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カテゴリ:戦争体験の証言集( 6 )


戦争体験を聞く会(再掲)

若い人たちと一緒にやっている会で、戦争体験を聞いています。今日はシベリア抑留の体験があるSさん(81歳)でした。以下は要約です。

日本の歴史は戊辰戦争から、太平洋戦争まで戦争のくり返しだった。その後、一人も死なない、殺さない60年が過ぎて、これからはどうなるのだろうか?

自分は戦争の話をしてほしいと言われても断ってきた。それはなぜか。

自分は一兵卒として戦争を見たが、戦争のとても狭い一部分しか見ていない。戦争は悲惨だと言っても、今は伝わらないと思う。シベリアでの食事が豆が二つ三つ浮いた薄い塩味のスープだったと言っても、今の人には実感としてわからない。また、自分の話は部分としての戦争の話で、うそになる可能性もある。原爆の話、東京大空襲の話、南方の話などなど、戦争の悲惨さが語られるが、それは一部分である。敵が来なかったからのんきに海水浴してたよというところもある。

戦争を語ろうとする者は勉強して「なぜ戦争はダメなのか」を認識しなければならない。しかし、なぜ日本はこぶしを振り上げなければならなかったのか、なぜ戦争をしなければならなかったのかが、話をする本人たちがわかっていない。
司馬遼太郎も第二次世界大戦のことは一言も書いていない、勉強すればするほど書けない。

戦争は国と国とのバランスが崩れた時に起こる。国と国とは外交で交渉しているが、外交の背景には戦力がある。今、アメリカとしては中国とのバランスを考えなければならない。その中で日本がどういう立場を取るのか、アメリカに追随するのはおかしい。

日本は技術を持っているので、実質的な軍事力は世界で2位だ。技術を戦争に生かそうとすればそうなる。とてもこわい国。

今、国会で多数与党がどんどん法律を通そうとしているが、違う意見を聞こうとせずに、法律を通すような国は最低だ。選挙が一番大切。多数派が勝手にできないような体制を作っておくことが大切だ。

今、どんどん物が増え、便利さを追求しているが、「足るを知る」ことが必要だ。「人間はこのへんでいいんだ」と認識しない限り、儲けを追求する限り、戦争はなくならない。

戦争をなくすために大事なのは歴史を勉強すること。学校では幕末位で歴史の勉強が終ってしまうようだが、現代からさかのぼって勉強した方がいい。

自分と兄が戦争に行って、母はどんなに心配したことか・・・そんな思いをしないためには、勉強すること。憲法改正を絶対に阻止しなくてはならない。

質問:アメリカはなぜ3兆円を自分で払わないのですか?

戦争にはお金がかかる。戦争は前線で戦っているだけではない。弾も必要、食糧も必要、補給しなければならない。戦争のためにすべてが動員されることになる。
イラクで米兵の死者が何人かわからないが、3000人とすると、その背後に5倍の人間が廃人になっている。足がなくなったとか、失明したとか、精神的な病気になったとかの人がそれだけいるだろう。戦争とはそういうもの。その人たちの保障にも莫大なお金がかかる。

トヨタは1年で1兆何千億も儲けている。ひとつの企業がそれだけ儲けるのだから、3兆なんて安い。アメリカはそう思っているだろう。日本政府もそう思っている。

感想:そうなのです。悲惨な体験を語るだけでは「反戦」にならないのです。戦争はなぜ起こるのか、なぜ止められないのかを知り、行動することが必要なのです。もっともっとSさんの話を聞きたいと思いました。

(2006.5.20に掲載したもの)
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by lumokurago | 2009-04-30 12:09 | 戦争体験の証言集

戦争中の結婚式

◆ 戦争中の結婚式
(阿佐ヶ谷在住Tさん・1925年生まれ・80歳)

戦争の時のことを話してくれと言われても、まとまった話はできません。終戦後、古いことはみなだめと言われ、忘れるようにしたんです。若い人は誰も聞いてくれなかったし、忘れよう、忘れようとしたことですし、思い出したくないことでもありました。若い人に話してもわからないので、なるべく言わないようにしてきました。だから、とぎれとぎれの話になると思いますが、それでもいいですか?

