暗川  


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by lumokurago
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カテゴリ:昔のミニコミ誌より( 77 )


いまどきの子どもたちと私 3

『暗川』第29号 1990.3.31より

 今日のできごと
 K君(5年生のワル)が来て、F君(『負けるな子どもたち』にでてきた『情緒障害』っぽい子)の描いた絵を取る。F君「返してよ」とパニックになる。

 私:大丈夫。K君てほんとはやさしいんだから。ちょっとからかってるだけだから。
 K:破いてやる(と言ってクラブ室の前にある公園にでる)。
 F:破かないで!
 K:(私に小声で)破かないから。

 K君は絵を持って藤棚に登る。F君が泣きそうになるので、 
 私:もう返しなさい! etc・・・

 F君が泣きそうになったり叫んだりする姿がおもしろいので、他の子どもたちが笑う。私もつい笑ってしまう。私にはF君の反応がおもしろくて、そうやってからかうK君の気持ちがわかる。私も犬が通ると「犬が来た!」と言ってからかっているくらいだから(F君は犬が恐い)。彼をからかうことが差別であるとは私は思っていない。もちろん彼を傷つけるようなことを言ってからかうのはよくないが、他愛のないことならば、それもまた関係を持ちたいという一つの表現であると思う。

 でもK君は“やりすぎ”になるので、私は「もういいかげんにしなさい」と言って絵を返させる。

 一段落して部屋に入ると、今度はT君(S君の弟)がF君をなぐって泣かせてしまう。その事情を聞き・・・(省略)

 T:Fってシンちゃんだよな。
 K:そう。頭がおかしいよ。
 私;そう思うだろうけど、それは一種の病気だからF君のせいじゃない。
 T:やっぱり病気だって! シンちゃんてことじゃないか!
 私:大人が「身体障害者」って呼んでるから、あんたたちもそう言うんだけど、そんなふうに言ってる大人が間違ってるんだから、あんたたちにはそんなふうに言ってほしくない。同じ人間なんだから。
 T:じゃあなんで頭がおかしいんだ。病院に行けよ。
 私:病院には行ってるよ。でも原因はわからない。生まれつき脳細胞に傷があるというお医者さんもいる。
 T:やっぱりシンちゃんだ。
 私:Fがそうなった原因はわからないし、あなただってそう産まれたかもしれないんだよ。だからそんなふうに言ってはいけない。
 T:おれはそうじゃないから関係ない。
 私:自分はそうじゃなくても、人間は相手の気持ちを思いやることができるんだよ。そうできないなら人間じゃない。
 K:おまえも少しおかしいよな。F,好き?
 私:うん。でも、その「好き」っていうのは特にその人だけが好きっていうんじゃなくて・・・私は人間が好きなの。大人も子供も。大人はそうじゃない人も多いけどさ。
 K:じゃあおれも好きなの?
 私:好きだよ。
 K:やめろよ! おれはおまえなんか大嫌いだぜ。
 N:「ワタハベのバカ」って書いてやろうか?!
 T:おまえ、おれたちがなに言っても傷つかないんだよな。慣れてるから。(いつも「バカ」とか「死ね」とか言う子どもたちに、私はそう言って対抗している)。
 私:「バカ」とか「ババア」とかじゃ傷つかない。F君とか他の子をいじめたり、「シンちゃん」と言ったりすると傷つく。
 K:(Fに)F、わたなべ先生、好き? きらいだろ?
 F:好き。
 T:おまえ、こんなワタナベなんか好きじゃないだろ?
 F:好き。
 K:ワタナベなんか好きな奴、いないよな。
 (ちょうどその時、別の子が通りがかりに「ナベセーン!」と声をかけていったので)
 私;ね、なんでああやって声かけていくと思う?
 K:なんでだよ。
 T:「好きだから」って言うんだぜ。
 私:・・・
 K:答えろよ。
 私:まじめに聞いてくれないから答えたくないけど…好きだからだと思うよ。嫌いな人に声かけたりしないもん。
 K;(声をかけた子に)おまえ、ワタナベ、嫌いだろ?
 その子:嫌い。
 私:(「全部反対言葉だ」と言いたいが言わない)。
 K:ほら、ワタナベって頭悪いな。
 私:私、頭いいよ。ほんとに。
 K:自分でそんなこと言うなんておかしいんじゃん! (と砂のかたまりを投げてくる。ここまでした子ははじめてだわい)
 私:やめて!
 T・N:(砂を投げてくる)
 私:やめなさい! どうしていつも大事な話をぜんぜん聞かないの! まじめになるときはまじめにならなくちゃだめ!
 T:(そばで見ていた子に)この先生、こわくないでしょ?
 K:ぶんなぐればいいじゃん。
 私:ぶんなぐって言うことをきかせるんじゃなくて、まじめに話を聞く気になってほしいの。
 N:おれ、いつもお母さんにぶんなぐられてるから、きかない。
 K:おれのお母さんはぶんなぐっても痛くないけど、お兄ちゃんにぶんなぐられると超痛い。
 私:なにしろFいじめないでね。
 K:おまえなんかもうあっち行けよ。
  (突然)また雪降らないかなあ。前、雪降ったとき、おれたちでおまえに雪投げたとき、おもしろかった?
 私:(こう答えるとますますつけあがると思いつつ)おもしろかった。
 K:またやりたいね。

 春休みになって、毎日彼らが来ている。S君がクラブを卒業して以来、F君をかまう子はほとんどいなかった。いじめもしないかわり、かまうこともなく、興味がないのである。ここでK君がF君をかまうようになり、F君は喜んでいる。彼はS君を好きだったようにK君も好きで、「K君、K君」と名まえを呼んだりする。

 今、『負けるな子どもたち』の最後の章の再来のようなことになっていて、「こんなこと繰り返してどうなるのかなあ?」と思っている。こんなに子どもになめられっぱなしでいいのかなあ? S君に、今の、そしてあのころの気持ちを聞いてみたい。
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by lumokurago | 2011-05-07 13:38 | 昔のミニコミ誌より

いまどきの子どもたちと私 その3

 『暗川』第27号1990.1.1より

★ 冬休みの1日(1989年12月)、『負けるな子どもたち』にでてくるS君とその仲間たちをスケートに連れていきました。おもしろかった。

 まずは駅に着いたら違う方に走って行ってしまう。「待てえ! ストップ! そっちじゃないぞ」と追いかける。スケート場に着けば、私が貸靴はどこかと探しているあいだに、ゲタでリンクに降りて「すべる! すべる!」と騒いでいる。「やめろ! おこられるぞ」と飛んでいく。

 そしてスケート靴をはいてリンクに降りると、スケートがはじめての子も(3人ははじめて。総勢5人)てすりになんてみむきもせずにリンクを走り、ステンステンと豪快にころぶ。ころび方があんまりなので監視のお兄さんから、頭を打ったら危ないからヘルメットをかぶるように注意され、5人ともヘルメットを借りてかぶる。すると今度は「オレたち、ヘルメット軍団だ」とますます調子づく。

