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カテゴリ:JANJAN記事( 68 )


人が乗ることは想定せず・杉並の事故

人が乗ることは想定せず・東京都杉並区の小学校で6年生男子児童が屋上の天窓から転落死

天窓に人が乗ることは想定していなかった

 井出隆安・教育長と宮山延敬・杉十小校長がお詫びの言葉を述べてから、事故の状況について説明がありました。1時間目は算数で、実際に歩いてみて自分の歩幅の平均値を出す授業でした。広い場所が必要ということで、屋上を使ったとのことです。授業が終わり、教員(49歳女性)が児童を出入り口に誘導していた時に、事故にあった児童が天窓に登り、転落したとのことでした。

 天窓は全部で5基あり、ドーム型で直径1.3mほど、メタクリル樹脂のドームの下には網入りガラスがあり、2重になっていました。2年前に一級建築士が建築基準法に基づき、目視で点検した時には異常はなかったそうです。しかし子どもが自由に使う場所ではないということで、人が乗ることは想定していなかったということです。点検業者は杉並区にある興建社です。普段は屋上への出入り口は施錠しており、年に数回、教員がついて授業に使っていたそうです。天窓の危険性について、今回、教員から子どもへの注意はなかったそうです。

子どもというものを知らない設計士と行政

 筆者は長年、杉並区の児童館に勤めていましたが、子どもというものをまるで知らない設計士が児童館の設計を行っているのだと常々感じていました。ある児童館では3階の窓にも転落防止の柵はなく、ロッカーやオルガンの上に登って身を乗り出せば、転落する危険もありました。転落防止に柵をつけてほしいと要求しても、いつまでたっても予算はつきませんでした。

 昔の子どもならば年齢相応の分別があったので転落するような真似はしませんでしたが、その後、子どもたちが幼くなり、何をするかわからないので、窓は開けないようにしていました。それでも、子どもがいつ勝手に開けるか、転落しないかと気にする毎日でした。それまでずっと大丈夫でも、転落は一瞬のできごとですから。

 6月18日の事故の場合、まず、子どもたちが普段出たこともない屋上です。それだけで興味津々です。そこにドーム型のものがあれば、子どもは登りたがるものです。今回は注意もしていなかったということですが、注意したとしても、最近の子どもはいうことをきかないので、目を離したすきに何をするかわかりません。こんな危ないものは作らないのが一番です。どうしても作りたいなら、子どもが落ちないよう万全を期さねばなりません。

 このような天窓のある学校は他に13校あるということです。子どもは屋上に出さないようにするか、天窓を柵で囲う必要があると思います。児童館の3階の窓にも柵をつけてほしいものです。

判断能力を養うことのできない子どもたち

 矛盾するようですが、このような事故があると、子どもはますます管理され、枠の中に閉じ込められることになってしまいます。今の子どもは本来大好きな少しドキドキする「冒険」をする機会が全くありません。例えば、木登りがそれです。子どもは木登りをしても、落ちるということはそうそうありません。自分で加減するからです。

 しかしそういう体験がないと、危なそうかどうかも判断できなくなってしまいます。今回の事故も、昔の6年生ならば、「あの上に登っても大丈夫か?」と考えることができ、危ないからやめようと自分で判断できたかもしれません。

 しかし、今の子どもにそんな要求は無理なのであって、今の子どもの幼さを思えば、大人が危険なものは作らないようにするしかないと思います。亡くなった子どもに責任は全くなく、すべては大人の責任であり、本当にかわいそうな事故でした。

和田中はプール事故を隠蔽

 それにしても「夜スペ」で全国的に有名になった同じ杉並区の和田中学校で起こったプール事故(未だに意識は回復せず)については、記者会見も報道もないのはなぜなのでしょうか? 元校長の藤原和博氏に傷がつくのを避けているとしか思えません。和田中の「地域本部」をモデルとして、今年度文科省が50億円の予算をつけて、全国展開していますが、本当にそんなにいいものなのでしょうか?

 藤原元校長はプール事故で意識不明のままの生徒を和田中の籍から抜いて、区立済美養護学校に移しました。このように子どもを大切にしない、冷たい人間のやることが果たして本当に子どものためを思ってのことなのでしょうか?
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by lumokurago | 2008-06-19 17:44 | JANJAN記事

杉並「三井グランド環境裁判」原告適格の幅広がらず逆行、門前払い同様の不当判決

杉並「三井グランド環境裁判」原告適格の幅広がらず逆行、門前払い同様の不当判決

 5月29日、東京地裁にて「三井グランド環境裁判」の判決が言い渡されました。

 この裁判は杉並区の三井上高井戸運動場(以下、三井グランド)にマンション等を建設する土地区画整理事業の施行認可などが違法であるとして、周辺住民が東京都、杉並区などを訴えた裁判です。2005年12月の小田急高架化訴訟最高裁判決(以下、小田急大法廷判決)で実質的に周辺住民約20万人の原告適格が認められるに至ってから、後に原告適格解釈が示される裁判なので、注目されていました。

 しかし、民事38部の杉原則彦裁判長(陪席:松下貴彦、島田尚人裁判官)は非常に限られた範囲でしかこれを認めず、門前払い同様の判決でした。言い渡しは数秒で終わり、裁判官は逃げるように扉の向こうに消えました。

 筆者は杉並区在住で、この裁判の傍聴を続けてきましたが、原告側が膨大な証拠を提出し、明らかな違法性を追及し、被告らを追い詰めてきた経過を目の当たりにしていたので、あまりにもあっけない幕切れに、茫然としてしばらく立ち上がることもできませんでした。

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 報告会の様子

 判決後、弁護士会館で弁護団から説明がありました。

原告適格なしとされた部分

 建築確認に係る建物によって、日照を阻害されたり、倒壊、炎上等により直接的な被害を受けることが予想される範囲の地域にある建築物に居住したり、これを所有する者には建築確認の取消を求める原告適格があるが、原告らにはそうである証拠がない。

原告適格を有するとされた部分

 三井グランドを震災時の避難場所とする地域に住んでいる者は、施行認可の取り消しを求める法律上の利益を有するとして、この訴訟の原告適格があるとした。

 しかしながら、東京都が定める1人当り1m2の避難面積確保がなされているかについて、事業者である三井不動産が作成した都市計画道路の計画地をも避難場所に含めたり、詳細な計算も欠いた資料のみに基づいて、「法令の趣旨に沿う相当程度の1人当たりの避難場所の面積が確保されているものということができる」として違法がないとした。また、震災はいつ起きるかも分からないのに、事業施行期間(約2年半)中の避難有効面積について考慮していないことについても「そのことから直ちに……違法であるとまでいうことはできない」とした。

 さらに、景観、住環境の悪化、都市温暖化などの環境の悪化については、原告らの自己の法律上の利益に関係ない違法であるから、この訴訟において主張することはできないとした。

 原告団は即時、控訴を決定しました。

弁護士のコメント
 
 斎藤驍・弁護団長は、判決文は70ページあるが中身は極めて薄いと述べ、我々は三井グランドの歴史、文化、特殊性、緑などについて「こういうことが問題なんだ」と主張し、そこを判断してもらおうとしたが、判決は要するに、それらは役人が決めるものであり、周辺住民が争う資格はないと言っていると述べました。

 また、唯一内容に踏み込んだ避難場所の面積確保についても、「三井不動産資料である数値を検証することなく鵜呑みにし、全く審理していないお粗末なものである。三井の算定した数字を採用するにしても、その数字が正しいという根拠を示さなければならない」と批判しました。
 
 その上で、杉原裁判長は小田急大法廷判決に上席調査官として関わった人物で、あの判決は行政事件訴訟法改正、司法改革の波に乗って出されたが、現在また逆行していると述べました。そして、判決文の中の「違法とまでは言えない」という文言について、「悪い裁判官がよく使う言い回し」だと痛烈に批判しました。

 高橋崇雄弁護士は、非常に不当な判決であるとし、いつまでたっても門前払いで、住民を無視して処分等を行う行政にとっては頼もしい司法であろう、法律の文言を重箱の隅をつつくように持ち出して、大きな争点を違法ではないとする、その発想はどこから来るのかと怒りをあらわにしました。

忌避申し立ては棄却

 話が前後しますが、この裁判では裁判官忌避の申し立てを行いました。その経緯について説明します。

 三井グランド開発工事には道路法の車両制限令に違反する大型車両(ダンプ)が狭い道路を行き来し、危険なため、大型車両通行の認定処分の取り消しの裁判と執行停止の申し立てを提訴していました。実際に子どもが左折してくるダンプに轢かれそうになるという危険極まりない事態が発生しています。

 執行停止については早期に結論を求めていましたが、裁判所の対応は遅く、2007年9月5日になって、却下が決定しました。その内容は驚くべきものであり、小田急大法廷判決を覆し、大型車両の通行により生命・身体の危険に曝されている周辺住民の原告適格を否定するものでした。

 そのため原告は、本件の判決言い渡し日として当初予定されていた期日(2007年9月28日)前に、裁判官を忌避しました。忌避申し立てには新たに30名の弁護士が代理人として加わり、高裁に即時抗告の際には、更に178名の弁護士(計214名)が申立理由書に名前を連ねました。しかし忌避申し立ては結局最高裁で棄却されました。

 忌避の決定が確定するまで、原告らの申立もあって裁判の進行は停止し、前記の当初予定されていた判決言い渡し期日は取り消され、この判決は忌避決定が確定してからなされたものです。

筆者の感想

 筆者は杉並で「つくる会」教科書関連の裁判を本人訴訟で行っているため、三井グランド裁判にはいつも勉強させていただいています。原告の皆さんもよく知っており、この裁判に懸ける心意気を感じていたので、この判決には心から怒りを感じます。

 私たちの裁判に助言してくださっている生田暉雄弁護士によれば、裁判に「門前払い」があるのは日本だけだそうです。出訴期間や原告適格、国家無答責さらには難癖で門前払いするのは卑怯としか言いようがありません。私たちの裁判も全く審理しないまま不当に結審され、不当な判決が出ていますが、この様子を見ていると、まじめに審理すれば原告を勝たせなければならない羽目に陥るので、審理することを避けているとしか思えません。

 日本に民主的な裁判を確立するためにはいったいどうすればいいのでしょうか? 黙っているわけにはいかないので、裁判を起こしていますが、空しさに襲われてしまいます。でもあきらめたら終わりですから、決してあきらめるつもりはありません。
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by lumokurago | 2008-06-06 20:33 | JANJAN記事

ペシャワール会中村医師「丸腰だから現地の人に伝わるものがある」

JANJAN編集部にもう1本あってもいいので是非書いてと誘われて、中村哲さんの講演の記事を書きました。どうぞ。

ペシャワール会中村医師「丸腰だから現地の人に伝わるものがある」

 5月29日、東京・小平市の「ルネこだいら」で「九条の会・小平三周年のつどい」として、「ペシャワール会」中村哲氏の講演がありました。「1週間前まで土木作業現場におりました。医師がなぜ土木工事をやらなければならないのか、憲法9条とアフガンと土木工事の関係は? ということを24年間現地でやって、見てきたことを紹介します」と写真を見せながら、中村医師は語り始めました。(以下に「私」とあるのは、中村医師のことです。)
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 講演後、本にサインする中村医師

アフガンとはどんな国?

 ペシャワールはパキスタン北部にある町の名前です。アフガン東部とパキスタン北西部には同じ民族が住んでいて、事実上国境はありません。
 
 アフガンについてお話しします。面積は日本の1.7倍、人口は約3,000万人で、ヒマラヤから連続した標高6,000m~7,000mの世界の屋根ヒンズークシ山脈のある山の国です。

 アフガンの人たちがなぜ食って行けるかというと、その山の雪があるからです。氷河が溶け出し、豊かな緑を作り出すのです。保守的な農業国で、谷が深く、容易に行き来できず、30以上の言葉があり、谷ごとに違った民族・部族が住み、自治を守っています。

 政府はありますが、戦国時代の京都のようなもので、みんな「うちには影響ない」という感じなのです。ほぼ100%の人が最も保守的、古典的なイスラム教徒です。米軍が攻めてきたらどうするかも各地域で決めるという完全な自治を持っており、イスラム教は個人的な宗教ではなく、地域を束ね、社会を結ぶきずななのです。

 干ばつで貧富の差がますます激しくなり、病気になると(治療を受けに)簡単にロンドンや東京に飛んでいく人がいる一方、99.99%の人は数百円どころか数十円がなくて死んでいきます。だからいかに少ない金で多くの人を救えるかが求められています。

日本人は不撓不屈?!

