暗川  


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by lumokurago
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カテゴリ:昔のミニコミ誌より( 77 )


恋文 1 

恋文 1   暗川第17号 1987.2.28より

…への便り・その4  S.O.

 このかん、杉並区児童館の<人員削減~効率化>問題へ向けての第一次<総括>集発行を媒介に便りを受け取ったり、渡辺容子さん発行の『暗川』で未知の方がぼくについて触れてくれている―ということがあって、そうしたひとりひとりに感謝の意味を込めて、それぞれ便りをする必要性を感じていました。

 けれども一方、それらが数的に多いのでひとりひとりに便りをするのは大変というだけでなく、そうしたたくさんの便りのそれぞれを共通に貫く根源へ向けて一挙に便りをしてみたら―という思いにかられて、申し訳なさやいく分焦りを感じながらも、すぐには便りをしてきませんでした。

 そんななか、先日『暗川』第11号に載ったぼくの文章にも登場している<あきこ>に便りをすることがあって、この便りを<…への便り・その4>としてみんなに届けてみたら、とふと思いました。

 正直言ってぼくは“書く”ということは好きでないのですが、<便り>は好きです。もっと言えば好き―というよりも<便り>というあり方にどうしても関心が引き寄せられていってしまうのです。<便り>というのは“書く”という分野のなかで具体的に相手~対象を意識せずには成り立たない特異性があります。それゆえに、つまり当事者であるふたりの間でのみ意味があるという、きわめてちいさな世界でのできごとであるために“書く”という分野ではもちろんのこと、日常生活の世界でも意外に軽んじられています。

 でもぼくは<便り>といいう形式は“書く”という内面を追求していくあり方と届けるということによる他者を追求していくあり方とが、切り離せないで重なり合っているところで成り立っているめずらしい領域であると思っています。そうした<便り>のあり方をもっとも切実なところまでつきつめたのが<恋文>だといえます。つまりそこでは、内面を追求する度合いの深さによってこそ、はじめて他者が浮かび上がってくるのであり、また逆に相手~対象を意識することによって内面の追求がうながされています。

 ぼくはこうした内面~対象とのあいだを揺れ動く<不安>な世界に、ある切実さをみます。こうした<不安>性は、一種の逃げとしての<不安>に対して、<誕生>に向かい合っているところから発する積極的な<不安>というふうに名づけられるかもしれません。内面それ自体がたいせつなわけではない、また、対象それ自体が意味を持っているわけではない。内面~対象とのあいだを揺れ動く意識のなかからしか何物も生まれ出ることはない――ということであると思います。

 このことは内面それ自体をたいせつにしてしまうこと、いまの自分を守ろうとしてしまうこと、対象とのかかわりを何ら疑いを持つことがないこと――などを鋭く撃っていると思います。・・・少なくともぼくはそう思っています。

 そこには<誕生>を希求する切実な<声>と、それと共に<誕生>を信じる、あるぬくもりのようなものがぼくには伝わってくるのです。 1986.12.28
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by lumokurago | 2011-04-05 15:20 | 昔のミニコミ誌より

続 瀕死の<時代>の子どもたち

続 瀕死の<時代>の子どもたち  『もうひとつのページ』第9号 1987.1.12より

 「瀕死の<時代>の子どもたち」に対して、長野県で高校の教師をしていて、現在は病気療養中の先生(50代)からお電話をいただきました。私のいまの子どもに対する捉え方には全面的に賛成で、自分も病気になって高校を休んでほっとした、でもそうも言っていられないからまた高校に戻らなければならないと思っている、ということでした。そして「それでもまだ子どもは生きているんです」とおっしゃっていました。いい言葉だと思いました。

 「瀕死の<時代>の子どもたち」はいまの子どもの正直な描写と、それに対する私の分析・現状認識です。あれを読んでくださった方には「なんて子どもを突き放した冷たい言い切り方なんだ」と感じた方が多いだろうと思います。私自身もそう思っているくらいです。でも、どんなに冷たくても現状をできるだけ正確に認識することは必要であり、それがあってこそ、その後の対応をどうしたらいいかという問題がでてくるのではないかと思います。

 今日は、あれは現状認識としておいて、「それでもまだ子どもは生きている」ことに対して、自分がどうしていくのかを書いてみたいと思います。

 私のことを一番ひどく「オニ」「オニ」と言って(「オニのつぶやき」参照)、わざと私から遠ざかるようなことをしていた子は4年生の女の子で、A子とします。そのA子が、この夏私が入院していたときに手紙をくれました。これは大人から言われたことでもなんでもなく、A子がまったくの自由意志でしたことで、私は少しびっくりし、そして喜びました。そしてA子に手紙を書きました。私に手紙をくれたということは、A子が口では「オニ」とか言っていても、ほんとうは私のことが好きなのだということなのでとてもうれしかったこと、それから人を好きな気持というのはすなおに表わしてほしいこと、などについて。でも、A子はその手紙を受け取ることもいやがり、結局郵便で送ったのです。読んだ後は前にも増して態度を硬化させてしまいました。その後、お母さんとも話し合ったりしたのですが、何ら改善されないままときが過ぎていきました。ときどき、機嫌がいいと「ナベセンも入れてあげる」という言い方で遊びに誘ったりしてくれるのですが、結局、ほんの小さなことから私に当たり散らし、遊びが中断されていました。この子も「自分のことだけ見ていてほしい」「自分をかまってほしい」という気持ちが強い子なのです。

 そんなことがあって、先日一緒にバスケットボールとサッカーをしたときのことです。一緒にやっていた別の子に「○○ちゃん、サッカーがうまいね」と、これは本気でほめたところ、となりにいたA子がつまらなそうな顔をしているのが目に入ったので、おせじで「Aちゃんはバスケットがうまいね」と言ったのです。私は「どうせおせじでしょ」と言われると思いました。ところがA子は「へへへー」とか言って、とてもうれしそうな顔をしたのです。その顔はとてもいい顔でした。

 このとき、「まだほんの子どもなのだ」と思ったのです。いままで、子どものことをまず「ひとりの人間」として捉え、対等に向かい合いたいとそればかりを思って、A子にも手紙を書いたりしたけれど、あんな手紙を理解することは、これほどまだ子どもであるA子にとっては(いますぐには)無理なことだったんじゃないかと思いました。いままでだったら、いますぐにはわからなくても将来いつかわかってくれると信じて、思うままのことを子どもにも言ったり書いたりしていたのですが、なんだかそれだけじゃやっていけないような気がしました。

 このことを感じたのは(このできごとがあったのは)ほんの数日前です。そして昨日Bさんから「相手の心をひらく」というお話を聞いて、このできごととぱっと結びつきました。A子に手紙を書いたこと自体を否定しようとは思いません。それこそ将来わかってくれることもあるかもしれないので。でも、A子が(いまの子どもが)私の想像以上に幼いのだということ、対等に語りかける以前にこっちが一歩下がって、まるごと相手を抱きしめてやることが先なんじゃないかという気がしました(Sさん=同僚も自分の2歳半の子どもとクラブの子がそんなに違わないと言っています)。

 「瀕死の<時代>の子どもたち」のなかに、いまの子どもは人との関係を求めていないということがでてくるのですが、いまここまで書いてきて思うことは、「いまの子どもは人との関係を求めるようになる以前の、自分がまるごと抱きしめられて安心したいという幼児の段階にまだいるのではないか」ということです。だから、むかしの子どもたちに対してしていたような対応とは別のものが必要なのではないかと、いま思っています。

 いまの子どもたちはあまりに幼く、うるさいです。折り紙ひとつ教えようとしてもじっくりととりくむことはできず、「どうやるの?」「その次は?」「できない」「できない」と騒ぎ立て、目の前にあるのりやはさみにも気がつかず、自分で探そうとせず、「のりは?」「はさみは?」と騒ぎ立て、それが一人の子じゃありませんから、ほんとうにイライラして教える気持ちなんかなくなって「うるさい!」と叫びたくなってしまいます。そこをぐっと我慢して「できない、できないって騒がないでゆっくりやってごらん」とか「のりはこの机の上にあるから、目をしっかり開いて探してごらん」とか、いちいち言っているのです。ほんとに疲れてしまいます。小学生にもなってなんでこんなことできないんだ! いちいちうるさいな! ひとりじゃなんにもできないんだな! といつも頭に来てしまいます。現象としては、それはそれはひどいものです。

 そういう子どもたちに対して、どのように対応していったらいいものか、どこまでを受け入れ、どこからつっぱねたらいいのか、ほんとうにむずかしいです。子どもが幼児の段階にいるからといって、全部受け入れてやっていたら、あまやかすことになりはしないか、とか・・・。

 しかし、「瀕死の<時代>の子どもたち」に書いたような否定的、悲観的な見方をしているからといって、「それでもまだ生きて」現実に目の前にいる子どもには何らかよくなるような努力をしていかなければならないわけで、それはあの文章のなかで言っている「<時代>から来る<不安>を取り除く作業」とはまた別な次元でやらなければならないことだという気がします。それもやはり「相手の心をひらく」ということをまず第一に考えなければならないのだということは確かだと思いました。私は子どもにまで「対等に」「正直に」と思いつづけ、おせじも言ったことのないような人間ですが、それ以前に「心をひらく」ためにはどうしたらいいのかということを考えたいと思いました。これは単純におせじを言うなどということではもちろんなく、具体的にはその場面場面で、やはり自分の感受性で考えていくことだと思います。

 ところで昨夜、恐ろしい夢を見ました。子どもたちが大人たちにものすごい暴力をふるうようになって、もうどうしようもなくなって。大人たちが(私も)子どもを次々に包丁で刺して殺してしまうのです。そして大人も魔法にかかったようにみんな自殺してしまうのです。その大人の自殺の方は心境宗教の集団自殺のイメージなのか、すごく変な儀式めいているのです。子どもを殺すときはすごく苦しかった。うなされていたのでしょう。でもその前の子どもの暴力はすごくすごくこわかったです。いま、私は子どもの言葉がほんとうに「こわい」と思うことが多くあるのです。きっとその反映なのでしょう。そう考えたらおそろしくてたまらなくなってしまいました。

 なんでうれしかった晩にこんな夢を見たのでしょう。最高にうれしかった晩だったからこそ、こんなに恐ろしい夢を見た。いまはそんな<時代>なのだという気がしてしまいます。  1986.12.20
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by lumokurago | 2011-04-04 17:50 | 昔のミニコミ誌より

瀕死の<時代>の子どもたち 

【追記】長いので分けて掲載しようと思いましたが、分けるとわかりにくいと思いなおし、more につづきを全部載せておきます。当時、子どもをこのように「悪く」言うと「大人はいつの時代も『いまの子どもは・・・』と嘆いてきたものだ」などと言われました。しかし、子どもの問題が深刻となっているいま読み返してみると、あのころ(1980年代前半)から変わって来ていたことがわかると思います。どこをどう直せばいいのか、それとももうこのまま進んでいくのか、一人ひとりの大人に考えていただきたいと思っています。

瀕死の<時代>の子どもたち
  『もうひとつのページ』(宮前学童クラブクラブ便り)第8号1986.12.15 より

1、子どもは変わった  いまの「大人の抑圧」とは?