 今日が暮れでみんな忙しいからお客さんが少なくてよかった。メチャクチャ走ってころぶから、お客さんが多かったら危なくてしょうがないところだった。私はステンステンところぶ姿がおかしくて、大声で笑いっぱなし。本人たちも騒ぎに騒いでいるし、私が「危ない! やめろ!」などとどなるので、さぞかし目立ったことだろう。児童館が移ってきたみたい。監視の人も「客が少ない日でよかった」と思ったに違いない。

 そんなふうにこわいもの知らずで元気いっぱいの上、もともと運動神経が発達しているので、めきめき上手になり、ころぶ回数もどんどん減っていき、やがていっちょまえにそれらしくすべるようになってきた。一安心。

 ところが「ナンパする」と言っては知らないお姉さんに声をかけたり、プロ野球の池山選手が来たと目ざとくみつけ、つきまとったり・・・目が放せない。スケート靴のブレードですみの氷を削って雪玉を作って投げたり、出入り口でないリンクの周りの策を上って出入りしたり・・・休んでストーブにあたっているときに、他の人もいるのに突然「セックスってなあに?」と言ったり・・・。

 上手なおじさんに声をかけて、私だってそのおじさんほどではないにしろ相当うまいのに、私の言うことはほとんど聞かず、おじさんに教えてもらっている。そんなこんなで10時半からなんと5時半まで滑り続けたのです。7時間も。

 さいごの頃にはすごくうまくなり、おにごっこをして私がオニになり、ぶつかると危ないと思っているので本気ではないにせよ追いつけない位になった。S君を追いかけていたらとうとう彼はころび、私もころんでしまった。危ない! けどおもしろかった。私もスケートが好きなので子どもたちと一緒にすべりつづけていたけど、さすがに疲れたよ。それでも子どもたちはスケート場から駅までの道をじゃんけんしておんぶしあっていたのです!

★ 『落とし穴』にでてきた5年生のK君はこの9月に私立小学校から転校してきた子です。悪さをして追い出されてきたといううわさが立っていた。すっごいワルでキザ。8月にはじめて児童館に来たときから、暑い中、黒の長ズボンに紫のTシャツという服装。いつも黒いワイシャツとか来てて、学芸会のときは、みんなが黒い服装のなか、黒いトレーナーから赤い衿をだしていた。いまは子どものくせに皮ジャン着てます。女の子からすっごいこわがられているワルです。

 でもこんなことがありました。児童館の秋祭りに手作りの品物の店をだすため、クラブの女の子たちが折り紙の傘を作っていました(開くことのできる精巧なもので作るには根気がいる)。K君たちがクラブ室に入ってきて折り紙を取るので、「あんたたちも作りたいんでしょ。教えてあげるよ」と言うと「作りたい」と言うので教えると一生けんめい作っています。他の子が「こんなの、つまんない」とつっぱって言うのに、K君は「オレ、けっこうおもしろいよ」とまじめな顔で言うのです。そして作り上げた傘を、その日は雨が降っていたのでぬれないようにビニールの袋に入れ、大事に持って帰りました。

 K君は折り紙で鶴を作って私にくれたりもしたのですよ。

 K君が生意気なことを言うので、私が「あんたなんかいつだって泣かせてやる」と言うと、「オレ、空手習ってるんだぞ」と言うので、私は「私はS君(学校で一番足が速く、たぶんケンカも一番強い。少年野球チームのキャプテンでピッチャー。K君より1つ上の6年生)も泣かせたことある」と言う。K君は「オレ、S君より強い」と言いかけ、「かもしれない」とつけ足す。ざまあみろ。
 私ってなんで“ワル”の子を好きになるんだろう。言葉が悪くなる一方だ。
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by lumokurago | 2011-05-06 11:46 | 昔のミニコミ誌より

いまどきの子どもたちと私 2

 『暗川』第27号1990.1.1より

その2

★ これも11月中旬(1989年)、学校の学芸会を見に行きました。学芸会の劇というのは、すべての子どもを平等に舞台にだすための劇で、「知っている子どもが一生けんめいやっているところをみる」以外は特に劇としておもしろいということはあまりないのではないかと思います。

 今回もそんな感じで見に行ったのですが、驚きました。5年生の呼びかけ劇『八郎』がすばらしかったのです。舞台に5年生全員が並び、呼びかけと合唱で劇が進んでいきます。真ん中に黒い服を着た男の子たち15人ほどがいて、八郎になっています。まわりを囲むみんなは海になったり、小鳥になったり・・・。

 『八郎』というのは八郎潟の物語で、その村はいつも海が荒れて波をかぶり、作物がダメになっていたのですが、山のような大男の八郎が海を押しとどめ、村を救うという話です。

 八郎になっていた男子のなかに、児童館の常連であばれんぼうの男子がほとんど全員入っていました。学校でもあばれんぼうだろう男子たちです。

 さいごに海になったみんなが青い紙を持って「海は押す」と歌い、八郎になった黒い服を着た男子たちが立ちあがって、手で押しながら「八郎は押し返す」と歌い返します。そのリフレイン。そして・・・「沈む、沈む・・・胸も肩も、肩も頭も沈む、沈む。村のみんなのかわりになって、白い泡こを残して沈む」のところで涙が出てきました。

 みんなの幸せをこわす大きな力があって、それとたたかう者がいて・・・たたかう者は沈んでいく・・・そのことに私の思い入れが深いせいもあるでしょう。それと、あばれんぼうたちが八郎になって一生けんめい歌っていたこと、それよりも全体の合唱に力があり、すばらしかったこと・・・涙があふれて止まりませんでした。

 出番を終えて席に戻ってきた彼らに、私は「すごくよかったよ」と言いました。そしたらその日、彼らが児童館に来たので私は「感動して泣いちゃった」と言いました。それに対して言うことが傑作なのです。

 「あんなことで泣くのかよ!」「泣き虫!」
 私「そういうけど、あんたたちの劇がよかったから泣いたんだよ。上手だった」
 「オレが『八郎』って言うまえに小さい声で『タコ』って言ったの聞こえたか?」
 私「聞こえた」
 別の子「オレが手を振ったの見えたか?」
 私「見えた」 「えーっ、ほんとかよ?」 「ほんと・・・ウソ」と私。
 
 次の日、もう一日学芸会があったので、私は職場の相棒に頼んでもう一度『八郎』を見に行きました。写真を撮りたかったので。いま思えば録音こそすべきだったと後悔するけれど。

 途中から行ったら、きのうの子どもたちは舞台上で「またワタナベが来たぞ」とかなんとか話している。まじめにやれ! 子どもは「タコ八郎」なんて歌っているというのに、私はまた泣いてしまったのです。