 私は1984年5月、ハンセン病コントロール5カ年計画で入りましたが、ハンセン病だけ診ているのでは成り立ちませんでした。というのは、ハンセン病のあるところにはあらゆる感染症があるからです。ハンセン病は貧しい山の中に多く、パキスタンから無数にある間道を抜けてアフガンに入り、アフガン山村部の医療確立をめざしました。

 当時で1週間以上歩いていくような村が普通にあります。外国人が来たのは初めてで、村長が知っていた外国が唯一フランスだったので「フランス人か?」と聞かれたこともあります。日本人というとそれだけで、みんな協力的になりました。

 現地の人が日本について連想するのは、日露戦争とヒロシマ・ナガサキです。あの廃墟から技術立国で繁栄し、一度も海外に出兵したことがないという美しい誤解を抱いているのです。100年前、アジアは日本、アフガン、タイ以外はヨーロッパに支配されており、ロシアを撃退したことがアジアの人にとって励ましになっています。不撓不屈だという誤解です。今は、強いアメリカにペコペコし、化けの皮がはがれつつありますね。

世紀の大干ばつで数か月の間に砂漠化

 1979年12月から1989年までなんと10年間も、ソ連侵攻によるアフガン戦争がありました。死者は200万人以上で、アフガンの10人に1人の割合です。600万人が難民となり、300万人がペシャワールに来ました。あれから私は評論家を信じなくなりました。評論家は「ソ連はアフガンを手放さない」と言っていたのに、ソ連は完全撤退したからです。1992年4月に共産政権が倒れました。

 タリバン政権の初期にはアメリカがテコ入れしていました。1万数千名のタリバン兵で95%の国土が統一されました。そこに世紀の大干ばつがあり、わずか数カ月の間に1木1草生えない砂漠になってしまいました。

 WHOは2005年5月、ユーラシア中央部の大干ばつは人類が体験したことのないもので、アフガンでは1,200万人が被災し、100万人が餓死線上だとしました。犠牲者の大半は子どもです。栄養失調の上、汚い水を飲んで赤痢、下痢、脱水状態で亡くなっていきます。

 若い母親が何日もかけて子どもを連れてきますが、待っている間に死んでいくということが普通に見られたのです。清潔な飲料水と食べ物がありさえすれば病気にはかからずに済むので、医療より先に「生きること」そのもののために、井戸掘りと灌漑用水(カレーズ)作りに力を注ぐことになりました。

 2007年から干上がった井戸を再生する作業を始めました。2008年5月現在、井戸は1,500ヶ所となり、数10ヶ村、40数万人が村を離れずに済んでいます。飲み水があるだけだと父親は働きに出なければならないので、農地で農産物を作るため、灌漑用水に力を注ぐようになりました。これは診療所前ですが、砂漠だったところが7ヶ月後に緑になりました。小麦です。うわさを聞いて人々が帰ってきています。

9・11後の無差別報復爆撃で数万人が死亡

 2001年1月に国連による制裁がありました。理由は2000年10月に米軍の駆逐艦を自爆攻撃で大破させたアルカイダをアフガン政府がかばったからというのです。しかしタリバンといっても、その地域の価値観を代表する人たちにすぎず、餓死者が100万人以上出ているのに、その上経済制裁までされ、アフガンの人々は外国人不信となっています。ブッシュは世界には2つの立場しかないとして、報復爆撃を行いました。私がアフガンに必要なのはパンと水だと言ったら、中村はタリバンの味方だと脅迫されました。

 あの時、世界中が何かに取りつかれていたと思います。戦争の実態が忘れ去られ、ゲーム感覚になっていました。攻撃する側の映像のみが流され、攻撃される側の映像はありませんでした。米軍の1撃で何百人死んだということを、日本人は想像もしなかったでしょう。

 しかし、わずか数カ月で6億円の募金が集まりました。アフガン人20人の配給部隊に輸送してもらい、食糧1,800tをカブール市民15万人に届けました。20人を3つに分け、1つやられても残りを届けようとしました。アフガン人というのは同胞のためには命を顧みない勇敢な人々なのです。ピンポイント爆撃でテロリストだけをやっつけると言いますが、実際は無差別爆撃で数万人が死亡しました。

 数が問題なのではありません。ニューヨークで亡くなった2千数百名には世界中から悼みの声があがったにもかかわらず、アフガンの犠牲者数万人には悼みの声がない。あまりに想像力に欠けていると思います。

 「絶対の正義と自由の国」アメリカによってタリバンは打倒され、ブルカを脱ぎ棄てて喜ぶ女性の映像が繰り返し流されましたが、今は日本人の記憶の中から忘れ去られています。その後、どうなったか? ケシ畑が復活し、世界中の非合法の麻薬の93%をアフガンで作るようになりました。女性の売春の自由、乞食をする自由、餓死する自由が認められました。

丸腰だから現地の人に伝わるものがある

 我々は乾燥に強い作付けを工夫し、サツマイモを作っています。同じ面積で米の5倍のカロリーが摂れます。最近サツマイモが盗まれるようになったので、サツマイモは茎でも増えるといううわさを流したら、茎を折っていくようになりました。地球温暖化が続く限り、干ばつはなくならないでしょう。山々の雪線(万年雪の最下線)が上昇しています。雪がどっと溶けると洪水になります。

 農業用に無数のため池を作り、クナール川から用水路を引いています。コンクリートで固めると洪水が増え、水が汚くなるので、「蛇籠(じゃかご)」と言って、針金の籠に石を入れ、それを積み重ねて水路を作っています。蛇籠に柳を植えれば、根がびっしりと張って、針金が切れても根っこが支えるのです。これなら現地の人でも修繕できます。

 水の取入口は九州の山田堰をモデルにしました。江戸時代から明治時代の人々の知恵というものはすごいものです。今までに300tのワイヤーで2mの蛇籠を16,000個作り、灌漑用水路32kmを完成させました。砂漠化から17年目に水が来て、3,000haの土地が潤いました。

 ペシャワール会が灌漑用水を作っているすぐ脇で、トルコ軍が道路を作っていたら、何人も(トルコ兵)が誘拐されました。その後インドに変わったが、(インド兵の)誘拐は続いています。ペシャワール会は丸腰で現地のために本気でやっています。(被害を受けないのは)何か伝わるものがあるのです。銃剣に守られた復興支援はありえないのです。

 平和とは武器によって作り出すものではなく、水と緑によって人々の生活を保障することです。3度3度ご飯が食べられること、家族が一緒に暮らせること、それ以上を望む人はいません。日本に帰ってくると人々の表情が暗いですね。人間、物を持てば持つほど顔が暗くなるんですね。アフガンの子どもたちは生きることさえ大変だが、笑顔はすばらしい。日本の子どもはどうですか?

 私も初めのころ、思い上がった気持ちがなかったわけではありませんが、「情けは人のためならず」で、この仕事で助かってきたのは自分だと思います。人間にとって最後の最後まで必要なものはなんでしょうか? 日本のみなさんに考えていただきたいと思います。
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by lumokurago | 2008-06-05 17:21 | JANJAN記事

東京杉並<夜スペ>和田中PTA廃止に対し、PTA会長経験者らがアピール

東京杉並<夜スペ>和田中PTA廃止に対し、PTA会長経験者らがアピール

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 記者会見に臨むPTA会長経験者ら

 杉並区立和田中学校校長(当時)の藤原和博氏が、「和田中PTAを同校地域本部の一部門とし、PTA協議会(P協)からは脱退、PTA会長は置かない」と事実上のPTA廃止を発表したことに対して、4月22日、杉並区内の公立学校PTA会長経験者らが、杉並区役所で記者会見を行い、PTA本来の役割を確認し、活性化をよびかけるアピール(※後述)を発表しました。よびかけ人は区立小中学校、区内の都立高校のPTA会長経験者15名です。

PTAは学校の補助組織ではない

 アピール文は、まず、PTAは学校の補助組織ではなく、自主的な社会教育団体として活動し、過去には高校増設、栄養士の全校配置などの成果をあげてきたことを述べました。次に今回の藤原氏の決定は、学校から独立した組織であるPTAを単なる学校の「お手伝い」組織に変え、教員との分断をはかり、P協から脱退することで区内のPTAの横のつながりをなくすものであると批判しました。そもそもPTA総会の議決を経ずに校長が独断で決定したことは越権行為であり、認められないとしています。そして、現在のPTAに「役員のなり手がない」などの問題があるとしても、乱暴に廃止すればいいというものではなく、自主的な社会教育活動としてのPTAに求められる役割はますます大きくなっているとしています。

 2002年度に中学校のPTA会長を務めた女性は、PTAは教員と保護者が対等の立場で教育を考えるための組織であり、校長が勝手に廃止を決めたことは民主主義に反する大きな問題だと指摘しました。それから和田中に関するマスコミ報道があまりに一面的だと批判しました。続けて、新聞やテレビが和田中の生徒の顔を露出し、改革だ、挑戦だといって藤原(元)校長を持ち上げ、賞賛する論調が多くみられること、その流れの中で文科省が50億円の予算をつけて、和田中のような地域本部を全国に展開すると宣伝していること、これは進学塾を学校に呼びこんで一部の子に有料で受験指導をしたり、PTAを廃止するという多くの疑問や問題点を含むやり方を安易に容認し全国に広げることになるのではないかと批判しました。

マスコミは和田中モデルを安易に後押しするな

 実際には杉並区の他の学校の保護者や地域から、和田中は派手なパフォーマンスで人気とりをしているが、自分さえよければいいという考え方はかえって地域を壊している、子どもたちの人間関係が心配だ、いずれ自滅するだろうという声をよく聞くそうです。マスコミの皆さんにはもっと地域のいろいろな声を拾う努力をしていただき、和田中モデルの地域本部を全国展開しようという流れを安易に後押しするのではなく、公教育とはどうあるべきかという本質的な問題を掘り下げ、読者に考えさせるような記事を書いていただきたいと要望しました。

 1967年度に東京都で初めて女性のP協会長になった年配の女性は、空襲で全焼した学校の復旧、6.3制による中学校の新設などの教育環境の整備に公費では賄いきれず、体育館建設のために廃品回収などを行ったお話などをされました。

 次の発言者は「地域本部」は行政指導で地域を組織するものだが、PTAは教員と保護者が対等なパートナーとしてやっていくもので、子どもの問題が深刻になっている現在、親と教員、親同士が信頼関係を持って子どもに対応していくことがますます求められおり、今こそPTA活動をもっと活発にしていくよう支援していきたいと述べました。
 
母親たちは“運動”という言葉にアレルギーがある

 また、次の発言者は、PTAが育ててくれたから今の自分があるのであって、PTAがなければ社会的な目も育たなかったと述べました。和田中のPTA廃止のニュースを見た時、PTAでそう決めたのなら、「あの学校はそうなのか」と思っただけだが、校長先生が決めたということを知って、「あの学校はどうなっているのだろう?」と疑問に思ったと述べました。

 それから、このアピール文の中の「高速道路建設反対運動」の「運動」という言葉を見て、自分はよびかけ人になるかどうか迷ったそうです。というのは、今のお母さんたちは「運動」することは過激なのだとマインドコントロールされていて、本当は大事なことなのに偏見の目で見られてしまうからです。でも、先輩たちのお話を聞いて今、この問題について意見を言っていかなければ大変なことになると思い、よびかけ人になったそうです。

 最後によびかけ人の一人が、藤原(元)校長を批判するFAXやメールが何通も来ていると述べ、このような声は多いが、表立って言えないことに大変な問題を感じると藤原氏のやり方に対して危惧を表明しました。
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<資料>
アピール文:「PTA本来の役割を確認し、活性化をよびかけます」

 先頃、区立和田中学校校長(当時)の藤原和博氏がマスコミにむけて突如「和田中PTAを同校地域本部の一部門『現役保護者部会』とする。杉中P協(杉並区立中学校PTA協議会)からは脱退し、PTA会長はおかない」と、事実上のPTA廃止を発表しました。この発表は区内だけでなく全国のPTAに衝撃を与えると同時に、多くの疑問点も指摘されています。

 そこで、私たちは、PTAの意義と役割についてあらためて考えたいと思います。

(杉並のPTAが果たしてきた役割)
 杉並区立各小中学校PTA、および小・中PTA協議会は、どの子にも等しく十分な教育を保障することをめざして活動し、大きな役割を果たしてきました。過去には、高校増設、栄養士の全校配置などの成果をあげ、また、環境を守るための高速道路建設反対運動など学校内にとどまらない活動を繰り広げてきました。

 こうした活動ができたのは、PTAが学校の補助組織ではなく、会員自らが学び「人格識見の向上を図る」(杉並区教育委員会『PTAハンドブック』)自主的な社会教育団体として、発言、行動してきたからです。

 活動の中で会員自身も成長し、PTAからは、町会や商店会、あるいは消費者運動、福祉団体など市民運動の中心で活躍する多くの人材を輩出してきました。杉並区の各分野でPTA活動の経験が生きています。

(校長主導のPTA「改革」でいいのでしょうか?)
 今回の和田中の方針には見過ごせない重大ないくつかの問題があります。具体的には、①学校から独立した組織であるPTAを、単なる学校の「お手伝い」組織に変え、発言の場をなくしてしまう ②PTAを保護者組織に改組することで、PTAのTである教員を排除し、PとTとの関係を分断する ③P協からの脱退で、PTAどうしの横の連携がなくなる という点です。これらは、どれも、PTA活動の根幹を揺るがす問題です。

 そもそも、PTA廃止を校長が独断で決定したことは越権行為です。PTA総会の議決も経ずに、校長が一方的に発表したことは、PTAの民主的運営を根底から覆すものであり認められません。

(PTAのよりいっそうの活性化をよびかけます)
 杉並区は現在、和田中地域本部をモデルとした「学校支援本部」を全区立小中学校に設置することを計画していますが、もし仮に、今後他校でも和田中に追随してPTAを支援本部のなかに組み込んでしまうなら、学校内での保護者と教員の自由で対等な発言の場はなくなり、学校は上からの一方通行となって、活力を失うでしょう。私たちはそれを恐れます。

 現在PTAには「役員のなり手がない」などいろいろな問題があることも事実ですが、他方PTAに求められる役割はますます大きくなっています。したがって、私たち区民は、区立小中学校PTAをもっと充実、発展させるべきであると考えますし、そのために努力したいと思います。

 同時に、杉並区教育委員会に対しては、安易に「PTA廃止」論にのらず、自主的な社会教育活動としてのPTAを尊重し、いっそう支援すること、および、PTAについての区民の理解が深まるよう努めることを要望します。

2008年4月   
よびかけ人(区内公立学校PTA会長経験者) 15名  氏名略

*****ここまで記事

杉並は教育改悪の最先端を行っています。ここで止めなければ全国に広がってしまいますので、私たちの責任は重大です。今まで比較的中立的な記事を書いていた東京新聞さえが「夜スペ」特集記事を連載3回で始めました。それによると大手進学塾SAPIXには他に9校から提携の打診があるそうです。

今まで学校でだけは子どもが企業の利益追求のターゲットからなんとか逃れていたのですが、その枠をはずしてしまえば、子どもは企業の食い物にされるだけです。教育は利益追求や経済効率とは無縁のものです。そこにからめとられてしまえば、教育は死に、子どもはただ利益を生み出すために利用する対象にすぎなくなります。

いい学校に入ること、いい成績をとることが至上命令とされる中、多くの親や校長などが眼を曇らされてしまいました。しかし塾通いして受験の技術を身につけることと、本当の意味で勉強することは全く違います。アメリカの大学教授に聞いた話ですが、修士論文や博士論文の題材について、「先生、何やればいいでしょうか?」と聞いてきた日本人の学生がいたそうです。アメリカの大学に留学するような「優秀」な学生すらそうなのです。

子どもは課題を与えられて四六時中管理され、競争させられ、評価されています。自由な時間はほとんどありません。こういう育てられ方をしていると、自由になった時、何をしていいかわからなくなってしまいます。

もしかして多くの人は無意識に、「自由になることなどどうせないのだ。これから一生、課題をこなしていくだけなのだから、それでいいのだ」と思っているのでしょうか??

