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カテゴリ:その他裁判関係( 125 )


最高裁裏金裁判 杉原則彦裁判長の暴言

 本日、東京地裁705号法廷にて、最高裁裏金裁判第3回口頭弁論がありました。この裁判の事件番号は「平成22年(行ウ)第32号 公文書公開拒否処分取消請求事件」で原告は生田暉雄、被告は国です。

 内容は生田さんが最高裁裏金問題に関連して、司法行政文書の情報公開請求をしたところ拒否されたので、処分取消を求めて提訴したものです。裁判長は西山裁判(沖縄密約)で画期的判決を出した杉原則彦氏です。前回の口頭弁論で裁判長は被告に、原告の準備書面に反論するよう訴訟指揮しました。被告は情報公開法は裁判所に関しては当てはまらないという主張の準備書面を陳述しました(「陳述しますか?」「はい」と言うだけ)。

 それに対して生田さんは、情報公開法には国会及び裁判所は開示請求の対象となる機関とはされていないが、情報公開法の審理経過を踏まえ、内部規範を定め特別な場合を除き司法行政文書を開示するものとしていると主張しました。

 杉原裁判長は被告に今後どうするかと聞いたところ、被告は「反論する」と言い、それを聞いたとたん、杉原裁判長は苦笑いし、陪席と顔を見合わせました。結審するつもりだったのに、被告が「反論する」と言ったから当てがはずれたのです。私たちの裁判ではこれと同じことが起こったとき、小林克己裁判長は被告に「反論するんですか?」と非難するように言い、「反論する必要はない(被告の悪いようにはしないよ)」と暗ににおわせ、被告に「反論しません」と言わせ、強引に結審したのでした。杉原がどうするか、興味津津だったのですが、杉原は「ではもう一度開きます。それで終結とします」と言い、次回結審を告げました。

 ここまで読むと杉原はましな裁判官に見えますが、とんでもない! 途中で被告がもにょもにょ言って言葉がはっきり聞こえなかったとき、傍聴席から「聞こえません」という声が上がりました。そうしたら「傍聴席に聞こえるか聞こえないかは関係ない」と暴言を吐いたのです。「それでは裁判を公開していることにならない」と誰かが言うと「傍聴人のために裁判をやっているわけではない」と言います。「おかしいんじゃないですか」「マイクをちゃんと使ってください」と声が上がると、杉原は「傍聴席は静かにしないと退席してもらいます」と強権発動しました。

 まったく何様だと思っているのだ! 曲がりなりにも国民主権だし、裁判官の高額な給料は私たちが払っているのですぞ。

 今日は私たちやジャーナリストだけでなく、はじめて傍聴に来た人たちがおおぜいいました。彼らはこの裁判を応援する人たちで、ホームページが間もなくできるそうです。
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by lumokurago | 2010-08-06 19:39 | その他裁判関係

豊前環境権裁判第一準備書面 その4

 その他、準備書面では、豊前平野の行政当局(福岡県、豊前市、大分県、中津氏、宇佐市)や関係18漁協が豊前火力に賛成したが、それは民主主義に則ったものではないと主張。市民の知らぬ間に闇撃ちのように決定されたり、人口5万6千人の中津市で反対署名が3万名分に達し、全市議が反対署名をしたにも関わらず、市議会が始まるとそれらの市議らがひそかに賛成に転じてしまったり、福岡県知事が九州電力のお先棒をかついで関係漁協へ行政指導を行ったりしたことが書かれているが、省略。最後の部分を引用し、終わりとします。

 環境権の主張

 「以上、私達は、九電と行政が一体となって強行着工しようとする豊前火力に、激しい怒りと、公害の不安を述べて来た。私たちが豊前火力建設阻止を請求するのは、これまで述べて来たすべての理由によってである。それは、一羽の小鳥のことにもかかわるし、一人の少女の死ともかかわり合うことである。しかして私たちが述べて来たひとつひとつのことが、法的にいえば私たちのどのような権利を侵害しているのか、それを私達は述べることは出来ない。私達は法律に疎い原告らによる本人訴訟であるからだ。

 だが私達が、懸命に述べて来たように、もし豊前火力が来れば、こうなるであろうというひとつひとつのことは、私達にとって怒りを誘うまでに理不尽なのである。とすれば、これほどの理不尽をこらしめ、私たちを救済する法律は当然に存在するはずだと信じる。そしてそれは、私達が主張せずとも、裁判所が判断して適用してくれるものだと私達は信じる。裁判とは、そういうものであろうと、私達は理解して来た。

 仮に、私達は訴状では環境権と名付けて主張したが、私達の真意が豊前火力から私達の環境を守ることにある以上、きわめてふさわしい権利主張であった。九電はこれに対して、憲法に拠る環境権は認められない、なぜなら憲法は個人の権利を保障しているのではないからという答弁書を寄せてきて、私達を仰天させた。私達は、憲法は国の最高法規であり、日本国民すべて、この憲法の恩恵に浴しているものと信じていたら、そうではないというのである。私達はそんな寝言みたいな法律論に応ずるつもりはない。私達はひたすらに、この豊前火力の横暴を訴えるのみである。そして、それは法的にも当然救済されるはずだと信じる。もし、私達を救済する法律がないというなら、日本は法治国家たる資格を失することになろう。私達は敢然として、「豊前火力建設差止」を請求するのである。