 そして終わると今度はぜんぜん別の子(児童館の常連だがきのうは来なかった)が来て、「おまえ、また泣いただろう」と言う。「なんで知ってるんだ」「聞いた」(きのうの連中がワタナベは泣き虫だといいふらしたな)その子もその日児童館に来た。泣き真似をしながら入ってきて「泣き虫! 泣き虫!」と言う。「あんたたちの劇が上手だったから泣いたんだ。泣き虫じゃないぞ」と私。まったくなんという子どもたちなのだ。

★ そして冬休みの1日目、八郎になったあばれんぼうたちのうち4人(5年生男子)が来て、児童館の隣の公園の砂場に落とし穴を2つ作り、そのままにして帰ろうとするので、呼びとめて片づけるように言うと――「もう片付けた」  私「ウソつくな。ずっと見てたんだぞ」  「片づけたってば」

 私、落とし穴の一つをあばき「ほら片づけてないじゃないか」と言うと、子「なにすんだよ! 人がせっかく作ったものを! どうしてくれるんだよ!」とすごい剣幕でどなる。「なに言ってんのよ。そっちが片づけないで帰ろうとしたんだろう! 小さい子が落ちたらどうするんだ! どうやって責任とるんだ!」と私も負けないくらいの剣幕でどなる。4人のうち2人はそれでもつっぱって、捨て台詞を残しながら自転車に乗って逃げようとする。残った2人のうち1人が「片づけようか」と言う。

 結局、自転車に乗って逃げようというデモンストレーションをしてみせた2人も戻ってきて、4人で片づける。そして片づけ終わって――さっきすごい剣幕でどなったK君が「(いつも『ワタナベ』とえらそうに呼びつけしているのに、急に神妙に)先生、さっきのおこり方、迫力あった。もう1回おこってみて。おもしろいから」と言う。なんだ、なんなのだ。私「えっー、そんなこと言われたってもうおこれない。いまはもうおこってないもん」

 K君「いままでにもこんなにおこったことある?」
 私「もちろんある。何回もある」
 K君「誰に?」
 私「S君(『負けるな子どもたち』にでてきたS君)
 T君(S君の仲間)「あとY君!」
 私「T君」・・・

 K君「先生、このなかで一番のワルって誰? オレでしょ?」
 私「そうだねえ」するとU君が「一番いい子はボクでしょ? ちゃんと片付けたし」と言う。 私「うん、そうだね」

 子どもって一番のワルにもなりたいし、一番いい子にもなりたいんだよね。複雑な子どもの心理よ。
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by lumokurago | 2011-05-05 12:24 | 昔のミニコミ誌より

「いまどきの子ども」たちと私 その1

 今日からいくつか子どもたちのエピソードを紹介します。1990年頃の小学校4、5年生男子はこんなふうでした。(相手をしていた私は35歳でした)。結局、甘えんぼをうまく表現できなかったのだと思います。彼らはもう30歳にもなっています。どうしているかなあ?

『暗川』第27号1990.1.1より

 「おまえには一度ケガさせたからな」

 11月中旬、学童クラブの4年生の男の子M君に遊んでいて胸をけられました。M君はいま、私がつきあっている子どもたちのなかで「一番」と言ってもいいくらいやさしい子で、私と仲良しです。去年の冬、スケートに行ったときなど、「ワタナベ、一緒にすべろうぜ」と言って、手をつないで一緒にすべり、疲れると「ちょっと休もうぜ」という具合。

 私たちは(他の男子も)よくプロレスごっこのようなことをやって遊んでいて、それまでもやりすぎたときには「ものには程度というものがある」という話をしていました。しかし、このときはあっという間のことで、ねころんでいた私はよけることもできませんでした。やりすぎだと叱ってもM君は「遊んでたんじゃないか」と言うだけ。

 翌日、私は病院に行きました。まさかとは思いましたが肋骨が折れやすいことは知っていたし、息をするだけでいたんだからです。レントゲンの結果、骨には異常ありませんでした。

 骨に異常はなかったものの、病院にまで行ったことをM君に知らせたほうがいいと思い、夕方、家に行きました。お母さんはまだ帰ってきておらず、話をしようとする私に対して、Mくんはまるで聞く耳がないふざけたなげやりな態度なのです。それは私が『負けるな子どもたち』に書いたことは正しかったのだと改めて思わせられるできごとでした。私はあのなかでは一度も泣いたことなどなかったのに、「あのやさしいM君でさえそうなのか。まじめに話を聞いてくれることはないのか」ということがショックで、はじめて泣いてしまいました。

 それでも「ちゃんと話さなければ」と思いなおして、テレビを見ていたM君にテレビを消させ、一生けんめいに話しました。ソファに寝転がって、頭をソファから落とし、私の顔を見ないようにしていたM君ですが、それでもとうとう「悪かった」とは言いました、でも(妹がいて一部始終を見ていたので)「お母さんが心配するから、帰ってくるまで待って話していく」と言う私に、M君は「帰れよ!」を繰り返すばかり。いたたまれず、私は帰ってきました。

 夜、お母さんから電話がかかってきました。「私の言うこともきかないんです。男の子はわかりません・・・。明日必ず謝りに行かせます」

 翌日、5時前にお母さんがみえて、「M、謝りに来ましたか?」「いいえ」「すぐ連れてきます」 
そしてM君が来て「ごめんだって」と一言言うと走って行ってしまう。お母さんが「ちゃんと謝りなさい」と追いかけていく・・・

 M君と私はいまも仲良しで、彼は「おまえには一度ケガさせたからな」と言って、かかってくることはなくなりました。M君はやっぱりやさしいのだと私は思うのです。
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by lumokurago | 2011-05-01 16:32 | 昔のミニコミ誌より

「・・・への便り」  その14 S.O.

 (これは「求めて求めて」「なぜ私は書きつづけ、送りつづけるのか」への便りです)。

「・・・への便り」 その14  S.O. 『暗川』第21号1987.11.8より

 単に時間がないからというだけでなく。いま触れようとしていることがきっと自分でもいまはわかっていない重要さを持っているだろうと思えるので、とりあえずメモというかたちで何かを予感させておきたい――と思うのです。

 あらためて考えると、<表現>した本人にさえ気づきえていないことは、他者がある切実性をもって追っていこうとすると、それが<コミュニケーション>と呼ばれるものなのではないか、と思ってみたりします・・・。

 ・・・≪ことばは何のためにあると思いますか≫という声の前で立ち止まって見る。そしてもしかしたら≪ことばは何のためにある≫のか、と考えるためにこそ≪ことば≫はあるのではないか――と、ふと思ってみる。つまり≪ことば≫は≪何(か)のためにある≫というように、それ自体としてはじめから何らかの意味や価値を持っているわけではない。ただ、≪ことば≫は目の前にいることを<問い>と化すためにあるのではないか。たとえば、≪ことば≫自らを考えようとするとき、≪ことばは何のためにある≫のか――ではなく、≪ことばは何のためにある≫ のかと考えるのはどうしてなのか・・・というように問うやりかたで。