自由を求めることなどもうないのでしょうか?

参考
どうなる学校 公立が塾と連携(上) 受験指導で人気回復狙う
(東京新聞記事)

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by lumokurago | 2008-04-26 12:01 | JANJAN記事

取材記者が語った「集団自決」の真実と体験者の深い心の傷跡

沖縄タイムス編集委員で「集団自決」の証言を取材してきた謝花直美さんの講演記事です。とても良い内容ですのでぜひお読みください。

 取材記者が語った「集団自決」の真実と体験者の深い心の傷跡と

困難を極めた体験者からの聞き取り

 東京都文京区民センターで4月9日、「大江・岩波沖縄戦裁判勝利!判決報告集会」が開かれました。主催は大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会(大阪)、沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会(沖縄)です。主催者挨拶(俵義文さん)、裁判報告(弁護団から秋山幹男弁護士、岩波書店から岡本厚さん、支援運動から小牧薫さん)の後、沖縄タイムス社編集委員で、この間「集団自決」の証言の取材をしてきた謝花直美さんの講演がありました。謝花直美さんは沖縄タイムス紙に「命語い(ぬちがたい)」を連載され、「証言 沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか」(岩波新書)を出版されています。講演は「証言取材を通して見えてきた『集団自決』」という演題で、本には書かれていない貴重な内容でしたので、ご報告します。

〔1年前の今日〕

 「沖縄タイムス」の謝花直美と申します。ちょうど1年前の今日、何をやっていたかというと、渡嘉敷島に渡って吉川嘉勝先生の家にご挨拶に伺い、午後には高齢者センターのデイサービスのおばあさんたちから何とか話を聞けないか、と周辺の方々にお話をしたその日でした。3月31日に教科書検定意見が出て、それから怒涛のような報道が始まり、検定というのをどう伝えるか非常に焦っていた時期でした。取材を始めていたものの証言らしいものは取れておらず、さてこれからどうしようかと考えていたところです。

 2005年5月に自由主義史観研究会が沖縄プロジェクトを立ち上げて、あらゆる出版物から「集団自決」における日本軍の強制を削除するとし、3ヵ月後に「集団自決」訴訟を大阪地裁に提訴、それに対して私たちも報道を続けてきましたが、沖縄の人々に問題の本質、沖縄戦の真実を伝えるためには、「集団自決」のことだけでなく、沖縄戦全体についてどう報道すればよいのか、と考え続けていました。

 教科書検定の問題が起こって、私たちがきっちり問題のあり方を報道していけば、必ずや沖縄の人は分かってくれ、立ち上がってくれるだろうと思いました。それはもちろん新聞だけでできることではなくて、過去の基地闘争とかいろんなことで沖縄の人が立ち上がってきたように、手を携えていけると思っていました。しかしそれまでの間に、特に慶良間諸島の体験者の証言(の取材)については、非常に困難を極めていたのが事実です。私が新聞社に入ったのは沖縄戦の報道に携わりたいということが一番の理由でした。6月23日の慰霊の日に沖縄の新聞は、沖縄戦を通して平和の尊さを考えるということで体験者の方の記事を書くのですが、そういう短期的な、わずか5回から10回の企画のために慶良間諸島の体験者の方に伺ったとしても、私たちは伝えきれないのではないかという思いがありました。それは私だけではなく、私たちの新聞がそれをやったことはなかったように思います。

〔証言者を探して〕

 沖縄戦の取材をする中で、1970年代に県史に掲載された証言について伺うと、その話になると島の人々がサーッと逃げてしまう、「どこどこに集まってね」と言っても全然集まってくれないし、遠巻きにして逃げてしまって全然お話が聞けなかった、ということを聞きました。あるいはチビチリガマでも、高校の歴史の先生が生徒さんと一緒におばあさんたちの体験を聞きたいということで、60年代、かなり早い時期にやろうとした時に、先生のところに3人の遺族の方が来られて、「あなたはいったい何をしようとしているのか」「そういう悲しい思いを伝えることがどんな意味があるのか」「この村の中にトラブルを起こさないでほしい」と言われ、始めることができなかったという話を最近聞きました。そのように「集団自決」の体験を聞くということは、地域の人々がどのような思いで生きているのかということを含めて、どのように大きな傷跡を残しているのかを考えると、私たちはメディアとして、そう簡単に取り組めないと感じていました。

 しかし1年前、教科書検定が問題になった時に、ニュースの発信点というのは那覇であり、文科省のある東京でした。いろんな報道が流れていった中で、有るべきなのに、無かったのが慶良間諸島の方々の声だったと思います。どうやってあの方たちの声を紙面に載せていったらいいのか、過去に県史などで証言されている方はいるのですが、その方たちは高齢化してお亡くなりになっており、新しい証言者を見つけなければいけないという厳しい状況があったのです。

 吉川嘉勝先生については「命語い」で、3回のシリーズに書きました。彼には4月の半ば頃にお会いしましたが、彼もやっぱり最初は、戸惑いつつでした。どうやって吉川先生を探したかと言うと、彼は1回、校長先生をやっている時に新聞に自分の体験を話したことがありましたが、「集団自決」となるとなかなか本音の部分はお話しいただけないことがあったと思います。ご自身も不十分だったとおっしゃっていました。また、1年前に訪ねて行った高齢者センターのおばあさんたちは、一人ひとりがつらい体験をしていて「一人では話せないな、数人でだったら話せるかもしれない」とおっしゃっていました。でも誰かが「そこ(の場所)で、私は娘を亡くしてね」と言いだすと、みんなが「やっぱり」と言って黙ってしまって、私が取材に行ったために、楽しいリクリエーションの場を重苦しい場にしてしまったということがあって、証言してくださる方を探すのも大変でした。
 でも、過去に新聞に話したことがある人などを頼りつつ、だんだんと検定問題が広がっていくにつれて「話していただけませんか」と繰り返しながら証言者を探して、シリーズにまとめていったわけです。

〔軍官民共生共死〕

 沖縄戦とは、旧日本陸軍第32軍が国体護持のために持久戦をやって、捨て石とされた場所で、住民ともども軍と一緒に最後まで戦えという方針で行われた戦争で、それが「軍官民共生共死」という考え方(になっていったの)です。沖縄のすべてが前線と化していく中で、男性は防衛隊員として徴兵され、女性も飛行場建設などに動員され、本当に地上戦が始まると組織されていなかった人たちまでが弾薬運びとかいろんなことをやらされて、死んでいった。それが「軍官民共生共死」という美しい言葉です。

 軍隊が徹底的に支配していた中で、日本兵から「おばさんたちは死んだ方がいいから手榴弾をあげよう」と言われたという証言も(取材中に)出てきました。また、住民には恐怖が植え付けられ、女性なら米軍が来たら強姦され殺される、男性は股裂きにされて戦車に轢き殺されると徹底的に教え込まれ、追い詰められていった。そういう中で「集団自決」が起きたということがあるわけです。

〔語れない「集団自決」〕

 「集団自決」で家族が、親族が、地域の人が大勢亡くなったために、なかなか語ることができない。けれども、私が訪ねて行った北村登美さんという97歳のおばあちゃんは、お隣の人とお茶を飲みながら、検定の結果を話しながら、あまりにもひどいと泣きながら、自分たちはこうだったと話してくれました。ちょうど、おじいさんとおばあさんが3人でお茶を飲みながら「苦しいね」と話しているところに出くわして、その光景を見た時に、ハッと、この人たちは検定がきっかけだったかもしれないけれど、たぶん日常的にお互いの痛みを分かち合っているのだと思いました。なかなか話せる話ではないけれど、一人で黙っているのも苦しいし、話せる部分は地域の人と話し合っているんだな、と思いました。かといって、みんなの前で話せるということではないのですが。

 もう一人、新崎直恒さんという方は教育者だったので、平和教育として話されたのではないかと思っていましたが、とてもできず、孫が戦争当時6歳だった自分と同じ年になった時だけに話したということでした。

 いままでは「集団自決」について語るといっても、そのように地域の小さなグループでのつぶやきであったり、意義を見出していたとしても個人的なものだったというのが「集団自決」の体験者の現状だったと思います。そういう方たちを一人ひとり訪ねて行って証言を聞きましたが、30数人に伺ったのですが、実際に家族に手をかけた方はそこには2人しか入っていません。というのは、やはり一番、語りにくいお立場だからです。ある集団にそういう方がいらっしゃるのですが、私に証言してくれた人は「その方はお子さん2人を亡くした、その方には聞いてくれるな」と言いました。「聞きに行くことはできないよ、自分の話はしてあげるから書きなさい」と。それで、具体的に家族に手をかけた人の話はほとんど聞くことができません。

〔言葉少ない証言〕

 話してくれたお二人というのは、金城重明さんと中村武次郎さんです。中村さんの状況を話しますと、3人家族でお母さんと武次郎さんとお姉さんがいらっしゃいました。慶良間では手榴弾は使われておらず、紐を用いて首をお互いに絞め合うという形で、100人位の住民の中で53人が亡くなってしまいました。武次郎さんたちも米軍が上陸したということで、「集団自決」した人を見て、長い1本の紐にお姉さんが間に入り、武次郎さんとお母さんが両脇になって、首に紐を巻きつけて首を絞めたのです。結局、真ん中にいたお姉さんだけが絶命してしまったのですが、武次郎さんは自分の体験を語ることが歴史を語ることだとずっと語っていらっしゃった方で、元は村議もやっておられ、社会的な意義を感じていらっしゃるのですが、武次郎さんのお話を伺って、録音を後で聞き直してみると、武次郎さんの証言は本当に短いのです。「集団自決」をしたサーバルという場所の話になると、声がうわずっているし、吃音が出ています。言葉がつまって全然出て来なくて、(録音テープを文章に)起こしてみると数行しかないんです。でも彼はそれを言うために、自分のことを前面に押し出して、言葉も失いながら一生懸命言うわけです。その様子を見ていた時、この人たちが心に抱えているものの重さは、語ってくれているんだけど、とても語り切れないのだ、ということを感じました。手をかけた人だけではなくて、「集団自決」で家族や兄弟を亡くした方に「証言をお願いします」と言っても、あまりにもみじめな体験だから語れないということがあって、証言を聞くのはしんどい、大変なことでした。

 一方で、この方々は言葉が少ないけれど、一生懸命に語ってくれたことをどう伝えていけばいいのだろうか、と苦労しました。少ない言葉だと記事にするのが非常に難しいのです。座間味では、いろんな壕でいろんな方が亡くなっているのですが、渡嘉敷の場合、1ヵ所で300何人が手榴弾を使って「自決」しているので、3月28日の午前中の「集団自決」の事実を知るだけなら、(記事は)非常に短いのです。1回で書ける。でも、それをいろんな家族がどうやってそこにたどり着いたのかなどしつこく書いたので、20回くらい書きました。というのは、一人ひとりがこれだけの体験をして、それを戦後ずっと引きずっている、そして語ることができない。そういうことを書かなければ、なかなかこの「集団自決」を理解することができない。あの場所で起きた事実を知るだけでは、なかなか理解できないだろうなというのが、繰り返し繰り返し証言を聞く中で感じたことでした。

 この連載は熊本日日新聞に転載される形で載ったのですが、やはり沖縄的な状況がないということで、同じ体験が繰り返されていると言った人がいるということを聞き、正直な意見だなと思いました。でも、それを一人の体験でわかるとは思えません。いろんなふうに生きていた人たちが当時そこにいただけで、命を手折られたということの意味、それもこんなにたくさん(の人が)ということを示さなければ「集団自決」の本質は伝えられないのではないかなと思って、そういう書き方をしたのです。

〔体験者も変わった〕

 「集団自決」の証言を聞く(読む)ことによって、戦争を知らない人たちがその事実を知るだけではなくて、体験者たちが傷を持っていて語れない中で、地域の中で、家族の中で、苦しみながら生きているということがだんだんと伝わるようになってきて、沖縄戦というものが自分たちの生きている沖縄と別なものではない、地続きにつながっているのだということが獲得されていったように思います。また、体験者が証言者になってくださったことで、変わっていかれたということがあると思います。

 吉川先生は、連載だけでは自分はあまり語れていなかったとおっしゃっていました。県民大会の時にはお姉さんが出ない方がいい、小さな地域ですし、彼は教育委員長をやっているので行政としての立場もあるんじゃないかとすごく心配していらっしゃいました。彼はそこが一番きつかったとおっしゃっていました。でも自分が語らなきゃいけないという思いがあって、決心して語りました。県民大会は生中継が入ったので、お姉さんは家で吉川先生の挨拶を聞いて、ほんとよく話してくれたとおっしゃっていました。吉川先生もその話をしていて、力が抜けたような気がして思わず泣いてしまった、残りの人生は奉仕だと思って、この問題に本気で取り組みたいとおっしゃっていました。

 68歳の人が、戦争を知らない若い世代から「体験を聞かせてください」と言われ、今まで語らなかった体験を語っていくことで、伝えていくことが沖縄にとってとても大事なんだというメッセージを受けて、すごく変わっていかれたと思います。すごいなと思います。1年前には全然おっしゃらなかったことを、県民大会で「事実は厳然としてある。歪曲を許してはならない」とキチッとおっしゃるまでに変わられたわけです。彼の体験に、いろんな人からエールを送られて、彼自身も変わっていったということで、人生の先輩に対して失礼な言い方ですが、吉川先生の生き方はすばらしいなと思いました。