 『思想の科学』1986年1月号に野呂重雄氏が「子どもの『荒廃』のゆくえ」という題で文章を書いている。それによると・・・

――昔も不良少年というのはいたが、血を見ると「われに返った」が、最近の非行は血を見ると「われを忘れる」。よく「ふざけ」と「いじめ」の区別がつかないというが、その変質に気づき、立ち止まる内面的な力「われ」が解体した。

 このことは大人もまた同じである。生徒を一発なぐるだけでなく、殺してしまった例もある。
 「非行少年・少女」が荒廃しているだけでなく「普通」の子どもたちの生活の総体も微妙に変化しており、現場の教師は「子どもは可愛い」などというロマンティシズムを失い、子どもを端的に肯定することはできず、警戒心でへとへとになっているのが現状だ。
 口で言ってわかる奴と口で言ってもわからない奴がいると、教師はいま、思っている。口で言ってもわからない奴を社会に適応させていくためには暴力も必要だ。そこから「戸塚ヨットスクール」まではもう一歩である。

 子どもらしさの変貌はたしかに存在しているだろうが、それは文字通り荒廃なのか。また「子どもの荒廃」は「大人の荒廃」の反映である。

 子どもの荒廃も変質も学校という枠の中、大人が恣意的な囲いの中に閉じ込めようとしたときの、一種の擬態ではないか。子どもはゴムまりが破けて空気がぬけ、クシャッとつぶれたように荒廃しているのではなく、大人の抑圧のためにいびつになっているだけであって、抑圧がとれれば、マリは元のまろやかさに戻ると考えるべきではないか。―― (要約)

 ここに書かれていることは、「われ」の解体、現場の教師に関する記述、子どもの荒廃は一種の擬態だという指摘、すべて的を得ていると思うけれど、ひとつ違っていると思うのは、子どもの荒廃の原因についてである、野呂さんは「大人の抑圧」とくくっていて、ここでは「学校という枠の中」に限っているのだが、私はそれを、いまの日本社会全体から日常生活の些細なことに至るすべてにあると思っている。まあ、それら全体をひっくるめて広い意味で「大人の抑圧」と呼んでもいいのだが(これを「広義の大人の抑圧」と呼ぶ)。野呂氏はここまで含めた形では「大人の抑圧」という言葉を使っていない。あくまでも「大人が恣意的な囲いの中に閉じ込めようとした時」のことで使っている(これを「狭義の大人の抑圧」と呼ぶ)。

 さて、本題に入るが、私は今までもいろいろなところで述べてきたように、私がこの仕事に就いてからの10年間だけを見ても、「子どもは変わった」と思っている。それは子どものみではなく、大人=社会も悪くなっているのだが。その一部として野呂氏が書いている「われ」の解体、現場の教師に関する記述がある。

 率直なところ、私にも「子どもは可愛い」という古典的なロマンチシズムはもうない。もちろん「かわいい」と思う場面はたくさんあるし、「心が触れ合った」と思える場面もあるにはある。でも手放しに、楽観的に「子どもはかわいい」とは思えない。いまの私にとって、だいたいにおいて、子どもは「わからない」存在である。

 最近「『オニ』のつぶやき」「残された『時』に」を書いて、その「わからない」理由は自分なりにある程度解明できたと思うが、それに対してどうしたらいいのかは皆目見当がつかない。

 野呂氏の文章について、私が「大人の抑圧」は「狭義の」抑圧ではなく「広義の」抑圧であると思っていると言った理由は、いまの時代は例えば「学校」とか「家庭」とか「学童クラブ」といった子どもの生活の場所をひとつだけ切り取って、そこだけでよくするということがほとんど不可能であるという、ここ5年位の経験によるものである。家庭にも別に問題はなく、クラブでも抑圧するような暮らしをしていないのに、子どもは「荒廃」していると感じる。そのことはいまから少し具体例をあげて考えてみたいが、現場の、物事を真剣に考える教師ならばそこのところで日々悩んでいるはずである。(実際、私の信頼する私よりずっと経験豊かなすばらしい教師たちからその悩みを聞いている)。野呂氏という人が何をしている人か知らないが、きっと毎日現場で子どもとつき合っている人ではないような気がする。「抑圧がとれれば、マリは元のまろやかさに戻ると考えるべきではないか」ときれいに言い切ってしまうところからそう感じる。

2、子どもの「荒廃」

 さて、子どもの「荒廃」をどこで感じるかと言えば、毎日の学童クラブの生活のなかで、はっきり目にみえるところで言えるのは、むかし(5年位前まで)だったら、特に声を大きくして叱ることもなく、普通に進んでいたクラブの生活そのものが、いまでは毎日毎日同じことを叱ってやらせなければ進んでいかないということである。もちろんむかしだって、何も言われずにみんながみんな、きちんとしていたわけではないが、「片づけや当番はいやでもやらなければならないこと」という自覚はあった。時々さぼるにしても・・・。いまは、自覚がないというわけではないが、片づけや当番に限らず、物事に取り組む姿勢が、一言でいえば主体性がまったくなく、すべて受身であるということが言えると思う。

 たぶんこのことが結局は一番違うのかもしれない。体からエネルギーをいっぱいにあふれさせ、毎日飛び回り、騒ぎまわっている子どもたち――その姿はむかしとなんら変わりなく見えると思う。でもその中身は全然違うのだ。

 主体性がないこと、受身であることの例はたくさんあるけれど・・・学童クラブで一番基本となる子どものクラブへのかかわり方について少し書いてみる。

 いまはほとんど全員の子どもが、クラブを「いやなところ」「がまんするところ」と感じて、一度そう思えばそれを自分の力でなんとかしようとせずに、4年間そう思いつづけてそのまま卒業してしまう。むかしだったら、ほとんどの子にとってはじめこそ「来なくてはいけないところ」だったが、やがて「自分から楽しんで通えるところ」となっていった。それはむかしといまでは全く違うことの一つだ。

 いまはなぜ「自分から楽しんで通えるところ」とならないのかといえば、一言で行ってしまえば、子どものクラブにかかわる姿勢がどこまでも受身であり、主体的なものに転化しえていないからであると思う。お母さんが行けと言うからしかたなく来る。そしてそのなかでそれなりには遊ぶ。楽しいこともあるだろう。しかし自分がクラブの一員として共にクラブをよくしよう、楽しくしようという意識は絶無である。かかわりかたがあくまでも受身で、自分ひとりのことで頭がいっぱい。だから子ども同士で注意しあったり、自分の意見を言い、人の意見を聞き、話し合ってみんなで変えていくことができない。

 だいたい人の話を聞くことがまったくできない。1分間も静かにすわっていられないのだから。何か大事な話をしかけても、子どもは1分もすればすぐに(1分たたないうちかも)ふざけはじめる。となりの子と勝手にしゃべり、騒ぎ、寝ころび・・・etc. それを「大事な話だ! みんな一人一人に関係あるんだ! ちゃんと聞け!」と叱る。でも、その話自体を聞こうとしない。いつまでも騒いでいる。だから本題を話すまえに「これは大事な話だ。その態度はなんだ!」というお説教だけですごく時間がかかってしまう。

 むかしだったら、こんなことは話を持ち出すこと自体、大人がやる必要はなかった。ほぼ完全に自主管理できていたのだから。なにかあれば上級生から話し合いの提案があり、司会は4年生がやっていたのだ。(いまでは4年が一番ふざけている)。

 人の話を聞くことができないということは、人と関係をつくるうえで致命的な欠陥となる。もともといまの子どもは、人と関係をつくりたいという欲求が希薄である。いつも「自分を見ていてほしい」「自分を認めてほしい」「自分だけを相手にしてほしい」という欲求だけでいっぱいで、その底には自分の存在に対する「不安」がいっぱいで、その気持ちはよくわかるのだが、それは「人と関係をつくりたい」というものとは違っている。なぜならば「自分」「自分」「自分」しかないから。もちろんその延長上では、逆向きの矢印がかえってくることを期待しているのだろうけれど、いまはそれが見えないし、あまりに遠くにありすぎる。

 このあいだ、私が大事な話をしようとしたのに、子どもが騒いだとき「なんでそんなに騒ぐのか」と聞いたところ、一人の子が「静かだとイライラするの」と言っていた。別の子は「そんなに静かにさせたいなら、笛を吹けばいい」と言っていた。私はここにどうしようもない子どもの「荒廃」を見る。
 つづく

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by lumokurago | 2011-04-02 10:33 | 昔のミニコミ誌より

消灯キャンペーン顛末記 その2

 暗川第12号 1986.11.28 より

 原発・科学を考え直す  朝日新聞「ひととき」 1986.11.1

 今は背丈も伸び、わたしを見下ろさんばかりになった息子だが、この子を妊娠したときは随分悩んだものだった。

 「環境汚染」がクロ-ズアップされ、人間の科学万能、経済優先の思想が問い直されていた。人間のごう慢さが地球規模で生態系を破壊している。そんな中で、どう新たな生命を育めるだろうか、という不安であった。

 食べ物に関心をもったり、科学的ということばに振り回されない子育てを、などと模索しながらも、いつのまにか一段落したような気分にさえなっていた。

 そんなとき、ソ連のチェルノブイリ原発事故の砲が入った。放射性物質を含んだ大気が移動するようすが、テレビの画面に映し出される。におわず、痛まず目にみえないものから避難する人びと。

 ヨーロッパの、とりわけ子どもを抱えた親たちの恐怖と絶望的な不安がわたしの胸をしめつける。14年前のことが一気によみがえった。

 原子力発電は、「安全クリーン」と宣伝されているが、いまだに事故の危険性も性格に予測できないばかりか、その対処の仕方がわかっていないという。一度ばらまかれた放射能は、孫子の代になっても消えないことはだれも知っているのに。日本でも、今日も水蒸気を噴き出している原発がある。その恩恵によくしているわたしたち。

 友人から、1日に5分でも電気を消してみないか、と呼びかけられた。

 そうだ。不安ばかり増大させても何もならない。夜8時になったらあかりを消して、原発のこと、科学のこと、地球のこと、息子とロウソクでもともしてゆっくり語りあってみよう。

 そして14年前にわたしが母親になるときの不安も告白し、一緒に考えてみようと思った。

    東京都杉並区  井上朱美  主婦36

 電気を消して

 暗闇に山用のろうそく1本を灯す。山小屋みたい。ろうそくの明かりってなんて心細いんだろう。暗闇がヒタヒタと押し寄せてきたら消えてしまいそう。でもなんてあたたかいんだろう。小さなほのおに目がすいよせられていく。部屋の中で風もないのに、炎がゆらめく。まるで生きているみたい。

 思えば都会で暗い部屋にこうしているなんてこと、初めてだ。いつもは暗くなれば電気をつけ、消せば寝てしまう。眠れない夜は別として、暗い所で起きてるってこと、ないもんな。

 ろうそくの明かりはとてもすみまで届かない。こうして書いている手元をかすかに照らし、一番近い本棚の本の背表紙を照らす。本の影ができている。壁に大きな影がうつっている。ふりかえると、私の影もまるで大入道みたい。

 部屋のすみは闇。ほんとに真っ暗闇だよ。底なしの穴があいていて、闇の国につながっていそう。闇のなかにいると、ヌーッと手が伸びてつかまえてつれていかれるんじゃないか・・・そんなこと、子どものころ考えたことあるでしょう。

 暗いもの。みえないもの、得体の知れないもの・・・そういうものが想像力をかきたて、また、自然への畏怖の念を起こさせるのかもしれない。明るい所、なんでも見える所では、物はひとつの定義しか与えられないのかもしれない。暗い所では想像力しだいで物は何にでも変化する。

 闇が部屋を覆うと、闇が音を吸い取るのか、静けさを肌で感じる。「音」という点では電気をつけてるときと何ら変わらないはずなのに・・・鉛筆を走らせる音も外の車の音もさっきより大きく聞こえる。なぜだろう。ろうそくの明かりに体中の感覚が吸い寄せられて集中しているからかな。どうもそんな気がする。

 山ではね、テントの中でラジウス(石油コンロの一種)をたくでしょ。そのときのラジウスの炎に吸い寄せられる。目は「明かり」に、身体は「あたたかさ」に、耳は「音」に。ラジウスは音がするのです。とってもなつかしい気持ちにさせられる音が。いく度、テントの中であの音を聞いたことだろう。

 ラジウスは力強い。テントの外なんてそれこそ真っ暗闇なのに、たった1個のラジウスが闇の中の得体の知らないものたちを遠くにはねのけてくれる。それたちがいくら手を伸ばしても届かないところまで。

 今ね、ろうそくって音がするかなって耳をちかづけたら、髪の毛を焼いちゃった。そうなんだ。ろうそくの炎は「火」だったんだ。あたりまえだけど。「火」がこんなに近くにあることもいまは珍しいよね。電気はもちろん、ストーブだって火がみえるのは時代遅れみたいだし、ガスコンロはあるけどあれはあまりに人工的で・・・。

 子どものころ、風呂の火を焚くのが私の役で、そのころは薪だったから、新聞紙などで焚きつけて薪に燃え移るまでじっと火をみつめていた。火にはみつめずにはいられないような魔力があるよね。ガスコンロの火じゃだめだけど。

 ね、電気って火じゃないからつまらないのだと思わない? 電気なんかまるでみつめる気にならない。明るすぎてまぶしいし。なんか、心がないっていうか、明るいくせに冷たいっていうか・・・いや、冷たくもないんだな。要するにあたたかくも冷たくもなく、感じ取るものがないのだ。火は生きていると思えるけれど電気なんかとんでもないよね。そうそう、むかしの日本じゃあらゆるものに神があったんでしょ。「ベンジョの神様」まで。「火の神様」はもちろんあるけど「電気の神様」があると思う? まさかあ。