以上
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by lumokurago | 2010-07-27 12:22 | その他裁判関係

豊前環境権裁判第一準備書面 その3

 電力需要の正体

 豊前火力発電所は、豊前平野の住民の電力を産み出す為のものでない。それは進出して来る大企業群の為の電力である。・・・中略・・・

 私達は、確かに電力のお世話になっている。さりとて、かくの如きふざけた理不尽をまで許容せねばならぬいわれはない。私達は豊前平野の工業開発は望まない。従って、豊前火力は必要ないのである。大企業進出で必要となる電力を産む為に私達の土地の侵害に耐えるわけにはいかない。

 勿論、それら企業が産み出す製品も、私達の文化生活を支えるに貢献しているのだという反論はあろう。だが、それもほどほどである。次々と産み出された文化製品なるものは、いやおうなくコマーシャルに乗せられて家庭に送り込まれ、家庭の電力消費すら多消費型に変えさせていく。物は家庭に溢れながら、心の充足感に遠い生き方に、私達は組み込まれていっているのではないか。真に充足した生き方とは、清浄な大気の中で、緑に囲まれて、もの想うゆとりを持てることに尽きよう。自転車で駆ければ用の足せる今ののんびりした豊前平野に私達は執する。

 私達は、すでに現在の我が国の文明のありようが異常に物中心と化してしまっていることに深甚な恐れを抱いている。そして、その方向を是正せぬ限り、人類の将来は暗いと考える。バートランド・ラッセルが「人類が、生きて21世紀を迎える可能性は、公害によって50%しか残されていない」と喝破した警声に私達は刺されるのである。

 最も怖れるのは、電力需要の増大を認め続ければ、それは果てしない泥沼に没することになることだ。即ち、発電所は必ず工業開発を呼び起こし、そして工業活動は必ず肥大化せざるをえず、更に新たな発電所を要求するのである。このような仕組をいったん許容すれば、発電所は加速度的に増大し、工業地帯は国土を侵蝕し尽くしていくことになる。

 どこかで踏みとどまらねばならないのである。それ以外に、将来の破滅を救う道はないと私達は信ずる。ゆえに敢然として豊前火力反対に立っているのである。

*****

 手を替え品を替え、結局いつも同じこと書いて(引用して)ますね。この裁判が提訴されたのは1973年、私が19歳のとき。高校生の頃からこの考えだった私は、松下さんたちがこうやって裁判まで起こしたことに、ほんとうに勇気づけられたものです。今読んでもまったく古くなっていません。このときから37年も経つというのに、事態は何も変わっていません。人類は欲望に埋もれ、破滅の道を歩んでいます。まるで、自分たちさえよければいいんだ。子どもや孫はどうなってもいいと言っているようです。
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by lumokurago | 2010-07-22 21:17 | その他裁判関係

豊前環境権裁判第一準備書面 その2

 長いので途中を少し飛ばします。

 海ーーいのちの母

 海が母の字より成るは、太古、最初のいのちを妊んだ海への古人の畏敬であったろう。その母への凌辱の今やとどまることを知らぬ。豊前火力建設の為の明神地先39万平方メートルの埋立てを、私達はいのちの母への凌辱として、自らを楯としても阻止する覚悟である。

 豊前海は、瀬戸内海の西端、周防灘に属する海域である。瀬戸内海沿岸がガン細胞の如く増殖した埋立地におおわれて、大工場群を形成している中で、さいわいにして、福岡県行橋市から大分県国東半島に至る海岸線は、巨大埋立てをまぬがれ、ひとつの工場群もないのである。

 それにもかかわらず豊前海域の汚染状況は深刻化している、これは山口県側の周南コンビナート等の汚染の回流によるものと考えられる。周防灘の潮流を見るに、豊後水道から押し入る大量の上潮流(約90%)は、伊予灘を経て山口県沿いを通る本流となり、周南コンビナート群(徳山・下松・宇部・小野田)の大量の工場廃水を運ぶことになる。この本流は、灘の西端関門に突き当れば、一部は福岡県側に方向を変え、ついで下潮に乗って沿岸沿いに南下し次第に方向を東に変えていくが、その流れは緩慢であるから次の上潮で一部は再び押し返される。かくて汚染水は停滞し、底質も極度に悪化してくる。

 豊前海18漁協は、明神地先埋立てに賛成したが、それは真に歓迎しての賛成ではなく、前記の如き理由による豊前海の汚染の進行に絶望し、いくばくの保証金で海を放棄せざるを得なかったからである。

