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カテゴリ:中学校歴史教科書8冊の読み比べ( 6 )


読み比べ その6

9月20日(火) (東京書籍は? 復習)
 
 (ごめんなさい。マニアックすぎでごちゃごちゃです)

 先日教科書を買いに行った時、日本中で一番大きなシェアを占める東京書籍を買ったつもりで買い忘れました。先週、教科書ネットの総会で東京書籍を見て、やはり東京書籍はぜひ比べなければと思い、今日中野まで久しぶりに泳ぎに行った(教科書採択問題に巻き込まれて以来初めて)ついでに、大久保まで足をのばして買ってきました。完全に「中学校歴史教科書オタク」になりきってしまったので、ついつい残り3社全部を買ってしまいました。

 見比べると、それぞれにいいところがあるからです。でも扶桑社以外の7社は似ているところも多いので、これからは、シェアの大きな東京書籍、杉並で今使っている帝国書院、これに決めても良かった大阪書籍を中心に比べ、他社は特徴的なものがある部分だけ触れることにします。(などと言いながら8社を比べてしまったマニアックさ)

 さて、東京書籍の今までのところを見てみましょう。

 人類の出現から文明の発生、縄文、弥生までは今までの4社とだいたい似ています。(ということは扶桑社とは違います)。

 問題になった「ヤマト王権」の記述はどうか。また、新しい呼び名が出ました。

 「3世紀後半になると、大和(奈良県)を中心とする地域には強力な国が生まれ、前方後円墳と呼ばれる大きな墓(古墳)がつくられるようになりました。この国を大和国家、その政府を大和朝廷とよんでいます」「大和朝廷の王は、5世紀には、九州から東北地方南部にいたる各地の王を従えるようになり、大王とよばれるようになりました。大和朝廷の発展にともない、前方後円墳をはじめとする古墳が、その地の王をほうむるためにつくられるようになりました」 おっと、「大和朝廷」という言葉が出てきました。

 社会科の先生の解説を復習すると、「大和」という言葉ができたのは早くても大化の改新の頃、7世紀半ばでした。それまではわからないのでかな書きしようということで「ヤマト」という表記が一般的なのでしたね。「朝廷」は「朝庭」という意味であり、古代史の書物によると、6世紀中頃から始まったということでした。3世紀後半で「朝廷」を使うのは間違いなのでした。

 つまり、東京書籍は扶桑社と同じ間違いを書いています。

 あと、私が感じたのは「大和国家」と「大和朝廷」をごっちゃにしているのではないかということです。「王」とは「政府」の王ではなく、「国」の王なのでは?だったら「大和国家の王」と言うのが正しいのでは?発展するのも「政府」ではなく「国」なのでは?今で考えても、「天皇」は「日本政府」の象徴ではなく、「日本国」の象徴ですよね?

 いやいや、ややこしいわい。

 こんな記述もあります。「当時の人々は、太陽神や、水を支配すると考えられていた蛇の神など、稲作に関係の深い自然の神々を信仰しており、また、一族を守る神に対する信仰も生まれました。古墳に描かれた絵や、のちにまとめられた神話などから、死後の世界についての考え方を知ることができます、国のおこりについての神話や伝承も、しだいに形づくられていきました」

 は? 日本に残る文字文化は8世紀以降の「古事記」「日本書紀」が最古なのでは? 神話がこの頃形づくられたってどこからわかるの? 清水書院では「神話と伝承」は「壬申の乱」の後にありました。他はと見てみると、大阪書籍、日本書籍新社では奈良時代になってから「古事記」「日本書紀」のところにあります。ただし文教出版では渡来人のところにあります。帝国書院、教育出版では「神話」について何も触れていません。これもまた混乱!!(結局、よくわかっていないのではないか? と疑う)。

 それで今度は「大和国家」が出てきます。「大和国家は、百済や、小国が分立していた加羅(任那)地方の国々と結んで、高句麗や新羅と戦いました。5世紀には、大和国家の大王は(あれれ、さっきは『大和朝廷の王』だったのに)、倭の王としての地位と朝鮮南部を軍事的に指揮する権利とを、中国の皇帝から認めてもらうために、中国の南朝にたびたび使いを送りました」

 ここのところ清水書院では「ヤマト王権は、朝鮮半島への進出もはかり、その正当性を認めてもらうために中国皇帝への使いを何度もおくった」とありました。

 文教出版。「5世紀には、大王が中国に使いを送り、朝鮮半島の南部を支配する地位を認めてもらおうとした」まあ、わかりやすい。
日本書籍新社。「大王は倭国王としての地位と、朝鮮半島南部を支配する、将軍としての地位を認めてもらおうとつとめていた」

 帝国書院。「ヤマト王権は中国の皇帝へたびたび使いを送り、その力を借りて朝鮮半島諸国に対して優位にたとうともしました」

 扶桑社。「大和朝廷があえて南朝の朝貢国になったのは、高句麗に対抗し、朝鮮南部とのつながりを維持するためだった」

 教育出版。「5世紀に入ると、大和政権の大王は、中国にいくども使いを送り、中国の皇帝の権威をかりて高句麗に対抗し、朝鮮との関係を保とうとした」 扶桑社と似てる。

 大阪書籍。「5世紀の倭王が、5代にわたり中国に使いを送った」としか書いてない。朝鮮半島のことは無視してる。

 ふう、8社を比べたぞ。ひとつのことを書くのにもいろんな書き方があるもんです。どれがいいと思いますか?
最後になりましたが、行ったりきたりしてすみません。よけいにわかりにくくしていますね。反省(^_^;)
 

9月21日(水)(東京書籍続き・復習)

 「渡来人」については「一族でまとまって移り住む人々が増えました」という表現があり、あたかも「渡来人」は日本人と交わらなかったように誤解させる記述です。

 清水書院には「渡来人の中には大王家と婚姻関係をむすぶ一族もあった」と明確に書いてあり、帝国書院にも「渡来人は、われわれ日本人の先祖の一部となりました」とあります。

 逆に大阪書籍には「一族でまとまって日本に移り住む」と東京書籍と同じ記述があります。

 扶桑社。「一族や集団で日本に移り住んだ帰化人(渡来人)」とあります。

 日本書籍新社。欄外に「9世紀に、畿内に住む諸氏の祖先を調べた記録によれば、約30%が渡来人の氏であった」とあります。

 残りの3社にはこのことに関してどちらの記述もありません。繰り返しますが、扶桑社だけ「帰化人」(辞書でみても間違った使い方)と言っており、他の7社は「渡来人」です。

 ちなみに今日聞いた情報ですが、平成の天皇がワールドカップサッカーの韓国戦の時、「天皇家は欽明天皇の時に、朝鮮民族と交わったので、自分にも朝鮮民族の血が流れている」と公言したそうです。平成の天皇はなかなかのお人なのですね!

 次、9月15日に検証した部分です。東京書籍はこうなっています。

 「7世紀の中ごろ、唐は対立する高句麗を攻撃し、そのために朝鮮半島の国々では緊張が高まりました。日本でも、戦争にそなえる国づくりを急がなければなりませんでした」

 扶桑社は「朝鮮半島の3国に緊張が走り、日本も危機に備えて国家の体制を強化しなければならなくなった」でした。

 他社では「国力を高めようとした」(2社)、「強大国が影響を及ぼし始めた(日書)、「大きな不安」(清水)、「東アジアの緊張が高まる」(教育出版)、文教出版は何も書いてない、なので、この6社に比べ、東京書籍は非常に扶桑社寄りと言えます。蛇足ですが、この二社を比べると、扶桑社は言葉がむずかしく、東京書籍の方が中学生にわかりやすいですね!