 なんか、こんなこと書いてるといくらでも書けるけど、つきあわせれるほう、大変だよね。もう電気つけようか? ろうそくだといくらでも書き続けそう。でも電気つけたくないよ、明るすぎるから。
 
 (電気、つける。闇、一瞬にして消滅。闇の国との境、閉ざされる。さっきまで続いていたなんて信じられない)。

 結局、こんなこと書いて1時間以上電気を消していました。目が悪くなるかもしれないけど、書いている分にはそれほど支障ないことがわかった。本は読めないと思うけど。

 来月も26日には電気を消しましょう。火の神様と再会し、暗闇からあの得体の知れないものたちを呼びだして交感するために。
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by lumokurago | 2011-03-29 10:26 | 昔のミニコミ誌より

さよなら原発消灯キャンペーン

 「さよなら原発消灯キャンペーン」顛末記  暗川第12号 1986.11.28より

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 1986年10月31日付東京新聞です。この年の4月26日に旧ソ連チェルノブイリで原発事故がありました。今年は25周年です。文字部分は以下です。

 停電の夜、大きく揺らぐロウソクの炎は、妙に人をなごませる。それは子どものころ、家族で身を寄せ合った台風の夜の不安と安堵を思い出させる。もっとさかのぼれば、洞窟の焚火や原始の語ら医につながる祖霊の記憶なのかもしれない。

 そういえば最近、停電がない。東京電力によれば、管内の一般家庭で昨年、、災害と工事を含めて1079回の停電があった。1回平均7分。それでも契約数1400万口を数える巨大な首都圏にあっては、一般家庭に停電が当たる確率は8年に1回あるかないかだそうな。「コンピューターをお使いの需要家には瞬き程度の停電もあってはなりませんので、回線を二重にしていただくなど安全対策には万全を期しておりますが、それでもという向きにはCVCFというバッテリー型の無停電電源装置の使用をお勧めしております(東電広報)。

 現代の給電システムは、事前に天候から日本シリーズなど、イベントの動向まで織り込んで需要予測をはじき出す。都会からはもう瞬き程度の闇さえ放逐されてしまった。

 「生活するのに、そんなに電気が必要かと言いたいんですよね。もう電気は余っているんですから。それなのに危険な廃棄物を出しながら原子力発電を続ける必要はないでしょ。チェルノブイリの事故は他人事じゃないんですから」

 「原子力の日」の26日午後8時、東京では何世帯かの家で電気が消えた。「さよなら原発消灯キャンペーン」を訴えるグループの呼びかけにこたえたものだ。東京都成田西の藤本早苗さん(36)方でも、夕餉の明かりをロウソコウにした。このささやかな自主停電、当然ながら東電の中央給電指令所には何の負荷変動ももたらさなかった。
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 私が写っています。

 10月中旬、宮前学童クラブの保護者であるIさんから次のような電話をいただいた。

 「チェルノブイリの原発事故があってから、原発関係の本を読みあさって、いろいろ勉強したの。子どもにも原発なんていらないんだと言っていたら、Uに『お母さん、口で言ってるだけじゃだめだよ。何かしなくちゃ。手始めに学級通信に投稿してみたらどう?』と言われたの。先生が載せてくれるかどうかわからないけど、書いてみようと思うのよ」

 そして第2報は、

 「先生が学級通信に載せてくれて、すぐにクラスのお母さんから電話があったの。私、引っ越してきてまだ2年目で、学校にも近所にも話せる人がだれもいなかったから、うれしかったわ。今度一緒に飲むのよ。ナベセンも来て」

 そのお母さんとはなんという偶然、暗川第1号に載せた「福島第一第二原発を見学して」の原発ツアーで一緒だったAさんだったのである。Iさんは吉祥寺にある「かっぱの家」という共同保育所にいた人で、宮前学童クラブには「かっぱの家」に子どもを預けていたYさんという人もいて、私は頼まれてかっぱのバザーに紙芝居をやりに行ったことが何度かあるのだ。

 10月×日、Iさん、Aさん、Yさん、私で第1回の会談をもつ。Aさんも引っ越してきたばかりで近くに話せる人もなく、もんもんとしていたなか、Iさんの文の載った学級通信を見て、見出しと最後の昆布の注文取りのところをチラっと見ただけで、とるものもとりあえず電話に飛びついたとのこと。話しははずみにはずみ、「消灯キャンペーンについて手分けして新聞に投稿しよう」ということが決まった。

 4大新聞はどこも取り上げてくれなかったが、朝日、毎日は、26日が「原子力の日」であるということで反原発グループの集会についてと、科学技術庁や推進派の行事とを両方取り上げ、「対立色が強まった」という記事を載せた。東京新聞からは電気を消しているところを取材したいという申し込みがあった。

 そして10月26日を迎え、私たちは日比谷小音楽堂で開かれた「原発とめよう・東京行動」に参加した。Iさんがアピール、「消灯キャンペーンについて知っている人?」と問うたところ、手をあげたのは10人ちょっとか・・・。

 その後のデモでおもしろかったことを書いておく。花咲かじいさんならぬ、防毒マスクをつけた「死の灰じいさん」が街路樹に登り、手にしたザルから「死の灰」(小麦粉)をまいたのである。彼はデモ隊のほうにばかり「死の灰」をまくので、Iさんが「歩道にいる人たちのほうにもまけば?」と行ったが、その人たちはデモ隊とは似ても似つかぬきれいな服を着ていたので「死の灰じいさん」もまきにくかったようだ。

 デモを終え、Iさん親子と私は東京新聞の記者が来ることになっているFさん宅へ向かった。

 取材に来た記者は、この問題に関して思い入れが深い様子で、1時間半にわたり話しこんでいった。そしてカメラマンは100枚以上に及ぶと思われる写真を撮っていった。(ちなみに私は野次馬的についていったので、ぼーっとしてインタビューの様子を見ていたところ、カメラマンから「そこを食器を持ってゆっくり歩いてください」とか「子どもの世話をしているようにしてください」とか言われて、お母さん役をやらされた。それで写真に私が写っている)。

 Iさんたちは記事を見て、「あんなにしゃべったのに最初の一言しか載っていない。これじゃあ東京電力の宣伝みたい」と批判したが、後に記者より「あれだけ載せるのが精いっぱいだった。申し訳ない」という内容のていねいな手紙が届いたそうだ。

 26日も過ぎてから、朝日新聞「ひととき」欄に投稿したAさんに新聞社より電話があった。Aさんの原稿は11月1日、「10月26日原子力の日に」(電気を消しましょう)というところが削られて掲載された。これについても「26日に」ということが削られたのではなんのことかわからないとみんなで批判した。

 その後、Aさんは学級通信に電気を消した日のことを投稿し、先生はまた載せてくれた。その上IさんとAさんにラブレターをくれ、今度一緒に飲む話がまとまったそうである。

 私たちは新しくできたネットワークで何かおもしろいことができないかと話している。消灯キャンペーンは原発をとめようという意志表示として始まったが、これからはその意味を考えていく必要があるだろう。このことで原発をとめるのは無理な話としても、一人の人が声をあげることが、こんなふうに次から次へと人びとを結びつけるなんて、やっぱりすばらしいことだったのだと思う。
 
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by lumokurago | 2011-03-28 18:45 | 昔のミニコミ誌より

カバジャガン再訪記

カバジャガン再訪記 暗川61号 2003.3.12より

 1985年7月、フィリピン、サマール島ラワン近くの小島、カバジャガンを訪れた。その時の報告は“暗川”10、11号にあり、『負けるな子どもたち』にも関連した文章を載せたが、なにぶん昔のことなので最近の読者のためにごく簡単にカバジャガンの紹介をしておく。

 カバジャガンは私のフィリピン人の友だち、ニータさんのご両親の住む小島で、当時は戸数約350 戸。電気、ガス、水道がなく、あかりは石油ランプ、ご飯は薪で炊き、水は近くの井戸から運んでいた。島民の生活は自給自足、畑で作物を作り、海で漁をして暮らし、現金収入はほとんどなかった。物は生活必需品の最低限のものが少しある程度で、料理用のたらいを洗濯にも使っていた。食べるには困らないが洋服は見るからに貧しそうで、所々破れており、ほとんどの子どもははだしだった。学校にはボールもなく、教室が足りないので授業は交代制、教科書もままならない状態であった。子どものおもちゃはヤシの葉で作ったボール程度、フィリピン全土で盛んなバスケットボールのゴールは道路に手作りのものがあったがボールの空気は抜けていた。

 しかし人々の笑顔は美しく、子どもたちも満たされて生活していることが一目瞭然であった。私たちは心豊かな楽しい1週間を過ごし、たった1週間ではあっても自分で体験したことで日本の生活の貧しさへの疑問は確固たるものになり、私の日本嫌い、物嫌いはますます徹底していった。

 私たちは幾度となくカバジャガンを再訪したいと考え、ニータさんに頼んだが、当時サマール島では新人民軍(共産ゲリラ)の活動が盛んで、ニータさんの故郷、ラピニグでは村民が殺されたり、カバジャガンでも村長が殺されたりして、いつも返事は「危ないから行けない」だった。

 この5月に来日中のニータさんに会い、病気休職中の私は「最後のチャンスかもしれない。私ひとりなら目立たないからなんとかカバジャガンに連れて行って」と頼み込み、「ひとりなら大丈夫だと思う」と言ってもらい、17年来の念願が叶ったのである。

 ちょうど父の荷物、自分の荷物を整理していたので、カバジャガンで役に立ちそうな物はまとめて段ボールの箱に詰め込んだ。夏物の古着、もらいもののタオル類、せっけん、余っている洗面器、もう使わない魔法瓶、布、鍋、などなど。友だちから鉛筆、ノートも送られてきて、荷物は全部で40キロ。このうち私の着替えなどはごくわずかである。飛行機に預ける荷物は20キロまででそれ以上になると超過料金を取られる。機内に持ち込む荷物はただなので、できるだけ機内に持ち込もうとリュックに重いものを詰め込んだ。

 いざチェックインしたら、預ける荷物は25キロまでただにしてくれるということだったが、手荷物が重すぎる、普通7,8 キロまでなので減らしてくれという。壊れ物ばかりなので減らせないと説明したが、どうしても減らせとのことなので、魔法瓶1個を空港のごみ箱に捨てた。それでも重すぎると言われたが、「そのかわり私は軽いから(体重のこと)」と食い下がり、そのうち私が最後の客となってしまい、向こうも急いでいたので、なんとかOKになった。

 結局預ける荷物は28キロで3キロオーバー、超過料金4700円だった。私はOKになってから、捨てた魔法瓶も拾って手に持って飛行機に乗った。

 荷物のことで一言……ニータさんは帰国の際、超過料金15000 円を払ったとのこと。親戚などがフィリピンのためにといらない物をくれるので、断れず持って帰ることになった結果である。いらない物のためにこんなにお金を払うなんて悲しい、フィリピンの親戚にこのお金を1000ペソ(2500円)ずつあげた方がよっぽどいいと言っていた。(6人にあげられるなあ!)私も以前お世話になったニータさんの親戚に「古着を送ってほしい」と言われて送ったことがあるが、船便でも5000円位かかり、お金をあげた方がよっぽどいいと思ったことがある。矛盾だよなあ。    

 つけたし……フィリピン航空のマニラ行きは朝9:30出発である。私は久我山駅を始発で出たが、京成の急行で行ったら第二空港ビルに着いたのが7:40、宅急便で送った荷物(重くて大変だった)を取ってHIS (格安航空券の会社)のチケット受け取り窓口へ行ったら、ものすごい混雑、チェックインでは上記のように手間取り最後の客になり、すべての列を「間に合わないのですみません」を繰り返して一番前に横入りさせてもらい、走って走ってようやく間に合った。ほっ。

マニラからカバジャガンへ

 8年振りのマニラで最初に気がついたことは「車が新しくなった。運転がおとなしくなった」ということ。以前は日本で廃車になったようなおんぼろ車が目立ったが、今回はジープやバスを除き、それほどおんぼろではない。しかしジープに乗ってみればメーター類は壊れており、クラクションを鳴らしながら車の間を縫って行く運転はやはりフィリピンだった。

 17年前、8歳だったペルラ(パーラ)は結婚してマニラに住んでおり、1週間前にお母さんになっていた。お兄さんのフレディは5年前からサウジアラビアで働いているが、故郷カバジャガンの年に一度のフィエスタ(お祭り)のために帰国していた。17年前は高校生で今は34歳、独身。フレディがニータさんと私についてカバジャガンまで行ってくれることになった。