〔今につながる歴史〕

 また、県民大会で高校生が言った「私たちのおじいやおばあがうそをついたというのですか?」というスピーチ、あれに象徴されると思います。戦争体験のない世代が体験を聞くことによって、語り得る人の体験だけじゃなくて、あまりにもつらすぎて語れない人がいること、さらにあの時に亡くなってしまった方は、生きていたら幾つになられるのでしょう。70歳だったり80歳だったり、いまの世の中を謳歌されているはずの方々が、実はいたんだということに気がついたのです。この沖縄、私たちが住んでいる沖縄は63年前に変わったんだ、沖縄戦の後には広大な米軍基地が出来て、施政権が返還されてからは見えにくくなったけれども、本当は沖縄社会というのは何も変わっていないのではないか、若い人たちが沖縄戦と戦争で傷つけられた人たち(の話)から今の沖縄を振り返るようになっていった。これからは、それをどういう風に血肉化して動いていくか、といういろんな課題があると思いますが、「集団自決」問題が裁判、教科書検定に広がっていき、この問題が今の沖縄の若い人たち、そして体験者たちに与えたものは、体験してきた歴史が今の私たちとどうつながっているのかということを獲得していく作業だった、と1年経って思うようになりました。
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by lumokurago | 2008-04-24 20:13 | JANJAN記事

「ドンベク・アガシ(椿娘)」 痛みと差別 心に寄り添い

 教科書採択の時、取材してくれた韓国の朴貞淑監督の作品の紹介です。

 「ドンベク・アガシ(椿娘)」 痛みと差別 心に寄り添い

 韓国の元ハンセン病患者の女性の人生を追ったドキュメンタリー映画「ドンベク・アガシ(椿娘)」の試写会が2月16日、東京・新宿角筈区民ホールでありました。監督の朴貞淑(パク・ジョンスク)さんは、韓国女性鉄道労働者を取材したドキュメンタリー映画「ソグム(塩)」や、「新しい歴史教科書をつくる会」主導の扶桑社版歴史教科書の採択に反対する日韓市民を取材したドキュメンタリー映画「平和に向けた連帯」を作った方です。

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「ドンベク・アガシ(椿娘)」 

 パク監督は旅行で訪れた韓国のソロクトで偶然、元ハンセン病患者である李幸心(イ・ヘンシム)さんと出会いました。ソロクトは、植民地時代に日本がハンセン病患者を強制収容したソロクト更生園のあるところで、ヘンシムさんは現在もソロクトの定着村(ハンセン病患者らが集まって暮らしている集落)に暮らしています。「ドンベク・アガシ」は監督がソロクトに通い、ヘンシムさんの心の扉を開いて語ってもらった人生の記録です。彼女の人生は両親が日本によって強制収容されたことで大きく狂わされ、解放後(戦後)も韓国政府によって差別抑圧されて苦しみ続けてきました。しかしヘンシムさんは運命に決して負けずに、「ドンベク・アガシ(椿娘)」の歌を歌います。そんな彼女から私たちは大きな勇気をいただくのです。

 試写会の後、監督挨拶と質疑応答がありました。その中から紹介します。

 ──この映画を作ってよかったこと、大変だったことをお聞きします。

 監督:作品自体できがよいとは思っていません。難しかったことは、ヘンシムさんは長い間、差別・偏見で苦しめられているので、歩み寄るまでに時間がかかったことです。個人的に苦しかったのは妊娠していた時期。ソウルからソロクトまでは8時間かかるので、そこまで行って撮影するのは苦しかったです。

 去年、韓国国内で10回上映会を開きました。最初はハンセン病の後遺症の姿を見て目をそらしたり、近寄れない感じの人も、観終わった後は親しみを感じたという人が多く、考えが変わったとか、ボランティアに行きたいという人が出てきたので喜ばしいと思っています。

 ──ハンセン病をテーマに選んだ理由は? 監督の信念は何ですか?

 監督:私は今まで、労働運動や女性運動のドキュメンタリーを作ってきました。たまたまソロクトに行って、知り合いの案内で車で一周していたら、手の指のないおばあさんが洗濯しているところを見かけてショックを受けました。ハンセン病のことを知らなかったからです。歴史記念館に行ってソロクト更生園が日本の植民地時代にできたものであることや虐殺について知り、今までこのようなことをまったく知らなかった自分が恥ずかしくなりました。

 ソウルに戻って、ソロクトの歴史を残そうか、やろうかやるまいかと迷って、1年の間、ヘンシムさんが夢に出てきました。そして若いから無謀かもしれないけれど、作品を作ることを決心しソロクトに通いました。

 撮りながら考えていたのは、戦後独立後の韓国国民による差別、偏見、それに基づくリンチのことで、それを中心に撮りたいと思いました。戦後のことを撮りたいと思った根拠は、ヘンシムさんの息子さんと対話したいためです。息子さんはこの映画が上映されることを気に入ってはおらず、半分反対しています。私は息子さんと孫娘のためにも、必ず上映したいと思っていました。これからの韓国のことを考えてです。ハンセン病の病歴者がいることを隠そうとすると、その存在自体が消えてしまうと思います。親を否定することは大変悲しいことです。

 ──ヘンシムさんが監督に心を開いてくれたのは、監督が妊娠中だったからではないでしょうか? 映画の中で使われている絵が、失われた時間のつらさを教えてくれます。絵について聞きたいです。

 監督:最初に会った時、妊娠7か月でした。妊娠しながらソロクトまで来て話を聞こうとしたことは、昔ヘンシムさんが子どもを産んだ時のことを思い出し、役に立ったと思います。

 絵についてですが、ヘンシムさんは若い頃、丸顔でかわいい顔だったそうです。ところがある時期に顔が崩れてしまったので、若い頃の写真を見るのがいやで破いてしまったそうです。写真がないので再現しようがなく、絵を描く人に「こういう感じの顔」と頼んで描いてもらいました。釜山国際映画祭などではアニメーションだと思って観に来た人がたくさんいました。
 
 ヘンシムさんは体が痛く、長い間鎮痛剤を飲んでいたので胃をこわして、1月から入院していますが、治療によってよくなってきています。来日することを伝えたら支援の人に会いたい、感謝していると伝えてほしいとおっしゃっていました。映画を撮っている間に、苦しい時期がありましたが、まだ若いのに苦しいなどと言えないと思います。この映画を観る人もヘンシムさんから勇気をもらってほしいと思います。
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by lumokurago | 2008-02-22 14:53 | JANJAN記事

沖縄戦検定問題が投げかける「いま、なぜ?」を林教授が講演

 2.11反対集会での林博史さんの講演記録です。非常に有意義な内容なのでぜひお読みください。

沖縄戦検定問題が投げかける「いま、なぜ?」を林教授が講演

 2月11日、東京都内の日本橋公会堂で「建国記念の日」反対集会が開かれました。ここで、沖縄戦研究者である林博史さん(関東学院大学経済学部教授)が大変有意義な講演をなさいましたので、長くなりますが報告します。

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 林博史さん

沖縄戦についての教科書検定

 この問題で、文科省はあくまでも日本軍の強制は認めないという検定意見を変えませんでした。それを報道した2007年12月27日の新聞の見出しに、沖縄メディアと本土メディアの差が出ており、問題点が凝縮されています。沖縄メディアは「『軍強制』を認めず」という大きな見出しで報道しましたが、本土メディアは「『軍の関与』復活」(朝日)、「軍強制復活」(産経)で、日本軍の「強制」が問題であるにもかかわらず、「強制」を「関与」と言い換えて元に戻ったんだからいいじゃないかということで、問題を収拾させようとしました。

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※ なぜ「集団自決」(集団強制死)が起きたのかという問題を考えるために、以下、林さんのレジュメとお話を箇条書きにします。

「集団自決」を引き起こした原因

 1.住民に対しても捕虜になるな、捕虜になることは恥、と徹底して教育・宣伝していた。

 2.米軍に捕らえられると、男は戦車でひき殺され、女は強姦され、ひどい殺され方をする、と恐怖心を煽られていた。特に若い女性には深刻であった。日本兵は自分たちが中国でひどいことをしたから、アメリカ軍に捕まったらひどいことをされると思い込んでいた。日本兵はそのことを住民に語っていた。

 3.米軍に投降しようとする者は非国民・裏切り者とみなされ、殺されても当然であるという意識があった。実際に日本軍は投降した者を殺害した。

 4.「軍民一体化」の意識を植え付けられており、日本軍と共に住民も「玉砕」するのが当然とされていた。

 5.裁判で問題になった渡嘉敷と座間味では、あらかじめ日本軍あるいは日本軍将校が住民に自決用の手りゅう弾を渡し、いざという時はこれで自決せよと命令あるいは指示・勧告していた。これは、実にたくさんの証言が残っている。今回、文科省は軍の命令があったという根拠はない、と断言している。集団自決が起きた当日、確かに部隊長が命令したかどうかはわからない。しかし、あらかじめ米軍には捕まるなと言い、手榴弾を渡すということがどういうことを意味するのか。

 6.慶良間の住民が「集団自決」するきっかけとなったのは、「軍命」が下されたと聞いたことであり、「軍命」に従って自決するのは当然であると信じ込まされていた。

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 つまり、日本軍とその当時の国家の強制・誘導・脅迫・教育などによって、住民が死を強いられたものであると私(林教授。以下同じ)は結論付けています。文科省は、私が著書に、当日、部隊長が命令を出したかどうかはわからないと書いた、その部分だけを取り出して日本軍の強制を否定する口実に使っています。

 とにかく、住民は米軍に捕まるより死ぬしかないという状況に追い込まれていった。今回、文科省は沖縄や全国の運動によって少しは譲歩していますけれども、強制があったということは、とにかく書かせない。中学校の教科書でそういう記述がありますから、それを書かせないということにつながっていく、だからこれは決して終わった問題ではないと思います。

日本の侵略戦争のなかの「集団自決」

 本土では「沖縄県民の感情をもっと考慮しなければいけない」という言い方がされていますが、果たしてそれでいいのでしょうか? 「集団自決」を、ある人々はお国のために命を捧げた尊い行為であるという言い方をします。しかし、私は日本軍・国家によって強制された死である、とします。

 この意見の対立は、例えば特攻隊をめぐる議論とも重なってきます。つまり、特攻隊は「自らお国のために命を捧げた尊い死」という議論があります。しかし、これは多くの研究で明らかになっていますが、必ずしも志願ではなく命令によって(特攻隊員に)なった人もいます。また、志願しないと非国民とされるので、志願せざるを得なかった人もいます。

 話は沖縄戦から離れますが、日本軍将兵は約230万人が死んでいますが、半分以上は餓死だ、という研究が発表されています。弾薬も食料もなくなると、20世紀の普通の軍隊ならば、通常はそこで降服して捕虜になるのですが、「捕虜になるのは恥である」と教えられているので、餓死するしかないのです。

 また、玉砕という、どうしようもなくなって「バンザイ突撃」などと言って、まさに殺されに行くわけです。もし捕虜になることが許されていれば、当時の日本軍に20世紀中ごろの常識があれば、230万人の半数以上は生き残ることができたはずです。日本軍のアジアへの加害の問題もありますが、最低限の常識があれば、それもやらなかったわけです。

 捕虜になるのは恥さらしだという考えの日本軍には、捕虜を人道的に扱う思想がありませんでした。戦後の戦犯裁判の中で捕虜の虐待がたくさん裁かれています。去年は南京虐殺70周年ですが、南京では10数万~20万人が虐殺されました。その半数以上が捕虜で、欧米系(軍人)の場合は捕虜にして虐殺し(たケースもあり)ましたが、中国系の場合には捕虜にもせずに殺してしまう(ことが少なからずあった)という。日本兵自身は捕虜になることなく死を強制されました。とても、英霊などと言って美化されるような存在ではない。そういった問題とつながってくるだろうと思います。

 私は、沖縄戦というのは侵略戦争の行き着いた先であると考えています。いま言った捕虜の問題もそうですし、中国で民間人も殺してしまった、その経験が沖縄戦に持ち込まれたのです。第32軍司令官の牛島満、参謀長の長勇は共に南京戦に参加しています。長勇についてはかなり資料が残っていて、捕まえた捕虜を殺してしまえと指導していたことが分かっています。そんな軍人が沖縄戦を率いたのです。中国・山西省では、すさまじい性暴力が行われました。被害者が日本で裁判を起こしています。あの地域の部隊が沖縄に来ています。中国における三光作戦、性暴力、そこでの経験が沖縄に持ち込まれたのです。

 「集団自決」の起きた渡嘉敷には「マルレ」という陸軍の特攻艇が配備されています。この「マルレ」の開発を推進した人物は、陸軍の船舶司令部の鈴木といって、1942年のシンガポールの華僑粛清、あるいはマレー半島の華僑粛清(時)の軍の参謀長です。シンガポール、マレー半島で住民虐殺を行った人物が特攻艇の開発を推進した。そういう意味で、日本の侵略戦争のさまざまな経験が沖縄戦に集約されている。だから、沖縄戦の問題は沖縄だけの問題ではなくて、日本が行った一連の侵略戦争をどう認識するのかという全体に関わる問題です。

 残念ながら、本土のメディアは沖縄の問題は沖縄だけの問題として処理しようとし、日本全体の問題であるという視点を落としています。しかし決して、沖縄だけの問題ではなく、日本全体の、戦争全体の認識に関わる問題である、と改めて強調しなければなりません。

日本軍「慰安婦」正当化論との共通性

 「新しい歴史教科書をつくる会」は、「慰安婦」「南京虐殺」「強制されたものとしての集団自決」の3つを教科書から削除させることを目標としていました。高校の教科書に沖縄戦における日本軍の住民虐殺を最初に書こうとしたのは、江口圭一さんという歴史学者ですが、彼が根拠に使った「沖縄県史」を教科書調査官は「(沖縄)県史は一級史料ではない」としました。被害者・住民の証言は信用しない、ということです。「慰安婦」問題で被害者の証言、中国人、韓国人の証言は信用できないとするのと同じ論理です。全体状況から1点だけを取り出してすべてを否定する(論法です)。

 「慰安婦」問題でも、強制的に連れて来いという命令がなかったから、すべて強制じゃない、今回の問題でも「集団自決」が起きた時に命令がなかったから、強制そのものがないんだ、という論理です。また、被害者は金欲しさだった、元「慰安婦」も金欲しさにウソを言っている、沖縄に関しても援護の金欲しさに軍命令をでっちあげたという言い方をしています。こういうことを言う本人たちは、「人間は金でしか動かない」と考えているのでしょう。そういう議論が共通していると思います。