 「大化の改新」は特記事項なし。「白村江の戦い」のところに「そののち、新羅は、唐の軍隊をも追い出して、朝鮮半島を統一しました」という一文が入っています。文教出版も「白村江」の前の段階として「唐と結んだ新羅が、高句麗と百済をほろぼし、半島を統一した(その後白村江)」とありますが、新羅が唐も追い出したという記述はありません。

 大阪書籍、日本書籍新社、教育出版では、それぞれ大阪「中国・朝鮮の統一」、日書「新羅の朝鮮統一」(別項に「隋・唐の中国統一」という記述もある)、教出「広がる国際交流」の中に「隋と唐」「新羅による朝鮮の統一」という項目を設けて、ていねいに説明しています。最も充実しているのは教育出版で、2ページ使っています。

 つまり、朝鮮半島の統一をきちんと書いているのは東京書籍、大阪書籍、日本書籍新社、教育出版、の4社です。この点、東京書籍は評価できます。

 長々とお疲れ様でした。明日は奈良時代に入ります。8冊全部いっぺんに比べますが、中心は帝国書院、大阪書籍、東京書籍、扶桑社として、他4社は特徴的なところだけ取り上げることにします。
 
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by lumokurago | 2011-08-04 17:24 | 中学校歴史教科書8冊の読み比べ

読み比べ その5

 しばらくのあいだ掲載を忘れていました。2005年の杉並区の扶桑社版採択のあと、歴史教科書8冊を読み比べました。9月18日の元日本軍兵士の証言をぜひお読みください。とても貴重なものです。


9月17日(土) (外国と仲良くできるの?)

 扶桑社。「白村江の戦いと国防の備え」。すごい見出しですね。「国防」ときたか。

 ちょっと長いけど名文なので引用します。「7世紀の半ば、朝鮮半島では、新羅が唐と結んで百済を攻めた。日本と300年の親交がある百済が敗れ、半島南部が唐の支配下に入ることは日本にとっても脅威だった。そこで、中大兄皇子を中心とする朝廷は、百済を助けるために、多くの兵と物資を船で送った。唐・新羅連合軍との決戦は、663年、半島南西部の白村江で行われ、2日間の壮烈な戦いののち、日本側の大敗北に終わった(白村江の戦い)。日本の軍船400隻は燃え上がり、空と海とを炎で真っ赤に染めたという。こうして百済は滅亡した。新羅は、唐と連合して高句麗もほろぼし、朝鮮半島を統一した。

 中略・・・白村江の敗北は、日本にとって大きな衝撃だった。唐と新羅の襲来をおそれた日本は、九州に防人を置き、水城を築いて、国をあげて防衛に努めた。また、中大兄皇子は都を飛鳥から近江に移し、即位して天智天皇となった。天皇は国内の改革をさらに進め、全国的な戸籍を作った」 ここまでで1ページまるまる使っています。ページの上三分の一には「大宰府の守り」の絵があります。

 帝国書院。「白村江の戦い」として簡単に7行書いています。「朝鮮半島では、新羅が唐と結んで、百済を攻めたので、倭国は百済を支援するため大軍を送り、新羅・唐の連合軍と戦いました。しかし、663年、倭国の軍は白村江で退廃し、朝鮮半島から手をひきました。倭国は、唐・新羅の侵攻にそなえ、山城を築くなど守りをかためるとともに、戦乱をのがれた百済の人々の知識や技術を取り入れて、本格的な国内の改革にとりかかりました」(天智天皇は出てこない)

 大阪書籍。6行だけ。「唐と新羅が連合して百済をほろぼそうとしたとき中大兄皇子は百済を助けるために軍隊を送りました。しかし、 戦いに敗れた皇子は、九州北部に防人とよばれる兵士をおいて、唐や新羅の攻撃にそなえるいっぽう、大津(滋賀県)で即位して天智天皇となり、戸籍を作るなど、国内の制度づくりを急ぎました」

 日本書籍新社。6行。大阪書籍とほぼ同じですが、最後に「戸籍をつくって、民衆への支配を強めた」という言葉が入っています。

 清水書院。6行。大阪書籍、日本書籍新社とほぼ同じ。この下に「神話と伝承」というコラムがあり、「朝廷では、皇族や豪族などに伝えられていた、神話や伝承・記録などを、天皇を中心とした国の成り立ちの話としてまとめなおした。・・・神話には古代日本人の自然観があらわれているものが多い」と書かれています。

 やはり「戦争」の記述が多いのは扶桑社ですよ、宮坂さん。他社の3倍、ページを使っています。それに「戦い」があれば、すべて外国はいつ攻めてくるかわからないから、国防につとめなければいけないと説いています。子どもたちに外国とみれば「脅威」とする疑いの目を養っていきます。このクローバル化の時代にこんな教科書で勉強して、外国と仲良くできるのかな?
 

9月18日(日)閑話休題(今日は何の日?答は最後に) (小さい字の説明は大辞泉より)

 今日、「戦場の加害と抵抗」と題する、元日本軍兵士だった方たちの講演会に行きました。

 お一人目は前田光繁さん(89歳)。元日本人反戦同盟の方です。中国で鉄道労働者の監督として働いていた前田さんは1938年7月末、八路軍(中国の抗日戦争期に華北で活動した中国共産党軍)の襲撃を受けて捕虜となりました。以下前田さんのお話をごく手短にまとめます。

 まず八路軍の最前線まで連れて行かれ、そこでケガの手当てを受けた。食べ物はみんなが粟飯を食べているのに、自分だけうどんやマントウで、卵か肉の一品を添えてくれていた。なぜかと聞いたら、「粟飯はくったことがないだろうから」と言われた。捕虜というより、友だちのような態度だった。後でわかったことだが、「捕虜を殺すな。優待しろ」という命令が出ていた。

 歩けるようになったら、護衛兵一人とさらに奥地へ行った。その人と仲良くなってしまい、逃げようと思ったこともあったが、逃げたらその人に悪いとまで思うほどになった。奥地とは129師団司令部があったところで、張香山がいた(私は不勉強で知りませんが、有名な人らしいです)。「いらっしゃい」と迎えられて驚いた。八路軍は捕虜を殺さないという軍律を持っていた。のみがひどくのみに殺されると言ったら、他の場所に連れていかれたくらいだった。

 八路軍は初め3.4万だったが、終戦の頃には80万になっていた。こんなに増えたのは日本軍が中国にひどいことをしたためである。日本軍は1942年から三光作戦(日中戦争下、日本軍が行った残虐で非道な戦術に対する中国側の呼称。三光とは、焼光(焼き尽くす)・殺光(殺し尽くす)・搶光(そうこう)(奪い尽くす))を行った。

 自分は日本兵が死ぬことは名誉の戦死ではなく、無駄死と感じた。また、中国人の被害を少しでも少なくしたかった。この二つの理由で、1939年8月2日、八路軍に参加し、反戦活動をした。この頃には粟飯もだんだんおいしくなっていた。

 反戦活動は口とペンを使って行った。宣伝ビラを書いて、百姓に頼んだりしてトーチカ(機関銃や砲などを備えた、コンクリート製の堅固な小型防御陣地)の近くや、日本軍のやってくるところで配った。また、戦争をしている時に、夜霧にまぎれて呼びかけたり、トーチカにメガホンで呼びかけたり、電話線に針金をつなぎ、携帯用電話機を使って呼びかけた。

 初めて呼びかけたのは、岡崎大隊で200名が死亡、30名が残っていたので、「自分は日本人だ。あなた方は完全に包囲されている。これ以上戦ってもむだだから、降伏しなさい」と呼びかけた。しかし、隊長は「あれは朝鮮人のうそだ」と言って、玉砕した。一人が偶然穴に落ちたので助かって捕虜になっただけだった。
よびかけは危険で、二人が銃撃されて亡くなった。その二人の慰霊碑を建てに戦後中国に行ってきた。

二人目は坂倉清さん(85歳)。BC級戦犯。

 坂倉さんは千葉県の貧農出身。作った米の半分は年貢で取られてしまい、家族の食べる米もなくなる状態だった。貧乏から抜け出すために軍隊に入りたいと思っていた。昭和15年、甲種合格し、12月に中国へ。そこで教育を受け、昭和16年6月から山東省で実戦に参加した。