 17年前はサマール島カタルマンまで飛行機で行き、そこからジープでラワン、ラワンからボートでカバジャガンという経路だったが、飛行機はなくなってしまったということで、バスで行くことになった。24時間かかるとニータさんは言う。車酔いのひどい私は酔い止めを飲み、覚悟して乗り込んだが、母島で船に慣れたせいか全く酔わなかった。 

 8時発のバスはフィリピン時間(何事も遅れる)で10:30 出発。夜中の12時にはルソン島からサマール島に渡るフェリーに乗り、終点のラウィスには夜明け前の3:45に着いた。17時間、約500 ペソ(約1250円)であった。ニータさんのお母さんがスペシャルのボートを頼んでくれて(500 ペソ)、7時頃ラウィスからボートに乗り、カバジャガンには8時頃着いた。ボートの中で私は「ここはどんなふうだったか、あそこは?」と17年前の記憶を呼び起こし、カバジャガン島が見えてきた時には、「ああ、やっと来た」と感無量だった。

カバジャガンの現在(17年前と比べ各段に変わったこと)

 まず、立派なコンクリート製の桟橋ができていた。17年前は桟橋も何もなく、珊瑚のゴツゴツした石の上に上陸したのである。上陸すると男の子たちが荷物を運びに寄ってくるのは同じ。運んでくれた子にはひとり5 ペソ払う。

 桟橋を村の方へ行くと、これまた立派なアーチができていて「ようこそカバジャガンへ」と書いてある。柱の片方には1989、もう片方には1994とある。作るのに5年かかったのか? フィリピンなら十分にありそうなことだ。仕事がのんびりしているだけではなく、途中でお金が足りなくなった可能性もあるし。立派なコンクリートの階段を登って行くと、バスケットボールのコートがあり、「立派な」教会があった。ニータさんはお祈りしてから、ご両親の家(以下エスペネシン家)へ行く。

 エスペネシン家は変わっていなかったが、まわりはすっかり変わっていた。道(目抜き通り)が舗装された。家が増えた。しかも以前はニッパヤシの家がほとんどで、コンクリートの家は村に数軒だったが、半分位はコンクリートの家になっていた。(しかし村はずれまで歩くと昔ながらの家並となる)。また、新築ブームでもあるらしく、建築中の家がたくさんある。エスペネシン家の前の家はニッパヤシの家をそのままにして、そのまわりを囲んでコンクリートの家を建築中であった。

 店が増えた。サリサリストアという駄菓子屋兼ちょっとした生活用品を売る店があちこちにできており、子どもたちもこづかいを持って(17年前には考えられなかった)「マオパイ(こんにちは)」と来て、あめ(1個)などを買って食べている。店の前ですぐにカラをむき、捨てるので、燃えないゴミ問題のルーツ(後に詳述)となっている。

 ニータさんのお母さんも、家の横の以前サトイモ畑だった所に店を作った。一日中店番しているので、母屋の方へ行くのが面倒でこちらに台所も作り、寝るのもこちらになってしまったそうだ。お母さんは母屋の方に電気を引き、こちらは昔ながらのランプだが、ニッパヤシ作りなので母屋より涼しい。親戚の人たちの夜の談笑の場も狭くて暗いこちらで、文明の矛盾が現れていておかしくなってしまった。

(昔の人はえらい。その土地の気候風土にあった家作りをしていたのだ。フィリピンにはニッパヤシの家、ヨーロッパには石の家、日本には日本家屋が最適なのだ。それに慣れてしまえば夜は暗くて当たり前?)。

 電気の話が出たので解説。カバジャガンには電気は引かれていない。17年前にもお金持ちの家が自家発電していたが、村でたった1軒であった。その家では別に電気を売ったりはしていなかった。今では自家発電機を持っている家が増え、自家発電した電気を売っているのである。蛍光灯を夜6時から9時までと夜明け前の3時から4時まで(ラワン行きの船が4時に出るのでその準備のため)の計4時間つけて、1本が月に100 ペソである。

 エスペネシン家ではそれを2本と台所(使っていない母屋の)に小さな白熱灯1本(これはもっと安い)をつけている。ニータさんは「高い」「高い」としきりに言っていた。メーター制のマニラより割高だということだ。お金の余裕のある家では電気を買っているが、貧しい家は石油ランプのままである。一方、街灯をつけている家もあり、夜歩くにも懐中電灯がいらない位である。まさかここまでとは想像もしていなかった。

 自家発電機を持っているのは、まずフィリピン人女性と結婚したアメリカ人の家、娘さんがサウジアラビアで看護婦をして稼いでいるアポロニアの家、それと月給は10000 ペソ(25000円) と安いがローンができる教師の家である。これらの家では電気を売って稼いでいる上、ちいさなビニール袋入りの水を冷蔵庫で冷やして売っている。更にカラオケ屋、ビデオシアターをやっている家もある。カラオケ屋は一日500 ペソ、ビデオシアターは大人も子どももひとり2ペソである。

 ニータさんはカラオケ屋をやっているアポロニアのことを「アポロニアは毎日500 ペソも儲けて何に使うのか。カバジャガンではそんなにお金はいらない。その上冷たい水を売り物にするなんてひどい。冷たい水位ただで飲ませてあげればいい。ビデオもただで見せてあげればいい」と怒っていた。

 金持ちはますます金持ちに、貧乏人はますます貧乏になる構造の原点だ。17年前のカバジャガンは自家発電機を持っている超金持ち1軒を除き、みんなほぼ同様に貧しかったが、現在は貧富の差が家を見るだけで明らかである。

 ここでお金に関連してニータさんの話で印象に残ったことを書いておく。ニータさんは日本で母子家庭を20年程やっていた。初めは日本語もできず、働く場所も限られ、その苦労は並大抵ではなかったと思われる。もちろんたいした給料をもらっていたとは思えない。それなのにニータさんは「日本人はお金が余っている。私も日本で家賃を払い、二人の子どもを育てていたが、お金が余っていた」と言うのである。

 日本人の母子家庭の誰が「自分はお金が余っている」などと言うだろうか。フィリピン人から見ればこれが真実なのだ。ニータさんはまた「フィリピンではまじめに働けば、子どもを学校にはやれないとしても食べてはいける。畑を作って魚を取ればいいから。食べられないのはなまけものだから。子どもにこじきをさせる親は最低だ。カバジャガンにも働かない人はたくさんいる。畑を借りて働けばいいのに」と言う。

 フレディ、パーラの兄弟の一人はマニラで結婚して子どももいるが、お金が入ればお酒ばかり飲んで働かないと言う。一方、ポールはまじめで働き者なので食べるには困らない。しかし現金収入がないので子どもを学校にやることはむずかしい。ポールには今、3人の子どもがいるが、ニータさんは「子どもを愛しているなら、もうこれ以上生んではいけない」と言っているそうだ。

 ニータさんは息子二人を育てていた時、フィリピン流に家事の手伝いをさせようとした。しかし子どもたちは「友だちはだれもそんなことやってない。なんで自分だけやらなきゃいけないのか」と言い、やらなかったという。物を大切にしないのも日本人と同じだそうだ。ニータさんはレジ袋も何回も洗って使うし、洗濯物はシーツなどの大物やたくさんたまった時以外、水がもったいないので洗濯機は使わず、手で洗っている(マニラでの話)。

 息子さんたちは小学生の頃、ニータさんが友だちにフィリピンのおみやげをあげようとしても「フィリピンは貧乏だから恥ずかしい」と言っていた。そのためにいじめられたこともあったようである。しかし成人した今はフィリピンのことを理解し、お母さんに会いに行く時に、ユーフォーキャッチャーでとったぬいぐるみなどを持って行き、近所の子どもたちにあげているそうだ。

 カバジャガンの話に戻る。あと17年前と比べて変わったことは、自転車を結構みかけること。子どもたちがリュックを背負って学校へ行くこと(ない子もいる)。ビーチサンダル、傘が普及したこと(まだはだしの子もいる)。アイス売りが鈴を鳴らしながら売り歩いていること。驚いたのは電気のある金持ちの家に電子ピアノがあったこと。音の出るサンダルをはいた子ども、ゲームボーイをやりながら歩いている子もみかけた。

 17年前は毎夕、夕飯のお米を手作業で脱穀していたのだが(石臼に籾を入れ、丸太でつき、箕でふるって籾殻を吹き飛ばす)、5年前から機械になり、石臼は今は植木鉢になっている。

 私にとって一番残念だったのは、夜、大音響のカラオケの音があちこちから響き渡り、ギターを奏でながら歌うような雰囲気が全くなくなってしまったこと。私はまだみんなが集まってギターを弾いて歌っているものとばかり思い、ギターは運べないのでウクレレを買って持って行ったのに……。人間はなぜギターよりカラオケが好きなんだろうか?

 しかしカバジャガンにはまだテレビはなかった。そうそう! 村に一台だが電話があるんだった! 友だちにかけて驚ろかせようと思ったが、なんやかやでかけずに終わってしまった。

 今度の選挙に出る人が2年後に電気を引くことを公約にしているそうで、フィリピンだから遅れるだろうが、いずれカバジャガンにも電気が来る。村の人にとっては待ちに待った電気だ。どんなにうれしいことであろう。

カバジャガンのフィエスタ

 6月19日、20日は年に一度のお祭りである。この日のために村ではお金をかけてサマール島でも有名なバンドをやとい、徹夜で踊る。お金を払えば中央で一人またはカップルで踊ることができる。その踊りはセブ地方の民族舞踊で「コラチャ」という。その踊りの時、目立ちたがりやの人が出て行ってお金をまく習慣がある。

 フレディはサウジアラビアで働いてお金持ちだが、一晩1000ペソのテーブル(そのまわりにすわって踊りを見たり休んだりする)を2晩とも買い、コラチャのたびにお金をまいて、すっからかんになってしまった。ニータさんの話では5年もサウジで働いて、フレディに貯金はないそうだ。アポロニアの娘さんはサウジで看護婦をして働いて、豪華な家を新築し、サリサリストア、カラオケまでやっているというのに。女性はしっかりもの、男は使ってばかりというのがフィリピンらしい?!

 私もみんなに踊れ踊れと言われ、フレディにお金を払ってもらってコラチャを踊った。これは目立つ。日本人が来たことがカバジャガン中に知れ渡ってしまった。そのため後で面倒なことになる。

 フィエスタの日はどの家でもとびきりのごちそうを用意し、お客さんを待つ。私たちは17年前にお世話になった人々の家をまわり、懐かしい再会をした。

カバジャガンの日々

 まず、フレディが17年前にもピクニックに行ったバイタンビーチに連れて行ってくれた。アポロニアの息子さん、娘さんやその友だちなど、若者が集まる。パンシットという焼きビーフンの食べ物、バナナ(こちらではゆでて食べるバナナが主食のひとつだ)、パイナップルなどを持って行く。

 村の人たちもおおぜい来ていて、みんな服のまま海に入り、おしゃべりしている。服のまま海に入るのは水着がないからというよりも、日に焼けずにすむからなのではないか。私が水着に着替えると言ったら、「フィリピンのやり方は服のまま」と言われた。海に入ったら泳ぐのが普通だろうが、こちらの人々はお風呂に入るように海につかって涼んでいる。

 とにかくみんな底抜けに明るい。若者もお年寄りも大きな声でおしゃべりし、誰かが何か言うたびに大きな声で笑っている。日本にいて忘れてしまったが、17年前にも同じことを感じた。なんてよく笑うのだろう。この人たちの笑顔をみていると、日本人は笑うことを忘れてしまったのだと気付く。

 今回ポールの舟で2回海へ出た。ポールの舟にはエンジンがついていないが、ニータさんの弟さんの舟初め多くの舟にはエンジンがついていた。これも大きな進歩である。ニータさんの弟さんは17年前にはマニラの大学生だったが、今では結婚して女の子が3人、週日は仕事先のラワンに住み、日曜日に帰ってくる。弟さんは仕事があるからエンジンもつけられるが、ポールは魚を売っているだけなのでエンジンのお金はないということだった。

 カバジャガンは珊瑚礁の小島で、港はマングローブの林に囲まれた細長い入り江の奥にある。波はほとんどない。手こぎボートで進んでいると川のようだ。入り江を抜けてラグーン(礁湖)に出る。浅いため途中からボートをおりて歩いていく。珊瑚の中には海草のほかにヒトデ、海蛇、ウニが多い。