 ≪一枚の風景のどこに私はいるのか どこにもいないのか≫という根源的<不安>、≪動詞がひとつ、またひとつ、次々に消費させられていく 形容詞は風になって吹きすぎていく 私は森の中で道に迷う≫という<徒労>感はよくわかる。

 だが、そうした<不安>、<徒労>感が<問い>と結びついたとき、むしろ実在感として確実に自らの中に沈み込んでくる。≪腕を伸ばしてむんずと風をつかもうとする≫手が危い風をそっとすくいとる。

 <他者>とは何か。≪「風が吹かなければ風鈴は鳴らない」「自分の体温を感じるためだけにも他者の左手が必要」(『共犯幻想』真崎守)≫ この『共犯幻想』の冒頭で、バリケードに立て籠もるのがなぜ<わたし>ではなくて<わたしたち>なのかと問うとき、4人でもう3人分しか残っていない即席ラーメンをすする場面はとても象徴的だ。

 バリケード解除へ対峙するために、まずは確実に腹ごしらえと考えるなら、食事は明らかに1人分欠けているのである。けれども、この1人分≪欠けている≫という思いが、どうしようもなくなぜ<わたし>ではなくて<わたしたち>なのかという<問い>へ向かわせるし、また<わたしたち>であることの必要性~<他者>の必要性への自覚の契機となっているのではないかと思える。

 つまり自分は自分であり、それに<他者>が加わればさらに自分は向上する――のではない。自分という存在がはじめから何かが≪欠けている≫ことから出発しているのではないかという感覚が<他者>を招き寄せるのである。だから<他者>とは≪欠けている≫ことをあらためて出発の強力な自覚とするという契機のことなのであり、もしかして実際に具体的な<他者>に出会えないということもありうる。その場合、とおい、まだ視えてこない<他者>を自らの内部に予感させておく試みが追求されていく。

 この試みが、あて名のない恋文・・・ということなのである。

 ≪風≫とは何か。≪風鈴≫とは何か。≪体温≫とは何か。≪左手≫とは何か。ここで言われているのは、≪風≫、≪左手≫~つまりは<他者>の不可欠性ということだろうが、この≪風鈴≫を鳴らす≪風≫や≪体温≫を感じ取る≪左手≫を、味方やなかまというように限定してはならないのではないだろうか。むしろそこに<敵>を含めて考える必要がある。

 もちろん最終的な<敵>とは権力性のことだろうが、≪風≫や≪左手≫を<敵>を含めて考えるということは、困難な条件下であるからこそ、より≪風鈴≫は鳴り、より≪体温≫は鋭く感じられるということなのであり、また<敵>の意味を考えることによってしか、ほんとうは見方とかなかまとかは鮮明になってくることはないのである。

 つまり、差し出した手の向こうに<他者>と出会えないこともありうる。そうした<他者>との<出会い>とは、試行の道筋にあるほんの偶然であるとも思えるから。≪"FROM"でいっぱいで、だから"TO"でいっぱい≫と必ずしも限らないときもある。そんなときにも≪風鈴≫は鳴らせるか?

 ≪自分の中にたくさんの他者が住む≫とは、友人の数のことではないだろう。そうした<他者>とは、いわば無念さのことではないか。自死や挫折や失語・・・といった強いられた<時代>の重圧のなかで<自分>へも行き着けなかった者たち・・・。だから、ほんとうは<他者>とはもうひとりの<自分>のことだろう。

 <敵>に包囲されたなかでさえ、≪風鈴≫は鳴らすことができる。もうひとりの<自分>としての<他者>に視つめられて。

≪今日も新しい小さな芽が出た 赤ん坊も生まれた≫は、だから新生というよりも再生のイメージの内部で捉えることはできないか。

 (つづきはMoreへ)

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by lumokurago | 2011-04-28 12:02 | 昔のミニコミ誌より

なぜ私は書きつづけ、送りつづけるのか

 なぜ私は書きつづけ、送りつづけるのか  『暗川』第21号1987.11.8より

「求めて求めて」のつづきです。
 
 『いま、人間として』8号にむけて、編集担当者のAさんから示されたテーマ――ミニコミ、コミュニケーション、人に何かを伝えること、自己表現、何のためにどうして書くのか、話をするのか――に原稿依頼を受けました。私が8年に渡りミニコミを作り続け、送り続けているからでしょう。Aさんは「なぜ『暗川』をだしているのかについて、手紙の形で書いたら」とヒントをくださったので、そのようにしてみます。

みなさまへ

 はじめまして。私は東京都杉並区の「学童クラブ」という子どもを預かる施設に勤めている者で、Aさんとは数年前の径書房の忘年会でお会いして以来、お互いの通信を交換しています。

 「なぜ暗川をだすのか」という問いに一言で答えるなら「出さずにいられないから」ということなのですが、それでは例の「なぜ山に登るのか」「そこに山があるから」に似て、そのひとことがすべてを表現していると共に、ひとことのなかにまた、数知れない要素がふくまれているわけです。

 私がはじめてミニコミ(個人誌)をだしたとき、『Burst』という名まえをつけました。吉野弘に『Burst 花開く』という詩があります。その一節につぎのようなことばがあります。

 ――諸君! 魂のはなしをしよう 魂のはなしを! なんという長い間 ぼくらは魂のはなしをしなかったんだろう――

 (“Burst”を吉野弘はここで「花ひらく」と訳していますが、「破裂する、爆発する、急に開く」などの意味で、私の『Burst』を「叫び」と訳した人もいます)。

 ふだん友だちなどと話はします。それは「魂のはなし」からかけ離れたものばかりではなかったと思います。しかし私はそれだけでは物足りなかったのです。書きたかったのです。いまの自分のまよいや悩みや怒りやかなしみなどを。
  
 さて、「書く」ことについてですが、私は「書く」ことは同じ「ことば」を使った表現である「話す」こととはまた違った意味をもつと思っています。「書く」ことで一番特徴的なのは「記録として後に残り、読み返せる」ということでしょう。もうひとつ、講演など特殊な例を除いて、「話す」ことは普通自分ひとりが何時間も長々と自分のことを話すのではなく、相手とのやりとりのなかで会話としてどんどん動いていくものだと思います。それに対して「書く」ことはあくまでも自分のなかに沈み込み、何時間でも自分と向かい合って自分と対話することです。だから「書く」ことと「話す」ことは、似ている部分はあるにせよ、機能が違うと思います。