私は北海道で生まれ、弘前で育ちました。8人きょうだいでしたが、ずっと女ばかりで、弟は5歳でした。だから、父が、「近所はみんなお国のために兵隊を出しているのに、うちは肩身が狭い」と言って、「おまえを兵隊だと思って東京に出す。親が危篤になっても決して帰ってきてはいけない。兵隊はそういうものだ」と言われて、東京に出ました。

挺身隊で日本電気に行っていました。作っているものは内密で何か全然わかりませんでした。残業して夜食が出ましたが、豆カスといって、大豆の油をしぼったカスのスープで、傾けると汁ばかり。それがほんの少しでした。食べ物は配給でサツマイモ一個でもあればいい方。しまいには配給もなくなりました。肥料がなかったので、かぼちゃもサツマイモも水っぽくて、今のようにほくほくでなく、おいしくないのです。サツマイモの 茎もかぼちゃの葉っぱも茎も全部食べましたよ。アカザという草も食べていました。お米がなくて、おイモとアカザのおかゆを食べていました。

一番こわかったのは空襲です。目黒の洗足にいましたが、B29が来て焼夷弾がバラバラ落ちてきました。雨あられと落ちてくるんです。防空壕に入っていましたが、ニュースで見ました。小さな防空壕だったので、よく生きていたと思います。一晩中空襲があるので、夜眠れないんです。一晩ゆっくり眠りたいとどれほど思ったか・・・とにかく眠かったです。

日本電気も爆撃を受け、明日元気にまた会えるかわからないので、毎日さよならの時は握手して別れていました。若いみそらにお化粧をすると非国民と言われ、 着るものもなく、おしゃれもお化粧もできませんでしたが、戦地の兵隊さんを思えばなんでもないと思い一生懸命働きました。あんなにいやな戦争なのに、今でも軍歌を聞くと気持が高揚するので、体に染み付いたものは本当にこわいです。こんな話でいいんですか?

私は昭和20年7月6日に結婚しています。 相手は同じ日本電気の人です。シナ事変に3.4年行って、帰ってきて日本電気にいました。後輩のお別れ会の時に台所を手伝っていたら、夫のお姑さんに包丁の使い方が気に入られ、親が決めて結婚したのです。子どもだったので男の人がどういうものかもわからない。恋愛もない。結婚式の日に初めて相手の顔を見たなんていうことも普通でした。三越の地下に結婚式場があって、そこで結婚式をあげました。何もない時代 でしたが、夫の親戚が一人一口ずつくらいお赤飯を持ってきてくれました。 結婚式の最中にサイレンが鳴り、B29が来たので、シャッターを下ろして出入りのできない状態でした。

結婚の許可を得るために弘前に帰ったのですが、汽車の切符もなかなか買えず、同じ課にいた駅長の息子に頼んでやっと買ってもらいました。一日二日で帰ってきたら、東京 は焼け野原でした。 やっとの思いで寮のあった渋谷に行ったら、立て札があって「田園調布に来てください」と書いてありました。下町の空襲の時は遺体もみつからない、みんな川に入って死んだそうです。私はそんな思いはしていないのでいい方です。隣の奥さんがとてもきれいな人だったのに、顔にやけどをして気の毒でした。

友だちに広島の人がいますが、その人の話を聞けば、こんなもんじゃありません。川が死体で埋まったそうです。「水、水」と言いながら死んでいったそうです。その人も長い間広島の話はしませんでしたので、聞いたのは何十年も経ってからでした。

それにしてもあんな不発弾を竹ぼうきや、水や砂でよく消せたものです。白い割烹着を着て、たすきをかけ、バケツリレーで消したんですから。敵が来たら竹やりやなぎなたで向かっていって死ぬのが前提でした。なにしろ無知でした。とにかく日本は勝ち戦をやっていると報道していましたから。本当はアメリカに暗号も解読されていたんですものね。そんなアメリカが今、なぜ把握できないのか不思議です。