 ここの人はウニを食べない。私とニータさんのためにポールが少しとってくれた。新鮮なウニはおいしい。海の中に棒をたくさん立て、網をはって魚を追い込む。網にからまった小さな魚は子どもたちがつかまえていた。その魚を海水で煮てお昼ごはん。あまりに暑いのでみんな海に浸って食べる。

 潮が引いた浅い海で貝拾いもした。海草がからまった貝をみつけるのはなかなかむずかしく、みつけても小さい場合はまた海に戻すので、私はほとんど拾えなかった。潮が満ちてくると白い小さな砂山がどんどん海に吸い込まれていく。すわって絵を描いていた砂山も水浸しになって、またボートに乗って家に帰る。

 ところでニータさんのお父さんは少しぼけてしまったため、畑仕事が満足にできず、畑は荒れていた。ポールは奥さんの実家の畑の仕事で手一杯らしい。それでもココナッツの木は立派で、パイナップルもたくさんなっていた。 

 エスペネシン家の近くにある共同井戸には、私の子どもの頃使っていたようなポンプがついた。いつも子どもたちが水汲みに来ている。大きな子は片手でポンプを押すが、小さな子は両手でぶらさがる。まわりでは女の人たちが洗濯している。こんな光景は変わっていない。ただ昔は草原の上に洗濯物を干していたが、今は草原に家が建ってしまったので、柵などに干している。 

 私はスケッチブックを持っていったので、村のあちこちで座り込んで絵を描いていた。するとあっという間に人々が集まってきて、珍しそうに覗き込む。「似顔絵を描いてくれ」という人もいて、大変だ。しかし、これは村の人気者になるよい方法だ。この後フィリピン旅行の間中、スケッチは村の人とのコミュニケーションに大いに役立ってくれた。

 娘さんがサウジで働いているアポロニアの立派な家でお孫さんたちと遊んでいた時のこと、子どもたちが画用紙にちょっとだけ描いて間違えると、消さずにすぐに次のを欲しがるのには驚いた。これじゃ日本の子と同じじゃないか。紙がもったいないから消して書き直すようにと言いながら、昔ポールが器用にのりを使って張り絵をしていたことを思いだした。(日本の子どもはのりの使い方を知らない)。カバジャガンの子どももだんだん日本の子のようになるのだろう。 

カバジャガンのごみ問題

 17年前、カバジャガンにはもえないごみの類いがほとんどなかったが。今はお菓子のカラ、お金持ちが売っている冷たい水のビニール袋、缶、ペットボトルなどが道のあちこちに落ちており、村外れにはごみが散乱している。人々はこのごみが腐らず、半永久的に残ることを知らないのだろうか? 

 ニータさんはフィリピン人にごみを捨てないように話しても、ほとんど意味がないと嘆いていた。いずれこの小さいカバジャガン島はごみだらけになってしまうだろう。そのごみは海にも流れていく。母島の海岸も外国から流れついたありとあらゆるごみ(ペットボトルを初めとしてテレビ、冷蔵庫などの大物もなんでもある)がいっぱい。拾っても拾ってもきりがない。地球規模で協力しなければ解決しないのだ。しかし食べるにも困っている第三世界ではごみどころではない。でもカバジャガン島の中だけでもきれいにしてほしいなあ。

ロジェが強盗殺人犯になっていた!

 17年前に村一番の歌い手だったロジェ。コラチャを踊った私をみつけ、声をかけてきた。「明日家へ遊びに行ってもいいか」。何も知らない私は「いいよ」と答えた。ところがニータさんにその話をすると、ロジェはカバジャガンの金持ちの家に強盗に入り、3人以上殺し、刑務所に入っていたという。ロジェの奥さんがサマール島の有力者を知っていたので釈放になったという。

 びっくりした。自分が生きている間に強盗殺人犯を見ることがあるとは夢にも思わなかった。私がエスペネシンの人たちにこの話を聞いたと思ってか、ロジェは直接訪ねては来なかったが、ポールの奥さんや子どもたちをつかって手紙をことづけてきた。ニータさんのお母さん、弟さんたちは非常に心配し、暗くなってからは家を出ないようにと私に言った。ニータさんは「昼間は人がいるから大丈夫」と言い、「助けて」という言葉を教えてくれた。ロジェのことはカバジャガン中の人が知っていると言う。そんなところによくしゃあしゃあと帰って来れるなあ。強盗殺人犯が普通に歩いているというのも日本ではめったにないだろう。

 「フィリピンはこういうところがよくない。アヨロ大統領も同じ。私がアヨロ大統領の親戚なら、人を殺しても罪にはならない」とニータさんは言う。

 私はまさかロジェが私をどうにかするとは思わなかったが、なにしろ強盗殺人犯なのだからエスペネシンの人たちは心配し、帰る日もラワンへの定期便を避けて、スペシャルのボートでこっそりと旅立ったのだった。荷物が多かったせいもあるがポールをボディガードにつけて。

 (おまけ)カバジャガンの港のすぐそばに50万で売り出している家があった。ニータさんと「この家を買って日本からお客さんを呼ぼうか」と話していたが、ロジェがいる限り危なくてだめとなってしまった。来年もカバジャガンに行きたいが、ロジェがいるとみんなが私を心配して迷惑をかけるのでだめになってしまう。それまでに刑務所に入ってくれればいいのだが。

 17年振りのカバジャガンはとても楽しかったけれど、17年前の方がもっとずっと楽しかった。あの頃はまだみんな同じように貧しく、物もなかった。でも暖かな気候と自然に恵まれ、食べるには困らず、与えられた楽しみがないので、みんなで楽しみを作り出していた。

 人間はなぜあの楽園のような暮らしよりも便利な暮らしを好むのかなあ? いや、私のようにごくごく少数のものは便利な暮らしよりも楽園のような暮らしを好む。ただ少数なので埋もれてしまうのだ。島を一個もらえたら少数派で集まって独立できるのになあ!
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by lumokurago | 2011-03-26 19:40 | 昔のミニコミ誌より

残された「時」に

残された「時」に ―フィリピンにて―  
                暗川第11号 1986.10.12 より

 私は1985年の夏、フィリピンの小さな島カバジャガンへ行った。カバジャガンはフィリピンで二番目に大きな島、サマール島の北東の肩に当たる所にある戸数約350戸の小島で、人々はほとんど自給自足の暮らしをしている。

 なぜこんな観光地でもない小さな島に行くことができたのかというと、学童クラブで預かっていた子どものお母さんにフィリピン人の人がいて、彼女の夫(子どものお父さんー日本人)が亡くなり、、日本語があまりできずに困っていた彼女に私が日本語を教えに行っていた関係で、彼女が帰省する時、連れていってもらったのである。

 「日本人を見たのは戦争以来」というその島で、私たちは国賓級の待遇でもてなされ、彼らの質素でしかも本当の意味で豊かな生活からたくさんのことを学び、何ものにもかえがたい貴重な体験をした。

 フィリピンの子どもたちは、文句なくかわいかった。私たちにまとわりついて、自分の名前やビサイヤ語の単語を教えようと、口々に騒ぎたてている時の生き生きとした目、それを私が発音してみせた時の底抜けに明るい笑い顔、海辺で貝を拾ってくれた時の恥ずかしがりのしぐさ、ココナツの葉でほうきを作った時に、得意になって私たちに教えてくれたはずんだ目・・・それらの表情の豊かさは、日本の子どもとは比べものにならないほどすばらしかった。

 大勢の子どもたちが私たちに群がって、騒ぎたてている時、フィリピンの子どもも日本の子どもも、表面的には変わりないように見える。騒がしいのは確かに同じ・・・でも、何かが違うのだ。フィリピンの子どもの騒がしさは、楽しくてたまらない騒がしさ、だから、ちっともうるさいと感じない。私も一緒に騒ぎたくなる。それに対して、日本の子どもの騒がしさは、何かにおびえてパニックを起こした人々の発する、もはや正気とは言えない断末魔の叫びに似ている。「助けてくれ!助けてくれ!」と。その必死の叫びが聞こえても、どうにもできない私は、もう、両手で耳をおおいたくなる。

 なぜこんなに違うのだろう。カバジャガンには、ファミコンはもとより、文房具も本もおもちゃも何もなく、着る物にさえ不自由し、足ははだしだというのに、子どもたちは満ち足りた心で、毎日を生き生きと暮らしているように見える。日本には、ありとあらゆる物があふれ、何不自由ないはずなのに、子どもたちは「もっと、もっと」と際限なく物を欲しがり、「欲しい」と言った物を手に入れたとしても何も満足しない。手に入れた瞬間には、もう次に欲しい物のことを考えているのだ。

 子どもたちが本当に欲しいものは“物”ではない。“物”では決して心が満たされることなどないことを知っているのである。しかし日本には“物”しかないのだ。子どもたちの心を本当に満たしてくれるものは何なのだろうか。

 カバジャガンでは、人々の毎日の労働は、そのまま毎日食べて生きていくことにつながっている。そして子どもといえども、そういう生活を支える立派な一員なのである。

 私たちがお世話になった家の子どもを例にあげてみる。14歳のポールの一日の生活というのは、およそ次のようなものである。

 朝は4時頃起きて、部屋のそうじ、ココナツの葉のしんで作ったほうきで床をはき、ココナツのからに足をのせ、踊りを踊るように左右に動かして床を磨く。次に井戸から水を汲んで運ぶ。朝食を食べ、学校に行く。昼食には戻って、少し勉強して、また学校に行く。帰ってくるとおじいちゃんと一緒に畑に行き、作物をとり、かごに入れて運ぶ。そしてまた水汲み。水汲みはポールの仕事で、時々呼ばれて、近くの井戸に汲みに行く。容器は灯油を入れるポリタンク位の大きさで、ポリエチレンでできていて、木のとってがついている。それを、日に何回も何回も運ぶ。ポールは舟もあやつり、釣りのしかけを作って、釣りにも行く。

 8歳の女の子、パーラは、飲み水用の小さいポリタンクを運ぶのが仕事である。近所のおばさんが台所仕事を手伝っている時、パーラは、そのおばさんの赤ちゃんの面倒をみる。子どもたちは、6,7歳ともなれば、みんな、小さい弟や妹を抱いたりおぶったりして、子守りをしている。

 高校生のフレディは、漁に行き、畑仕事をし、大人と同じに働く。暗くなると石油ランプに火をともすのが、彼の役目。フレディは食事の後片付けもしていた。

 私が驚いたのは、夜、大人たちが集まって語り合ったり、歌を歌ったりしている時、子どもは、ただ黙ってそれを聞いていて、いるかいないかもわからない位静かにしていることだった。大人のそばに寄ってきたり甘えたりなど、8歳のパーラですらしなかった。それほどに満ち足りているのだ。大人の世界は、子どもの自分たちとは違うところにあり、自分はまだ子どもだから邪魔をしてはいけない、そう思って、ただ静かにして、よく見ているようだった。眠くなれば、隅の方へ行って、床に横になって眠ってしまう。

 また、お客さんに出された食べ物は、いくら一緒に食べるように誘っても、手をつけない。日本の子どもたちがなんにでも「ちょうだい。ちょうだい」と言うのと対照的。

 フィリピンの子どもたちは、なにしろ、心が落ち着いて安定していると感じる。それは、自分が家族の中で必要とされていることを、毎日の暮らしの中で具体的に実感しているからなのだと思う。それに比べ、日本の子どもたちには、あまりにそういう具体的な場面が少ない。労働はおろか、家事の分担さえそれほど必要性はないし、自分が親に認められるのは、何かを買ってもらう時、ぐらいに思っていないだろうか。子どもが「あれが欲しい」「これが欲しい」と言うのは、「私がここにいる!私を見て!私を認めて!」と言っているのではないかと考えるのは、考えすぎだろうか。

 フィリピンから日本に帰ってきて、私はとても驚いた。何に驚いたかって、物がたくさんあることにだ。それはまさに“カルチャーショック”そのものだった。まちがえないでほしい。フィリピンに行って“カルチャーショック”を受けたのではなく、日本に帰ってきて“カルチャーショック”を受けたのである。つまり、私にとっては、生まれて初めて行った、たった2週間の異国の暮らしの方がなじみ深いものであり、生まれ育った国である日本が、見慣れない物に満ちあふれた“異国”として映ったのである。たった2週間離れていただけなのに、ありとあらゆる“物”たちがワーッと私の方に押し寄せてきて、私を飲み込んでしまうような気がした。