 沖縄と本土のメディアの違いは、中国・韓国と日本のメディアの違いと一緒ではないか。つまり、日本政府が事実を否定すると、地元の人たちは思想の違いを超えて怒る。それをメディアも取り上げる。ところが日本では、それはすべて「反日キャンペーン」とする。そういう構造も非常に似ていると思います。

 河野洋平氏は1997年3月31日にインタビューで「慰安婦」への強制について、次のように述べています。「本人の意思に反して集められたことを強制性と定義すれば、強制性のケースが数多くあったことは明らかだった」「こうした問題で、そもそも『強制的に連れてこい』と命令して、『強制的に連れてきました』と報告するだろうか」「当時の状況を考えてほしい。政治も社会も軍の影響下にあり、今日とは全く違う。国会が抵抗しても、軍の決定を押し戻すことはできないぐらい軍は強かった。そういう状況下で女性がその大きな力を拒否することができただろうか」。

 この中の「慰安婦」を「沖縄住民」と置き換えればその通りだと思います。

なぜいま、日本の戦争責任が問題になるのか

 2007年7月30日にアメリカ議会で、同年12月3日にEU議会で「慰安婦」に関する決議が採択されました。その後に、カナダとオランダです。日本では、なぜ今頃、こんな決議が上がるのか、と不思議がられました。

 日本で「慰安婦」問題がクローズアップされるのは90年代に入ってからで、元「慰安婦」の方が名乗り出られて、その被害の残酷さがやっと分かりました。この問題は、国連の人権委員会などでも取り上げられ始めます。

 なぜ国連で取り上げられたのかと言いますと、90年代の初めですから、旧ユーゴスラビアの問題があります。非常に(多くの)組織的な性暴力が繰り広げられた。これは現在もあるんですが、なぜ90年代にあってもこれだけの戦時性暴力が繰り返されるのか。それを考えると、軍なり国家が組織的に性暴力を肯定した(のではないのか)、これはきちんと事実を究明し、責任者・加害者をきちんと処罰する、そして2度とそういうことが起こらないようにする。それを国際社会が怠ってきたからじゃないか、と言われるわけです。

 組織的な性暴力というと、日本軍の「慰安婦」問題が浮かび上がってくる。それを当時の連合国もきちんと裁かなかったためではないか、と思われています。このことから、日本の問題であると共に、国際社会の問題であるという認識が生まれてきます。1940年代の出来事を取り上げるのは、まさに今に継続する問題だからなんですね。従来ですと、国家間の賠償によって問題を解決した。でも、それでは被害者は全く救済されない。この問題を国家間の賠償問題ではなく、女性の人権問題、人間の尊厳の回復の問題と捉える、というのが90年代の国際社会の議論です。

 日本ではほとんど知られていませんが、国連安全保障理事会は2000年10月に「すべての国家には、ジェノサイド(大量虐殺)、人道に対する罪、性的その他の女性・少女に対する暴力を含む戦争犯罪の責任者の不処罰を断ち切り、訴追する責任があることを強調する」と決議しました。ちょうどその直後に、東京で女性国際戦犯法廷が開かれます。実は、90年代からの流れが、2000年まで及んで来ているのです。

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※ 講演の資料に、アメリカで決議が採択された時の声明などが載っています。以下は資料からの引用です。

●ハイド元下院国際関係委員会(現在の外交委員会)議長 
 「慰安婦」決議採択にあたっての声明
【太平洋戦争を戦った兵士として、昨年9月にこの決議案を多数採択した委員会の議長として、『慰安婦』決議の採択を歓迎します。女性や子供を戦場での搾取から守ることは、単に遠い昔の第2次世界大戦時の問題ではありません。それはダルフールで今まさに起こっているような悲劇的状況に関る問題です。『慰安婦』は、戦場で傷つくすべての女性を象徴するようになったのです】

●「アジア・ポリシー・ポイント」のミンディ・カトラー代表
 2007.2.15 下院公聴会での証言
【日本のケースは、今日の人道問題と戦時性暴力の理解の前例となります。将来の戦時性暴力を裁き、防ぐための最も重要な手段は、性暴力・奴隷制、搾取の事実を認めるという前例を作ることです。日本軍の慰安所は、ボスニア、ルワンダ、ニカラグア、シェラレオネ、ダルフール、ビルマなど、今日の戦争や市民紛争の議論で頻繁に取り上げられる性奴隷制・戦時性暴力・人身売買などすべての問題の前身ともいうべきものでした】

●ラントス外交委員会議長のインタビュー
 (徳留絹枝「米議会と日本の歴史問題」)
【この決議は、日本の過去の政府の行為を罰しようというものではありません。そうではなく、日本の真の友人として、米議会は決議121号を通じて、これらの女性と日本の国が癒され未来に向かうために、日本が過去の困難な時期の出来事をすべて公式に認めるよう、頼んでいるのです。そのような癒しの過程は、日本の人権擁護への取り組みを再確認するだけではなく、日本の隣国との関係を改善し、アジアと世界におけるリーダーとしての地位を強固にするでしょう。私たちが21世紀を生きていくに当たり、日本は世界の中で益々積極的な役割を果たしていくべきです。過去と真摯に向き合うことは、そのプロセスに役立ちますし、日米関係を弱めるどころか堅固にするのです】

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 つまり、日本が率先して(「慰安婦問題」を)解決してくれれば、それが世界の模範になるだろう、それに期待している、ということを言っています。ですから、この問題は、まさに現在、世界に繰り広げられている性暴力をどう解決するのか、そのためにこそ日本軍の「慰安婦」に対して、きちんと事実を究明し、事実を認識し、被害者に対して償いをすべきではないかと、そういう中でこの問題が出てきています。

 もう一つ、EUの決議があります。これも、あまり日本で知られていませんが、その中の「B項」に、「『慰安婦』制度は輪姦、強制堕胎、屈辱及び性暴力を含み、障害、死や自殺を結果し、20世紀の人身売買の最も大きなケースのひとつであり」とあります。アメリカの決議の場合は、主に戦時性暴力を問題にしていますが、EUは戦時だけではなくて平時における性暴力、あるいは人身売買の組織的な問題として日本軍の「慰安婦」制度を問題にしています。この点については後で触れます。

日本の植民地支配・占領支配からの連続性
 例えば、韓国では日本軍の「慰安婦」あるいは強制労働の真相究明のグループが作られています。それに対して日本では、(そうしたことをさせる)韓国の政権は反日政権である、というレッテル貼り(を行うグループ)があります。

 この間、韓国で何をやってきたのかと言うと、戦後の軍事政権における様々な人権侵害行為の真相究明、そして被害者の名誉の回復ということです。これは、済州島のケースから朝鮮戦争下における残虐行為、軍事政権のもとでの人権侵害を全部取り上げている。その中に日本の植民地支配が入っている。

 これはなぜかというと、戦後の韓国の軍隊、警察、官僚組織等々は基本的に植民地時代のものをそのまま受け継いでいるからです。軍事独裁者として有名なパク・チョンヒ(大統領)は日本の陸軍士官学校の出身で満州国軍の将兵です。つまり日本軍の手先となって、中国における抗日運動を取り締まった人物です。韓国の警察も、もともとは日本人の下で韓国の民族運動、独立運動を取り締まった、その朝鮮人が戦後の警察を担っていくんですね。

 韓国民衆にとっては、戦前戦中の日本の植民地支配と戦後の軍事政権というのは連続しているのです。韓国民主化の課題は戦後だけではだめで、戦前戦中から継続している問題です。ですから、日本の「慰安婦」問題、強制連行問題をとりあげるのは、何十年も前のものをいまさら取り上げているわけではなく、今の韓国社会を民主化しようとすれば、そこを克服しない限り解決がないということです。つまり、今の自分たちの社会をどうするか(なの)です。

 しかし、日本はこのことを認識していません。インドネシアのスハルトもビルマの軍事政権も、軍隊は日本が占領中に作ったものです。日本の第2次世界大戦における軍事支配というものが、戦後のあり方も規定している。ですから、東アジア、東南アジアも含めてですが、現在の社会を民主化しようとすると、それ以前からの植民地支配、そして日本の軍事占領を含めてトータルに真相を明らかにし、克服する努力が必要です。

 みんな「今」を見ているのです。今の自分たちをよくしよう、その時に、植民地時代の問題を解決しなければならないのです。ところが、日本社会はそれを全く理解できません。

日本の支配層の連続性

 さきほど平時の暴力について触れましたが、最近改めていろんなところで指摘されていますが、日本の支配層の連続性という問題があります。1938年11月に内務省の警保局、今で言うと警察庁が出した、有名な通牒があります。

 これは、非常に極秘裏に、日本国内と台湾から女性を「慰安婦」として集めて中国に連れていく、という具体的計画の通牒です。ここに警察や県知事が関わっていますが、これはあくまでも業者が自発的にやることに装え、ということも書かれています。

 これを担当したのが内務省警務課長。誰かって言うと町村金五です。今の町村官房長官の父親です。町村官房長官は2001年、「あたらしい歴史教科書をつくる会」が初めて出てきた時に文部大臣でした。彼は「つくる会」の教科書を検定に合格させた。いうならば、父親がやったことを息子がもみ消しています。安倍前首相については言うまでもないと思います。そうした日本の支配者の連続性がある。

 最近、一部の右翼が(東京の)高田馬場にある「女たちの戦争と平和館」に乱入して妨害し、警察はほとんど取り締まらないということがありました。また、つくばのドメスティックバイオレンス(DV)の講演会を中止させたグループは、「慰安婦」問題と同じグループです。つまり「慰安婦」問題を正当化しようとする人たちは同時に、DVを問題にすることは家族制度を破壊することだ、といっている。

 日本は、人身売買が非常に多い国です。人身売買で海外からどんどん女性が連れてこられて、売春を強制される。それが公認されている。そう言う意味で、日本軍戦時性暴力に対して日本社会がきちんと取り組もうとしないだけでなく、平時における性暴力問題にも取り組まない。その人々は共通している、同じ人々がやっているという問題があると思います。

 戦争責任の問題、あるいは歴史認識というのは現状認識とセットですから、いま自分たちがどうであるか、どうすればいい社会ができるのか、そこから歴史を見るわけです。なぜアメリカ議会でもEU議会でも、そして各国でも、日本の戦争責任が問題になるのか。それは現在の世界のあり方、各国のあり方に問題がある、それを克服しようとして見るわけです。

 ところが、日本での議論ではそこは全部遮断されて、なんでそんな古い時代のことをいまさら取り上げるのか、ということしかない。戦前戦中からずっと連続している日本の社会のあり方に、人々が目を向けない。これは日本政府もそうですし、文科省もそうですし、日本のメディアもそうです。

 そういう意味で、私は沖縄問題も「慰安婦」問題も含めて日本社会全体の問題として捉えなおす、それは今の自分たちの社会をどうするのか、その課題なんですね。その課題として歴史問題があるのだということを認識すべきではないか、と思います。

 この2・11集会が毎年開かれているというのは、その問題だと思います。現在の日本社会、政治家、特に戦後生まれの若い政治家が、戦前戦中に自分たちの拠り所を持っている。その傾向がますます強くなってしまっている。

 ということは、改めて日本が行った侵略戦争の究明だけではなくて、戦後の日本なりアジアのあり方の認識が欠けているんじゃないか。そういう意味で、戦前戦中戦後を含めて、19世紀から20世紀の日本のあり方、東アジアのあり方、世界のあり方、それを考え直す、そういう機会としてこの2・11の集会の意義があるんじゃないか、と思っています。
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by lumokurago | 2008-02-14 16:13 | JANJAN記事

アメリカはいつも戦争「アレン・ネルソンさんと語ろう ―あなたは戦争の真実を知る―」

 アメリカはいつも戦争「アレン・ネルソンさんと語ろう ―あなたは戦争の真実を知る―」

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 アレン・ネルソンさんと通訳の女性

 2月1日午後6時半から、東京・杉並区産業商工会館で「アレン・ネルソンさんと語ろう ―あなたは戦争の真実を知る―」という集会が開かれました。主催は若者中心の「アレン・ネルソンさんと語ろう」実行委員会です。

【アレン・ネルソンさんプロフィール】
 1947年ニューヨーク・ブルックリン生まれのアフリカ系アメリカ人。海兵隊員として13カ月間ベトナム戦争の前線で戦う。帰還後PTSDに苦しみ、治療に18年を要する。日米両国で精力的に講演活動を続け、戦争の現実と愚かさを訴え続けている。著著に『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか』(講談社)など。

 ネルソンさん(以下、わたし)は自己紹介のあと、まず、戦争で犠牲になった方々に捧げる歌「アメイジング・グレイス」を弾き語りで歌いました。アフリカ系アメリカ人の歌い方だそうです。低く力強く、かつジーンとさせる心のこもった歌声でした。

日本人にも、米大統領選挙の選挙権が与えられるべき

 数年前、広島・長崎で原爆資料館を見学し、大変なショックを受けました。わたしがアメリカで受けた教育が偽りであり、政府によるプロパガンダだと知ったからです。そこで学んだことは愛する国アメリカが、女性、子ども、お年寄り、病院などなど罪なき人々に原爆を投下したという事実で、わたしは涙をこらえることができませんでした。広島・長崎に原爆を投下したことは最悪なテロリズムであり、アメリカがテロを教えた国と言えます。アメリカには他国をテロ国家などと呼ぶ資格はありません。

 アメリカ人として日本の沖縄になぜ米軍基地があるか疑問に思っています。日本人は日本を守るために米軍基地を置いているというプロパガンダを信じている人が多いですが、真実を伝えると、それは日本政府をコントロールするためであって、日本を守るためではありません。日本は今でもアメリカの占領下にあります。

 本土にいて占領状態を認識することはむずかしいですが、沖縄に行って、地元の人と話して下さい。沖縄の人たちは毎日占領軍によって危険な目にあわされているのです。みなさんの国には真の民主主義はなく、アメリカの傀儡政権であり、首相はアメリカの1州の州知事で、みなさんの大統領はジョージ・ブッシュです。みなさんにも大統領選挙の選挙権が与えられるべきです。