 だが、まことに自明なことを述べるのだが、漁業者が放棄したのは漁業権に過ぎない。埋立海域で漁業を営む権利を放棄したに過ぎない。しかして、海は厳然として残るはずである。海そのものを売買する権利などは誰にもありえない。もともと漁民に与えられているのは、海で漁を営む権利であり、海そのものを所有する権利ではない。漁業権の放棄されたあとの海は、誰のものなのか。それは誰のものでもあるまいし、同時に誰もの共有物であるだろう。私企業が、漁業権を買い上げたからといって、それがあたかも海そのものをまで買い上げたかの如く専横に海を埋め立てることが許されるとはあきれ果てるばかりである。

 よろしい、そんなに埋め立てたければ、漁業権に加えて、海そのものをも買い上げていただこうではないか。しかして、海の価値は巨億である。豊前海明神地先の海39万平方メートルの価値は、どのように算定されようか。漁業権の放棄は、漁民にとっては生活圏の放棄だが、それは同時に私達にとっては食糧としてのタンパク源の喪失である。明神地先は、前項の藻場として、魚類の産卵と生長の場であり、これの喪失は、豊前海漁業に少なからぬ打撃を与え、それはひいては、私達のタンパク源の減少である。その価値の算定はいくらに換算すればいいのか。

 あるいはまた、一人の人間が海岸にたたずんで安らぎを得るという心情の働きは、どのように価格換算されうるだろうか。日々の生活に疲れ、打ちひしがれて海岸にたたずんだ者が、おだやかに光る海面をみつめるうちに、湧然として生きる活力を蘇生せしめたとすれば、その時の海の存在の価格は、その者にとって敢えていえば百万円どころではあるまい。

 かくの如く一人一人にとって海の価格ははかり知れぬのである。海岸にたたずんで海に慰めをうる者、海から啓示をうる者、汐干狩りを楽しむ者、海水浴を楽しむ者、一人一人の心の受けとめようで、その価格は絶大である。そして、海は万人に対して開放されているはずであり、更には、私達の後に続く子孫にまで開放されているはずであれば、まさに価額は、無限倍されねばならぬのである。それにとどまらぬ。現今の価額がまだ認知しえていない精妙な作用で、海は自然界に寄与していることは十分に察しられるのであり、そこまでを測らんとすれば、もはや海の価額は、私企業の支払い能力を超えての巨億である。
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by lumokurago | 2010-07-20 15:58 | その他裁判関係

豊前環境権裁判第一準備書面 その1

 むかし、本を読んでいて好きな文章に出会うと、延々と書き写していました。本を処分しようとして、私がいましていることはそれと同じことなのだと気付きました。文章が好きで好きでたまらないのです。

 豊前環境権裁判第一準備書面 その1

 昭和48年(ワ)第612号
 火力発電所建設差止請求事件
 原告 伊藤龍文ほか6名
 被告 九州電力株式会社

 一羽の鳥も、一群の草も

 一羽の鳥のことから語り始めたい。

 ビロウドキンクロ。ガンカモ科に属する冬の渡り鳥で、遥かなシベリア方面からこの豊前海沿岸にやって来る。静かな内海の浅瀬で貝類をあさり、潜水も得意である。遠い酷寒の地から、ひたぶるに飛来した、この小さな鳥の姿をみつめていると、「本当によく来たね」と呼びかけたい親しみがこみあげる。来年冬、また懸命に飛翔して来たこの可憐な鳥が、明神が浜に降り立とうとして、すでにそこが海岸ならぬ埋立地と化していたときのとまどいを思うとあわれである。豊前火力建設が押しすすめようとしているのは、そういうことである。

 それは例えば、次のようにいうことも出来る。即ち、法的にいえば、これは、「日ソ渡り鳥等保護条約」を明らかにないがしろにしているのであり、国際信義にもとることだと。同条約が渡り鳥等の生息環境の保護をうたっている以上、それに逆行する明神埋立は、まさに申しひらきの出来ぬ同条約違反であるからだ。

 だが、私達が語りたいのは、そのような条約に触れる触れぬの論ではない。なによりも、可憐な渡り鳥そのものへのいとしさに執してこそなのだ。しかして、このような<いとしさ>の心情はしばshば勝手に忖度(そんたく)されて、かくもささやかな心情は、豊前火力建設等という巨大問題に比すれば、歯牙にもかけえぬうたかたの如きものとして抹消され勝ちである。そのような価値判断は、人間の尊厳の否定である。

 もし、一個の人間が、「私は火電よりも一羽の渡り鳥をこそ尊く思う」といい放つなら、その一個の心的宇宙に、誰が踏み入ってそれを逆転させえようか。人は己が心の内側を守る為には自ら死さえ選ぶというのに。しかり、私達は、あくまでも己が心情を大切に貫かんとして、豊前火力建設反対に立ち上がっているのだ。これまで開発問題、公害問題で人の心情的主張がほぼ完全に抹消され続けてきた歴史的事実を思えば、あまりにも異常である。ヒトが人たるは、その心情のゆたかさに尽きよう。その心情をなぜに人は開発問題に関しては抹消してしまうのか。

 私達がこれから述べ続けることは、ひたすらに自らの心情の流露である。それを、本件訴訟の主張として、些末という人がいるなら、まさにそれは人間の尊厳の否定だと私達は受けとめよう。心情に拠る主張が、果たして科学論拠に比して、あまりにも恣意的としてしりぞけられねばならないものであろうか。