 私が「書きたい」と思うのは、第一には自分自身に対する興味からきています。自分がいま、このときをどんなことを感じながらどのように生きているのか、また、明日にどう立ち向かっていくのか・・・そのことをいちいち検証したいのです。私にとってそのことは「書く」ことを通じてしかできないのです。「話す」ことが苦手ということもあるけれど、そんなことは理由ではなく、書きながら考える、この「考える」ことが私にとって大事だから書くのだと思います。書かなければきっと私はよく考えないと思います。考えを進めるためには、少し書いては読み返して考え、また書き進む作業が必要なのです。

 その上で私は書いたものを誰かに読んでほしいという気持ちが強いです。それは「何か言ってほしい」ということです。

 私は書くことが好きで日記や手紙、交換ノートの類をたくさん書いていましたが、複数の人に宛てて自分の思いや考えを表現したのは『Burst』がはじめてでした。私は『Burst』を当時私のまわりにいた身近な友人たちに配りましたが、彼らからは何ら反応がありませんでした。戸惑いながらだしたものについて何も言ってもらえなかったので、彼らがそれをどう捉えたのかわからず、困りました。しかし、縁あって読んでもらうことになった未知の人たちから共感が寄せられたのです。

 その経験によって私は「出会い」というものの意味を知ることができたように思います。「出会い」には偶然が作用するという要素はあります。しかし「出会い」を欲する強い意志は、偶然のなかにかなり大きな必然を生みだすことができるのだとわかりました。求める心が一番大切なのです。どれだけ強く、どれだけ大きな切実さをもって求めるのかが。

 私は「こんなにたくさん読ませて迷惑だろうな」と思いつつ、自分の個人誌を読んでほしいと思う人に一方的に送り続けてきました。それは「あて名のない恋文」とでも言うべき性格のものだと思います。恋文を受けとって「あて名」に名乗りをあげてくれる人を求めているのです。その求める気持ちの大きさと切実さが「こんなにたくさん読ませて迷惑だろうな」という気持ちを越えてしまうのでした。なぜならばどんなに稚拙であっても、自分を表現してぶつけていかない限り伝わることはないからです。どんなに拙くとも、いまの自分のギリギリの思いをできるだけのことばを使って表わさなければ、そういう自分との格闘がなければ、人と出会えたり、気持ちを通じ合わせたりできるはずがないと思うのです。そうやって8年に渡り表現し続けてきて、その間にたくさんの人たちと出会いを重ねてきました。それはほんとうにありがたい、何物にもかえがたい私の宝です。

 現在出している『暗川』という個人誌は1984年9月から始め、いま19号までだしています。これもはじめは私が読んでほしいと思う人に一方的に送っていたのですが、1986年10月に、いままでに手紙をくれたり何らかの反応をしてくれた人にはこれからも送るけれど、それ以外の人で読みたい人は申し込んでほしいという便りをだし、申込制にしました。部数が増えて大変で、それまでずっと送るのみで何らの返事がない人は、読んでいるのか捨てているのかさえわからず、そのへんを確かめて部数を減らしたいと思ったからです。

 結果としては、いままで反応のなかった人たちの大部分があせって便りをくれたり、電話をくれ、部数はほとんど減りませんでした。また、申込制にしたことは、読者の『暗川』に対する意識を転換させる役割を果たしたようです。それは一方的に受けとる立場から参加しようという立場への転換ということができると思います。また、それと前後して、発行者である私対読者の一人ひとりという関係だけでなく、読者間のつながりが生まれつつあります。このことは特別に意図したわけではないのですが、申込制にしたときにいただいた読者の便りで特集を組んだりしたことで、読者同士どんな人がいるのかを知ったということが大きかったのではないかと思います。

 私自身としては読んでほしいと思った人に、その人が応えてくれるかどうかは二の次にしてとにかく送り続けていた「あて名のない恋文」を「応えてくれなければあげないよ」と言っていったことに対して、「あれでよかったのか」という思いがありました。私は「いまは応えてくれなくても応えたくなったときに応えてくれればいいのだ」と思いつづけていたので。しかし結果的には「応えてくれなければあげないよ」とまでつきつけていったときに、たくさんの人たちが応えてくれたのでした。申込制にした意味については、まだ自分のなかできちんと把握できていないのですが、あれ以来、便りをくれる人の数が増えたことは確かです。

 これからも私は書きつづけ、それを人に送り続けると思います。それは自分を確かめ、他者と出会うことによって、明日へ、また明日へと新たな自己を求め続ける作業であると思います。
 
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by lumokurago | 2011-04-26 11:17 | 昔のミニコミ誌より

阿由里農場

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 福島県川俣町山木屋(計画的避難区域)の阿由里農場にて(1989.5.5)

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 愛情  菅野陽花(小学校4年のとき) 『暗川』第23号1988.12.15より

 わたしの家の仕事は酪農家です。

 数は少ないけれど、牛と羊とにわとり、それに犬が1匹います。山に囲まれたところだから山に行けばいろいろな種類の鳥に会えるし、ヘビやカエルやこん虫などにも会えます。それにめったにみかけることはできないけど、キツネやタヌキ、野ウサギだっているんです。

 都会にはビルに囲まれたなかに一人暮らしの人とか一人っ子とか、さびしい人がたくさんいるように思えます。不思議ですね。にぎやかなはずの都会がさびしくて、さびしいはずのいなかがにぎやかだなんて。

 わたしの家は、春、夏、秋、冬と楽しいことがたくさんあります。

 簡単に紹介すると、春は牧場の草花が芽を出す、とてもすがすがしい季節なのです。山にはふきのとうやたらの芽が出るし、かたくりやこぶしなども咲きます。そういう花や芽からいいにおいがしてきます。

 夏はちょっと疲れる季節です。動物たちが冬に食べる草をたくわえるために、暑い中、いっしょうけんめい働かなければならないからです。お父さんは「動物をかっていればごまかすことはできない」と言います。おなかがすけば鳴いて知らせるからです。でもわたしだって、泣き出したいほどいやなときがあります、でも、きれいにかりとられた草地をみると、「よかった。今年もがんばった」と思えるのです。どうしてなのかなあ。

 秋の山はくり、山ぶどう、くるみにきのこと実りの季節でもあるし、黄色、赤、緑、金色と色が山をかざるのです。なんだか山はお祭りをしているみたい。いろいろな木や花が、いろいろな実をつけて、どれが一番りっぱかをきそっているみたいです。それに、空と山が絵のコンクールをしているようにも見えます。それがとても大きなキャンバスに夕焼けを描くと、山はでこぼこのキャンバスを金色一色にぬりつぶします。小高い丘に登って秋の夕焼けを見ていると、そうとしか思えないんです。

 冬は家族の団らんの季節なんです。冬は外でやる仕事がありません。だから家の中でまきストーブをたき、みんながその温かい部屋に集まり、お父さんは羊の毛をつむいで糸にしながら、お母さんはその糸で編み物をしながら、わたしたちは本を読んだりしながら、みんなで話したり笑ったりして楽しく時間をすごします。