アメリカの貧困

 本当のアメリカというのはディズニーランドやCNNや映画ではなく、貧困です。日本にはホームレスの男性がいますが、アメリカには男性だけでなく、ホームレスの女性や子どもたちがいます。彼らは道端や公園、シェルターで寝泊まりしています。スーパーマーケットに行くと入口で物乞いしている女性や子どもたちがいます。

 わたしは北海道から沖縄まで日本全国に行き、貧しい地域を目にしますが、スラムやゲットーは目にしたことがありません。ニューヨークのブルックリンはスラム、ゲットーで、暴力、失業者、麻薬中毒者、アルコール中毒者であふれています。

 アメリカはいつも戦争、暴力に莫大な金をつぎこむ国です。核兵器や大量破壊兵器をたくさん持っているかわりに、人々の雇用や医療に使うお金は少ないです。わたしは貧しい生活を抜け出したくて、1960年、高校を中退し海兵隊に入隊しました。わたしはとても誇らしく、母は喜んでくれると思いましたが、そうではなく、怒りだし、がっかりし、泣き出しました。母はわたしが貧しい生活がいやだと思っていることをわかっていないのだ、と思いました。

 アメリカ軍兵士たちは中流・上流出身ではなく、貧しい労働者階級出身で、スラムやゲットーで仕事がなく生きるすべがない者たちです。日本の自衛隊にも同じことが言えると思います。裕福な者たちは外国旅行をし、一流大学に入って家の仕事を継ぐのです。

 ブッシュは対テロ戦争が重要だと述べ、他人の子どもを戦地に送って殺しますが、自分の娘は絶対に軍隊には入れません。日本の元首相の小泉も、いとも簡単に他人の子どもを戦地に送りましたが、自分の息子は東京でとても安全にしています。ビールのCMで見るほど安全です。戦場で殺し合うのは貧しい子どもたちです。

人殺しになる訓練


 兵士の訓練は想像を絶する厳しさです。初日に口を閉じることを教え込まれます。みなさんは子どもたちを何かを解決するために質問し、自分で考える人間に育てたいと思っていらっしゃるでしょうが、軍隊では「考える」と「思う」が許されません。兵士には考える役目はなく、命令に従うのみです。

 日の出前に起床し、何マイルも走って、訓練を受けます。武器の操縦法を学ぶ授業、ライフルの操縦法、手榴弾の使い方、素手で敵を殺す方法……。多くの政府が軍隊を「平和維持軍」と呼びますが、軍隊では人殺ししか学びません。

 40人位の18歳、19歳位の兵士たちです。上官が「おまえら、何がしたい?」と聞くと、「殺す!」と答えます。「聞こえないぞ!」「殺す!」「まだ聞こえないぞ!」「殺す!」最後にはけもののような怒号をあげて「殺す!」と叫びます。これが軍隊に入るということです。

 軍隊に入るということは確実に人を殺すことであり、自分も殺されるかもしれないということです。イラク戦争はメディアによって誤解されています。兵士はソーシャルワーカーではありません。お年寄りが安全に暮らせるようにしているのではなく、子どもたちにキャンディをあげているのでもなく、病院を作っているのでもありません。殺しているのです。

 さて、わたしも訓練を終え、いよいよベトナム戦争に行くことになって、大変わくわくしていました。ところがすぐにベトナムへは行かず、沖縄の金武町にあるキャンプ・ハンセンでまた訓練することになりました。ここでの訓練は戦車、ヘリコプターを使い、実弾を使って、村を包囲するといったそれまでの訓練とは違った演習でした。アメリカでは射撃の的は「牛の目」と呼ばれる丸い的でしたが、沖縄では人間の形の的でした。

 本物の戦争では弾をはずしたら次は敵が撃ってくる番ですから、絶対にはずせません。本物の戦争では的が小さいとはずす確率が高いので、頭や心臓、足などは狙わず、腹に何発も撃ち込みます。心臓を撃てばその瞬間に死に、苦しみはありませんが、腹を撃つと何時間も痛みに耐え、泣き叫び、やっと死ぬのです。沖縄では腹を撃って人を殺す方法を学びました。

 日中は訓練し、夜、街にでかけました。目的は三つ、酒、けんか、女性です。酒に酔ってタクシーに乗ってもお金を払うことを拒否しました。しつこく払えと言ってくる運転手は殴って意識不明にします。女性を訪れても同じことです。たくさんの人がこういう話を聞いて驚きますが、兵士というのは暴力的になる訓練を受けているので、暴力的な部分を基地の中に置いていくことはできず、暴力をもって街に出かけていくのです。地元に対する暴力事件が明るみに出ると、基地の長官はすぐに謝罪します。が、それは兵士に戦争に行く準備ができているということなので実は喜んでいるのです。

映画にはない戦争のにおい

 いよいよ明日ベトナムに行くという日には、興奮して夜も眠れませんでした。怖くはありませんでした。わたしは映画をたくさん見ました。映画ではハンサムなヒーローが美しい音楽をバックに敵に立ち向かい、女性や子どもを救います。

 わたしは13か月の間、ジャングルでたくさんの人を殺し、人が死ぬのを見ました。ベトナムのジャングルで学んだことは映画とは全然違うものでした。ハンサムなヒーローはいません。誰も女性や子どもを救いません。女性や子どもは自分で自分の命を守らなければなりませんでした。戦争にはルールはありません。眠っていても、食事していても、トイレをしている最中でも即殺す。女性、子ども、お年寄りが一番苦しむのです。

 ベトナムの村を攻撃すると、男たちがわたしたちと戦います。女性と子どもたちは逃げ回ります。男たちを殺し終わった後、女性と子どもたちを探すのは簡単なことでした。水も米もなく3日、4日、5日と経つと、小さな子どもはおなかがすいて泣き叫ぶからです。ジャングルの奥深く入り込み、耳を澄ますだけで、すぐに居所は知れました。

 お年寄りは逃げ続ける体力がないので、女性、子どもと一緒に逃げると遅れます。女性や子どもがお年寄りを待っているところを見たことがあります。しかしお年寄りは決して追いつかないので、そのまま一人で死ぬのです。こういう光景は映画では目にすることはありません。ニュースでもありません。

 攻撃後、死体を集め、数を数え、掃除しなければなりません。男、女、子どもという3つの死体の山を作ります。死体に欠けている部分があれば探してきてくっつけなければなりません。大きなけがをした村人がジャングルへ入って行けば、その死体を見つけなければなりません。

 死体を見つける方法はふたつあります。一つはハエの音です。ハエの飛ぶ方向に行けば死体があります。二つ目はにおいです。腐敗した死体の異臭は強烈なもので、もどしたり、涙が出たり足がふるえたりします。絶対に忘れられない戦争のにおいです。映画にはにおいがありません。においがないので現実的ではありません。真の戦争のにおいが映画についていれば、みんな二度と観ないでしょう。真の戦争のにおいは腐敗した死体、焼け焦げた死体のにおい、火薬のにおいです。

 ジャングルに隠れていた女性と子どもを村に連れ帰ると、最初に目にするものは死体の山です。女性の死体の山を見た子どもがひとりの女性に抱きついて泣き叫びます。若い女性が子どもを引き離そうとしましたが、子どもは死んだ母親にしがみついて、離れようとしませんでした。お年寄りは誰かが生き残っているかと探しますが、誰もいないとしゃがみこんで泣き始めます。

ベトナムの人たちも人間だった

 「戦争であなたの目を開かせたものはなんですか?」とよく聞かれます。ある時、村を攻撃中、たくさんの仲間が死に、わたしも逃げ回って村の家の防空壕の中に入りました。ベトナムの家族は家に防空壕を作っているのです。そこに15、6歳の少女がいて、彼女はわたしを見るとたいへん脅え、怪物を見たような表情をしました。しかし彼女は逃げ出すことはできなかったのです。荒い息遣いが聞こえました。少女はお腹の下に何も身に着けていませんでした。初め何が起こっているのかわかりませんでしたが、少女の足の間から赤ん坊の頭が見えた時、わたしはどうにかしてこの少女の力になりたいと思いました。

 しかしわたしは人殺ししか教わっておらず、命が生まれ出る時のことを教わっていませんでした。とっさにそこに手を出すと、わたしの手の中に赤ん坊が生まれ落ちました。少女は赤ん坊を奪い取り、歯でへその緒を噛み切って、逃げていきました。わたしは目の前で起こったことが信じられませんでした。その防空壕から出た時は、全く違う人間になっていました。ベトナムの人々が人間だったと気づいた本当に大切なできごとでした。私はこのことを誰にも話しませんでした。

 赤ん坊が生まれるのを見たあと、わたしはベトナム人と友だちになろうとしました。子どもと遊ぶようになり、食べ物や毛布を盗んで、母たちに与えるようになりました。

 アメリカでの訓練、沖縄での訓練で、わたしたちは「ベトナム人は人間ではない」と教えられていました。そしてベトナム人のことを、「けだもの」「つり目」「共産主義者」と呼んでいました。軍隊は攻撃相手の人間性を取り払おうとするのです。原子爆弾も人間の上に落とすとは思っていませんでした。「ジャップス」は「ラッツ」と発音が似ていて、「ドブネズミ」のようなものの上に落とすと思っていたのです。

 また、第二次世界大戦中、日本は米英兵をひどいことをして殺しました。日本人は米英兵を「鬼」と呼んでいました。イラクでは米兵はイラク人を「砂漠のサル」と呼んでいます。ベトナム戦争だけでなく、すべての戦争で同じことが繰り返されています。今、この瞬間にもパレスチナ、アフガニスタン、イラク、アフリカ、ヨーロッパ各地で人が殺されています。

沖縄は非常に危険な場所

 沖縄では最も残忍な地上戦が行われました。女性は洞穴、川辺で出産を強いられました。沖縄は現在も米軍占領下にあり、恐怖の日々を送っています。1995年に3人の米兵による12歳の少女のレイプ事件がありました。米兵による暴行事件はこれが初めてではなく、第二次世界大戦以来何千人という被害者がいます。その多くは隠されたままです。米兵による交通事故もあります。

 わたしは子どもを持つ父親として、暴力に囲まれて生活している沖縄の子どもたちが心配です。米兵はみなさんの想像できないことを毎日やっているのです。子どもたちはマシンガンや攻撃の音を聞き、兵器を積んだトラックや武器を持った男たちの乗ったトラックを毎日目にしています。家族を育てるには沖縄は非常に危険な場所なのです。2004年には沖縄国際大学に米軍のヘリコプターが墜落しました。いつなんどき、学校や家にヘリが墜落するかわからないのが沖縄です。

 わたしは1995年の事件をきっかけに1996年から日本を訪問しています。たくさんの人々と基地にでかけ、すべての沖縄の基地を閉鎖せよと訴えています。兵士たちが国へ帰る時が来ている、平和のうちに子どもたちを育てられるようにと、抗議行動を行っています。本土の米軍基地も閉鎖すべきです。第二次世界大戦が終わり、アメリカは占領を終わらせ、国に帰る時が来ているのです。

平和はわたしたちひとりひとりから始まる

 1996年沖縄に行った時、一人の人が日本国憲法の英訳を見せてくれました。9条は信じられませんでした。9条は美しく、どんな核兵器、軍隊よりも力強いものです。日本の子どもたちと話す機会がありますが、彼らは大変美しいです。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、韓国……の子どもたちは戦争を知っていますが、みなさんの子どもたちは戦争の恐怖を知らない。彼らと話すとわかります。お父さん、おじさんが戦争に行かなくてよかったと思います。9条が守っているのです。みなさんはいつなんどき、自分の父親が、夫が死体で帰ってくる、片手、片足をなくして帰ってくるかと心配しなくていいのです。9条の力です。9条が皆さんを守っているのです。9条があるということはどれだけ幸運なことでしょう。

 今、国会ではなんとか9条をなくしてしまおうと策動しています。みなさんは国民としてこれを許してはなりません。今まで9条がみなさんを守ってきました。今度はみなさんが9条を守る番です。9条はみなさんだけでなく世界中のすべての人々にとって大事なのです。アメリカにもあったらいいし、すべての国が取り入れてほしいと思います。世界の平和はアメリカから始まるものではありません。世界の平和は国連から始まるものでもありません。わたしたちひとりひとりから始まるものです。

(次に質問とお答えがありました)

 質問:基地をなくすとすると、どうやって国を守ればいいのでしょうか?

 答:日本政府はかつて侵略した周辺諸国と和解し、平和的共存の道を作り上げる必要があります。日本は侵略によって周辺諸国に多大な被害を与えましたが、例えば「従軍慰安婦」に対しても謝罪、補償をせず、「なかった」とか「証拠がない」とか言い逃れしています。今回の沖縄の集団自決に関する教科書検定でも軍の命令がなかったとしていますが、そんなことは言うべきではありません。

 政府とメディアは北朝鮮が核実験を行った時、いつ攻めてくるかとやっきになって国民の恐怖をあおりたてました。そうやって震え上がらせておけば、税金をもっと軍拡に使えるからです。メディアが北朝鮮は怖いと信じ込ませようとしています。金正日は狂った人ですが、バカではないと思います。アメリカの核兵器が北朝鮮に向けられていることも知っているし、日本本土、沖縄にも配備され、周辺海域にも配備されていることを知っています。世界で一番狂っており、バカなのはブッシュです。ですから日本に敵はありません。周辺諸国と和解すれば基地はいりません。みなさんを守っているのは9条です。

 質問:私も9条で守られていると思います。日本国内に22か所ある原発を一つ二つ破壊すれば、放射能汚染は日本国内にとどまりません。こんな国を攻撃するバカな国があるでしょうか?