戦争に負けて日本はさぞがっかりするだろうと思ったら、若い人が進駐軍と手をつないで歩いていたのでびっくりしました。生きていかなければならないから体を売ったのですね。進駐軍からの配給で、ソーセージの缶詰と乾燥バナナをもらった時は、この世にこんなにおいしいものがあるのかと思いました。戦争が終わってもすぐにはよくならず、子どもにみじめな思いをさせたくないとがんばりました。平和な世の中になったのは昭和30年後半でしょう。

特攻隊のことは忘れてほしくないです。今の日本があるのは行きたくないのに行ったあの人たちのおかげですから。靖国の遺言は検閲もあったでしょうが、みんな立派なことを書いていて涙が出てきます。国と親兄弟を守るために戦争に行ったのです。あの時はみんなで波のように戦争に向かっていきました。反対すれば「非国民」と言われ、憲兵に引っ張っていかれたのです。

もう二度と戦争はいやです。
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by lumokurago | 2007-12-16 20:42 | 戦争体験の証言集

疎開生活のこと

◆ 疎開生活のこと

(久我山在住Kさん・1910(明治43)年生まれ・95歳)

上の娘が女学校1年、下の娘が小学校5年の時に、私の実家のある愛知県豊橋に疎開しました。子どもたちは豊橋の学校に入りましたが、勉強はせず、動員されて毎日鉄砲の弾作りをしていました。そのうちここはもう危ないと言われ、もっと田舎の鳳来寺村というところに再疎開しました。鳳来寺村は山と川ばかりのさびしい村で、防空壕もありませんでした。山の上に神社が一つと、宿屋が1軒あり、その宿屋が懇意だったので、2階に一部屋借りて住みました。妹の家族もそこに来ました。陸軍病院の軍医もそこに泊まっていました。

下の子はかどや小学校に入りました。みんなわらじばきだったので、「東京の子は運動靴」と珍しがられました。わらじ作りを教わって、今でも思い出して作っています。上の子は村に女学校がなかったので、女子農学校に入りましたが、毎日鍬をかついで、1里も歩いて松根掘りに行き、体を壊してしまいました。

この村には食べ物を売る店がないので、自分が食べる分は自分で作るしかありませんでした。宿屋の地所を借りて、妹と一緒に慣れない百姓をやりました。肥料は人糞でした。お米のご飯はめったになく、豊橋の実家から持ってきてくれたカボチャや大豆を食べていました。隣村に豆腐屋があり、行列すれば買えると聞きましたが、子連れなので行ったことはありません。妹はビスケットを作る会社にいたので、氷砂糖を1箱持ってきていて、一握りを百姓にシイタケと交換してもらったり、本当に食べるものには苦労しました。農家の手伝いをしてぼたもちを出してくれましたが、普段食べつけないので子どもはおなかをこわしました。

着る物は持ってきたものを着て、あとは宿屋の倉庫に預けました。洗濯も洗濯機などなくて、前の川で洗濯するのですから、石けんなんてやってもいいかげんなものでした。着る物のシラミと頭のシラミの両方が移ってしまい、子どもが先に移って、大人に移り、おばあちゃんにまで移ってしまい、薬やなにかに苦労しました。子どもは東京に帰ってもシラミがいて、学校でいじめられたそうです。赤ちゃんのオムツも川で洗ってましたので、下流の方では水が汚れていたと思います。まあ、人がたくさんいないから、そんなではないかもしれませんが。

あと、当時はガスなどなくて、七輪で火をおこしたり、お風呂も焚き物だったので、妹と近くの山へ大八車を引いていき、落ちている木を拾ったり、木を切って集めて持って帰りました。これも重くて大変でした。炭は実家からもらってきました。冬はかなり寒かったけれど、暖房がないので、夜は早く寝ちゃってました。