 わたしの家では、家族の団らんやみんなで仕事をする時間をとても大切にしています。私は愛情ということばの意味がまだよくわからないけれど、愛情というのは、やさしさ、うれしさ、楽しさ、素直さがぜんぶ集まったもののように思えます。だったら、私の家には愛情があふれていると思います。だって、やさしさ、楽しさ、うれしさなどは山が教えてくれるし、素直さというのは自然を見ていればいつのまにか素直になっているんだもの。
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by lumokurago | 2011-04-23 16:46 | 昔のミニコミ誌より

人間らしい生活を取り戻そう

 印刷版『暗川』はまったく下書きをせず、直接ロットリングペンを使って版下を作っていました。郵便料金ぎりぎりの枚数(重さ)にするため、内容が少ないと思いつくことを書いて紙面を埋めていました。次の文章もそうやって埋めるために書いたので、非常にまとまりがありませんが、原発事故の起こったいま、もういちど私たちがほんとうにほしいものは何なのかを考えてほしくて、ここに載せることにしました。(私は物ごころついたときからいつも同じことを言っています。高校生のころに使い捨て文化なるものがでてきて、すでに反対していました。笑っちゃいますね)。


思うこと  『暗川』第18号 1987.5.17 より

 私には長い間、沖縄の海と空に対する憧れがありました。人間ならだれでもそうであるように、写真で見るその美しい自然に憧れていたのです。外国旅行など思いも及ばなかった私にとって、“南の海”といえば沖縄のあのサンゴ礁の透き通った海のイメージが浮かんでくるのでした。

 でも私はなかなか沖縄に行くことができませんでした。ある時期、沖縄に関する本を読み漁ったことがあって、沖縄は本土の人間が本土のために犠牲にし、切り捨て、踏みにじった場所であることを知ってしまったからです。私はその時生まれていなかった、だから関係ない、とは思えませんでした。それに沖縄返還の年には私は大学生になっていたし、「本土復帰」の実態が結局は戦争中と同じ「本土のための犠牲」であることを知っていたのです。だから沖縄は本土の人間が二重に罪を負っている場所なのです。そんな場所に、単に海が美しいからと言って気軽にでかけていくことができるでしょうか。沖縄の悲惨な歴史とそれに対する本土の罪を思うと、私にとって沖縄の海は美しいだけにとても近寄りがたい存在だったのです。

 4年前の正月、たまたま奄美~沖縄に行く友人がいて、私はついてきました。こんな機会でもなければ一生行くこともないかもしれない(とそのときは思った)、そしてその旅は単なる観光旅行ではなく、奄美にいる友人の仲間たちに芝居を見せ、交流する旅でもあったのです。私は自分にそう言い聞かせ後ろめたく思う自分を正当化しました。そして奄美から南下して沖縄本島に渡り、南部の戦跡や金武(きん)湾のCTS(石油備蓄基地)などを見たのです。

 自分の目で見るということはすばらしいことでした。いままで「悲惨な歴史」「罪」とか言って自分の内に閉じこもり、「簡単には行けない」などと思っていたのは、一種の逃避だったと気づきました。

 フィリピンもまた、むかし日本が侵略し、いまも経済的に侵略しつづけている国のひとつです。私はフィリピンに行くとき、沖縄に対して抱きつづけていたような感覚はもうありませんでした。内に閉じこもるのではなく、でかけていって積極的に日本がやっていることを確かめたいと思うようになっていました。その中身は「フィリピン旅行の報告」に書きましたが、一番大切なことは、フィリピンの人びとが私たちを「友だち」だと言ってくれた、そのことにどうこたえていくのかということだと思います。

 (ここでちょっとひとことつけ加えさせていただくならば、現在、海の美しさのみが宣伝され、南の島々に行く人が多いようですが、その人たちのほとんどはその島々や国々に対する「日本人」の立場を忘れ、罪を重ねているようにみえ、つらいです。日本が過去に何をし、現在何をしているのかを知り、それを否定的に捉えない限り、私たちにはそれらの国々に行く資格はありません)。

 さて、フィリピンの人びとにたいして、私たちはどのようにこたえていったらよいのでしょうか。次に書くことはこの問題を考えるにはあまりに皮相なことと思われるかもしれませんが、実際にフィリピンに行き、そこの人びとと友だちになった者としては、いろいろ考えてしまうことなので少し書いてみます。

 私たちはフィリピンでお世話になった人たちに、お礼として彼らの役に立ちそうなものを少しだけ送りました。カタルマンのソニアからは「古着を送ってほしい」という手紙が来たので、古着とその他、ゴムゾウリ、台所用品、学用品などをほんの少し送りました。カバジャガンにも古着などを送り、ニータさんのお母さんはそれを教会に持って行って必要な人に分けたそうです。カバジャガンの学校にもボールなどを送りました。校長先生のTyさんは「日本に帰ったらチャリティをしてほしい」と言っていました。私たちの送った物は、ほんとうに「焼け石に水」「すずめの涙」程度のものですが、それでも彼らには喜ばれただろうと思います。

 でも私はいろんなことを考えてしまいます。フィリピンには(カバジャガンには)ほんとうに物がありません。それを目の当たりにして、日本にいて物に囲まれて暮らしていて、なんでも無駄遣いしている私は「これをフィリピンに送ってあげたらどんなに喜ぶだろう」と思います。「焼け石に水」であっても、何も送らないよりはましかもしれません。でも一方でこのようにも思うのです。フィリピンの人びとは日本とかトウキョーにすごく憧れています。便利な物が欲しい、きれいな物が欲しいと思っています。日本から物を送ったりしたらますます物が欲しくなるに決まっています。それに、突然いままでなかった物が入り込んできて、彼らの昔ながらの手作りの暮らしや人々のつながりを破壊するような要因にならないでしょうか。送ったってどうせ「焼け石に水」、むしろそこから害になるようなことがでてきたら困るから下手に送らないほうがいいのではないか・・・でも日本にこんなに物があふれているのにカバジャガンに何もないのはどう考えてもおかしい・・・でも物のあふれる日本の暮らしよりも彼らの物のない暮らしのほうがずっと人間的だ・・・でもこれは持てるものの傲慢だろうか。

 このように「送ってあげたい。どんなに喜ぶだろうか」という気持ちと「いや下手に送らないほうがいい」という気持ちとの間でいつも揺れているのです。

 以前、新聞で南太平洋のどこかに、国の施策として文明を拒否し、昔ながらの手作りの生活を選び取って、便利な物などすべて持ち込み禁止にしている国があることを読みました。それは尊敬すべき珍しい国だと思います。賢い人々なんだなあと思います。