 一体、私達はなぜあの明神が浜に遊ぶビロウドキンクロやシラサギやユリカモメはシギやセキレイをいとおしく思うのであろうか。それは、所詮分析解釈できぬまでに本能的な心情の動きであろう。そして、可憐な小鳥を愛するそのような心情は、おそらくは、ホモサピエンス幾万世代を経て形成され細胞因子に潜在化せしめられて来たものであろう。とすると、その確かさは、あるいいはなまなかに形成された近代科学以上のものを見抜いているやもしれない。ひょっとしたら、小鳥をいとおしむココロがあるゆえに、人類は生息しえてきたのかもしれぬ。そのココロを喪失するとき人類は滅びるのかもしれない。
 
 私達は、自らの心の内に湧く、自然の郷愁を想うとき、己が感情の中に自然を畏敬し自然の中で生きた遥かな祖先のぬくい血をふと感じるのである。

 シチメンソウについても語りたい。

 あかざ科に属するこの塩生植物は、わが国では北九州南曾根から大分県の豊後高田の間を唯一の自生地とする朝鮮満州系植物である。古代(第3紀頃)日本と大陸が継続的に地続きであった頃の名残りであり、今も仁川の河口や熱河省には果てしなく拡がるシチメンソウの大群落があると聞く。それと同じ植物が明神の浜辺で泥をかぶり海水に浸りながら、気の遠くなるほどの地球的時間を生き抜いていることに私達はいいしれぬ感動を抱く。すでに曾根地域のシチメンソウが昭和10年頃の干拓、更に飛行場造成等によってほとんど滅ぼされてしまっていることを思えば、明神のシチメンソウよ、なんとしても生き抜けと熱い思いで励ましたくなる。ましてこれらを踏みしだく明神地先39万平方メートルの埋立てを私達は許すことはできない。

 私達は、豊前火力の公害を告発すべく鳥や草のことから語り始めているのだ。鳥や草がほろぼされるなど、とても公害などとはいえぬという者と私達はついに無縁であろう。私達は生きて死んで行く。仮に、過ぎていく地上でその宿りの場としての自然を、己が一代で破壊することの誰に許されるのか。祖先から受け継いだ自然は、子孫に出来るだけそっくりと引き継ぐべきだと信ずる。大気や山や海やいうに及ばず、鳥や草にすらそのような思いは及ばねばならない。鳥や草を残すことがなぜそれほど尊いかを、科学的論拠で証せよと迫られるとき、そのような面倒なことをいう前に私達には唯一の答がある。--即ち、鳥も草も祖先とともに共存してきたものなれば、私達もまたその共存関係を子孫に引き継がねばならぬと考える、という単純で誠意に満ちた答えである。

つづく
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by lumokurago | 2010-07-19 18:05 | その他裁判関係

もう一度だけ後藤昌次郎弁護士の言葉

 後藤昌次郎弁護士は「故郷の先人たち」の一人として宮沢賢治に言及しています。宮沢賢治は自己犠牲をテーマとした童話をいくつも書いています。賢治は、人間はほかの生き物を殺さなければ生きていくことができないという人間の生存そのものの宿命を、自分の生命と生存そのものを否定する自己犠牲をもって償おうとします。後藤弁護士はその自己犠牲の精神について、かくありたいと祈ることは崇高で美しいことかもしれないが、これを人間のあるべき生き方とすることはできないとしています。

 賢治のほかの自己犠牲をテーマとした作品では、生きるためには他の生き物を殺さなければならないというどうすることもできない自然の掟ではなく、人間が起こす戦争が背景となっています。「からすの北斗七星」で、戦いの前の晩、からすの大将は次のように祈ります。

 「ああ、あしたの戦でわたくしが勝つことがいいのか、山がらすが勝つのがいいのかそれはわたくしにはわかりません。ただあなたのお考えのとおりです。わたくしはわたくしにきまったように力いっぱいたたかいます。みんなみんなあなたの考えのとおりです」

 そして戦いに勝った後、敵の死骸を葬ってこう祈ります。

 「ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように、早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません」

 戦没学生の手記を集めた『きけわだつみの声』という本に佐々木八郎という人の「愛と戦と死ー宮沢賢治の烏の北斗七星に関連して」という文章が出ています。上記のからすの大将の言葉に共感した後、佐々木さんは続けてこういいます。

 「もちろん、僕は戦に勝つ方がいいか、負ける方がいいかを知らないとはいわない。どの民族もどの国家も、全力をあげてその民族、その国の発展をはかってこそ人類の歴史に進歩があるのだと思う。あくまで、積極的に戦いぬくべきだと思う」と。