終戦の時は、鳳来寺にいました。陸軍の看護婦が宿屋の将校さんのところに、「無条件降伏した」と知らせてきましたが、みんなで「そんなはずはない」「うそ」「うそ」と言いました。無条件降伏するわけがないと信じられませんでした。でもうちへ帰れるからよかったかもしれないと思いました。そのうち本当だとわかって、戦争がすんだら、この宿屋も商売をするから引きあげなくちゃとなり、しかし進駐軍が悪いことをするといううわさだったので、東京へは帰らず、豊橋に戻りました。

豊橋も空襲を受け、一晩で9割がた焼けてしまいました。親や妹は真っ暗闇の中、焼夷弾の落ちているうちはちりじりになって逃げ、落ちるのがやむと名まえを呼び合ってはひとところに集まったということです。実家も焼けてしまいました。近くに開発した新田があって、私たちはしばらくの間、そこにおいてもらい、12月に東京に帰りました。鳳来寺に1年ちょっと、豊橋に数ヶ月いたので、疎開していたのは合計で1年半くらいです。

主人は銀行に勤めて、東京にいました。1年半の間、自炊していました。雪ヶ谷に住んでいましたが、そのあたりにも爆弾が落ちて亡くなった人がいます。本所の店のあたりはみんな焼けて、たくさんの死体を焼いていたのを見たそうです。私は疎開していたので、そういうおそろしい目に合わずにすみました。

日本が戦争を始めた時は、相手がアメリカと知って、「だいじょうぶかしら」と思いました。戦争に勝つか負けるかは考えたことはないですね。ただ一生懸命、戦争の体制についていくのに必死でした。今から思えば、もう少し冷静に考えるべきでした。でも当時は誰一人反対する雰囲気もなく、とにかく戦争に協力するようにと思い込まされていました。指導者が悪いというより、みんなが思い込んでいました。無理強いでなく、自分たちでそうしなければと思い込んでいたのです。勝つか負けるかなんて結果のことを言う人はいませんでした。親のせい、学校のせいというより、普段からそうなるように育っていて、なんとなくそうなっちゃったという感じで、本当におそろしいものです。

内村鑑三は戦争に反対していました。あれは日露戦争ですが・・・。たまにそういう人がいてもみんなには通じませんでした。日本はロシアに勝ったので、安易な気持でいたのかもしれません。反対することを言えば、ひっぱられたかもしれません。私は意気地がないから何も言いませんでした。大きな会社でも銀行でも協力しなきゃいけないとなってしまい、そういう体制というものはおそろしいものです。

Q:靖国神社についてどう思いますか?

A:A級戦犯のお骨を入れなければよかったのにね。あんなに言われるのなら早くやめたらと思っていましたけれど、外国の人の思っているようにするのも芳しくないと思います。政治のことはわかりませんが、男の人に聞いたら、外交的にはつっぱった方がよいと言っていました。一つこっちの欠点をみつけて、やっつけようと思ってやっているんでしょうね。でも日本は中国や韓国にひどいことをしているから、あまり大きなことは言えません。関東大震災の後から朝鮮人のことを忌み嫌っていました。シナ人のことを当時、中国は遅れているからと、「チャンチャン」と言っていたんですよ。日中戦争の前も満州事変からひどいことをしていたし、その人たちが伝えて、今でも恨んでいるのだろうかと思います。

Q:戦後の日本を振りかえって、日本人が失ったものは?

A:日本は豊かになりすぎたと思います。何につけても我慢することをしなくなりましたね。昔は暖房がなくて、寒くても文句を言わなかった。諦めていたのかもしれませんが。今は親を殺したり、自分の子どもを虐待したりしています。昔から悪いことをする人はいましたが、今とは違うと思います。自己主義になったのでしょうか。昔は親のことを思ったり、きょうだいのことを思ったりしたけど、今の人は違いますね。上から押さえつけられていたのがなくなって自己主義になったのでしょうか。

Q:正義のためなら再び戦争に参加することが必要と思われますか?