 今でもたまに街を歩くと、色とりどりの洋服や靴やかばんや、スリッパやかさや何やかや、ありとあらゆる物でいっぱいの店がどこまでもどこまでも続いていて、「よくまあこんなに物があるなあ。こんなに物を買う人がいるのかしら」と思っていたが、今度はそうやって売っている物だけではなく、机の上に何本もころがっている鉛筆や紙、本、それに、びんや缶、はては紙袋とかビニール袋、新聞の折り込み広告にまで、「なんてたくさんあるのだろう」と思うのだった。

 カバジャガンには、物は何もない。「何もない」というのは、もちろん正確ではないが、生活必需品のごく基本的な物が少しあるだけである。たらいすら、今まで料理用に使っていたのを、今度は洗濯用に使い、次には水浴び用のおけに使っている。日本に比べれば、「何もない」も同然なのである。

 生活は自給自足、なんでも手作りである。たとえば水中めがねも、木の枠にガラスをはめこんで、ひもで頭にしばりつけるだけの質素なものだった。そして、人々の楽しみも、受身のものは何もなく、自分たちで作り出すのだった。

 人々は夜になると集まってきて、村に1本しかない古びたギターをまわして歌う。ラジオもレコードもないから、自分たちで歌うほかないのだ。村一番の歌い手とおぼしき青年には、みんなからリクエストがある。ギターが村に1本しかないから、集まるしかないのだ。そして、「集まる」ということは、時を、ギターを、歌を、楽しさを「分かち合う」=共有することである。日本では、テレビが各部屋にあって、家族すらがバラバラに違う番組を見ているという状況もあるようだが・・・。

 それにしても、カバジャガンの人たちの笑顔は豊かで美しかった。大人も子どもも、美しい海と空とゆったりと流れる時間の中で、「食べて住んで、そして楽しむ」という、人間の最も基本的で人間らしい生活を、日々自分自身の手で紡いでいた。美しい豊かな笑顔は、その喜びに裏打ちされているのだった。

 ふりかって、今の日本に住む私たちはどうだろう。そんな自然な暮らしとはほど遠いところへ来てしまった。今となっては、戻ることなどできはしない。それはわかっているけれど・・・。カバジャガンにはまだあるような、真の意味での豊かさが失われ、物ばかりあふれ、時間に追われ、効率だけが求められ、友だちと1本のギターを共有するのではなく、友だちをけおとし、自分が出世しなければならない日本の生活、そういう日常生活それ自体が、今、子どもたちに襲いかかって、押しつぶそうとしているのではないだろうか。それはもちろん、子どもばかりでなく、大人も同じである。

 今の時代の<不安>の中で、大人もまた自分の心を偽っている。こんなふうに物があふれ、次から次へとコマーシャルなどの刺激によって欲望を生み出さされ、物(文化も含め)を消費することだけを押しつけられているような、すべてが管理、操作されている世の中。そこでは、自分のやっていることをちょっと立ち止まって考えてみることすら、相当意識的にやらないと、できないで流されていく一方だと思う。流されているうちに、自分が本当に大切にしたいものなど、ひとつ残らず忘れてしまった。

 最後に残された人間らしさが、<不安>だけを感じている。その<不安>が見えてしまったらこわいから、自己防衛本能でみんなそっちを見ないようにしている。だから、むしろ望んで管理、操作されているのではないか。こうなると悪循環だ。管理、操作され、自分を見失う。すると<不安>になるから、自分を見たくなくて、管理、操作されたがる。

 でも、そうやって逃げてばかりいると、いまにきっととりかえしのつかないことになる。それに、<不安>は確実にあるのだから、永遠に逃げ回っているわけにはいかない。。勇気をもって立ち止まるしかない。そして、ふりかえって、<不安>をしっかりと見据え、対決するのだ。

カバジャガンの写真や絵もどうぞご覧下さい
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by lumokurago | 2011-03-25 18:02 | 昔のミニコミ誌より

モノローグ ’84 

 たいへんなときですが、私の時間も限られているので、むかしのミニコミ誌よりの転載を再開します。


モノローグ ’84  (暗川第3号 1985.2.7 より)

××の独白

 俺は係長になって丸5年、2年前に念願かなってマイホームを建てた。通勤に1時間半かかるが、うちの社ではましな方だ。2時間かかるなんてのがザラなんだから。子どもは中学2年と小学校5年。上が男で下が女。長男が中学受験に失敗してね、小学校5年から塾に通わせたんだが、遅かったらしい。今、高校こそはと頑張っている。下の女の子も今、塾通いで金がかかる。女の子だから絶対私立にやりたい。公立中学の荒れ方はひどいらしいからね。傷でもついたら大変だ。

 いや、うちの子は2人ともいい子だよ。家庭内暴力なんて想像もできない。家内にもよくなついている。家庭に対する不満は何もない。家内はよく尽くしてくれる。1日の疲れでぐったりして帰ってきても、翌朝にはリフレッシュされている。もちろん疲れがたまる時もあるが、日曜日に家庭サービスを強要したりしないから助かるよ。ごろ寝してても邪魔にしたりしないし、会社は男にとっての戦場で、家庭は休息の場だってことがよくわかってる。できた家内だ。

 いやあ、のろけるつもりなど全くないだが、酔いがまわってきたかな・・・すまん。

 じゃあ、今の生活にすっかり満足なんですか、だって? 冗談言っちゃいけないよ。ローンの返済に子どもの塾の月謝、家内にも習い事をさせてるし、毎月火の車だよ。家内は文句は言わないが、腹の中じゃそろそろ課長にと思ってるに違いない。

 俺もなあ、いまひとつふんぎりがつかないぐずな男なんだ。上役にゴマをするにも顔が引きつるし。こんなことじゃいけないとは思うんだが、なかなか人間らしさを捨てきれないのさ。いや、この弱気がいけないんだ。このあいだの宴会で、○×が裸踊りを踊って以来、ばかに部長と近いんだ。奴はどうも宴会のあとで部長に女の子をあてがったらしいんだが。俺も今度の宴会では裸踊りを踊るぞ。女の子もなんとかするぞ。○×!今に見てろよ!

 そうそう、△△からこのあいだ仕入れた組合の動向も、部長の耳に入れておかなければ。○×にはこんな芸当、できないだろう。△△なんか、いい年をしてよくまだ組合なんかやってるよ。俺のこともまだすっかり信用しているんだから、驚きだよ、まったく。今どきああいう純な奴がいるとはね。いい奴なんだ。少しばかり心が痛むよ。俺だって若い頃はうちの会社が兵器を扱っていると知って悩んだもんだ。でも、部長が言っただろ。

 「君もわが社の社員なら、社に来たら個人の思想信条は捨てて社の方針に従ってくれ。私にも思想信条はある。だが、社では社の方針が私の思想だ」

 △△はいい奴なんだが、尻の青いガキと同じなんだ。今はやりのピーターパン症候群とはまたちょっと違うようだが、いつまでたっても大人としての自覚に欠けている。このあいだ社から出された提案制度にも、「どの部分が合理化できるかを一番良く知っている現場の人間を競争させて、自主的に合理化を進めさせようとする巧妙な罠だ、分断だ」とかなんとか。現場の意見を聞いて、合理化できるところを合理化すんだ、いいことだと思うがね。合理化によって会社の利益が上がれば、俺たちの給料も上がる。え? クビになる奴も出るって? 結構じゃないか、能力主義の世の中だ。能力のない奴はクビになっても仕方ない。俺の課も事務の見直しをして、無駄な部分はどんどん簡略化することにしよう。

 △△よ、「団結」なんていう言葉はもう古いんだよ。団結してどうなるっていうんだ。課長になれる人間はほんのひとにぎり、部長となれば本当の狭き門だ。俺が課長になりたいんだ。部長になりたいんだ。団結したって全員が部長になれる訳じゃないんだぞ。そこんとこ、考えたことあるのか? え、△△! 「労働者階級の解放」だって? へっ、そんなものくそくらだ。労働者階級から解放されたかったら、出世するしかないんだよ。ハハハ、まるで悲鳴だって? ハハハ。


突然、△△登場。

 
△△ おまえなんだな!

×× いきなりなんだ、どうしたんだ。

△△ 極秘に予定した昨日の行動が会社側につつぬけだった。俺たちが兵器工場のスト打つ予定でピケに行ったら、もう暴力団がいて排除されてしまった。わかってる、おまえしかいないんだ。

×× まあまあ、そんなに怒るなよ。俺とおまえの仲じゃないか。おまえのためを思ってやったことだ。

△△ なんだと! 俺とおまえの仲だからこそ話したんじゃないか。おまえは会社側の情報も流してくれていたし。

×× いつまでも青臭いな。そろそろ目を覚ませよ。いつまで古臭い組合活動やってても、今の時代、負けるばっかりじゃないか。この辺で方向転換して会社側と手をつなげよ。組合が合理化に協力すれば、会社の発展は間違いなしだ。月産とかタヨトを見習えよ。あれこそが日本の最先端の組合活動というものじゃないか。

△△ そうか、本気でそういうこと言うようになったか。おまえも堕落したな。昔はもうちょっと骨のある奴だったのに。俺はおまえは活動からは手を引いたが、どこかにうしろめたさがあって、上役に知れない程度に情報を流してくれていたものとばかり思っていた。俺がバカだったよ。

×× そうさ、おまえはバカさ。堕落が悪いことみたいに! 堕落していくことが生きてくっていうことじゃないか。いつまでも絵空事を信奉しちゃいられんよ。大事なのは生活していくことだ。息子を一流大学に入れることだ。俺みたいなみじめな思いはさせたくないからね。俺は金が欲しいのさ。

△△ おまえこそ大バカヤローだ。金がなんだ。一生を金を稼ぐためだけに棒に振って、残ったものは「粗大ゴミ」か? おまえのような奴こそ支配者にとって都合のいい良民なんだ。「金」と「出世」というエサを目の前にぶらさげられて、他の世界は視野からはずされて、エサだけに尾っぽを振っている犬と同じじゃないか。それでも人間か!

×× おまえのはいつも理屈なんだよ。理屈で人間が動くか!人間は金で動くのものさ。

△△ 人間には理想があるんだ!

×× おお、なんたる救いがたきロマンチストよ!星よ、花よ、愛よ、自由よ!

△△ 茶化すな。ロマンがなくて人間やってて、一体何がおもしろいんだ。

×× 何もなくて結構さ。ウラン・ウラク戦争が激化して、わが社の株は目下急上昇中、結構なことじゃないか。

△△ 俺は悲しいよ。昔一緒に「ビトナムに武器を送るな!」と叫んだおまえが・・・


△△の独白

 ここ数年来、うちの会社も社会を映して、急速に右傾化が進んでいる。発端は5年前に総務課内に新設された指導係だ。別名「社員監視係」とも言う。社宅内で奥さん方が勉強会やったというだけで、すっとんできて「アカ」呼ばわりだ。集会結社の自由どころか、源氏物語読んでるってだけで、こうだ。人が集まるだけでいけないらしい。「80年代」(雑誌名「野草社」刊)でも「いま、人間として」(雑誌名「径書房」刊)でもない、源氏だよ、まったく。 

 それにあの研修。やれ接遇だ、オアシス運動だ、OA化がどうの、ワープロ講習会だの。ま、そのへんならまだいいよ。課から何名出せとうるさいがね。許せないのは半強制的に受けさせられる新任、中級、係長級の宿泊研修だ。個人の思想信条など、頭から否定され、ただひたすら、社のために尽くすことを有無を言わさず押し付けてくるのだから。拒否なんかしようものなら、将来窓際族確実だもんな。冬の寒空の下、海水パンツ一丁で海べりをランニングさせて、社に忠誠を誓えるなら海に飛び込んで意思表示しろかなんか。××の奴なんか、歯をガチガチ言わせながら必死になって飛び込んでるんだろう。腹の突き出た奴の姿想像するとふきだしちまうけど、笑ってもいられないよ。背筋が寒くなるってもんだ。軍国主義復活だ。 

 社宅の奥さん連中の中には、夫の出世のためにはって、身分からスパイの役を買って出て、指導係にチクってるのもいるらしい。井戸端会議でもうっかり本音も言えないって訳だ。それに指導係で社員をうまく管理できると認められた奴は出世が早いってうわさがあるもんで、係員は大変な熱の入れようだ。うまいやり方さ。上役がわざわざ手を下さなくても、完全に自主管理が行き届いている。それにとどめを刺す形の、今度の提案制度だ。全くきたないやり方だよ。現場の人間を現場の合理化に利用する。本来、合理化反対!を掲げているはずの現場を。 