 坂倉さんのお話はあまりにも生々しく、ここに書くのもつらいくらいなので、ごくごく短くします。「私は中国で数え切れない中国人を殺し、家を焼き、略奪した。八路軍の情報を知らないかと村の人びとを拷問し、何のとがもない農民にガスをガス燈10本分も浴びせて、気を失ったところを放置した。

 敗戦前に朝鮮に行き、ソ連の捕虜になってシベリアへ。寒さの中ばたばた人が死んでいった。埋葬しようにも土が凍っているので穴が掘れない。遺体の上に落ち葉をかけた。春になったらオオカミが肉を食うと言われた。

 シベリアが終わったら、今度は戦犯と言われ、中国解放軍に捕まった。その時は天皇陛下のためにやったのに何が悪いんだと思っていた。勉強してやっと悪かったとわかった。帰国する時、中国側に『今日から友だちだ』と言われた。帰国して仕事もなかったが、東大に勤め、その頃学生運動があったが、学生が正しいと思った」。最後に「やっと、こうしなきゃならないと自分で判断できるようになりました」とおっしゃいました。

 主催者挨拶で、坂倉さんと同じ部隊にいらして、行動を共にしていらした方(お名前がわかりません)より。
「5年間中国で坂倉さんと同じ体験をし、敗戦前に『ソ連と戦え』と言われて朝鮮に行かされ、シベリアで6年、その後戦犯として中国で5年間、忠君愛国のために計16年間費やした。日本に帰って、近所のおばあちゃんに『おまえはいいなあ。16年経っても生きて帰ってきたんだから』と言われた。そのおばあちゃんの倅は戦死した。靖国神社に眠る英霊の家族の涙を思ってほしい」

 前田さんが中国側から「銃を放せば兵隊も被害者。我々の友」と言われたとおっしゃっていました。

 二度と戦争を起こさないために、自らの戦争体験を語るこの方たちの人生を思うと、その重さに言葉もありません。

 戦争は絶対にやってはいけないのです。

 1931年9月18日、(日本軍は)奉天(今の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を自分たちの手で爆破した。そしてこれを中国軍のしわざだとして、事前の計画にしたがってただちに軍事行動に移り、たちまちのうちに満州全土を占領した(満州事変)。(日付まで書いてあったのは、8社のうち日本書籍新社のみでしたので、これは日本書籍新社からの引用です)
 

9月19日(月) (「律令国家の形成」と「日本という国号の成立」、どっちが大事なの?)

 帝国書院。「壬申の乱」「大宝律令」について14行使い、「こうして、ヤマト王権は、全国を統一的に支配する体制をつくりあげました」とまとめています。次は奈良時代です。

 大阪書籍。「壬申の乱」「大宝律令」について10行でまとめています。4社の中で一番簡潔でわかりやすいので、引用します。(この連載で日本史の勉強もしているので) 。ただし律令国家について詳しいことは何も書かれていません。この点、清水書院と対照的です。

 「天智天皇の死後、政治方針のちがいと皇位をめぐって、壬申の乱が起こりました。この争いに勝った天武天皇は、天皇に権力を集中する国家の建設をおし進めました。このころに大王は天皇、倭は日本と名のるようになりました。また、唐の都にならって奈良盆地南部に藤原京がつくられ、701年には大宝律令が定められて、改新(注:大化の改新)の方針は実現しました。このように律令に基づいて政治が行われる国家を、律令国家といいます」

 日本書籍新社。他の3社にはない(扶桑社にはある)「壬申の乱」の大海人皇子と大友皇子の名前が出ています。それでも「大宝律令」と合わせて15行です。

 清水書院。「壬申の乱」は簡単に触れているだけですが、「律令国家」について詳しく書いています。これがとてもわかりやすく、計22行です。この「節」のタイトルが「律令国家の形成」であることからも、「律令国家」に力を入れているのがわかります。

 扶桑社。本当に「戦い」が好きなんですね。詳しく書いてあります。「略・・・天皇の子の大友皇子と、天皇の弟の大海人皇子のあいだで、皇位継承をめぐって内乱が起こった。これを壬申の乱という。大海人皇子は、地方の豪族を 味方につけ、機敏な行動で大勝利を収めた。この争いの中で豪族たちは分裂し、政治への発言力を弱めた。こうして天皇を中心に国全体の発展をはかる体制がつくられていった」 「大宝律令」も合わせて、30行です。大阪書籍の3倍です。その分書き足りないところが出てくるはずですね。それはどこかしらね。

 最後に「唐に朝貢していた新羅が、独自の律令をもたなかったのに対し、日本は、中国に学びながらも、独自の律令をつくる姿勢をつらぬいた」という一文を入れるのを忘れていません。朝鮮に対して日本が優位にあるということを強調しています。

 ちなみに扶桑社のこの部分のタイトルは「日本という国号の成立」です。
 帝国書院:「中国にならった国づくり」
 大阪書籍:「律令国家をめざして」
 日本書籍新社:「「律令国家が成立する」
 清水書院:「律令国家の形成」です。
 その会社が何を大切にしようとしているのかがタイトルでわかりますね。
 
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by lumokurago | 2011-08-03 08:17 | 中学校歴史教科書8冊の読み比べ

読み比べ その4

9月12日(月)(「聖徳太子」の記述が多いのはなぜ?)

 選挙結果、ひどかったですね。この期に及んで小泉がいいという人がこんなに多いなんて。戦争体験者である友人は「時代の変わり目っていうのはこういうものなんだね」と言っていました。なんかヒトラー台頭の頃に似てるような気がします。小泉が「国民をてなずけるのは簡単だなあ」とほくそえんでいる姿を想像すると、ほんとに悔しいですね。

 郵政「改革」というのはブッシュの命令に従ってやっているんですよ。ご存知でしたか? 外務省に文書が保管されており、外務省のHPでも見られます。日本の郵政「改革」がアメリカのもうけになる、それだけの話です。

 さて、本題です。

 扶桑社では、「隋の中国統一」11行も入れてですが、聖徳太子に関する記述が4ページもあります。他社では「隋」のことをほとんど書いていない教科書もあり、「隋(と唐)」と「聖徳太子」で1ページから、多くても2ページです。

 なぜ扶桑社では聖徳太子の記述が多いのでしょうか?今日はちょっと疲れているので、これは明日までの宿題として、考えてみてください。
 

9月13日(火)(天皇という称号はいつから始まったか?)

 扶桑社です。「豪族の争い隋の中国統一」の小見出しのところに、こんな記述があります。「強大な軍事力をもつ隋の出現は、東アジアの国々にとって大きな脅威だった。朝鮮半島の百済、高句麗、新羅は、隋に朝貢した。日本も、これにいかに対処するか、態度をせまられることになった」

 「隋」について、他社では大阪書籍で隋から唐に変わった経過に6行使っているだけで、帝国書院では「遣隋使」に一言触れているだけ、日本書籍新社と清水書院では「隋にかわって唐が中国を統一し」などと書いてあるだけです。「隋」とはそんなに「脅威」だったのでしょうか?