A:いくら正義のためでも戦争はいけません。私たちは戦争はもうこりごりだけれど、若い人たちが戦争のことを知らなくなっていくと心配です。戦争の悲惨さ、みじめさを伝えていかなければなりません。沖縄でもおばあさんたちが戦争体験を伝えていこうとしているそうです。
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by lumokurago | 2007-12-15 21:30 | 戦争体験の証言集

ほんとにばかな戦争

◆ ほんとにばかな戦争

(久我山在住Kさん・1923(大正12)年生まれ・82歳)

戦争中は四谷に住んでいました。父が早く亡くなって、女ばかりの家族5人で暮らしていました。自分のうちは絶対に焼けないと思って、焼夷弾を「きれいだな」とのん気に眺めていたのですが、空襲警報で、親と別々の方向に逃げ、私はガード下に入りました。母は防空壕に入っていましたが、出て、四谷見附に逃げました。新宿まで焼け野原でした。足袋屋があって、その中に入っていたら、兵隊が来て「ここにいたら死ぬぞ」と言われ、出て逃げました。家族全員がなんとか助かりました。本当に運がよかったのです。

焼夷弾が落ちてきた時、なにもわからなかったので、バケツリレーや箒でたたけば消えると言われ、ありえないことを信じてやっていました。空襲で亡くなった人も多いです。焼夷弾の時は、まだよかったですが、機銃掃射になると、完全にその人をめがけて撃つので、一発であの世行きでした。戦争だけは二度と起こしてもらいたくないですね。迎賓館をめがけた弾がうちに来たのです。ものすごかったです。

母の弟が本所の服部時計店にいて、焼け出されて、真っ黒な顔で逃げてきたのを覚えています。私は死人を見ていませんが、そこらじゅう死人の山で、死体を踏み越えて四谷まで来たと言っていました。友だちは、妹を助けようと舟に乗せ、自分は乗れなかったのですが、その舟に焼夷弾が直撃して、自分は生き残って妹が亡くなりました。自分は家族に亡くなった人はいません。自分はよかったけれど、まわりは亡くなった人ばかり・・・。

とにかく食べ物がなくて苦労しました。子どもだったので、アカザの葉っぱを取ってくるのですが、しょうゆ、みそ、塩など何もないから食べようもなく、逆に母からおこられました。千葉に買出しに行きましたが、習志野連隊があって、道路に穴ぼこがたくさん掘ってあって、夜行くと、まっくらなのでその穴に落ち、大変でした。妹はがっしりしていましたが、自分は体も小さいので半分位しかしょえず、本当に苦労しました。 錦紗の着物は農家にあふれ、木綿がほしいと言われましたが、木綿は焼けてしまってないのです。妹が陸軍にいたので、地下足袋をもらい、食べ物に換えてもらいました。

下の妹たちは小学生だったので、集団疎開しました。母が会いに行ったら、歯磨き粉を食べていたそうです。当時は粉の歯磨き粉があって、甘く感じたので、子どもたちが食べていたのです。妹たちは服や頭にシラミがついて、一日中シラミ取りをしていたそうです。母はどんなにかつらい思いだったろうと思います。

また、水みたいなおかゆを並んで買うのですが、「今日はもうないよ」と言われれば、せっかく並んでも終わりです。あのおかゆを作っていた人はいい思いをしていたのではないでしょうか。
なんでも配給で、銘仙の生地が半丹とか来ても、もんぺ一人分にしかならず、5人で分けようもないのです。落下傘のミシンかけをやっていたので、落下傘の布をもらってきて、シュミーズを作りましたが、生地が分厚いので夏など使えませんでした。

終戦は買出し先で聞きました。今日から電気をつけられると思い、ほっとしました。負けるとは思っていませんでしたが、総司令官の山本さんが亡くなった時に、近所で「日本はもう絶対に勝てない」といううわさが広まりました。おおっぴらには言えませんでしたが、本当はもう絶対にだめだとわかっていました。山本さんが戦争に反対していたことは、人づてに伝わって、知っていました。外国に行った山本さんが無理だと言っていたのだから、本当に無理だったのです。陸軍が血気高かったんですね。でも当時は考えている余裕がありませんでしたし、勝つと信じていました。反対なんて言ったらすぐにひっぱられたのですから、そんなことを言えるような状態ではありませんでした。

