでもなく、そこらの医者より私の方が詳しいと思います。脳死移植問題についても書きたいと思っているのですが、先日、障害児問題について読もうと思って図書館で借りた本も、その問題と過剰医療の問題に言及していました。

 大好きな精神科医・石川憲彦さんとこれは知らない高岡健さんの対談です。タイトルは『心の病いはこうしてつくられる』(批評社)

 これから少し引用していきたいのですが(これまで何冊もの本にこう言いつつ、全然やってない。例:ダグラス・ラミスさん、堤清二さん)、まずはあとがきから引用させていただきます。石川さんはやっぱり私が好きなだけあった。

*****

死をも共に生き抜いている人間というストーリーの原点(あとがき)   石川憲彦

 わたしには医者として、いつも振り返り、立ちかえる原点がある。それは、医者として新米の頃に出会った幾人かの子どもたちの生き方を通して形成され、今では人間としての私の原点となっている。・・・中略・・・

 今、子どもたちの生き方を通してと書いたが、正しくは死を生きつつある子どもたちを通してと書くべきだろう。例えば、倫ちゃんは、進行する脳の変性疾患のため、最後の3か月を病院で過ごしていた。数週間後、白血病から生還すべく同室に入院したフーちゃんは、治療の甲斐なく数年後他界する。

 前思春期を迎えようとしていた倫ちゃんは、数年前から進行する脳機能不全のため、すでに植物状態にあった。小児科医としての私の日々の作業は、レスピレーターを点検し、身体中に差し込まれたチューブと装置を管理し、まさかのときに備えて診察を黙々とこなすことであった。医者も、看護師も、そして時には家族も、大人は彼を半分すでに帰らぬ異物とみなしていた。
 
 フーちゃんが入院すると、このルーチン化された機械的作業は、しょっちゅう邪魔されることになる。ようやく幼児期を迎えたばかりのフーちゃんは、いったん危篤状態を切り抜けると、退屈しのぎに(と大人は考えた)倫ちゃんにちょっかいを出し始めたのだ。声をかけ、歌を歌い、それでも物足りなくなると、ベッドの枠を乗り越えてレスピレーターやチューブをものともせずに倫ちゃんと遊ぼうとする。

 フーちゃんを制止し、なだめるために、禁止や叱責は無効だった。有効な手段は、大人たちが、倫ちゃんを一人のかけがえのない人間として、声をかけ、歌を歌い、みんなで一緒に遊ぶことだった。フーちゃんのお友達として、倫ちゃんは治り、生き続けるために入院しているというストーリーをでっちあげることが必要だったのだ。

 しかし、この不合理なストーリーは、やがて大人たちを変えていく。倫ちゃんと会話する。倫ちゃんと遊ぶ。不思議なことに、大人たちは、こういった幻聴と妄想が機械的合理主義の世界よりずっと生き甲斐と張り合いに満ちたものだと感じ始めるようになる。人間の精神世界が作り出すストーリーが、倫ちゃんと、フーちゃんと、親と付き添いと、医者たちと看護師たちの生きる時間と空間をとても豊かにしてくれたのだ。

 ・・・中略・・・

 今日、医療界では、このような特殊な甘い考え方を排除し、現実的な社会の考え方だけを優先させようとする動向が、完全に主流になってきた。脳死はもとより、安楽死や尊厳死というのは、この動向を最も鋭敏に反映する主張である。安楽死と尊厳死を混同するなという主張がある。しかし、安楽も、尊厳も、しょせん「私」の所有物にすぎないと見做されている。脳死・安楽死・尊厳死。いずれの死においても、死は完全に個人化された事象になり下がってしまった。

 人間の精神が創作したひとつのストーリーは、近代の初頭、病院社会に封印され、いまや完全に葬り去られようとしている。対象関係論的に未熟な幼児であるフーちゃんはいざしらず、ストーリーにおぼれるような異常な大人は、医師や看護師という専門職にふさわしくない。

 では、成熟した社会を支える、脳死・安楽死・尊厳死を正当化するストーリーとはどのようなストーリーなのか。あるいは、それがいかなるストーリーにせよ、社会から病院まで一貫して単一のストーリーが支配することは、人類にどのような意味を持つのか。このような問いかけを発し続ける中で、医者としての原点はいつの間にか私の原点となっていった。・・・後略・・・

 2006年5月28日
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by lumokurago | 2009-06-23 22:43 | 本(book)

「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」その3

国家は国民を守ってくれない

ダグラス・ラミスさんの本の要約です。

交戦権は、近代国家の基本的な性格にもつながっている権利です。近代国家の定義として政治学の主流の中でかなり定着しているマックス・ウェーバーによると、近代国家の本質は「正当な暴力」の独占を握る組織であるということです。この「正当な暴力」には3種類あり、警察権、処罰権、そして交戦権です。すでに話したように、これは戦争なら、そして戦争法に従うならば、ひとを殺すことができるという権利です。個人が同じ行為をした場合と違って、それをしたのが国家だと、なにかショックを感じなくなっているということは、そこには国家の魔法が働いているとしか思えません。