 *****以下、後藤さんの言葉です。

 ここでは戦は宿命ととらえられています。それが殺し合いにほかならないこと、誰が何のために起こしたのか、自分たちの力でくいとめることができないのか、という問題意識はまったくありません。ひとりひとりの殺されたくないという気持ち、殺したくないという気持ち、殺し合いをしないで互いに仲よく暮らしたいという気持ちは、国家とか民族とか戦争という言葉の前に無力であり、麻痺されています。戦争は至上命令であり、宿命であり、国民は全力を尽くして戦うほかないのだ、いや、全力を尽くして戦うのが当然なのだ、という考え方に支配されています。

 (略)*****引用ここまで。 
 
 後藤さんは佐々木さんより1歳年下の「戦中派」で、「戦中派」は佐々木さんと同じ考えのとりこになっていました。そして後藤さんは、大正デモクラシーの時代に生きた賢治でさえが、美しい心の持ち主の彼でさえが、美しく見える祈りが実は人間を戦争に駆り立てる呪いに縛られていることに気づかなかったのだと指摘しています。

 それから、沖縄やソ連の侵攻に対して軍隊は国民を守らなかったこと、軍部は、国民の生命よりも国体護持、国家体制の存続を重しとしたことを述べ・・・。

 *****以下後藤さんの言葉

 軍隊は、外敵から国民を守るためにあるのではありません。国家を守るためにあるのです。ふるさととしての国ではなく、国家権力としての国を守るためにあるのです。そして、自衛という名の侵略の手段となるのです。こうして、国民は戦争の被害者となり、他国民に対する加害者にさせられます。ここにも常識の第二の盲点があります。

 烏の大将の祈りでは、戦争は祈るしかない宿命ととらえられています。人間は、生きるためには他の生き物を殺さなくてはならないことが宿命であるように、人間同士の殺し合いにほかならない戦争も宿命ととらえられています。しかし、戦争は、食物連鎖という自然の掟の下にある自然現象ではありません。人間の意志と力によっておこされる社会現象です。国家権力や軍隊によって遂行される大量虐殺です。人間が起こす戦争は人間が消滅させることができるし、消滅させなければならない。これを宿命としてあきらめるのは常識の第三の盲点です。(第一の盲点は故郷としての「くに」と国家権力としての「国」の混同)。(略)

 あえて繰り返します。国家の存在理由は、国民の生命・自由・財産・幸福追求の権利を守ることです。ところがこれと反対のことを国家がする。国民にその生命・自由・財産・幸福追求の権利を犠牲にすることを強制する。その最たるものが戦争と冤罪です。そのようなことがあってはならない。憲法が戦争と軍隊を放棄し、平和に生きる権利を謳っているのはそのためであります。

 平和に生きる権利、つまり、殺さず殺されず、人を殺したり人に殺されることを国家に強制されない権利、これを基本権として保障する平和憲法を守ること、そして平和憲法の精神を世界にひろめること、このことこそが大事であり、真に世界平和に貢献する道ではないでしょうか。

以上
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by lumokurago | 2010-07-08 22:03 | その他裁判関係

後藤昌次郎弁護士の言葉

 後藤昌次郎弁護士の本から共感した箇所を引用させていただき、後藤弁護士の本については終わりにしたいと思います。

 『この人を見よ 後藤昌次郎の生涯③ 冤罪の諸相』(日本評論社2010)より

 憲法が保障する自由は国家権力からの自由

 マスコミの報道は、警察のリークあるいは警察の公式報道そのままのタレ流しなんです。批判的に対応するということがない。それを報道するマスコミ、とくに週刊誌は、国民の「知る権利」にこたえるんだ、そのために言論の自由、報道の自由、出版の自由があるんだ、とこう言う。

 ところでみなさん、法律、とくに最高法規である憲法で使われる自由という言葉はどういう意味でしょう。勝手なことをやってもいいということではない。(略)国家権力からの自由ということです。憲法のいう自由というのは、国家権力に対して批判する、国家権力からの自由、国家権力に干渉させない、ということです。これが、憲法で保障する言論の自由、思想の自由、学問の自由、結社の自由の本質です。 

 ところが今のマスコミはそのような自由と無縁です。つい最近は、A少年のご両親の手記なるものを発表した。詳しく事件の内容を検討したことのない人は、A少年が犯人であるということを疑うことの出来ない前提として、ご両親の感想を媒介にして、信じ込んでしまう。それを狙っている。それがマスコミの、国民の「知る権利」なるものに対する答です。

 ご両親の手記の前には付添人をやられた弁護士の手記が出ました。それからその前には『文藝春秋』にA少年の検事調書なるものが出た。あれは国民に偏見を植えるつけるための情報操作です。あれを見れば見るほどーーあのような報道によって逆に真実が現れる。真実はごまかすことができないんです。ごまかしの中からさえ、真実は顔を出す。それを捕まえる眼が必要なんです。洞察力が。

 <くに>意識を<国家>意識にすりかえる「心の教育」

 「『神戸事件』の『「A少年」犯人説』には大きな疑問が否定できない。それに加えてマスコミがそれに対してまったく批判的論説を提示しないことは極めて危機的状況を示している。さらにこれらの現象の背景には、危機管理体制の強化をも視野に入れた日本型現代資本主義の末期的症状を強く感じざるを得ない。我々の主体的関わりが今こそ求められている」ーーこれは金沢大学経済学部教授の村上和光さんのメッセージです。(略)