 また、しばらく前の朝日新聞に、熱帯雨林の破壊のすさまじさについて松井やよりさんが連載していましたが、そこには日本人が勝手に道路や橋を作り、木々を根こそぎ切りだして、そこに住む人びとの暮らしをメチャメチャにし、成り立たなくさせていること、そしてそれに抵抗する現地の人びとのことが載っていました。

 私はカバジャガンの人たちにいまの日本のような物のありすぎる暮らしがいかに非人間的なものであるかを訴え、彼ら自身の手でいまの昔ながらの手作りの生活を選び取ってほしいものだとひそかに思っています。

 実際にはこんなことは不可能で、フィリピンもカバジャガンもこれからどんどん自然が破壊され、物がいっぱいになり、人間らしい美しい笑顔は失われていくでしょう(世界がいまのまま進むならば)。私たちがカバジャガンの人たちやTyさんに書いたような「豊かな自然を大切にして、いまの人間らしい暮らしを守ってください」というような思いは、おそらく理解されず、「持てる者」の郷愁程度にしか受けとられないことでしょう。

 でも、私自身について言えばできる限り質素な暮らしをしたいと思っています。そして私たちは、いま日本で少しずつでも質素な暮らしをして、人間の生活の実感というものをできるだけ感じ取れるように、自分たち自身の手にとり戻していく努力をしなければならないと思うのです。そうすれば人間に“心”というものが戻ってくると思います。

 そうしなければ私たちは、子どもたちは“心”を失っていくことになると思います。みんな、物を欲しがっているけれど、それは間違いなのだということにできるだけ早く多くの人が気づかなければいけないと思います。人間にとってほんとうに大切なものは何なのか、それを考えてほしいです。

 フィリピンの人びとに対してこたえていくことのなかで一番大切なのはこのことに違いないと思います。世界中のみんながそれぞれの場所でこのことを考え始めてほしいです。私たち日本人は、人間にとって大切なものを忘れ、物ばかり欲しがって、自分が直接に金銭面で損をする売上税のみに猛反対し、もっともっと大切な国鉄の分割民営化とか軍事費のGNP1%枠突破とか、天皇訪沖とか、その他たくさんの問題には反対せず、軍事大国への道を歩んでいます。(これらにも売上税のときのように反対すれば止めることができるのに)。

 いま日本はほんとうに危機的なところにいるのです。だから自分の場所で出来る限りのことをしたいのです。こうして書いていることもその一部です。このことが私を「友だち」と言ってくれたフィリピンの人びとに対してこたえていくことなのです。

*****
 
 これは24年前の文章ですが、その後、日本は軍事大国への道を進みつづけ、アメリカの戦争に加担しつづけてきました。アメリカを「同盟国」と呼び、「日米安保条約」は「日米軍事同盟」と解釈されるようになりました。「アメリカの核に守られている」と言われてきたけれど、しかしいま、自分の「核」が自分を攻撃した状態になっています。私はつねづね、日本を(軍事的に)守るなんてできるわけない。日本と戦争したいなら原発を一つ攻撃すれば、それでその国が勝ってしまう、と思ってきましたが、それを自分でやってしまうとはね。

 愚かなことです。愚かすぎる。

 これで目がさめたなら、国中にある原発を止めるはずなのに、それもしようとしない。これ以上愚かなことはそうそうない。
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by lumokurago | 2011-04-19 11:58 | 昔のミニコミ誌より

“左手請求権”

Aむつみさんへの返信 『暗川第17号1987.2.28より

(前略)

 Aさんが『暗川』にでてくる人たちについて、「実際に会ったり話をしたりしなくても、その人がいま、同じ地球の上に生きているんだなと思うだけでうれしくなる」と言ってくださっていますが、私も『ぱらん』(Aさんのはがき通信)を読むたびにまったく同じことを感じています。

 私は自分が読んでよかったと思う文章はすぐ友だちにも読んでほしいと思うし、いいことがあったらすぐ知らせたいと思います。なぜかというと、その友だちが一緒に喜んでくれることがわかっているからです。だから『暗川』には「こんなことまで載せるの?」と言われそうな私信とか私的なことまで載せているのです。この号に載せたOさんへの便りなどもそう言われると思います。Oさん宛て便りをこういう形で載せたのははじめてですが、私はいつもいろんな人におびただしい便りを書いていて、それをその時々、共有できそうな人たちにコピーして配っています。それは別に『暗川』に載せてもかまわないのだけれど、事情などを詳しく説明しないとわかりにくいから載せていないだけです。

 『共犯幻想』(マンガ真崎守作)のテーマのひとつに“左手請求権”というテーマがあります。Aさんは『ぱらん』21号に、「他の人と手をつなぐ、他の人の手の感触~そしてもうひとりにふれられている自分の手、つなぎあっている手と手の間には目に見えない何かがゆきかっている。手、手はもうひとつの目」と書いています。“左手請求権”とはまさにこのことを請求する権利のことです。

 『共犯幻想』の一場面に、他者と手をつないで他者の体温を感じると同時に、はじめて自分の体温を感じるという場面があります。人間は自分の体温を感じることさえひとりではできない。他者と手を握り合ってあ、はじめて自分の体温を感じることができる。象徴的なことだと思います。

 人間には“左手請求権”があると思います。手を握り合って相手の体温を感じ、自分の体温を感じ、そうして共感し合って生きているのだと思います。

 表現するということは、以前Oさんが書いていたのですが、「とりあえず自分に対して自分を語ってみる」ことであると同時に、“左手請求権”の行使のひとつの形であると思います。以前『暗川』を“恋文“だと書いたら、Aさんも『ぱらん』を恋文だと言っていましたね。こちらが左手をだしたら、相手も左手をだして握り返してくれる。“恋文”を受けとってくれる人を探しているのです。

 『共犯幻想』には「ひとり遊びを禁じる」というテーマもあります。以下は『共犯幻想』からの引用です。

 「ひとりでボール投げしようと思うと、空にむかってボールを投げるしかない。ボールをなくさないためにはボールが天空から返球されるまでにその落下点に走りつかねばならない。そうやって遊ぶうちに、ついにボールを自分の走行範囲外に投げることができなくなって、走行範囲の円のなかでボールを投げる者の世界は自閉してしまう」

 「ひとり綾とりを禁じたのは私に遠投力をつけさせるために? 違うでしょ?」

 「円の外の草むらでボールが来るかもしれないと息をつめて待つ側への無視をお兄ちゃんは禁じたはずよ」

 「ひとり綾とりを禁じたのはぼくのためだ」

 「ありがとう」

 「ボールなんかいくつなくしてもいいの。草むらのなかにボールを投げて幻の返球を待ちたいことだってある」
 
 そして、この<涼子>は「日記はひとり遊び。お兄ちゃんのくれた万年筆で日記は書けない」と言うのです。私ももう長いこと日記(というか、だれにも見せない文章)を書いていません。むかしは、ただ自分だけに向かって、だれにも見せない文章をたくさん書いていたのですが。6、7年前から私は日記の代わりに手紙をたくさん書くようになりました。