 扶桑社を読み進むとこうあります。「このような岐路に立っていた日本にあらわれたのが、聖徳太子(厩戸皇子)という若い指導者だった」 

 なるほど。この時日本は岐路に立っていた、つまり重大な転換期にあったのだな。(と思わせるに十分な話のもっていきかたですね。さすが「物語」だ)。聖徳太子の登場を印象付ける効果となっています。

 (遣隋使を送り)、「隋の強大さを知った太子は、日本が独立した国家として発展するために、大陸からすぐれた文化や制度を取り入れる必要があると考えた」。太子は「まず国内の改革に着手した」が、「太子の政治の本当のねらいは、豪族の力をおさえ、儒教や仏教の教えをとりいれつつ、天皇を中心とした国家のしくみを整えることだった」 

 ちょっと長くなるのですが、我慢していただいて・・・(2度目の遣隋使が持っていった)「隋の皇帝にあてた手紙には、『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや』と書かれていた。太子は、手紙の文面で対等の立場を強調することで、隋に決して服属しないという決意を表明したのだった」  隋の皇帝は、皇帝の別名である天子という称号を日本の君主に使うのは許しがたいとして激怒した。しかし、「日本と高句麗が手を結ぶことをおそれて自重し、帰国する小野妹子に返礼の使者をつけた」

 翌年、3度目の遣隋使を派遣する時、手紙の文面をどうするかが問題となった。中国の皇帝の怒りをかった以上、また「天子」と書くわけにはいかない。しかし「倭王」に戻りたくはない。「そこで、このときの手紙には、『東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白す』と書かれた。皇帝の文字をさけることで 隋の立場に配慮しつつも、それに劣らない称号を使うことで、両国が対等であることを表明したのである。これが天皇という称号が使われた始まりとされる。日本の自立の姿勢を示す天皇の称号は、その後も使われ続け、とぎれることなく今日にいたっている」 (注意書きに「少しのちの天武天皇(在位673~686)の時代に天皇号が使われ始めたとする説もある」と書いています)。

 はあ(ため息)、「天皇」という称号が使われるようになったいきさつを説明するためにこんなにページを使ったのですね。

 他社ではどうか。

 帝国書院。「遣隋使」のところでは「中国との対等な国交をめざし、そのすすんだ政治のしくみや文化を取り入れようとしました。高句麗と対立していた 隋は、倭国(日本)との関係を重くみて、その願いを認めました。その後、政治や仏教を学ぶために、多くの留学生や留学僧が中国に渡りました」と書いています。

 「天皇」については、もっと後になってから欄外に「7世紀後半、天武天皇のころ、君主の称号が『大王』から『天皇』に改められました」と書いてあります。

 大阪書籍。「隋との対等の立場で国交を結んで、進んだ中国の文化を取り入れようとし、遣隋使を送って、政治制度や仏教を学ばせました。外交使節や留学生、・留学僧には渡来人が多く採用されました」

 「天皇」については、大化の改新の後に、「天武天皇は、天皇に権力を集中する国家の建設をおし進めました。このころに大王は天皇、倭は日本と名のるようになりました」とあります。

 日本書籍新社。「朝廷は遣隋使を送って、隋と対等の関係で国交を開こうとした」

 「天皇」の称号については、やはり大化の改新の後に、「天武天皇は、みずから政治をおこない、唐にならって律令にもとづく政治のしくみをつくろうとした。またこのころ、『大王は神である』と歌われ、天皇の称号が正式に使われるようになった」とあります。

 清水書院。「中国とは対等の関係をむすぼうと、小野妹子らを使節として隋に派遣し、留学生や僧も同行させた(遣隋使)」。

 天武天皇の説明の後に、「『日本』という国号や『天皇』という称号も天武天皇のころから使われはじめた」とあります。

 扶桑社以外のどの教科書にも、遣隋使をめぐる「天子」だの「皇帝」だの「天皇」だのという称号については一言も書かれていません。

 歴史学者は次のように言っています。

 近年の学説では、「天皇」号が成立するのは天武朝期とされており、この教科書(扶桑社版)の2001年版でも天武朝期に「天皇」号の成立が置かれていた。今回の叙述の変化は明らかに復古調の色彩を強めるものとなっている。第3回遣隋使の国書の文は、『日本書紀』推古16年9月条記載のものであって、中国史料で裏づけの取れない記述であり、『日本書紀』編纂時の改変の可能性を想定すれば、この記事をもって推古朝に「天皇」号が成立したとは到底言えない。
※他社本では、「天皇」号の成立は、通説とされる天武朝期に置かれており、推古朝期に始まるとする記述はみられない。
(『新しい歴史教科書』の問題点・歴史学研究会編より) 

9月14日(水) (えっ!「平和志向が扶桑社」ってほんと?)

 今日は8月12日の教育委員会での宮坂委員の発言を紹介します。(簡潔にまとめています)。

 「日本は和の精神を尊ぶということが流れとして国民の中にある。『五箇条の御誓文』には『万機公論に決すべし』ということばがあり、独裁を戒めている。これは聖徳太子『17条の憲法』にもうたわれている。17条『大事は一人定むべからず もろもろの議論をすべし』。清水書院は1条から3条と17条を載せている。他は1~3条のみ。扶桑社は全部載せている。全部載せる必要がないという意見があるかもしれないが、全部載せている。17条は「独裁はいかんよ」という意味。この精神が明治憲法から今の憲法に受け継がれている。

 10条「考え方の違いで人を怒ってはいけない。話し合って決めましょう」これは怒ることはやめましょうよ、という意味。平和志向が扶桑社。他の教科書が戦争賛美というわけではないが、日本の過去は戦争ばかりと書いている。日本は平和志向が強いと思う。日本の過去は他国に危害を及ぼしたことはない」

 それなのに宮坂委員は8月4日の国語の審議の際、「現代文につきましては、国語の教科書ですから平和の志向の強いものは避けるべきだと思う」と発言しているのです。(元はこちら)。どういうこと?

 扶桑社は平和志向なんでしょ? だったら扶桑社は避けるべきじゃないんですか?

 ここまで矛盾したことを言われると、何がなんだかわからなくなりますね。一体「平和」をどう思っているのですか?「他の教科書が戦争賛美というわけではないが、日本の過去は戦争ばかりと書いている」とまで言われると、むっときますね。これまでみてきたところですでに、扶桑社が一番戦争の記述が多くて長いんですよ。
「平和の志向の強いものは避けるべき」ということは、「戦争の志向の強いものを選ぶべき」ということです。扶桑社が一番戦争についてたくさん書いており、それを推していることからみても、どう考えても宮坂氏は「戦争志向」としか受け取れません。宮坂氏が自分でそう言っているのです。私、間違ってるでしょうか?

 ところで、日本人にとって最も身近な「聖徳太子」とは旧一万円札なのではないでしょうか。あの肖像画は「聖徳太子」だと信じていましたよね。ところが初めて知ったのですが、清水書院にはあの肖像画について「聖徳太子を描いたものではないとする説もあります」と書いてあったのです。帝国書院に載っている肖像画にも「聖徳太子と伝えられる肖像」とあります。なんだ、なんだ、いい加減なものです。あの肖像画を「聖徳太子」と信じ込んでいた自分が悪いのですが、信じ込ませたのはいったい誰?(責任転嫁してごめんなさい)。

11月8日(火) (立憲主義・元社会科教員Aさんより)

 『17条は「独裁はいかんよ」という意味。この精神が明治憲法から今の憲法に受け継がれている。』

 とんでもな発言です。日本国憲法は権力者はこの憲法に書いてあること以外はしてはダメというもの。17条憲法は官僚の道徳的訓戒を内容としたもので同じ「憲法」という言葉をつかっても指す内容はまったく違います。

 分かりやすく言うと日本国憲法を守るのは権力者(99条の中に国民はない)、17条憲法を守るのは官僚(天皇は守らなくてもよい)ということです。

>上記についてーー(私自身このことを学校で教わったのかどうか覚えておらず、最近の憲法論議の中で知った次第です・・・お恥ずかしいですが)
>大事なことなのでぜひ多くの人に知ってほしいです。(管理人の返事より)

 えーと立憲主義って言葉聞いたことありません? 「憲法を制定し、それに従って統治すること」言い換えれば権力者は憲法に書いてあること以外だめというのが立憲主義の意味です。

 そして、法律によっていくらでも制約できる憲法は立憲主義の形を取りながら実際は違うということで外見的立憲主義と言います。授業では「上の立憲主義は大切なんで覚えましょう。下の立憲主義は大日本帝国憲法の時、詳しくやります」といって伏線を張っておきます。

 私が教壇に立ってたときは「日本国憲法99条に国民が無いのはなぜだ」なんて話をして「日本史の知識は日本史だけでなく他の教科と結びつけて考えないとダメだ」という話に持っていき、「今憲法改正草案が出てるけど今までの学習内容と比較してどうか考えてください」なんていって、この話をしめるところです。

 生徒に考えさせるやりかたでは弱いのか。「自民党案は立憲主義もしらないトンデモ案だ」という結論までいかないとダメではこまったなあ(笑)  元社会科教員A

 すいません。無知な管理人でした。

9月15日(木) (扶桑社の描写に力が入るところは?)