 末期的症状。この事件を契機にして、「心の教育」というのをやる。政府がめざしている「心の教育」の根幹はなんであるかというと、「君が代」であり、「日の丸」の掲揚です。そのようにしていつの間にか、国民の間に間違った愛国心を植えつけようとする。

 なぜ間違った愛国心か。

 日本語の「くに」っていう言葉は、おおざっぱに二つの意味があります。一つはわれわれが故郷に帰るとき、「くにに帰る」というでしょう。それはわれわれが生まれ育ったまわりの人々、自然、風土、そういう生活環境を「くに」という言葉であらわしています。

 ところがもう一つ、「くに」はコミュニティとしての「くに」の上に君臨して、それを支配し管理する、「国家」を意味するものとして使われる。つまり国家権力です。

 国家権力としての「国」と、ふるさととしての「くに」とは、意味が全く違うんです。ところが、同じ「くに」という言葉で表現されるものですから、われわれの一緒に仲良く生きているコミュニティに対する愛情であるはずの「くに」を愛する心が、国家権力に対する忠誠にすり替えられてしまう。その手段に使われるのが「日の丸」であり、「君が代」です。(略)

 それともう一つ、「心の教育」の問題のほかに、少年法を変えるという狙いがあります。重罰を科すとか、刑罰を科する年令を引き下げるとか、いろいろありますが、特に狙っているのは検察官を少年審判に関与させるということです。(略)

 私はね、逆ではないかと思っているんです。検察庁法という法律を見ますと、検察官は「公益の代表」として行動する、と書いてある。これは、検察官は公益の代表者であるということではないんです。公益の代表者でなければならないということだ。

 重大事件では公益の反逆者となる検察官

 ところが、社会的に重大な、しかも事実関係が鋭く争われている事件で、検察官が公益の代表者としてふるまった例を、私はほとんど知らない。たいていそのような事件で検察官は、公益に対する反逆者としてふるまうんです。(略)
 
 松川事件では、被告の一生を決定する、まかり間違えば死刑になるというようなときに、一番大事なアリバイのメモ、物証を隠してしまう。八海事件の場合には、一審二審有罪、最高裁でひっくり返してまた二審に戻る。差し戻し二審で、もうはっきりと被告たちがやったのではないという無罪判決が出ても、検事はすぐ上告して、被告たちにアリバイの証言をした関係者を訪ね回って、その証言をひっくり返せと、(略)脅迫して回った。一番いい例は、この事件、神戸酒鬼薔薇事件だ。(略・・・「筆跡が同じ」とA少年をだまして自白させたことを詳しく書いている)

 権力が国民を脅かす危険の認識が憲法・刑事訴訟法の前提

 民主主義というのは世論に従うことだということを言う人がある。「民の声は神の声」だと。しかしこれは違うのではないか。民の声は神の声である場合もある。しかしながら民の声は悪魔の声であることもある。戦争中、天皇陛下のために一命を棄てなくてはいかんとか、おれは喜んで死ぬとか、日本は必ず勝つなんてことを、みんな言ってました。「いや違うぞ」なんて言う人はまずいない。(略)「民の声は神の声である」という言葉は非常に大事な言葉だと思うけれども、しかし悪魔の声にもなりうる。軍部や政府の戦争を圧倒的に支持し鼓舞したのも、民の声だったんですね。

 だから問題は、民の声を神の声にするにはどうしたらいいか、どういう条件をつくらなくてはならないかということなのです。それは、正しい情報を十分に与えるということ、十分な正しい情報にもとづいて国民が自由に討論できるという、この条件が満たされて初めて、民の声が神の声になる。(略)
 
 私はさきほど、警察や検事は悪い奴を取り締まるところであって、悪いことをするところではないと皆が考えているのは迷信ではないか、と申し上げました。全部迷信だとは申しませんが、こういうことは言える。そのような考え方と、憲法や刑事訴訟法の考え方は、根本的に違う、と。

 憲法や刑事訴訟法はどういう考え方の上に成り立っているのかと言えば、「権力は腐敗する」ということです。特に権力の中の権力、警察権力や検事権力は腐敗し、国民の人権、国民の真実を脅かす危険のある存在だということが大前提です。だからこそ、たとえば、捜査について言いますと、証拠が自白しかない場合には有罪にしてはいかんということを憲法38条が決めている。拷問、強制、不当に長期にわたる拘禁の後の自白、それから偽計による自白は証拠にすることはできない。
 それから憲法の精神を継いで、刑事訴訟法は、自白を証拠として法廷に出すときには他の証拠を取り調べた後でなければいかんと言う。どうしてかわかりますか。自白をみると、たいてい本当だと思いこんでしまうからです。やりもしない者が嘘の自白をするわけないというのが、たいていの人の頭の中身ですから、自白を最初に出したら裁判官が偏見・予断を持ってしまうということで、他の証拠を調べたうえでなければだしてはいけんと制限している。こういういろんな制約があるのは、まさに権力は真実と人権を脅かす危険があるからです。私は権力イコール悪だとは言いません。しかし真実を人権を脅かす危険のある最大の存在であるということは、断言できると思う。