本当におそろしい世の中でした。助かったのが不思議です。

夫はサイパンにいた時に終戦を迎えましたが、後方部隊と離れてしまっていたので終戦を知りませんでした。穴倉に住み、夜、岸壁を降りて、カニをつかまえて、生のまま食べていたそうです。最後に2人残っていましたが、夫は覚悟を決めて出て行ったところ、アメリカの捕虜になりました。アメリカは寛大なところがあり、夫は音楽をやっていたので、うろおぼえで吹いてあげたら喜ばれて、よくしてくれたそうです。前線に出ていたのに死ななかったのは運がよかったのでしょう。終戦後結婚したので、これは結婚してから聞いた話です。

夫の兄が亡くなったので、亡くなってから50年間、お寺にお金を送っていました。靖国神社のことも、中国、韓国からはよく言われませんが、戦死した家族としたらいつまでも冥福を祈る気持があり、私もおまいりに行っていました。戦犯を排除したらいいと思います。

進駐軍は鷹揚で、私は気が小さいので行っていませんが、近所の人はチョコレートもらいたさによく行っていたようです。食べ物はよくしてくれました。トウモロコシの配給があって、北海道出身の人にゆでてつぶすとおかゆのようになっておいしいと教えてもらい、そのようにしました。食べるものがないので、それが最高においしかったです。あのひもじさは今の方に言ってもわからないと思います。ほんとに何もないんですものね。

南京陥落の頃は、軍の指令で日の丸をかざしてちょうちん行列をしました。私は何もわからなかったので、YMCAの2階から見て喜んでいました。それが一変してあんなふうになって、あまりにも刺激が強すぎて、忘れられません。

日本はアジアの国を痛めつけたから、やがては仕返しをされても仕方ないという気持があります。日本人なので「知りません」じゃ通りません。日本は中国で本当に残虐なことをしました。もし戦争に勝っていたら、軍人がもっと残虐なことをするようになっただろうということで、「負けてよかった」と言う人もいます。軍人は沖縄で防空壕から女の人を外側に追い出して、自分たちが奥に入ったり、身勝手なことをしていたので、その意見もわかるような気がします。士官級以上の軍人にはいくらでも物が手に入ったので、売って歩いた人もいます。軍はほんとに自分勝手でした。

今の世の中は不安なので、切実に感じます。今の日本をまわりから見たら、アメリカに加担していると見えます。戦争は勝ったところで死人は出るので、絶対にしてほしくないです。自分がそういう立場にならないとわからないのだと思います。今の若い人たちや子どもに話してもどこまでわかるか疑問です。自分の子や孫も、食べ物の大切さはいくら言ってもわかりません。物にあふれ、すべてにあふれ、物を大切にする心が乏しいですね。

ほんとにばかな戦争でした。あまりにも外国を知らなすぎたと思います。
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by lumokurago | 2007-12-08 20:47 | 戦争体験の証言集

植民地の生活

◆ 植民地の生活 (戦争体験の証言集 その2)

本天沼在住Kさん・1926(大正15)年生まれ・79歳

私は旧満州のシヘイガイというところで生まれ、大連に移って、大連に20年間いました。引きあげてきたのは昭和22年です。

戦争中は日本の植民地だったので、日本の権力がすごく、日本人はいい生活をしていました。中国人は下積みでした。中国人でもごく一部の大地主などは、広いお屋敷に妾を何人も囲ってすごい生活でした。本妻と妾の入る家が全部違うのです。

父は山梨県出身で、家の跡取りでしたが、弟たちも多く、祖父が病に倒れ、不況で借金取りも来る生活だったので、このままでは一家全滅になると思い、満州に渡り、満鉄消費組合の委託を受けて商売をやっていました。中国人を10人位使い、店の2階に住んでいましたが、12畳とか10畳もある大きな部屋でした。満州には貧乏な日本人はいませんでした。中国人を搾取し、日本人は外地手当もついて、給料がよかったのです。引きあげてきて日本の家の小ささにびっくりしました。