 それにまた競争だ。競争心をあおりたてることで、自分で自分の首をしめてることを忘れさせるわけだ。組合員の中にも、会社側から一方的に合理化されるよりは、こちらから先制打を放った方が現場のためになるという意見もある。ただ反対を掲げたって今の時代の労使の力関係から、白紙撤回させるのは無理だから、組合側もある程度妥協する必要があるというわけだ。でも、何かあるたびに妥協していたら、外堀が埋められ、内堀が埋められ、という具合に攻め込まれ、気づいた時には周囲を敵に取り巻かれ、総決戦をしようにも、今まで妥協を重ねてきたから士気があがらない、あえなく白旗を掲げる、てなことになるんじゃないかね。 

 しかし、世の中、どうしてこう平穏なんだろう。ツマハーク配備反対の運動なども、一部の人間が動いているだけ。一億総中流意識化とかで茨木のり子(詩人)の「もっと強く」(詩の題名・茨木のり子作)という思いは消え、「今の豊かさを失いたくない」という思いしかないようだ。 

 “高度成長”が終焉し、今の時代は“安定成長”の時代だそうだが、それと共に、人間のエネルギーの量が圧倒的に減少した。いやモーレツ社員は今でもいるが、この言葉は嫌いなんだが、夢とかロマンが今はもうない。そりゃそうだ。“安定成長”の時代には先が見えてしまっている。夢のもちようがないからせいぜい“今”をおもしろおかしく過ごそうとするのさ。明快な論理じゃないか。最近、本で読んだんだが、スポーツもハングリーなボクシングでなく、アティテュード(演技)のプロレスが人気があるらしい。そういえば、マンガだって「あしたのジョー」(マンガの題名・60年代後半に流行った)から「キン肉マン」(マンガの題名・84年当時子どもたちに人気があった)だな。 

 “高度成長”の時代には何と言っても活気が満ち溢れていた。“高度成長“そのものがよかったと言ってるんじゃない。むしろ諸悪の根源だと思っている。ただ、あの時代のハングリーな人間たちが懐かしいんだ。おや、とうとう本音が出たね「懐かしい」と。ほらほら、言われるぞ、「昔はよかったなんて懐かしんでいても何の力にもならない。時代はここまで進んでいるんだ。この時代の中で何を大切に生きるのかを考えろ。熟練工の技術を行かせる昔ながらの工場がよかったとか、木や草や土に囲まれて暮らしたいとか言って、どうなるんだ!もう昔には戻れないんだぞ、このコンクリートを全部はがせるわけがないだろ!」 

 いや、俺は前に映画で見たことがある。沖縄で基地のコンクリートを全部はがしてサトウキビ畑をよみがえらせたところを。その気になればコンクリートなんかはがすことができるんだ。三里塚空港の滑走路の下には、豊かな農地が眠っている。パリの5月革命でパリっ子たちは舗道の敷石をはがしてこういったじゃないか。 

 「敷石をはがせば、そこは海とつながっている」

 “救いがたきロマンチスト”か・・・


 間


 しかし、みんなも今の生活にはどことなく空しさを感じているに違いない。それを自覚するのがこわいから、余計にはしゃぎまわっているんだ。檻に閉じ込められていることに気づいたって、決して檻を破る方法がないなら、変に檻を意識して暗くなったり、檻を破るために体当たりして傷ついたり、遮二無二行動して挫折したりするのは消耗ってもんだ。昔、「ブタ箱にレースのカーテンをかけて、ちょっとばかりいい暮らしができるようになったからって、「それで自由になったのかい。あんたの言う自由なんてブタ箱の中の自由だ」という歌があった。あの頃はみんな、純情だった。いや、こういう言い方はよくないな。ただ、時代がよかったんだ。いつの時代も人間は「時代の子」だもんな。 

 今の時代は、ブタ箱の中でおもしろおかしく生きることを価値とする時代らしい。しかし、子どもたちはそういう意味じゃ大人ほど計算高くないし、感じやすくて純情だから、今の時代についていけなくて反乱を起こしている。骨のあるのは子どもだけというわけだ。しかし、外に現れた現象が昔のように自分の思いをストレートに主張するものでなく、親や教師に暴力をふるったり、登校拒否をしたりという、言葉以外の手段で訴えるので、鈍感な大人たちにはそれが時代に対する反乱であることが見抜けない。 

 それで、規則を厳しくしたり、家庭でのしつけを問題にしたり、果ては道徳教育の強化とか、そういう方向に行くんだから、子どもたちもうまく利用されたってもんだ。だが、今の子どもたちにはどこか病的なところがあると思うよ。いや、社会全体が病んでいるんだから、無理はないんだが。もう、ギリギリまで追いつめられて、後がないところまで来ているのかもしれない。子どもたちの半鐘の鳴らし方のすさまじさを見て、そう思う。

 いや、人間が人間として古典的に感じたり、考えたり、他人と付き合ったり、という時代は終ろうとしているのかもしれないね。俺は古典的な方の部類の人間だから、なんでも重くまじめに考えるし、コンクリートのビルよりも木造の家の方が暖かいと感じ、コンピュータなどにはなじめない。高速道路が上にも下にも走っているような所に行くと、別世界に来たような気がするくらいだ。しかし、今の若い者や子どもなんかは、俺みたいな感じ方はしないだろう。うちの子供たちも外で友だちと遊ぶより、室内でテレビを見たり、ゲームウォッチをやる方がずっと楽しいと言っている。まさに新人種の誕生だ。感じ方も考え方も他人との付き合い方も俺たちとはまるっきり違う。 

 縄文土器から弥生土器に、それからずっときて、ランプから電気にと、いわゆる文明が発達してきたわけだが、手元の本を見ると、縄文時代は約1万年前からB.C(紀元前)300年位まで、弥生時代はB..300年からA.D(紀元)300年位までと、とてつもなく長く、文明の歩みは遅々としている。ところが、時代が進むにつれ、その歩みは加速度的に速くなり、特に最近20年間の「発達」ときたら、平安時代頃からの1000年の人間の生活様式を一挙に変えてしまったのではないだろうか。新人種も生まれるわけだ。 

 今に、人間が感じるとか考えるということそのものの中身も昔とは全く違ったものになるような気がする。肉体としての人間は急には変わらぬ種だろうが、今「心」と呼ばれているものは、将来的にはすっかり変質して何か別の名称がつくんじゃないか、それを進化と呼ぶか退化と呼ぶかはわからんが・・・ 

 どうも暗い話になってきたな。いや「暗い」というのは俺の感じ方にすぎない。この感じ方がだいたい時代遅れってもんだ。 

 話が戻るが、活気の話、今だって活気がないとは言えないが、昔とは全然違うところに違う形であるんで、全然ないより余計に薄気味悪い。若者の世界に溢れているあの「笑い」。あれを文化と呼ぶのかどうかわからんが、ユーモアの域をとうに越えた、下劣といいたい位の、そしてあまりにもワンパターンのギャグの連続・・・マンガでもテレビでもそうだ。ああいうものに若者や子どもやかろうじて「笑い」という形の活気を与えられている。まさに、「与えられて」いる。だが、あの笑いは、心を開放させてほがらかに笑うものでなく、まるでその逆、精神的にパニック状態に陥った者たちの逃げまどう叫び声に聞こえないか? 断末魔の叫びに似て・・・。こんなふうに感じるのは俺だけなのかね。まあ、本人たちは感じるはずないが。比較するものを持たないのだから。 

 しかし、今の時代は複雑な時代だ。あまり複雑でそれがまた急激にクルクル変わる紋で、既成の哲学ではついていけない。今、最も求められているのは新しい哲学だと言われる。

 「ミネルヴァの梟は日暮れに飛ぶ」(「哲学は時代の終わりに生まれる」の意)だったか。しかし、日暮れまで待っていられない。今度来る日暮れは、永遠に夜明けの来ない日暮れなのかもしれないから。


□□の独白


 「人が何ものでもないこと、人生が無意味であること、それこそ人間の恥辱であり、屈服であるように信じこませ、他方に於て屈服を希望に変えさせること、努力によって人は必ず何ものかであり得ることを信じこませる」。(吉野弘の詩「モノローグ」より引用) 

 これは、昔、わしの言ったことだが、基本的には今も考えは変わっていない。代わったことといえば、この中の「希望」という言葉がもっと単純な「物欲」「出世欲」に収れんされたことと、「人は必ず何ものかであり得る」の中身がこれまた単純な「マイホームを持つ」とか「人並みの暮らしをする」といった程度の低いものになったことぐらいだ。わしには都合のいいことばかりだ。

 出世欲、これが今の時代の鍵だ。これを巧妙に操作し、競争心をあおり、適度にエサを与えて物欲を満足させながら、完全な絶望に至らせないように注意する(完全に絶望した者は危険だ。何をするかわからない)。昔は貧しかったから、十分にエサを与えられず、不満を爆発させたりしていたが、今はエサは有り余っている。彼らが十分満足できるだけ与えられるから、不満はなく、余計なことも考えず、おとなしく働き、結構楽しくやっているようだ。えさをやることがわしにとって自分の富が減るわけでもなんでもないどころか、かえってそれで増やしてもらっているところがみそだ。エサがはければはけるほど、儲けさせてもらえるんだからな。彼らも喜ぶし、わしも喜ぶ。これ以上いいことはない。

 人間たちが持っている妬みという感情、わしはあれを大いに利用させてもらっている。あれたちは自分より少しでも出世した者を妬むから、あれたちの心を引き離し、ひとりひとりをバラバラにすることなど、わしにとっては容易なことだ。そして、自分に自信の持てないあれたちは、自分より少しでも下にいる者、弱い者をいじめることで、かろうじて自己の存在を認め、落ち着いた気持になる。いじめるのでなく慈悲を施す者も中にはいるが、効果は同じだ。あれたちの中に、わしが特に目をかけてやる者を作ることもよい。ほんの少し特別待遇してやるだけで、それらはわしに信じられないくらい忠実になり、以前は仲間だった者たちをわし以上にうまくあやつるようになる。わしでもためらうようなことまで平気でやってくれるようになる。 

 わしにとっておもしろくないのは、物欲も出世欲もあまり持たない者たちだ。それたちはわしの網の目からこぼれ落ちてしまう。だが、それたちは全体から見ればごくごく少数だし、今のところまわりへの影響力を持たない。むしろ、ドンキホーテのように笑いものになっているから、全体にとってはちょうどいい見せしめだ。わしに逆らったって無駄なことを示してくれる生贄だ。あれたちはなぜか、他のものと自分が違うことに驚くべき恐怖心を持っている。だから、少数の落ちこぼれの方には決して近づこうとしない。これもわしには好都合だ。

 わしが本当にこわいもの、それは口が裂けても言えない。だが、それが現実に出てくるとはあれたちの習性からして考えられないことだ。わしはあれたちの習性を今日も研究し、どうやったらもっとわしのために働いてもらえるかを考えている。落ちこぼれどもの中にはわしのことを研究している者もいるようだが、それらも孫悟空のようにわしの手のひらの中にいる。

 わしを富ませてくれるあれたちに栄光を!
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by lumokurago | 2011-03-24 22:16 | 昔のミニコミ誌より

福島第1、第2原発を見学して

 「暗川」第1号(1984.9.28)より転載します。『80年代』(野草社)にも掲載されました。

 福島第1、第2原発を見学して

 9月7、8日、「くらし・かえたい連続行動」の一環として企画された原発ツアーに参加した。建設中の第2原発で炉心まで見せてくれるというのである。

 福島第1、第2原子力発電所は、福島県双葉郡にある。第2原発が完成すれば、わずか25Kmの海岸線に第1原発(6基・合計出力496万6千Kw)、第2原発(4基・440万Kw)、広野火力発電所(4基・320万Kw)が建ち並ぶ世界でも例のない原発、火電の過密地帯となる。

 7日、東北自動車道を郡山インターで降りて浪江に向かい、この日は浪江で泊まる。バスの中でNHKで放映されたスリーマイル島原発事故のビデオを観る。インタビューされた科学者が「炉心溶融(メルトダウン)の可能性もあった」と言い(注:当時メルトダウンはなかったとされたが、燃料の45%がメルトダウンしていた)、60万人以上の住民に避難命令を出すかどうかが話し合われ、科学者さえ「何がどうなったのかわからない。今後どうなるのかの予測もつかない」と言ったこの重大事故が、またどこかの原発で起こらないと言い切れるのだろうか。