 大変だけど、5冊の読み比べを続けます。

 おととい比べましたが、扶桑社は「天皇」の称号の由来について詳しく書いていましたね。2001年版では近年の歴史の学説に従い、天武天皇(在位673~686)の時に「天皇」号が成立したと書いていたのに、今回の改訂版で、わざわざ間違って608年(3回目の遣隋使の手紙)まで戻ってしまったのでした。不思議なことをするのですね。

 もう一つ。「歴史の言葉・中国の『皇帝』と日本の『天皇』」というコラムに、「『皇帝』という君主の称号は」「中国の歴代の王朝で使われた。周辺諸国は、皇帝から『王』の称号をあたえられることで、皇帝に服属した。日本も、かつて、『王』の称号を受けていたが、それをみずから『天皇』に変えた」「中国ではしばしば革命がおこり、王朝が交代した。それに対し、天皇の地位は、皇室の血すじにもとづいて、代々受けつがれた。皇帝は権力を一手ににぎっていたが、日本の天皇は、歴史上、権力からはなれている期間のほうが長かった。政治の実力者は時代によってかわったが、天皇にとってかわったものはいなかった。日本では、革命や王朝交代はおこらなかった」と書いています。

 なるほど。鎌倉幕府とか江戸幕府とかはあくまでも「政治の実力者」であって、その間も「万世一系」の「天皇」は代々引き継がれて京都にひきこもっていらしたのですものね。日本の天皇制というのはつくづく奥が深いのだ。でも他社でこんなことを書いている教科書はありません。

 さて、扶桑社が他社にないことをいろいろ書いている聖徳太子にこだわっていると、いつまでたっても先に進まないので、このへんで「大化の改新」に移ります。それぞれどんな表現をしているでしょうか?

 まず帝国書院。隋のことは「遣隋使」以外何も書いていません。

 「東アジアの変化とヤマト王権」の「東アジアの変化と大化の改新」のところに、「7世紀はじめ、中国では唐が大帝国を築き」、「朝鮮半島にも勢力を伸ばしました。このような情勢を受けて、倭国も国力を強めようとしました。聖徳太子の死後、蘇我氏の力がいっそう強くなったことに危機感をもった中大兄皇子(のちの天智天皇)は中臣鎌足(のち藤原鎌足)らとはかり、645年、蘇我氏をほろぼしました。そして中国にならった国づくりをめざして改革に着手しましたが(大化の改新)、その実現には、まだ時間が必要でした」(「改新」の中身は 何も書いていません)

 大阪書籍。「3.日本の古代国家の形成」の中の「中国・朝鮮の統一」に隋、唐のことや朝鮮のことが他社に比べ、詳しく書いてあります(1ページと3行使っています)。

 「大化の改新」のところに、「隋に代わった強大な唐に対しては、日本は、唐の制度の優れたところをとり入れて、唐に対抗する国力を高めようとしました。そこで遣唐使を送って国交を結ぶとともに、隋の時代から留学していた人々を帰国させ、唐の制度をもとに国づくりを実現しようとしました。唐にならって天皇家が主導権をもつ国家をつくるため、645年、中大兄皇子や中臣鎌足(のちの藤原鎌足)は蘇我氏をたおして政権をにぎりました」とあります。(以下「改新」の中身の記述は清水書院とほぼ同じ)

 日本書籍新社。「3.古代国家のあゆみ」の「蘇我氏と厩戸皇子が政治をおこなう」の初めに、「隋・唐の中国統一」があり、「中国では、7世紀はじめに隋にかわって唐が中国を統一し、強大な帝国を作った」と書いています。

 「大化の改新」のところには、「厩戸皇子(聖徳太子)の没後、蘇我氏の勢力はさらに強くなり、ほかの豪族も蘇我氏をおそれた。また、強大な帝国となった唐が朝鮮半島の諸国や日本に大きな影響をおよぼしはじめた。そこで、中大兄皇子や中臣(藤原)鎌足は、645年に蘇我入鹿とその父蝦夷をたおし、権力を集中する政治改革をおこなった」とあります。(以下は清水書院とほぼ同じ)

 清水書院。「3.律令国家の形成」の「聖徳太子の政治と大化の改新」の初めに「隋と唐の登場」があり、7世紀はじめに隋が唐に代わり、「周囲に領土を拡大して大帝国を築き(「世界をみる3」「8世紀の世界」に 、2ページを使って唐とイスラム帝国などについて説明しています)」~。「こうした強大国の出現は、朝鮮や日本など周辺諸国に大きな不安を与えた」とあります。

 「大化の改新」については、「(聖徳)太子の死後、蘇我氏がさらに強大になり、政治を支配するようになると、645年、中大兄皇子と中臣(のち藤原)鎌足が中心となって、蘇我氏を倒した。これは、強大な唐や朝鮮の動きに対抗して、日本でも天皇が直接政治をおこなうしくみをつくり、国力の強化をめざしたものである。そして、唐から帰国した留学生たちの最新の知識を生かして、新しい政治のしくみを考えはじめた。その方針は、天皇一族や豪族の土地と人民を国家のものとし(公地公民)、地方支配のしくみをあらため、人民に一定期間土地を分け、新しい税をとることであった。また、中国にならってはじめて年号を定め、「大化」とした。これら一連の改革を大化の改新という」 とてもわかりやすいです。

 扶桑社を読んでいきます。「10.大化の改新」の最初の「7世紀のアジア」には、「7世紀の中ごろになると、国力をつけた唐は、対立する高句麗を攻撃した。朝鮮半島の3国に緊張が走り、日本も危機に備えて国家の体制を強化しなければならなくなった」 とあります。他社に比べ、「物語」調ですね。

 次、「蘇我氏の横暴」 「ところが、聖徳太子が亡くなったのち、蘇我氏の一族が横暴をきわめるようになった。蘇我馬子の子の蝦夷は、天皇のようにふるまい、自分の息子をすべて王子とよばせた。蝦夷の子の入鹿も、聖徳太子の長男の山背大兄王をはじめ、大使の一族を一人残らず死に追いやった」。この後も蘇我氏が滅亡するまでを長く物語調で説明しています。「大化の改新」と合わせて22行。他社は6行から12行です。
扶桑社はどうも、こういう「誰かが誰かを倒す」というところになると描写に力が入り、物語調になるようです。蘇我氏の滅亡についてはすでに他社より10行以上多いのに、、さらに「歴史の名場面」として「蘇我氏の滅亡」の物語を詳しく載せています。これって何ていう古文書に書いてあるのかな。出典を知りたいです。この中にある「蘇我入鹿、斬られる」という絵には十二単の女性がいるのだけれど、十二単って確か平安時代じゃなかったっけ? この時代にもあったんですかね?