 答:おっしゃる通りです。政府はテロリストと戦わなければと、恐怖心を植え付けてコントロールします。第二次世界大戦以降、日本人は一人も殺していないので、敵はいません。アメリカにはたくさんの敵がいます。わたしは日本に来る時、アメリカの航空会社の飛行機は使いません。JALかANAを使います。

 一体誰が力を持っているのかを認識することが大切です。力を持っているのはわたしたち一人ひとりです。中には全く興味を示さない人も情報を持っていない人もいます。わたしたち一人ひとりの責任、任務が大変ですが、みんなに情報を知らせ、眠りから覚まさせる必要があります。わたしたちは世界を変えることができるのです。想像することができ、信じることができます。自分自身を変えることで世界を変えることができます。
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by lumokurago | 2008-02-05 18:02 | JANJAN記事

中村桂子さんの話を聞く

中村桂子さんの話を聞く~水俣フォーラムがJANJANに掲載されました。

私たちひとりひとりの人間は38億年の歴史を持ついきものです。経済優先の価値観を転換して、いきものとして生きていきたいものです。そうできなければ人類に未来はないでしょう。すばらしい内容ですので、ぜひどうぞ。

*****以下、記事です。

 中村桂子さんの話を聞く~水俣フォーラム

 12月14日午後7時から、水俣フォーラム主催で中村桂子さんの講演会(東京・青山)が開かれました。テーマは「生きもの感覚の蘇生―生命誌と水俣から―」です。中村桂子さんは生命誌研究者で、現在はJT生命誌研究館館長です。以下、講演内容の要約です。
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 生命誌絵巻(生命誌研究館)

●「猫も人間もうれしいものがある方がいい」

 水俣については今年の1月に緒方正人さん(注)から「同じことを考えている」とお誘いを受けて、初めて訪れました。本当にきれいな所でした。前に海、後に山があり、子どもの頃から心の中にある風景がありました。そういう美しい所で水俣病が起きたということは逆にいろんな意味を持っているのだろうと思います。緒方さんとお話した中で、最も印象的だったのは、「お金をここに置いても猫は喜ばない。おいしい魚を置けば猫は喜ぶし、人間もうれしい。猫も人間もうれしいものがある方がいい」という言葉で、私もそう思います。いろいろな体験を経てこの言葉があるのだと思います。

※注 おがたまさとさん。
 1952年熊本県芦北町女島に生まれる。漁師。水俣病認定申請者協議会の運動に関わる。1985年、自らの認定申請を取り下げ、未認定患者運動とは一線を画した、チッソ前座り込みや1万人コンサートへの抗議を実施。1996年不知火海の打瀬船で東京まで航海、2004年には、石牟礼道子氏の新作能「不知火」を水俣湾埋立地で公演。おもな関連記事:水俣病が問い続けるもの(下)その教訓は、はたして活かされたのだろうか (編集部)

 私は生きものの研究を50年間続けてきました。結果同じことを考えることになったのです。

●生きもののもつ魅力

 今の緒方さんの言葉とつながることで、このひと月の間に体験したことをお話しします。

 この国は自然が豊かで美しく、自然と接することは基本でした。六本木ヒルズが象徴する東京のありようは、この国の美しさを生かす暮らし方ではありません。日経新聞に「領空侵犯」というコラムがあります。小学校の授業に英語を取り込もうという話題が盛んだった頃に、英語も決して悪くないが、もし小学校で必修にするなら農業がいいと書きました。このグローバル社会でそんなことを言ったら無視されるだろうと思いましたが、意外に反応があって、喜多方市長が「やろうと思う」とおっしゃり、喜多方市の小学校で4月から田んぼを作り、野菜を作りました。1年生から6年生まで、農家のお年寄りに学校に来て教えてもらい、6年生が下級生を指導しながらやっています。お米も取れ、野菜も取れて、自分たちで食べて報告してくれました。秋に訪れました。

 失敗もありました。トウモロコシがうまく実らなかったのです。これはとても大事なことです。コンピュータは押せば動く、誰がやっても同じで、失敗しても機械が悪いと言っていればいいけれど、トウモロコシはおまえが悪いと言っても通用しません。生きものは思い通りにならないということが大事なことです。失敗から大きな学びがあるのです。先生によれば、今のことだけでなく、先のことを長い目でみることができるようになったということでした。

 6年生の活躍もすごいし、能力を引っ張り出したのはお年寄りで、先輩の知恵もありますが、相手が生きものだったということがよかったのです。生きものは複雑でほとんどわかっていません。学問としては進みましたが、わからないこともすごく増えました。「わからない」と言っても全然わからないんじゃなくて、「ここまではこうだけどこの先どう?」というところが生きものの持つ魅力です。6年生の言っていることややっていることを見ると、私と同じだなと思います。生きものを見ると同じものが見えてくるのです。

●コウノトリの里

 もうひとつの体験はコウノトリの里の豊岡です。豊岡ではコウノトリを呼び戻そうと長い間努力してきました。コウノトリは肉食で田んぼのドジョウやフナを食べるので、田んぼの中に生きものを呼び戻さなければ、コウノトリは戻らないのです。豊岡では「育む農業」といって生きものが育まれる農業をやっています。その中に小学校が仲間入りして田んぼを持っています。

 なぜドジョウやフナがいなくなったかと言えば、一つは農薬のせいですが、もう一つは水路をコンクリートにして田んぼと分けたせいです。それで水路の魚が田んぼにあがれなくなりました。木で階段を作って魚道にすれば魚は登っていくのです。子どもたちがみんなで作っています。豊岡の子どもたちはお米がとれたので何かに生かさなければもったいないということで、市長のところにいって、「給食に使ってほしい」と言いました。市長はお米を買い上げて月に2回給食に使ってくれました。

 子どもたちは次にコンビニに行って「おにぎりに使って」と言いました。これは「安定供給できるか?」と聞かれてあきらめたそうです。お米がとれてマーケティングまでやったわけです。英語と一緒に小学生に株を教えるとも言われていましたが、これは立ち消えになったのでしょうか。豊岡の子どもたちは汗水たらして作ったお米の有効な使い方を自分たちで考えて行動したのです。これは経済行為です。6年生というのはそれだけの能力を持っているのです。

●6年生はすごい

 私は6年生の国語の教科書に「生きものはつながりの中に」という文章を書いています。生きものは祖先からずっとつながっているんだ、バクテリアも同じなんだということで、生態学、遺伝学、進化……さまざまな生物学の考えをもとに書いています。このことは中学校の理科では学習指導要領に抵触するので教えられませんが、小学校の国語なら書けてしまう。抜け駆けするのは国語だと思って書いています。私はこれを書くことで子どもたちとつながっています。

 子どもたちから手紙が800通くらい来ました。とってもよくわかってくれているとわかるので返事を書きます。「ぼくはずっと生きていることの意味を考えつづけています。しかしまだ答えが出ません。先生はどうですか?」などという手紙が来ます。すごいですね。「わかりません。ずっと考えているけれどまだわかりません」と正直に書きます。

 私が「6年生はすごいな」という体験ができたのは、そういうことを考えさせる環境があったからだと思います。高層ビルやマンションで育った子どもにその能力が生まれるかといえば、生まれないと言っていいと思います。高層ビルは子どもを育てるところではないと思います。それでは、と夏休みに山や川に連れて行ってというようなことではないのです。日常の中でなければならないのです。農業は生活で遊びではありません。「生きる」ということは「暮らす」ことです。

 以前、子どもたちはさまざまな形で暮らすことに関わらざるを得なかった。ここまで豊かになってもう一度考えると、人間は生きものであることをやめることはできないし、生きものであることはすばらしいから捨てたくないと思います。みんなが生きものとして生き、次の世代もそう育っていくことを望みます。「今の子どもは……」といろいろ言われるけれど、それは子どものせいではありません。

●「生命科学」という言葉

 次に私と学問について話します。1970年に恩師である江上不二夫先生が「生命科学」という言葉を作りました。日本ではこの時に江上先生が作った言葉です。なぜ1970年にこの言葉が生まれたのか? 先生は3つのことをおっしゃいました。

 一つは生物学とは微生物、動物、植物と多様だが、一方では生命を持っているという普遍性(共通性)があるということです。生きものはみんな細胞でできていること、DNAを持っていて例外はないことが当時はっきりわかってきました。それまで微生物、動物、植物等の専門に分かれていましたが、生きもの全部を対象とする「生命科学」が必要だということでした。

 二つ目は生物学では研究の対象にならない人間を考えることです。人間も細胞からできています。「生命」という概念で人間も生きものとして考えるという考え方はそれまでにないものでした。

 三つ目は社会的なこと、「科学技術の問題も生命科学で考えましょう」ということで、「きみもこういうことを考えなさい」と言われました。当時は意味がわかりませんでした。科学については考えるけれど、生命について考えるのは哲学、宗教だと思っていました。今思えば江上先生にはすごい先見の明があったと思います。

 三つ目で最初に考えたのが水俣でした。水俣病はなぜ起きたか? 有機水銀は海に流せば薄められて問題ないと物理学では考えましたが、プランクトン、魚と濃縮し、最後は人間に戻りました。当時、普通の科学者はそういうことを考えていませんでした。生物学で考えたら海の中に生きものがいれば、濃縮されるとわかったはずです。物理学に比べ、生物学は遅れていて、生物学で考える習慣は全くありませんでした。技術のことも生物学で考える社会を作らなければと言われて、その時から水俣は私の中に存在するのですが、直接研究はやっていません。考えさせるテーマとしてありました。

●「終末時計」

 アメリカ核物理学の学術専門誌の毎年1月号の表紙に「終末時計」が載っています。1950年代からです。科学は人間の幸せのためだけではなく、とんでもないこともやるという自覚からです。基本は原爆です。

 一番終末に近づいたのは1953年の米ソ水爆実験のあった年です。一触即発の感じもあってそうなりました。一番終末から遠ざかったのは1991年の冷戦終結の年です。89年にベルリンの壁の崩壊がありました。あの時の歓喜の歌は忘れられません。これから世界はすばらしくなるぞと思いました。こんな社会になるとは思いませんでした。以後、時計の針は終末の方に戻っています。2007年は1953年に一番近いところに来ています。2007年の解説には核の問題、イラクの問題と共に、地球環境問題が初めて入っています。わかるような気がします。次号では針をどこにおくのでしょうか?

●逆の点線

 私はアメリカの大統領でもないし、どうにもできずつらいのですが、子どもたちと一緒に考えたことが本当の幸せだと思います。核を持ち、エネルギーを使って暮らすより、生きものとして生きることが幸せだと思うので、そこから考えています。生きていることと技術や経済はからみあっていますが、経済優先でそのための技術という人がほとんどでしょう。しかし草の根には逆の点線もあるのです。命を一番の基本にして、そのために技術があると考えます。農業にも技術は必要です。生きるために技術を使い、その結果経済が出てくる。社会全体がこちら向きになるといいと思います。

 そうならなければ終末時計の針は戻りません。価値観を変えるより仕方ないと思います。「お金は大事」ですが、使えないほどあっても仕方ないのです。便利さは今、誰もが求めているものです。この国は科学技術基本法、科学技術基本計画によって、科学技術で生きていく国と宣言しています。科学技術は利便性をもたらすからよいこととされています。便利ってなんでしょう? 早くできる、手が抜ける、思い通りにできることです。薪を集めて、火をおこしてご飯を炊くなどはできません。スイッチを押せばご飯ができるのは悪くないです。でも問題は生きものには合わないということです。赤ちゃんがさっさと歩くのは無理。1歳は1歳として、2歳は2歳として意味があるのであって、機械は途中を抜いてもかまわないけれど、生きものは途中に意味があるのです。毎日3度ご飯を食べたり、悩んだり、くだらないといえばくだらないけれど、これが生きているということです。

 自動車を作る場合はよその会社よりも早くたくさん作る。自動車を作るのは設計図と部品によってです。「お米を作る」と言いますが、それはイネを育てる、イネが育つのを助けるということです。イネは設計図と部品では作れません。自動車より生産性は低いです。この国は自動車を作る=工業を選び、イネを育てる=農業を捨てました。自給率が40%となり、さあ大変だ、45%にしなければと言っていましたが、39%に下がってしまいました。先進国で自給率がこんなに低い国はありません。この国は先進国ではないと思います。この国の自然を見れば、その気になれば自分たちの食べるものを作ることができるのになぜでしょう? 経済優先だからです。もし命を先に考えれば自給率を上げることができます。

 もうひとつ先進国でない理由は、一極集中です。これは開発途上国に起こる現象です。高層ビルは人間には合いません。考えるための計算ですが、1億2000万人を47都道府県に均等に配分すると1県250万人になります。すべての機能がそろって暮らしやすい都市の規模は50万~60万が最適なので、それを中心にした暮らしが考えられます。私の職場は関西にありますが、東京にいるのとは違うことを考えます。多様性です。地方分散は豊かさの基本だと思います。

●つづいていくこと

 最近では子どもも「つくる」と言いますが、子どもは「生まれる」ものです。以前は「恵まれる」と言っていました。子どもは生きものなので、面倒くさく、時間がかかり、思い通りにならないものです。一方では思いがけないことがあるということで、それが生きものをみる楽しみでもあります。生きものを基本にするとはそういうことです。

 生きものは何を大事にしているのでしょうか? つづいていくことです。「私がよければいいじゃない」ではありません。そうやって38億年つづいてきました。地球環境問題は便利さのために生きものがつづかなくしているということです。北極の砕氷船のDVDを見ました。映っている絵は全部海で氷はプカプカ浮いているだけで、なぜ砕氷船が必要なのかというものでした。小さな氷の上にクマの親子がいました。あのクマたちはつづくことができるのでしょうか? 映画「北極のナヌー」も見ました。クマは危ういところに置かれています。今までつづいてきたクマたちが人間の勝手のためにつづいていけないとしたら、悲しいです。「それでも別にいいんじゃない」という人の方が多いのではないかと気になります。

 生きものと機械は持っているものが違うので、機械を先にすると生きものは生きられません。生きものを先に持ってきませんか? 今の経済の中では答えは「NO」になってしまいます。私たちは経済のために生きているのでしょうか? 経済は生きるためにあるのに、逆になっています。これを解決しない限り、地球環境問題は解決しません。機械は「進歩」しますが、生きものは「進化」します。アリもいるしゾウもいるけど、どちらが上ということはありません。アリはアリでゾウはゾウです。