 「読んでほしい」という気持ちが強まったことと、私の書いたくだらない手紙にも共感してくれたり、また、私の手紙によって励まされるという人がいることがわかったからです。私はいつもものすごくたくさん書いて人に読ませるので、いつも「たくさん読ませて悪い」という気持ちがありました。でも、ある人が「手紙をもらうってうれしいね」と言ってくれた。職場の机のなかに私の手紙の束を入れておいて、読むと元気になるとか、私の手紙を繰り返して読んだため私の“10年間”を覚えてしまったという人とか、私の手紙にとりつかれているという人たちがいました。だから日記より手紙がいいのだと思うのです。

 “左手請求権”のため左手をあげていると、ずいぶんたくさんの人たちと出会うことができるのだということがわかりました。

 「円の外の草むらでボールが来るかもしれないと、息をつめて待つ」人を私は大切にしたいと思います。そしてそれは同時に「ボールなんかいくつなくしてもいいの。草むらのなかにボールを投げて、幻の返球を待ちたいことだってある」ということなのです。

 さいごに読者のみんなのために『ぱらん』のなかで私が一番好きな文章を載せさせていただきます。

――緑のくさはらが好きだ。たとえ狭くてもくさはらの上にはまあるい空がひろがっている。腫れても曇ってても雨でも雪でも。朝でも昼でも夕方でも夜でも。くさはらの上には空気が生きている。地球の素肌が息してる。地球の素肌はやはらかで足にやさしい。くさはらをかけると足の先から地球のやさしさが私の中にしみとってくれるような気がする。くさはらにあおむけになり地球に抱かれ空をみあげる。そう、ほら私たち空の中にいるんだよ。地球に抱かれ、空に抱かれ。こんどはうつぶせになって地球を抱いてみようか・・・くるっと体をまわしてエイヤッとうでたてふせ。あー地球って重たいね。
         1985.7.1 『ぱらん』6号より
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by lumokurago | 2011-04-17 12:20 | 昔のミニコミ誌より

恋文 2

恋文 2  暗川第17号1987.2.28 より

 久しぶりにOさんに手紙を書こうかな。(中略)

 以前Oさんは「ひとりの表現は未完成であること、その表現をただ批判するのではなく共闘していくことが大切だ」と言いました。「『オニ』のつぶやき」への便りは、まさにそのことを実行してくれていると思いました。(中略)

 表現が未完成であること、ひとつの表現はそれ自体で自己完結するものではなく、また自己完結させてはならないものであること。それは書き手から読み手(受けとめ手)に届けられたとき、受けとめ手のなかでたぶん形を変え、動いていくものであること。ひとつの表現に共闘していくためには、受けとめ手がまたそれを表現し、書き手に投げ返さなければならないこと、そしてキャッチボールのように表現が行き来し、そのたびに深まっていくーーそれが「表現に共闘する」ということだと思うのです。

 <ノート>(Oさんの表現)と、そのあとの<…への便り>がそれらのことをほんとうに切実なところで届けてくれたと思うし、それ以上にこのかんのOさんと私がそのことを実践してきたと思います。そして『シベールの日曜日』(映画)があって、『共犯幻想』(マンガ真崎守作)があったから「関係性」と呼んでいることの中身や「表現に共闘すること」が言葉で表せるほどにわかってきたのだと思います。今年度になってUさんやSさんや、そのほかの人たちとお互いに「響き合える」ような関係をつくることができたのもその二つのことに対して私が意識的になっていたからなのではないかと思っています。

 それからもう一つよかったことは、最近になって暗川が私と読者の一人ひとりとの1対1のつながりが何通りかあるというだけでなく、読者間のつながりが(お互いに会ったことはなくとも)生まれつつあるということです。それもこちらが意図的に何かをしたからではなく、まったくの自然発生的に。読者同士はお互いに顔も名前も知らなかったのに、「読者の会」もないのに思いがけずつながりつつあるのです。

 だからOさんの<…への便り>には本当に感謝しています。この便りが一人への便りでなく、何人もの人に一緒に宛てたものであることが、また便りのもつ可能性をひらいていく試みだと思います。

 <便り>とは常識的には1対1の間でゆきかうものと言えます。それをOさんはまず私がはじめの頃Oさん宛てに書いていた手紙を≪読書会=あうら≫メンバーに拡げ、私への返信の宛名の名まえを< >付けにすることによって、その< >のなかにはだれの名まえが入ってもよいということを示唆しました。とりあえずいまは渡辺宛てにするけれど、だれが読んでもいいんだよ、もし返信をくれたなら< >にはあなたの名まえが入るんだよ、ということだったと思います。

 それがいまは<…>になりました。「とりあえず」の宛名が必要ないところまで拡がったからだと思うし、この<便り>という形式を<共同性>のなかで捉えていこうという意志がOさんのなかで強まり、また機も熟したということだと推測します。これからの展開がどうなっていくのかとても楽しみですし、私もできる限り共闘していきたいと思っています。

 (中略)
 (中略――友人からの手紙の引用:ある人形劇の話)

 これを読んで、「これをみたらOさんが喜ぶだろうなあ」と思いました。<あて名>のない手紙、それはあたり一面が春になるような暖かな手紙で、妖精たちがその受けとり手を探す。そして待っていたのは結婚の返事を待つ青年で、それはまぎれもない恋文だった。なんだかOさんや私のことだと思いました。

 私はどこかにそんな妖精がいることを信じます。Oさんも私も、そしてだれかも、<あて名>のない手紙をずっと長いこと書きつづけ、それを妖精が長い時間をかけて届ける相手を探してくれたのだと思います。そして私たちはお互いに書き手であったと同時に受けとり手でもあったのですね。

 Sさんの次の言葉を思い出します。――みんな、恥ずかしがらずに好きになって、好きになるということは勝つか負けるかということではないのだから、渡辺さんが私にしてくれたように相手が喜ぶようなことができたら、それが一番幸せなのに。それが相手を大事にするということなのに――それから人を好きになることはだれも邪魔できない――と。

 なんで邪魔するような人がいるのでしょうね。その人たちも遠慮しないで「勝つか負けるか」などと考えないで、恥ずかしがらずにどんどん人を好きになればいいのにね。ほんとに「ひたむきな手紙」を書く人が少なすぎると思います。

 私は世界中のみんなが、恥ずかしがらずに人をどんどん好きになって、ひたむきな手紙が飛び交うようになれば、戦争とか差別はなくなるだろうなと夢想しています。そのためには私たちのまわりから「ひたむきな手紙の飛び交い」を起こさなければなりません。でもそれはもう始まりかけています。確実に手ごたえのあるものとして。1987.1.31
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by lumokurago | 2011-04-08 13:38 | 昔のミニコミ誌より