 あと気がつくのは、「大化元年」について、「東アジアで、中国の王朝が定めたものとは異なる、独自の年号を定めて使用し続けた国は日本だけだった」。「大化の改新」について、「天皇と臣下の区別を明らかにして、日本独自の国家の秩序を打ち立てようとしたものだった」。他社はどれもこんなことは言っていません。

 今でも「平成」って使ってますよね。わお、これって「大化」からつながってたのか。今、初めて知った。(←これは間違いでした。教育出版に「年号(元号)が継続して用いられるようになるのは、大宝律令が制定された701年からである」という明確な記述がありました)

 でもすっごい不便。私はいつも、役所の文書などにもともと書いてある「平成」を消して、西暦で書いています。だって、役所の文書でくらいしか使わない「平成」何年なんて覚えられないし(覚える気がないからですが)、「昭和」とごっちゃになると計算があまりに大変なんですよ!(母は自分の誕生年を「昭和」でしか覚えておらず、ぼけ始めて自分の年齢がわからなくなり、今が「昭和」何年かを計算し、そこから誕生年を引いてやっと自分の年齢がわかる)

 「平成」は世界に通用せず、役所だって世界に発信する時は必ず西暦を使っていますよね。このことって「つくる会」の自国中心の独善主義を象徴していませんか? 日本国内でしか通用しない「平成」なんかにこだわるってすっごく幼稚。第一、「つくる会」の立場に立ってあげたとしても、「平成」にこだわったって「天皇」を崇拝する人が増えるわけでもなんでもない。

 そういえば今日の区議会の松浦芳子区議の質問もおかしかった。南京大虐殺(とは言ってなかったけど)で殺された中国人の数が20万じゃなくてたしか5万だとか言ってた。これっていろいろ散らかして「片付けなさい」と叱られた小学校低学年の子どもが「オレ、これしかやってない。後は何々ちゃんだ」とか弁解するのと同じレベルじゃない? だいたい加害者が弁解がましくこんなこと言うなんて仁義にもとる。

 松浦区議は最後には「南京事件は本当にあったかどうかもわからない」と言っていました。そして最後の最後には「南京事件はなかった」と断言していました。だったらなぜ犠牲者は20万じゃなくて5万だったとか言うのかな?

 第一、殺したということは人数の問題じゃない。何百万人でもたったひとりでも、殺せば同じこと。だってその「たったひとり」は誰かにとっては「その人がすべて」なのだから。
 
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by lumokurago | 2011-07-06 13:20 | 中学校歴史教科書8冊の読み比べ

読み比べ その3

9月7日(水) (「渡来人」と「帰化人」)

 さて、今日も帝国書院からです。

2.「東アジアの変化とヤマト王権」のページに「国づくりにはたした渡来人の役割」という囲み記事があります。これが宮坂委員のこだわった「渡来人」か。(宮坂委員は「帰化人」でないとおかしいと主張している(8.4))

 辞書で調べると、「渡来人」とは、「外国から渡来した人。特に古代、四~七世紀ごろに朝鮮・中国から日本に移住してきた人々をいう。武具製作・機織り・農業などの先進技術をもって大和政権の軍事・政治面に重要な位置を占め、文化の発展にも大きく寄与した」(大辞泉)。

 「帰化人」とは、「帰化によってその国の国籍を得た人」(大辞泉)。

 宮坂さん、このころはまだ「国」も「国籍」もないのだから「帰化人」というのはおかしいぞ。

 囲み記事の中には、辞書にもあった説明の他に「平安時代初期の貴族の約3割は渡来系の人々でした。渡来人は、われわれ日本人の先祖の一部となりました」という記述があります。当然そうでしょうね。つまり、私たちの体の中には古代の朝鮮・中国の人々の血が流れているわけです。早い話が遠い親戚?!

 大阪書籍では「渡来人」の説明の他に、「地域に残る渡来人の足跡を調べる」という調べ学習のページが半ページあります。これを見ると九州、近畿地方の他に、四国(瀬戸内海側)や日本海側、関東、宮城にまで足跡があることがわかります。当然われわれの先祖の一部となったことでしょう。

 日本書籍新社。やはり「渡来人」の説明があり、渡来人が伝えたかたい質の土器(須恵器)とかまの絵があります。

 清水書院。囲み記事で説明があります。本文にはもっと大事なことが! 明日扶桑社と比べますので、読んでおいてください。

 「ヤマト王権は、朝鮮への進出もはかり、その正当性を認めてもらうために中国皇帝への使いを何度もおくった。また、中国や朝鮮半島のすすんだ文化を積極的に取り入れ、倭に移り住んだ人びとを重要な役職に用いた。こうした渡来人のなかには大王家と婚姻関係をむすぶ一族もあった」 ほう!天皇にも渡来人の血が流れているのか。たしか今生天皇も正式な場でそのように発言していましたね。

 扶桑社。「帰化人と仏教の伝来」という小見出しのもとに「帰化人(渡来人)」として説明があります。ふうむ、「帰化人」という言葉にこだわるのはなぜ? 常識がなくてすみません。どなたか教えてください。

 この点について、歴史学者から指摘があります。ーーこれ(「帰化人(渡来人)」として説明があった)よりあとの記述では、「帰化人」のみを使用している。相変わらず(4年前と比べて)自国中心で他地域からの移住者を貶める意図をもった記述である。「帰化」の語には確立した国家体制が前提とされており、5~6世紀の歴史記述において用いるのははなはだ不適切である。
「『新しい歴史教科書』の問題点」(編集:歴史学研究会)より
 
宮坂委員:「帰化人も渡来人も同じようなものじゃないかと言われればそれまでですが、よく考えるとちょっと意味合いが違うような気もいたします。
  ---------差別的意味合いがあるんだって! 大変だ。宮坂さん知ってた?

 ここでYさん(社会科教員)より鋭い指摘あり。

 「それにしても、教育委員会では、扶桑社版を支持する大藏氏や宮坂氏は「(大東亜戦争などの表現のように)、当時の人々がどう考えたか、どう表現したのかを知ることが大事」ということを主張しますが、こと古代史になると、この主張がまったく逆転します。つまり、当時の古代人がどう表現したかということを無視して、当時使われていなかったことば―「朝廷」だとか「帰化人」だとか―を使っている教科書が良いとなるわけです。こういうのって、論理的矛盾って言わないのかしらね」

 それとこの間、中国や韓国がお嫌いな方々からHP管理人あてにいくつかご意見をいただきましたが、日本人の血には中国人、韓国人の血が混じっているようです。中国人、韓国人を嫌うということは、もしかしたら自分を嫌っていることになったりして???考えすぎ?
 
 このあたりを読んでいて気になるのは扶桑社の「百済を助け高句麗と戦う」というところです。この部分がすごく長いんですよ。ここまでを全部読んでいただいていれば、なぜか想像できますね。「大和朝廷と東アジア」として2ページ使っています(「帰化人」記述も含めて)。

 このあたりについては明日また、他社と比べたいと思います。
 

9月9日(金) (「百済を助け、高句麗と戦う」ーー時代的には「渡来人」の前)

 扶桑社。「百済を助け高句麗と戦う」という小見出しの初めに古代の朝鮮半島について5行述べています。 「朝鮮」に関する話題でまとめて古代から書いているということ。「たたかい」については12行あります。このころから「たたかい」を強調しているのです。

 帝国書院。「朝鮮半島でも、3~4世紀ごろ、小国家の分立から統一の方向へとすすんでいきました。ヤマト王権は半島南部の加羅(伽耶)地域とのつながりを強めながら、百済と連合して高句麗や新羅とたたかいました」 扶桑社では「たたかい」について12行あるところ、こちらはたった2行。どういうこと? 帝国書院がおかしいのかな。(帝国書院でも古代とつなげて朝鮮についてまとめて書いています)。

 大阪書籍。古代の朝鮮の記述が古代中国の次に12行あります。高句麗との「たたかい」については「5世紀ごろのアジア」という小見出しの中にあり4行です。

 日本書籍新社。これはまた極端です。例の「たたかい」について全然書いていません。「4世紀の朝鮮では、高句麗が北方から進出してきて、中国がたてた楽浪郡を滅ぼした。南部では、百済・新羅の2国がおこり、3国が対立するようになった」なんとまた簡潔な!伽耶(加羅)は地図に載っているだけです。

 清水書院。こちらも「たたかい」について全然書いていません。ということはそれほど大事なたたかいではなかったのか・・・。日本書籍新社と同じくらい簡潔に朝鮮半島について書いているだけです。

まとめ
 扶桑社:12行
 帝国書院:2行
 大阪書籍:4行
 日本書籍新社:なし
 清水書院:なし  です。 いったいこれはどういうこと??