父は山梨の実家の土地を買い戻し、嫁いだ姉の土地も買い戻しています。自分の弟、2人が中学を卒業すると師範学校へ入れ、下の弟は大連の工業専門学校に入れ、3年間同居しました。また、母の弟を上海の東亜同文書院大学へ入学させ、学費を負担しました。母の姉夫婦が亡くなり、2人の中学生と女子商業の子どももひきとりました。私が物心ついた頃は、家族だけの生活はほとんどありませんでした。夕食の時も、家族だけということはなく、家族7人、従業員2人、従妹弟2人、お手伝いさんと10人以上でした。おかずが足りなくなると、店から缶詰等を持ってきて追加しました。

うちは店だったので、高価なチョコレート等がありましたので、遠足の時、持って行ってみんなに配りたかったのですが、学校で十銭までと決められていたので、持たせてもらえませんでした。母は何かにつけて、「世の中には、食べられない人がたくさんいる。物を大切にしなければならない」と言っていました。着物などはたくさん持っていませんでした。母が外出する時、おしゃれ姿を見たことがありません。しかし、本箱は大きいのが6個ほどあり、本がたくさんつまっていました。あんなに忙しい母がいつ読んだのか不思議です。後で聞くと、赤ちゃんにお乳を飲ませながら読んだらしいです。

戦争も激しくなり、ある日突然、警察官が土足のままドヤドヤと2階へ上がってきて、本箱の本をぶん投げ、私は何事かとびっくりして見ていました。後で聞いた話ですが、母が通っていた教会の牧師が、天皇に失礼になることを書いたらしいのです。母は、教会の婦人部の役員をしていたので、敢然として2000年前のイエス・キリストと現在の天皇をくらべるのはおかしいと答え、3日間、留置所へぶち込まれました。

私は師範学校へ行きましたが、国語、地理、歴史・・・戦争と関係のある教科は、何でも天皇に結びつけて教えられました。何でも「天皇陛下のために」とやられるのです。そんなのに反対したら大変だから黙っていましたが、おかしいと思っていました。中国人の子どもにも「天皇陛下ありがとうございます」と言わせ、天皇の言葉を聞く時は直立不動でした。

戦争はどんどん激しくなり、父は店を止め、平和な家庭に戻ったのもつかの間、昭和18年に父は発疹チブスで亡くなりました。

終戦になった時はほっとしましたが、すぐにソ連兵が来て、時計や電球の球、大連にあった金目の物をみんな持って行きました。次に国民軍が来て、それから共産党が来ました。共産党と協定を結び、技術者を100人位残して、引きあげました。お金のあった人は終戦後すぐに適当に帰ったらしいけれど、私たちはお金がなかったのですぐには帰れませんでした。帰りたくない人もいて、30年もいた人もいます。

終戦になってからが、父も亡くなっていたし、大変でした。家族みんなが働いていました。上の弟は少年飛行隊で九州にいったけれど、飛行機がなく、すぐに終戦になったので、死なずにすみました。

戦後は2度引越し、3世帯が同じ家に住んでいました。私は引きあげてきた時、22歳になっていたので、満州の方が懐かしいです。引きあげの一時期は大変だったけれど、日本人はいい生活をしていたので、楽しかったです。今でも小学校、女学校、師範学校など、学校の同窓会が5つ位あります。

今、日本はアメリカの属国になって、一緒に戦争しようとしていますね。若い人には戦争が実際どんなものかがわからないのでしょう。私は植民地にいたので知りませんが、内地は大変でした。植民地のいい暮らしも中国人を搾取していたからできたことです。戦争だけは絶対にやってはいけません。
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by lumokurago | 2007-11-09 22:23 | 戦争体験の証言集

今でも物が捨てられません

これは私が取材して「杉並の教育を考えるみんなの会」のHPに掲載した戦争体験の聞書きですが、とてもよい内容なので、ここで紹介します。

◆ 今でも物が捨てられません 【戦争体験の証言集 その1)