そのからくりがどのように機能しているかはとても分かりにくいので、なぜ私たちが国家に、そういう「正当な暴力」を使う権利を与えたのかを考えてみます。それは国家がそれを使って私たちを守ってくれるという期待があったからです。この論理が一番明確に出ているのが17世紀、イギリスのトマス・ホッブズが書いた『リヴァイアサン』という本だと思います。つまり、国家がなければ「万人と万人の闘争」、個人と個人のあいだの暴力が支配する世の中になるだろう、だから個人の暴力の権利を政府に持たせれば、政府が代わりに社会の安全を保障してくれるだろうという期待です。ホッブズの論理は正当な暴力を独占する国家を作れば、社会は安全になるという仮説です。

20世紀のはじめまでは「正当な暴力」を独占している近代国家の数はまだ少なかったけれど、今では国連に入っている国家の数は180数カ国になり、「正当な暴力」を独占する国家のもとに住んでいない人間はほとんど残っていないと思います。そういう意味で、20世紀はホッブズ理論の大実験と考えられる。この100年を振り返ってみるとどうだろうか。

結果ははっきりしています。20世紀ほど暴力によって殺された人間の数の多かった100年間は人類の歴史にはありません。そして誰がもっとも多く人を殺しているかというと、マフィアでもやくざでもない国家です。ハワイ大学のランメルという学者の書いた『政府による死』という本によれば、この100年で国家によって殺された人の数は二億人にのぼります。ナチス・ドイツなどを除いたとしても、すさまじい数、恐ろしい統計であることに変わりはありません。

もう一つ驚くことがあります。それは、国家は誰を殺しているかということです。もしも殺されているのがほとんど外国人であるとしたら、これが恐ろしい統計であるとしても、とにかく国家は自分の国民との最初の約束を守ろうとしているわけです。ところが、殺されているのは外国人よりも自国民のほうが圧倒的に多いのです。

ランメルによれば、先の国家によって殺された約二億人のうち、約一億三千万人が自国民だそうです。

今の世界にも自分の国民しか殺さない軍隊を持っている国家はたくさんあります。フィリピンの軍隊は第二次世界大戦以来、外国人と戦ったことは一度もないけれど、フィリピン人をたくさん殺している。インドネシア政府は「東ティモールの人たちはインドネシア人だ」と主張しながら殺していました。メキシコ人に聞いた話でも、メキシコになぜ軍隊があるのかと言えば、アメリカと戦争すればメキシコの軍隊は何の役にも立たないと言います。メキシコ人自身と戦争しているのです。例えば先住民との紛争で。

日本の他にもう一つ平和憲法を持っている国コスタ・リカの憲法も同じように軍事力を持たないと規定しているのですが、その成立の事情は日本の平和憲法とはまったく違う。コスタ・リカは誰かを侵略して、戦争に負けて反省したという歴史はありません。中南米の歴史が、軍部を作ればすぐに軍事クーデターを起こし、独裁政権を作ることの繰り返しだったため、軍部を作れば国民をいじめるに決まっている、政府の国民に対する暴力を制限するために平和憲法を作ったのです。

20世紀は戦争の世紀だったけれども、最も多く人が殺された戦争は、国家間の戦争ではなく、国家と自国民のあいだの長い戦争だったのです。そして国家が殺したという二億人のほとんどが戦闘員ではありません。ランメルはデモサイド(democide)という造語を作りました。それは政府がわざと非武装の人々を殺すという意味です。デモサイドは戦争で敵の軍隊を殺すという、国際法で許された「正当な暴力」と違って、政府による明らかな殺人です。和訳として「民殺」が当たるかもしれません。ランメルによると国家に殺された二億人のうち、「正当な戦死」は約3400万人ですが、国家による民殺は1億7000万人、約5倍にものぼります。

つづく

その2はこちらです。

その1はこちら。
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by lumokurago | 2009-02-06 17:24 | 本(book)

「若者の労働と生活世界」

今日はタイトルの本を読み直して、感想文を書くのにかなりの時間を費やした。この本はJANJANの「今週の本棚」のプレゼントだ。JANJANは感想を書くと本をプレゼントしてくれるので、働いていない私は本代節約のため、この間何冊もの本をもらい、感想を書いていた。(活字中毒なので、本ならある程度はなんでもいい。と言っても、ドライアイになってから格段に読めなくなった)。

しかし、この本はむずかしかった。要するに社会学者の論文集なのである。論文というものは「注」が多く、先行論文や専門書を読んでいないと、言葉の意味もわからないことがままあるが、まさにそれだった。

そのため、感想が書けずに放置していた。感想を書かないと次の本がもらえないのだが、もういいやと思っていた。

ところが先日催促が来た。まじめな私は書かなきゃ悪いかと思った。

それで今日、必死に読み直して、感想をでっちあげたのである(ごめんなさい。でもそれほどはずれてはいないと思います)。

午前中は教育基本法違憲訴訟の原告になってくれた人たちのメールアドレスを整理していた。

いよいよ本格的に稼動し始めたので、必要に迫られたのである。ごちゃごちゃになっていたアドレス帳が整理されたのはよかったが・・・

裁判の原告になってくださる、心あるみなさま

どうかメールの表記はニックネームや数字などではなく、本名(漢字)に直してくださるよう、お願いいたします。でないといただいた後、まずこのニックネーム(など)はどなただったかと探し、「ああこの人だった」とわかると、この先探しやすいように漢字になおし、ふりがなも振る必要があり、とても大変なのです。
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by lumokurago | 2007-08-07 22:35 | 本(book)