歴史学者によると
「百済と任那を基地にあくまでも大和朝廷が中心となって高句麗と戦ったとする2001年番の叙述からの修正こそ認められるものの、高句麗との対抗を機軸に4~5世紀の対朝鮮関係を描こうとするこの教科書の叙述の基本は変わっていない。

 また、『任那』に関する研究が進展した結果、現在多くの教科書では任那ではなく『加羅』ないしは『伽耶』の表記を用いている。

 それに対し、この教科書では『任那(加羅)』という表記を行っているが、これは否定された学説に基づいた重大な誤りである。任那に固執する背景には、古代における日本列島の政治勢力の朝鮮半島への影響力を史実以上に強力に見せようとする意図が感じられる」(「新しい歴史教科書」の問題点より)

宮坂委員:どういうわけか、朝鮮半島南部にあって大和朝廷の拠点とされた任那という言葉ですが、この名称は、扶桑社以外はあまり使われてないです。・・・どういうわけで任那を嫌うのか、想像はつきますけれど、今まで使われた言葉は使っていないのはどうかと思います(8.4)。
   ーーーー「好き」「嫌い」の問題ではない。研究が進んで、否定されたんですよ!勉強なさったらどうですか?
 
9月11日(日) (「任那」は朝鮮半島における大和朝廷の拠点?)

 扶桑社。他社の教科書が全然書いていないか、書いていても2~4行の「百済を助け高句麗と戦う」(扶桑社 =12行)のところに、4世紀以降、「高句麗がしだいに強大にな」り、「百済をも攻撃した」ので、「百済は大和朝廷に助けを求めた」、「大和朝廷は海を渡って朝鮮に出兵」、「このとき、大和朝廷は、半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる」と書いてあります。何の「拠点」なの?こわいなあ。

 その次の小見出しは「倭の五王による朝貢」。「5世紀中ごろ、中国では漢民族の南朝と、遊牧民族の北朝に分かれて争う南北朝時代をむかえた。南朝の歴史書には、倭の5人の王(倭の五王)が、10回近く使者を送ったことや、大和朝廷の支配が広がっていくようすが書かれていた、大和朝廷があえて南朝の朝貢国になったのは、高句麗に対抗し、朝鮮南部とのつながりを維持するためだった」(朝貢ーみつぎ物をささげること)

 次の小見出しは「新羅の台頭と任那の滅亡」。「6世紀になると、朝鮮半島南部では新羅が力をのばした」。「百済からは、助けを求める使者が、日本列島にあいついでやってきた」。「562年、ついに任那は新羅にほろぼされ、大和朝廷は朝鮮半島における足がかりを失った」

 つまり、大和朝廷は任那を拠点として、朝鮮半島に勢力をのばしたかったのだな。朝鮮南部を「侵略」したかったんじゃないの? 

 扶桑社版教科書を推した方々は、「侵略」という言葉がお嫌い。だったら他の教科書のようにさらっと流すか何も書かなければ、「侵略したかったのでは?」と疑われることもなかったのに・・・。なぜこんなに詳しく書いたの?

 おっと、「当時は『国』という概念がなかったので『侵略』という概念もなかった」(by大藏委員8.12)のでした(この発言は豊臣秀吉の「朝鮮出兵」についてのものだけど、こっちはもっと古い)。

 「高句麗」「新羅」とかって「国」じゃないの? 「朝鮮では三つの国が分立していたが、」と書いてるんですけど。

 だんだんわけがわからなくなってきて、「自己矛盾」とか「詭弁」という言葉が頭に浮かんできました。

大藏委員:「口先だけで言えば、何でも言える。海の上も歩ける。詭弁という言葉がある」(8.12)
  ----これって、ご自分のことをおっしゃっていたのですね!

 さて、他社がどうなっているか?

 帝国書院。「また、このころ、ヤマト王権は中国の皇帝へたびたび使いを送り、その力を借りて朝鮮半島諸国に対して優位にたとうともしました。しかし、朝鮮半島での争いに敗れることもあり、安心して鉄を手に入れることはなかなかできませんでした」

 なるほど。戦争というのはいつの世も同じような目的で始められるのだな。「大東亜戦争」は石油を手に入れるため。イラク戦争も同じ(それだけじゃないけど)。人間の欲の深さよ。

 大阪書籍。「百済と新羅にはさまれた伽耶(加羅、任那)地方の小さな国々は、大和王権とのつながりを利用して両国に対抗しました。朝鮮や中国の記録には、4世紀ごろから倭が朝鮮半島の国々と交渉をもったことや、5世紀の倭王が、5代にわたり中国に使いを送ったことなどがみられます。こうした機会に、朝鮮から日本に大量の鉄がもたらされました」 どうもわかりにくいなあ。

 日本書籍新社。「4世紀の朝鮮では、高句麗が北方から進出してきて、中国がたてた楽浪郡をほろぼした。南部では、百済・新羅の2国がおこり、3国が対立するようになった。5世紀の倭国の大王は、5代にわたって中国の宋の皇帝に使者を送った。大君は倭国王としての地位と、朝鮮半島南部を支配する、将軍としての地位を認めてもらおうとつとめていた。『武』という大王は、中国の皇帝に手紙を送り、ほぼ望んだとおりの地位を認められた」 「たたかい」の具体的な中身は何も書いてない。

 清水書院。「ヤマト王権は、朝鮮半島への進出もはかり、その正当性を認めてもらうために中国皇帝への使いを何度もおくった」 すごく短い。けどわかりやすい。

 つまり扶桑社は、「百済から助けを求めてきた」などと朝鮮半島への「侵略」行為を正当化したいみたい。本当に百済から助けを求めてきたのでしょうか? 任那に「拠点を築いた」とか「足がかりを失った」という記述は、主観なのではないでしょうか? 他社の教科書に書いてないので、わかりません。専門の方、ぜひ解説してください。

11月8日(火) (元社会科教員Aさんからの助け舟)

ーー 「高句麗」「新羅」とかって「国」じゃないの? 「朝鮮では三つの国が分立していたが、」と書いてるんですけど。 (わけのわからなかったこの部分に以下の投稿をいただきました。ありがとうございました)

 2世紀から3世紀の朝鮮半島の国は北部が高句麗、南部が馬韓(諸国)と辰韓(諸国)、弁韓(諸国)と分かれていました。

 これが4世紀になると北部は高句麗が領有し、南部の馬韓を百済が統一、辰韓を新羅が統一、弁韓は統一できないで伽耶(加羅)(諸国)という形になります。

 つまり、この当時の朝鮮半島には高句麗、新羅、百済の3つの国がありました。伽耶(加羅)は元弁韓の土地にあった諸国の総称で先にあげた高句麗、新羅、百済とは意味合いが違います。

 「このとき、大和朝廷は、半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる」の記述は日本書紀の中にある任那日本府が実在していたという前提で書かれたものです。管理人も知っているようにこの日本書紀の記述は否定する見解が多いです。

 「百済からは、助けを求める使者が、日本列島にあいついでやってきた」は事実です。そして高句麗・新羅連合軍と百済・日本連合軍が戦った戦争が白村江の戦い(663年)になります。これ以降日本は国内の政治に専念することになります。ということで、日本史の通史としては重要です。

 歴史的経過でいえば「任那(加羅)滅亡(562)」→「百済滅亡(660)」→「白村江の戦い(663)」という流れになります。扶桑社の記述ではどういう流れになっているでしょうか。確認してみてください。

元社会科教員A
確認:「562年、ついに任那は新羅にほろぼされ、大和朝廷は朝鮮半島における足がかりを失った」
660年の百済滅亡は書かれておらず、白村江の戦いが日本側の大敗北に終わったという記述の後に「こうして百済は滅亡した」とあります。
 
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by lumokurago | 2011-07-01 16:55 | 中学校歴史教科書8冊の読み比べ

読み比べ その2 大和朝廷? ヤマト王権?