(荻窪在住Nさん・1939年生まれ・66歳)

私は浅草橋で生まれました。戦争が激しくなって、物心つくかつかない頃、世田谷の用賀に疎開しました。その頃の用賀は田舎だったのです。庭を畑にして、周囲に花を植えていたのを覚えています。防空壕 も掘りましたが、役にも立たない代物でした。家が焼けた時に備えて、茶碗等を庭に埋めたりしていました。

たぶん東京大空襲の時だと思いますが、東の空が真っ赤になっているのを見ました。その後、伯母の家があった栃木県の那須、芭蕉の歩いた道として有名な遊行柳のあるところに縁故疎開しました。黒磯に陸軍の工場があったので、焼夷弾が降ってきて、畑にも家の軒下にも落とされました。

御殿山という裏の山に横穴式の防空壕が掘ってあって、周囲の人が皆、逃げていきました。私たちも逃げていきましたが、東京者だからと入れてもらえず、畑のトマトか何か の間に隠れたことを覚えています。焼夷弾がたくさん降ってきて、とてもこわかったです。

東京から一緒に疎開した伯母(父の姉)が、那須のもう一人の伯母にいじめられてよく泣いていました。那須の伯母は強い人であまり好きではなかったのですが、今ではいつも「遊びに来て」と言ってくれます。子どもの頃と全く違うおばさんになったなあと、戦争にな り食べるものもなく貧しいと、人の心は変わるとわかりました。物が豊かになると人間らしい心になるのです。

父は結核で兵隊には行かず、1945年8月17日に亡くなりました。今から考えると気の毒だったと思います。父は病気になって仕事はどうしていたのか、給料をもらっていたのかはわかりません。

戦後、伯母と一緒に帰京しました。配給がさつまいもばかりで、食べるものがなくて大変でした。母の苦労は並大抵ではなかったと思います。子どもに食べさせようと農家に買出しに行き、着物と引換えに、食料をもらってきました。用賀では畑も作っており、近所の魚屋さんに働きに行き、そのうち再婚しました。昭和24年、10歳違いで妹が生まれました。

1946年4月に小学校に入学しました。墨塗り教科書でしたが、墨を塗ったのは誰かわかりません。
何もないので父の背広からかばん、ぞうり袋、服を作って写真屋で写真を撮りました。かばんと靴は抽選で、抽選にはずれると何もなかったのです。 下駄履きの子もたくさんいました。入学式は校庭でした。明治一桁にできた古い小学校でした。二部授業で、青空教室でした。雨が降ると階段で授業をしていました。東条英機の家のすぐ近くで、東条の息子が 上級生でした。

東京では貧しくてもみんな助け合って、隣近所は仲良くしていました。母が働きに行っていた魚屋は弟の同級生の家でした。食べるもの、お金のみじめさはあったけれど、精神的な貧しさはなかったと思います。 那須では、9歳か10歳位の従兄が母親を助けるために、肥桶をかついで畑にまいていました。

戦争というと、貧しかったことしか思い浮かびません。あとは疎開中のみじめさ、いじめです。従兄は東大に入ったので、今、那須の家に花見に帰ると、いじめておいたくせに人が寄って来るので笑ってしまいます。戦争のこと、貧しい時代のことは幼心に覚えていて、今でも「戦争になったら・・・必要になるんだから」と物を捨てることができません。鉛筆一本でも最後まで使わなければ買ってもらえないので、サックして使い、つないで使い・・・ 洋服など、お下がりは当たり前でした。

戦争は人の心を悪くします。二度とやってはいけないと思います。でも、私のまわりには「つくる会」教科書を読んでも「懐かしいわね」などと言って、事の重大さを理解しない人がほとんどです。その人たちも戦争は二度とやってはいけないと思って いるのですが、戦争と「つくる会」教科書、戦争と国家の関係が理解できないのです。
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by lumokurago | 2007-11-09 00:31 | 戦争体験の証言集