 夜の地元の原発反対同盟との交流会では、今までの反対運動の概略と共に、巨大開発がもたらす社会への悪影響(激増する交通事故、犯罪、金がすべてという風潮、農村地域コミュニケーションの崩壊他)が報告された。電源三法交付金(発電所を誘致した町などに政府から出るお金=迷惑料)によって、各町にナイター設備付きの野球場まででき、農道も全部舗装されたというが、お金には代えられない大事なものが失われつつあることを感じた。

 また、第1原発1号炉の運転から13年経過した今日、地域の放射能汚染は確実に深刻さを増し、松葉や海産物から検出されたコバルト60が小学校の校庭からも検出されたそうである。それから、被曝労働者が広島、長崎での原爆被爆者と同じような健康障害を引き起こし、何ひとつ補償のないままに使い捨てられていく実態を調査し、まとめたパンフレットが配られた。

 8日、まず第1原発に行く。ここでは原子力発電についての基本的な説明があり、バスで構内を1周した。労働者のための運動場があるのは世界でもここだけなどという説明が白々しくて腹が立つ。

 それから第2原発へ。無数のスイッチや計器類の並ぶ中央捜査室を見、建設中の原子炉の中に入る。なにしろ大きくて、無数の銀色のパイプがはりめぐらされていて、機械だらけで、なにがなんだかわからないので、最新の科学技術とはこういうものかと一瞬思わされてしまう。

 しかし、防波堤の先端から見る景色は、右に目をやれば美しい海岸線なのに、左の方へ目を向けたとたんに、巨大な発電所が傲慢に立ちはだかるのである。私たちに説明してくれた東電の社員は、先日東京で38.1℃を記録した猛暑の日にもクーラーを回す電力を送り続けたと自慢していたが、このように美しい自然を破壊してまでクーラーを回す必要があるのか、私は疑問に思う。

 今回の見学で最もショックだったのは、下請労働者が放射線管理区域から労働を終えて出てきて、下着まで着替えてチェックポイントを通って出ていくところを見たことだった。「まさにこの目で」。年輩の人も多かった。同行したカメラマンの樋口健二さんは「自分の近くにおじいさんがでてきたが息が荒かった。いろいろ質問してみたが『いや、いや』としか答えなかった。口止めされているのだろう」とおっしゃっていた。今までも本で読んでこういう場面があることは知ってはいたが、所詮、自分から遠いできごとにすぎなかった。しかし、彼らをこの目で見てしまったいま、「知らない」ではすまされないと強く思った。

 第2原発には、定期検査のない時でも、毎日2500人の下請労働者が働いているそうだ。定期検査があれば、その数は4500~5000人にふくれあがる。原発は1年運転して定期検査に5~6カ月かかるそうだから、4基もあればいつもどれかは定期検査中ということになる。もちろん数が問題なのではないが、その数の大きさには驚く。彼らも好きで危険な原発で働いているわけではない。70%の人が転職を希望している(『福島原発被曝労働者の実態』による)。しかし、生活のためには危険を承知の上で原発で働かざるを得ないという構造があるのだ。

 チェックポイントのカウンターに立って、下請労働者のチェックをしている人がいた。おそらくあそこまでは東電の社員なのではないだろうか。彼らは毎日、どんな気持ちであのカウンターに立っているのだろう。あんなところで下請労働者をまのあたりにしていては、まともな人間ならノイローゼになるのではないだろうか。原発労働者の自殺のうわさもあるようだが、不思議ではないと思った。

 最後に、私たちを案内してくれた東電のえらい方の人も、東京から単身赴任で来ており、土日には私たちのような見学者も多いから、そうそう家に帰れないともらしていたことをつけ加えておく。彼らに同情しているのではない。原発に賛成であれ反対であれ、また東電の社員であれ下請労働者であれ、みんなが巨大な機構のなかにとり込まれている。

 いま、私の手元に「みどりの中の原子力・東京電力福島第2原子力発電所」という文字の入ったメモ帳とシャープペンシルがある。見学の際もらったものだ。これをみるとどうしようもなく悲しくなってくる。何が悲しいのか。下請労働者に対するあまりにも非人間的な扱い。こちらの質問に対する東電のおえら方ののらりくらりした答弁。「彼らも宮仕えの身だから」という誰かの言葉。自然破壊、放射能汚染、ぐるぐるまわる。

 ほんとに原子力はクリーンなエネルギーだなんて信じている人がいるのだろうか。この国を動かしているおえらい方々はそんなこと信じているわけない。例えばスリーマイル島の事故があってなお、どうしてそんなことを信じていられるだろう。ある程度の危険は承知の上で、ある程度の犠牲は前提として、もっと大きな目的(と思い込んでいる)のためにやっているのだ。それを東電のえらい人(と言ってもこの人たちは我々により近いはず)が「みどりの中の原子力」なんてかなしいキャッチフレーズを考えて人びとをだまそうとする。「彼らも宮仕えの身」か。

 本当のことを言えばクビになる。自分を殺すことでしか生きられない社会(私たちの職場も似たり寄ったりだ)。たたかうことは勇気がいる。だからノイローゼにならないためには妥協して汚れて口をつぐむ。会社の方針は私の方針となる。でも、本当にそれだけなのだろうか。もしかしたら、もともと人を人とも思わぬ人がいるんじゃないかしら。私の解釈はずいぶん甘いのかも。

 私はそれで悲しい。「みどりの中の原子力」となんのいたみもなく言える人が、もしかしているのかと思うと。どうかしている。いまさらこんなことに悲しくなるなんて。ひどい人はずいぶん多いのに。そんなこと、とっくにわかっているはずなのに。どうかしている。

(30歳のときに書きました。あの頃私はほんとうに悲しかったのです)。
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by lumokurago | 2011-03-13 20:04 | 昔のミニコミ誌より

宮崎勤君の事件をめぐって その3

 今日はM.Yさん(22歳・当時)のお便りです。暗川31号(1990.5.27)より。Mさんは現在北海道で養鶏の仕事をしています。

*****

 暗川を読むと、手紙を書きたくなります。いろいろな人がいろいろなことを感じているんだなーって思って、顔も知らないのになんだか身近にいる人のように感じてしまう。みんなおざなりじゃなく、真剣に考えて思いをつづっている空気みたいなものがすごく心地よい。

 やっぱりあの“宮崎”事件は影響大きいみたいですね。結局、マスコミ報道は決してあの事件の本質にはとうてい行きつけやしないだろうと、私も思います。そして多くの人もただ単に“殺人=下劣な行為”という程度の認識しか持たなければ、この手の犯罪はますます増えるでしょうね。『北海道新聞』の投書欄にも「極刑にしてしまえ!」という人の方が多いみたい。

 私が“宮崎被告”なんかより、いちばん理解できないのが、戦争を体験した世代の人たちがこぞって“正義”?!の刃をふるっていることだ。平和な世の中で人を殺すと誰しもが“異常だ”と叫びたてる。けれど、ひとたび戦争が起これば、人が人を殺しても誰も何も言わない。むしろ一部の人々はそれを“当然”だと考えさえする。だけど結局“殺人”という行為の本質には変わりはないんじゃないかな? これは決してそういった世代の人たちを責めているのじゃないですよ。だけど何か変だ。その時々の状況によって変わる人間の価値観なんて・・・そんなものはニセモノだ! って言いたくなる。

 それに殺された者の肉親は別としても、誰も彼を憎悪する権利なんてないと思うし、そういった他人への不合理な憎しみが新たなる殺人の芽になっていると思う。だって、殺人を犯すのは決して特別な人間じゃなく、普通の人間だもの。まる裸の人間としての“彼”を、そして自分たちの中の人間を見つめない限り、“宮崎”被告のことなんてわかりっこないと思う。

 そしてもう一つ、『暗川』の中のS.O.さんの文の中に「他者との<関係>は荒々しさ~充実した快さといえます」というのがあったけれど・・・うーん、これを言うのは私の心のいちばん奥深くあるものなので、非常にはずかしいのだけど、あえて“宮崎”事件にこだわりたいので言いますね。Oさんて人はそういう思いを人びととの関係の中で作り上げていける人なのでしょうね。少しうらやましいです。以下のことは私の独断的意見かもしれないけれど・・・。そういうふうに思うことができない人もいる。たぶん“宮崎”被告(ああーこういう言い方は好きくない!)もそうだと思う。実例をあげると、私もそういう部類の人間だったもの。(「だった」というのは違うかなあ?! ~ing現在進行形かな?! 半分はね)。

 一時期の私にとって、他者との関係というのはとてつもなくプレッシャーを強いられるものでしかなかった。特に、気軽に話せる友だちでもなんでもなく、顔は合わせても言葉をかわさない、単にクラスにいっしょにいるだけの人びととか、会社だけのつながりetc.・・・そういった人たちとの関係ってとても不安というか、自分の中で消化しきれないと思うときがある(これって自分の責任もあるってわかっているけれど)。毎日、あたりさわりのない会話。そういう生活がしばらく続くと、なんかほんとに虚無感におそわれてしまいそうになる。うまく表現できないけど・・・疲れる!?のかな。私は関係を作ることがうまくできないから、そう思うんですよね。

 “宮崎”、この人の場合、関係を打ち砕くことに快楽を求めているというけど、本当にそうなのだろうか。ただ単に、子どもがゲームに熱中するみたいに、自分で作った“シナリオ”を演じているだけにしか私には見えない。彼にとって現実、社会、そういったことすべてが自己中心的な心の夢の世界にしか見えていないのだと思う。うまく言えないけど、人はそれぞれある意味で自分、その価値観をこの世界の中心にして生きていますよね? 大人になるにつれて、たいていの人は自分以外の人間にもさまざまな世界があり、そういったものの“ぶつかりあい”、あるいは”融合”によって一つの社会がある・・・という認識にいたって、その全体の中で自分を表現することを学んでゆく。けれど彼はあまりにもマスメディアの限定された世界に熱中しすぎたために、たったひとりだけの狭っ苦しい心の世界に閉じこもってしまった。そのために社会と自分の心の世界の認識をとりちがえてしまったのだと思う。

 人は本当に社会の中へ出ずに、心地よいアニメーションや小説、その他の映像世界ばかりをみつめていると、実社会とのギャップにますます自分を合わせていけなくなって、しまいには現実そのものが空虚で汚らしい偽物に思えてくるんですよね。これってアニメ世代の全部とは言わないけど、思い当たる人けっこういると思う。私もそういう自分の心に気づいて苦しみました。心は空想の世界に逃げられても、自分の体は絶対に現実の中にいるし・・・ある時にみごと! 壁にぶちあたって砕けました。生まれて初めて1週間泣きはらしました。その時の心のショックは大きかった。止められない涙に「いったい自分はどうしちゃったんだろう」って自分自身とまどっていた。このまま気が狂うのかなって思いも浮かんできて、その時、母が”助け舟”を出そうとしたけど、なぜかすごく傷ついたんですよね。「これじゃあ私はますます弱くなる一方じゃないか」ってすがりつこうとする自分の心と母の甘さを憎みました。

 彼、”宮崎”という人は逮捕され、牢に入れられてはじめて“現実”の社会、そして人間、そして自分自身の心に気がついたんじゃないかな。だとしたら、彼の真の人間としての人生はこれから始まるのだと思う。そして、彼を犯罪者という枠組みの中で片づけて、その内部を理解しない限り、この社会も“大人”という成長を遂げるのは不可能だ、と私は思う。

 長くなったついでに、愚痴ってもいいですか? ―良い子の反乱― 暗川の中にもあったけど、“ワルの子”がいいって、私良い子じゃないけど、周りからは“まじめ”に見えるらしい。だから良い子の弁明。良い子ってさあ、心中は“ワルの子”と同じに感じたり、悲しんだりしてるんだい! だけどさあ、性格もあるけど、周りのことに気をまわしたり、自分の感情を抑えちゃうから、けっこうなんでもソツなくこなしてツンとしてるって誤解されるんだ。誰もが「あの子はちゃんとできる」って思ってしまう。両親でさえそう思ってる。これってプレッシャー。本当はバカヤロウって思いきり叫びたい時もあるのにね。良い子ってけっこうつらいんだ。メチャクチャしたくても生半可な大人の倫理観なんぞ頭にあって、ダダこねる勇気もない。「よし! やってやる」と思った時にはすでに大人として見られる年になっていたりする。訳わかんなかったりして・・・。(後略)  1990.4.9  M.Y.
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by lumokurago | 2011-03-08 18:18 | 昔のミニコミ誌より