****ここまで引用。この後本ではA少年の自白内容の矛盾について詳細に検討していますが、省略します。
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by lumokurago | 2010-07-08 12:23 | その他裁判関係

神戸酒鬼薔薇事件は冤罪である その4

 『神戸事件を読む 酒鬼薔薇は本当に少年Aなのか?』(熊谷英彦著・鹿砦社2001)

 この本もまた少年の「自供内容」の矛盾点について詳細に検討しています。遺体の様子(死斑、血の流れ具合など)から、やはり冷凍して頭部を切り落としたとしか考えられない旨、証拠をあげながら論を詰めています。また少年にはアリバイがあることにも触れています。その他、少年には不可能だったと思われる証拠をいくつもあげています。

 いままでに取り上げてきた本にはなかった分析として、非常に恐ろしいことが書かれていました。「非常に言いにくいですが、鬼薔薇はオニバラ(鬼腹)のことで、障害者を産んだ母体に対する差別用語として捉えることができることが分かった。聖斗は生徒の意味。そして、酒を『裂け』と解釈したらどうなるでしょうか。つまり『裂け、鬼腹生徒』ということ。これは恐ろしいまでに差別意識の言葉ですよ。言い換えれば、身障者や知的障害者を殺れ、という意味ではないか。そう考えると辻褄があってくるんです」(捜査関係者)。

 淳君の頭部は口を耳まで切り裂かれ、目には×印に傷がつけられ、顔には縦にいく本も筋(傷)がつけられており、ハロウィーンのカボチャを想像させるとのこと。「カボチャという野菜は、日本では知恵遅れの人間を象徴的に表しているといわれる。つまり、このメッセージは、知的障害を持つ人間をターゲットにしたという意味です。要するに淳くんはたまたま犯人にやられたのではなく、ずっとつけ狙われていたということなんです。(略)ヘドがでるほど、嫌らしい犯人のメッセージですよ」(捜査関係者)。

 事件のあった友が丘地区は障害者と健常者が共に暮らす「共生の街」として知られてきたということで、そんな場所でこの事件が起こったので「捜査関係者が『酒鬼薔薇』や『汚い野菜』に特別な意味を読み取ろうとしたのもしごく当然のことといえる。けっして荒唐無稽な推理と一蹴はできないと思うが、どうだろう」と筆者は述べています。

 「せいいっぱい書いたこの本が、A少年のご両親の目にとまることをねがって」という後藤昌次郎弁護士の言葉を繰り返し、このテーマを終わります。
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by lumokurago | 2010-07-05 20:17 | その他裁判関係

後藤昌次郎弁護士の言葉

 以下、『神戸酒鬼薔薇事件にこだわる理由(わけ)』より引用 

 「犯行が非常にむごたらしい、残忍である、残酷である、許すべからざるものである。そのときに、私たちが第一に何を考えなくてはならないのか。それは、こういう重大な犯行の責任を犯人でない人間に負わせることがあってはならない、無実の人に重大な犯行の責任を負わせるようなことがあってはならない、ということです。そうではなくて、警察がこれは犯人だというと、みーんな犯人だと思い込んで、もう国中そろってバッシングを始めるというのは、これはとんでもないことです。むしろ犯行そのものに劣らないくらいの、勝るとも劣らないくらいの、特に警察が無実の人間を犯人として逮捕し、検事が起訴し、裁判にかけ、有罪にする、裁判所が。というようなことがあれば、犯行それじたいよりも重大な権力による犯罪だ。権力犯罪であります。そのようなことを許してはならない。これが、お話ししたいと思うことの肝心かなめのテーマです」

 「自白については、やっていない者が自分の不利益になることについて『私がやりました』なんて嘘のことを言うわけない、これが常識です。それから逮捕についていうと、警察は悪いヤツを取り締まるところであって、悪いことをするところではない、それが常識なんです。この常識は迷信ではないだろうか。

 やりもしない者が『やった』なんて嘘の自白をするわけはないということは、今までのたくさんの冤罪事件の例でたちまち否定されます。今までの冤罪事件は、ほとんどが自白事件でした。それから警察は悪いことをするところではないという常識に対しては、たとえば菅生(すごう)事件というのがありましたね。

 菅生というのは九州の大分県の山の中の村です。1952年6月、そこの駐在所が深夜爆破されたという事件なんです。現場で二人の共産党員が現行犯逮捕された。爆破されたときに、百人もの警官が山の中の駐在所を取り巻いていた。新聞記者も四人おった。そこに二人がのこのこやって来て、ダイナマイトを入れたビール瓶を投げ込んだ。バカーンと爆発した。現行犯だ。現行犯である以上は、これは犯人に間違いはない。これも常識であります。