●私たちの中にある38億年の歴史

 生きものは細胞でできていて、DNAを持っています。生きものの祖先は一つで、38億年前に海で生まれたと考えられています。それが38億年かけてさまざまな生きものに展開してきました。すべての生きものは38億年の歴史を持っているのです。このことはDNAを調べればわかります。もちろん皆さんも38億年の歴史を持っています。バクテリアもアリもヒマワリもイモリもキノコもみんなそうです。みんな38億年を抱えながら一緒に暮らしている仲間なのです。その生きものが暮らしにくいなら、私たちも暮らしにくいのです。人間だけが外にいると考えており、「使ってやろう」と考えているけれど、これは間違っています。人間も中にいるのです。38億年の歴史はちょっとやそっとで変えるわけにはいかないので、それをわかってどう生きましょうかと申し上げているのです。

 人間だけ科学技術を持っていますが、人間も自然の中にいる「ヒト」です。人間は自然を壊し、いまや地球環境問題まで来ています。典型は水俣病です。私たちの中にも自然があります。内なる自然です。私たちはそれも壊しています。身体的にはアレルギーなどに現れており、心の問題としては時間や関係に現れています。私は心も壊れているんじゃないかなと思います。「忙しい」は心が壊れるということです。のんびり育った子の中にすごい子どもがいるのです。ミヒャエル・エンデの「モモ」はみんなの言うことを聞いてくれる女の子ですが、時間銀行に時間を貯蓄するようになってから、忙しくなって関係が壊れました。

 地球環境問題と心、体の問題は同じです。両方を一緒に考えなければ答えは出ません。まじめに考えれば答えは出るのに……。子どもには時間と関係を与えておかなければならないと言うのは当り前のことです。フィンランドはちゃんとやっています。点数をよくするにはせっせせっせと勉強するのではなく、ゆとりがあればよくなるのだと信じてあげればいいのにと思います。あっちこっちクルクル回らされている子どもたちはかわいそうです。

●「虫愛ずる姫君」

 最後に「虫愛ずる姫君」のお話をして終わります。「愛ずる」はたった一語で生きる基本を表わす言葉です。この姫君は眉を剃る習慣のあった時代に眉を剃らずゲジゲジ眉で、お歯黒もせず白い歯で、髪の毛が邪魔だから耳にかけているようなナチュラリストです。この姫は変わり者で病気かもしれないと言われますが、そうではありません。毛虫はチョウチョになったらはかないのであって、本当の生きる姿(本質)は毛虫の方にある、そう思ってみたらこの虫はすばらしい、そう言っている姫です。物事をよーく見つめ、時間をかけて大事にした時に生まれる愛があります。この愛は「love」ではありません。もっと深い愛です。「生きている」を見つめることによってどうやって生きたらいいのかはおのずと見えてくるということを教えてくれるのです。

※当記事の内容は、中村桂子さんに確認していただきました。(筆者)
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by lumokurago | 2008-01-07 13:56 | JANJAN記事

東京環境行政訴訟原告団協議会・発足記念集会の報告

東京環境行政訴訟原告団協議会・発足記念集会の報告

 11月29日、東京の弁護士会館クレオで、東京環境行政訴訟原告団協議会の発足記念集会が開かれました。集まった原告団は次の6団体です。筆者は杉並区在住で浜田山・三井グランド環境裁判の傍聴を続けてきた者です。

・小田急高架と街づくりを見直す会
・まもれシモキタ!行政訴訟の会
・梅ヶ丘駅前けやきを守る会
・日赤・高層マンションから環境を守る会
・羽沢ガーデンの保全を願う会
・浜田山・三井グランド環境裁判原告団

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 原告団代表のみなさん まず、東京環境行政訴訟原告団協議会代表の小山伸二さんのあいさつがありました。

 ――原告団協議会の結成の経過についてお話ししたいと思います。三井グランドの裁判は2005年12月の小田急高架訴訟最高裁大法廷で門戸を開かれた原告適格の、その実質的な意味を問う初めての裁判でした。しかし、本裁判に先行して、違法な車両通行の認定処分執行停止の申立てに対して、杉原裁判長は「原告適格なし」で却下しました。残念ながら改革に逆行するものであり、裁判長ら裁判官3名に対して忌避申立てを行いました。現在北海道から沖縄まで214名の弁護士が判決の撤回を求める意見書を提出しています。

 この判決は他の原告団にも大きな影響を与える大問題であり、市民がつながる必要があると思います。国も建て前では緑を守るといっていますが、経済至上主義、利益追求はとどまるところを知らず、企業の質が問われています。行政はそれを押しとどめるのが役割であるはずなのに、全く逆に官民癒着し、嘆かわしい状況です。三井グランドでは官民談合によって84,000m2の大地にコンクリートが流し込まれ、樹齢60年の古木が切り倒され、痛めつけられています。

 20世紀は資本家と労働者の闘争が軸でしたが、21世紀は地球環境の維持が最大のテーマです。次世代のためにも心を一つにして立ち上がり、環境破壊行政に圧力をかけ、各地の環境破壊を食い止める貴重な一歩となりたいと思います。古い行政と癒着した司法の横暴と闘っていきましょう。――

 次に6つの原告団から3分間ずつのスピーチがありました。それぞれの裁判についてわかりやすく紹介することは筆者の手に余るものです。まとめて言うと、これらはすべて行政と大企業とが癒着し、違法な手段で建築基準を緩和して街を高層化し、緑と住環境を破壊する都市の再開発であり、原告団はかけがえのない環境を保護・保全して人間が暮らしやすい街を子どもたち、孫たちのために残していこうという目的で裁判を行っています。

 続いて、小田急高架訴訟で最高裁大法廷の「原告適格」を勝ち取った斉藤驍弁護士(以下、私)の「小田急大法廷判決はなんだったのか?!」のお話がありました。

 ――私は弁護士になって43年になります。昔は40年間弁護士をやりますと弁護士会は表彰状をくれたのですが、現在は50年やらないとくれません。しかし43年は長いようである意味、短いものでした。全く偶然ではありますが、私はずっと環境裁判をやってきました。学生の時は特にそういう気持はなかったのですがね。

 私の学生時代は60年安保で、改定に反対していましたので、戦争と平和の問題に関心がありました。当時水俣病はすでに発生していて、厚生省は1950年代に掌握していたことを後になって知りました。大変な公害でしたが、私は深い関心を抱くことはできませんでした。弁護士になって、結果として環境裁判をやるようになったのも、田中角栄の日本列島改造論からです。3大改革と言われた中で特に大きかった日本一の開発は鹿島臨海工業地帯の開発で、これは高度成長を代表する開発でした。

 中学生の時に遠足にいった水郷は水の豊かな美しいところでした。水が豊かだから工場にもってこいだと、鹿島が選択されたのです。そして巨大開発に公害はつきものです。高度成長路線にアンチテーゼを作らなくてはと思ってやりましたが、私が直面したのは鹿島水郷の自然破壊で、それを契機に目の前で展開していく社会の変貌はすさまじいものでした。

 当時は映画全盛期で黒澤明もいましたが、今井正の「米」を中学校の鑑賞会で見に行きました。「米」に描き出された水郷の豊かな自然がわずか10年で失われました。その頃から反対している人も今日、来ています。昭和30年代から環境と民主主義を守るためにがんばっている人たちがいます。保守と言われる茨城で、鹿島だけ異例なのです。鹿島市の労働組合は35年間無料法律相談を行っており、その相当部分を私が担当しました。崩されていく人間の営み、その中のさまざまな問題を解決するためにいささかお役に立つことができたと自負しています。

 21世紀は「環境の世紀」と言われます。先ほど小山さんが20世紀は資本家と労働者の闘争が軸であったとおっしゃっていましたが、革命と戦争の繰り返しでありました。21世紀には別のものが立ちはだかっています。それは20世紀の資本主義経済が作りだした非常に大きな負の側面であり、簡単には回復できない状況にあります。

 環境問題の根っこは20世紀の資本主義、ソ連などの社会主義が生み出したものです。それをはっきり見ておかなければなりません。それを自覚し、自己変革していくことは、口先では簡単ですが、本当は大変なことです。先ほど原告団の6人の方々が自分たちの問題を話されました。都市の環境問題、開発と公共事業の問題は、緑が失われるというだけでなく、人間的な街そのものが失われる状況にあります。

 一昨年、大法廷判決が出るまでは、被害原因である、鉄道・道路・マンションなどを作ることに対して、その事業の地権者を除く周辺住民は、法律上裁判所でクレームをつけることはできないという判断が日本の裁判所を支配していました。ある意味、わかりやすい被害やテーマを裁判所が受け入れないままだった何十年だったわけです。

 つまり裁判所は教科書で学んだような裁判所ではなく、裁判官も官のうち、司法官僚なのであって、そこに政治家や企業が集まり、その中で司法が作動している現実なのです。裁判員制度を創設したり、司法試験をやさしくして3,000人以上合格させたり、ロースクールを作るという、カギカッコつきの司法「改革」の流れの中で、行政訴訟をどうするのかは大問題になっていました。しかし、今までのように安直でよいと考えていることが、今回、三井の判決ではっきりしたので、忌避の申し立てをしたのです。

 裁判所と我々の関係は今に始まったことではありません。皆さんは裁判所は救ってくれると思うかもしれませんが、実際にはどうでしょうか。

 以前、高度成長の陰で泣いていた貧しい諸君が裁判所に問題を持ち込んでいました。その問題に胸を打たれる人間的な裁判官は相当数いました。1966年から70年当時は人間的な裁判官の主張が最高裁の中でも主流の状況にあったのです。家永教科書訴訟で、教科書検定が憲法の表現の自由に反する、違憲であるという判決も出されました。裁判の歴史を調べると、今では驚くべきことですが、わずか4年の間だが、裁判官の良心が発揮されたのです。私は弁護士になってたった2年生で違憲判決を取ることができました。

 しかし、反動はすさまじかったのです。良心的な判決を出した裁判官は配転され、窓際に追いやられました。『犬になれなかった裁判官』という本をぜひお読みになってください。リベラルな裁判官に対して権力の反作用がものすごかったのです。

 それが揺らいだのが小泉の時代でした。それまでのように杓子定規にやっていては国民から信用されなくなる、裁判所がそうなったら困るということで、多少格好をつけなければならなくなりました。一番悩んだのが行政訴訟をどうするかでした。まず、誰を裁判に参加させるかの問題で、原告適格の門戸は広げなきゃ話にならないということで大法廷判決が出されました。門を開けたらちゃんと座敷に上げて、応接しなくちゃということで、役人の裁量行為(専門家である役人が裁量で決めること)を裁判所がコントロールする「裁量統制」をすぐ始めるべきである、ということになりました。

 そう当時主張し、マスコミも支持しましたが、実際のその後の判決はどうであったのか? 地裁は前庭のようなところで、最高裁で訓練を受けた働き盛りのエリートが行政裁判の担当になります。三井グランド裁判の担当になった杉原は小田急の大法廷判決に下働きの調査官として関わっており、この判決について非常によく知っているのです。調査官というのは下働きと言っても大きな力を持っています。この人が三井グランド裁判に来たので、今の主流派の考えがよくわかると思って、プロセスを見ていました。強い期待を寄せていたのですが、最終的にとんでもない判断をしました。

 小田急裁判は都市計画法による都市計画事業認可の是非を争うもので、この問題は道路・鉄道・公園などに関わる日本の法律の極端に言えば9割を占めるものです。大法廷判決はそれを争えるようにしたのではと思っていましたが、杉原の判断は「道路法は公益を守るもので、市民の利益を守るものではない」というものでした。この論理では、問題はみんな射程外になってしまいます。

 私はこの40年間に忌避の申立ては2回しかしたことがありません。しかし大法廷判決に水を差す逆流は阻止しなければなりません。多くの友人弁護士たちに支えられ、忌避を申し立てました。今後も弁護団と原告団は車の両輪としてがんばっていきたいと思っています。――

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 会場の様子 

 次に福川裕一さん(千葉大学)による「都市計画の抜本的見直しと裁判について」というお話がありました。専門的なお話が少しむずかしかったので、わかる範囲で簡単にご報告します。

 ――21世紀に入れば、環境・都市問題は好転していくのではないかと思っていた。アメリカ、イギリスでは落ち着いた都市を作る運動が出てきているし、歴史的町並み保存の数が増えている。大気汚染訴訟にも和解勧告が出たし、景観法もできたので、もうちょっとなんとかなるかと思っていた。けれど、逆の方に向かっている

 三井、羽沢、日赤はともに緑をつぶしてマンションを作る開発だが、こういうことはあちこちで起きている。都市の土地の使い方に構造的変化が現れている。企業の寮がマンション業者に売られたり、20年ほど前に公共施設を作ろうと考えていた土地が、次々と民間業者に売り渡され、巨大な高層マンションが建つ。みんな大規模開発でとにかく戸数が入ることしか考えておらず、しかもそれがよく売れるという恐ろしい時代になった。業者は「開発いたしますが50%は緑地にいたします」と言ってくる。しかし、こぎれいではあっても建物の上に緑を貼ったようなもので、勘違いが山のようにある。もともとあった緑に戻すべきだといっても受け入れられない。

 下北沢も道路拡幅と高度利用を根拠にしてきたが、それはおかしい。まちづくりの先達と言われた世田谷でこんなことが起こったのでショックだ。地方分権を言い、国の関与をなくすべきだと言ってきたが、これが逆に働き愕然とした。正しいことを言うと逆になることがたくさんある。

 伝統的な敵は、日本は狭いから高層化すべきだ、車が多いから道路を広げるという考えだ。それと、いったん決めたら青写真通りに作る、計画どおりに作らなければろくなものはできない、というのもおかしい。大規模化すれば緑地がとれる、公園をつぶしても高層化すればスペースができる、というのもまやかしだ。

 これらのドグマの根本は1920~30年にこれからの20世紀の都市は「オープンスペースがあって、真中に塔」だとされたことだが、その思想はいろいろなところで破綻している。しかし日本ではその古い思想のまま、大規模化・高層化を促進している。

 ナオミ・クラインが『世界』で「理想の世界に近づけないのは理想がないからだ。エリートはやる気がない。正義を行えば利益を失うけれど、正義を行わなければもっとひどいことになると思った時、正義を行う」と言っている。このことを裁判で追及できたらと思う。――


 それから斉藤弁護士が来賓の紹介を行い、最後にアピール宣言を採択して集会を終わりました。
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by lumokurago | 2007-12-03 23:52 | JANJAN記事