 だけれども、常識というのは危険なものなんです。捕まえられた二人は『俺たちはやってない』と主張する。『だって現行犯じゃないか』『いや現行犯って、そこに居たのは事実だ。そりゃ、その日12時頃に、半年くらい前から近づいてきた見知らぬ青年がいろいろカンパをくれる。その晩も、カンパをくれるから中学校のところへ来てくれ、で行った。行ってカンパをもらって、中学校の正門のところに駐在所がある、その若い者が駐在所の方に歩きかけた、わしらは反対側に歩きかけた。ところが途端に、背後でバア-ンと爆破されて、そしてバラバラーッと四方から警官が取り囲んで折り重なるようにして取っ捕まったんだ。ところが、俺たちをその場に呼び寄せた青年は、その事件の瞬間からどこへ行ったのかわからなくなった。あいつが犯人に違いない、捜してくれ」と。「そんないいかげんな弁解きくもんですか」というのが裁判所の立場ですね。有罪です。

 ところが、これは本当におかしい事件だった。山の中の駐在所の周りに、夜中にですよ、百人もの警官が待機していた。そんなことありますか。ちょっと考えただけでも、おかしいんだけれども、現行犯逮捕ということでもう幻惑されてしまうんですね。事件に疑問をもった当時の共同通信社の新聞記者のグループが、『これはクサイ』と、そのいなくなった人間を追求したんです。そこでわかったことは、その青年は大分県警の警察官だったんです。そういうことがわかったとたんに彼は姿をくらました。どこへ行ったと思いますか。東京の中央線の中野駅のすぐそばに警察大学校がありますが、そこに匿われていたんです。それを突きとめられると、これは危ないというので警察は金を使って彼を新宿のあるアパートに身を隠させた。そこも突きとめた。とうとう隠れようもなくなって、かれは法廷に現れてきた。結局、これは警察がやったのです。警察が自分で犯行をデッチあげて、そして犯行にかかわりのない人間を犯人だという。警察は悪いことをするところではない、というのは迷信です。

 それから、検事だってそうです。松川事件は無実の被告人20名のうち――一審は死刑5名、二審は死刑4名という、もう重大な事件であります。最高裁にいって、有罪判決がひっくりかえった――その決め手になったものは、なんであるかというと、アリバイ証拠なんです。・・略・・その『諏訪メモ』という決定的なアリバイ証拠を検事がズーッと隠しておったんです。それを新聞記者が突きとめた。そこで大問題になりましてね、これ以上隠し続けると、検察の権威を失墜させるだけであると観念して最後に出した。それが裁判所に現れたのは、最高裁判所の大法廷で弁論が始まった――弁論は10回あったんですが――第1日目の朝、初めて裁判所に届けられたんです。こういう劇的な出来事があった。

 ですから、警察や検事は悪いことをするところではないんだと、だから不正やごまかしをして嘘の自白をさせたりしないだろうと考えるのは、大間違いです。しかし、私は、このような過去の例だけで、あるいは過去の例を一般化した議論で、この事件を判断しようとは思わない。この事件そのものをとおして判断しようと思います。個別的・具体的検証を経ない不当な一般化は事を誤るもとです」
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by lumokurago | 2010-06-29 11:58 | その他裁判関係

神戸酒鬼薔薇事件は冤罪である その3

 今回は『真相 神戸市小学生惨殺遺棄事件』(安倍治夫監修・小林紀興編 早稲田出版 1998)からA少年は犯人ではない証拠を紹介します。

1、友が丘中学校の正門前に淳君の頭部を置いたのはA少年ではない。A少年の「自供」とは完全に食い違う多数の目撃証言がある。また現場近くでは不審な黒いブルーバードと黒いごみ袋を持った男が目撃されている。この目撃者2名に詳しい話を聞こうと訪ねたところ、「警察でもマスコミでもない怪しい人間が徘徊するようになった」「怖い」「口止めされている」「あのことはもう思い出したくない」などと再度の証言を拒否された。

2、淳君の頭部は第二頸椎で切断されていたが、第二頸椎は口の後ろにあり、ここを切断するためには遺体をテーブルの上のようなところにあおむけにして寝かせ、頭部をテーブルから外に出して下に垂らす。このような姿勢でなければ切断することができない(淳君の遺体を解剖した法医学者らによる)。A少年の「自供」のように平らなコンクリートの上ではこのように切断することは不可能。また「頚部のように均一性の組織でないものを金のこぎりで切ることは非常に難しい(整形外科の教授)。

3、淳君の死斑が「淡紅色」であったことからすれば、一酸化炭素中毒死、青酸中毒死、死後に冷たいところに置かれていた―以上3つしか考えられない。淳君は首を絞められて殺されたのであるから、死斑が淡紅色だったのは、冷凍して切断したとしか考えることができない(複数の法医学の専門家による)。2と合わせると、つまり遺体は冷凍され、首は電動丸ノコのようなもので一気に切断されたと考えられる。

4、A少年の「自供」通り向畑ノ池から引き揚げられた金ノコについて、実際に犯行に使われたという証拠が何一つ示されていない。

 その他、「文芸春秋」に掲載された検事調書の矛盾について詳細に検討しているが、省略します。
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by lumokurago | 2010-06-27 22:23 | その他裁判関係