9月6日 (「大和朝廷」と「ヤマト王権(大和王権・政権)」のなぞ)

 昨日、「比べるのはやめて、扶桑社だけ読んで書く」と書いたけど、今までのところがどのくらい違うかと見てみたら、まあまあ、全然違うのです。これはやはり皆様に知らせなければと思いました。今日は今使っている帝国書院の教科書です。

 昨日の続きで、縄文・弥生の次に「邪馬台国」が出てきます。中国の歴史書「魏志倭人伝」に書かれていることですね。次、2節「東アジアの中の『倭』」「1.さかんになる朝鮮半島との交流」、とここまで読み進んできて、奇妙なことに気がつきました。

 私は51歳です。私の習った頃は「大和朝廷」という言葉が教科書に書いてありました。扶桑社には「大和朝廷」と書かれていたので、私は疑問も持たなかったのでした。

 ところが帝国書院の教科書にはその言葉はなく、何のまえぶれもなく「ヤマト王権」という言葉が出てきます。「化石人間」の私が初めて聞いた言葉だ。これは何?

 帝国書院版には欄外に注意書きがあって、「中国から倭王の称号をあたえられた、のちの大王(おおきみ)を中心とする豪族たちのゆるやかな連合勢力」と書かれています。ふーむ。ちょっとよくわからない。他のも見てみよう。

 大阪書籍では、「3世紀の後半から4世紀には前方後円墳とよばれる大型の古墳が大和(奈良県)地域に作られ、このことから、この地域に強大な権力を持つ王が存在していたと考えられます。この王たちが作った政権を大和政権といいます」と書いてありました。ちょっとわかった。

 次、日本書籍新社。これは大阪書籍と同じ論でした。

 清水書院も、3世紀半ばにつくられた前方後円墳と同じかたちの大きな古墳が、4世紀後半にかけて東北地方から九州地方につくられていったことから、近畿地方を治めていた勢力が全国へ支配をひろげていったことがわかり、この勢力を「ヤマト王権」という、と書いています。清水書院が一番わかりやすいですね。

 さて、扶桑社に戻ります。話はそれますが、こんな一文を発見。先日は見逃したようです。「中国を中心とした国際関係」という小見出しの下に「卑弥呼の時代に、すでに日本は、こうした中国の皇帝を中心とする東アジアのきびしい国際関係の中に組みこまれていたと考えられる」とありました。
他の教科書には一切書いてないことです。こういうのを「布石」というのでしょうか。なんの「布石」だかわかりますよね。ヒント・納冨教育長:戦争はなくならない。(8.12))

 話を戻して・・・他社にない記述を拾ってみます。

 邪馬台国と「厳しい国際関係」の後に、「6.大和朝廷と古墳の広まり」「大和朝廷による国内の統一」に「中国の歴史書で『倭国』とよばれていた日本は、4世紀のころ、中国の文字記録からまったく姿を消してしまう。・・・朝鮮半島の統一国家への動きの記述(略)・・・

 日本列島でも、小国を合わせて統一国家をつくる動きが生まれた。その動きの中心は、大和(奈良県)を勢力の基盤にした大和朝廷とよばれる政権だった。大和朝廷の始まりについては、同時代の文字による記録はない。しかし大和朝廷が強大な政権になった時期が、4世紀前半のころであることは、次に述べる古墳の普及のようすから推測することができる」

 「豪族たちの連合の上に立つのは、のちの天皇にあたる大王でその古墳はひときわ巨大だった」
次のページに「神武天皇の東征伝承」という神話が「読み物コラム」としてあり、「これが大和朝廷のおこりであると伝えられている」と書かれています。

 扶桑社版では大和朝廷はすでに「天皇」(大王)であり、34ページに聖徳太子をめぐる系図が載っていて、天皇の即位順もわかる。(つまり 大和朝廷からずっと天皇がきちんといたことになる。大和朝廷をおこしたのは神武天皇)。

 しかし他社では、いつ天皇が出てくるのかはっきりしない。

 帝国書院では、5世紀後半にヤマト王権の王ワカタケルが「大王」を名のり、「鉄剣を関東や九州の豪族にあたえた」(埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣と熊本県江田船山古墳出土の鉄刀の写真入り)という記述があるが、その後は蘇我氏が物部氏を倒し、「対立する大君(名まえが書いてない)を殺害し、額田部皇女(のちの推古天皇)をおしたてました」。というところまで、「大君」という言葉はなく、「のちの推古天皇」が初めて出てくる「天皇」という言葉です。

 大阪書籍ではどうか。「5世紀後半には、九州中部から関東地方までの各国の権力者は、大和王権の支配下に入ったと考えられます。その支配者を、中国では、倭王、国内では大王とよんでいます」 
 次が大事。「朝鮮や中国の記録には、4世紀ごろから倭が朝鮮半島の国々と交渉をもったことや、5世紀の倭王が、5代にわたり中国に使いを送ったことなどがみられます」

 扶桑社では「中国の歴史書で『倭国』とよばれていた日本は、4世紀のころ、中国の文字記録からまったく姿を消してしまう。」と書かれていたんだけど・・・どっちが正しいの?
大阪書籍でも「天皇」ということばは、「聖徳太子はおばの推古天皇をたすけて、蘇我馬子とともに政権をにぎりました」まで出てきません。ただ、扶桑社と同じ系図は載っていて、天皇の名前は書いてあります。

 日本書籍新社。古墳から解き明かして「この政権を大和政権という。大和政権の王は大王といわれた。大王が政治をおこなう場所を、朝廷という」と扶桑社以外の教科書でははじめて、「朝廷」という言葉を出しています。
 
 また、本文にはありませんが、「ワカタケル大王の鉄剣」の写真を載せています。そして、「5世紀の倭国の大王は、5代にわたって中国の宋の皇帝に使者を送った。大君は倭国王としての地位と、朝鮮半島南部を支配する、将軍としての地位を認めてもらおうとつとめていた。『武』という大王は、中国の皇帝に手紙を送り、ほぼ望んだとおりの地位を認められた」とあります。

 やはり扶桑社の記述は間違いか・・・

 それから「592年に即位した女帝の推古天皇は、おいの厩戸皇子(聖徳太子)を摂政とした」と書いてあり、帝国書院、大阪書籍と違って推古天皇を主体として描いています。

 清水書院。「倭(日本)では、6世紀はじめにヤマト王権に対する大規模な反乱が北部九州でおこったが、ヤマト王権は1年5ヶ月かかってこれをおさえ、その後全国への支配と強めた」と書かれています。清水書院も「ヤマト王権」を「倭(日本)」の中の一勢力と見ています。

 「天皇」ということばが初めて出てくるのは、「蘇我氏はそのころヤマト王権の財政や外交を担当し、渡来人やその子孫を重要な役に用い、大王(天皇)の親戚となることで勢力を強めていった」というところです。ここでカッコの中ですが、「天皇」という言葉が初めて出てきます。

 そして、「593年、女性の推古天皇が即位し、聖徳太子を摂政とした」とあります。(系図あり)
推古天皇が蘇我氏によってたてられた(対立する大君を殺害して)ことが書かれているのは、帝国書院だけですね。

 長くなりました。疲れてきたけど、もう少しです。

結論

1.扶桑社の「中国の歴史書で『倭国』とよばれていた日本は、4世紀のころ、中国の文字記録からまったく姿を消してしまう」という記述は、大阪書籍、日本書籍新書の記述と違う。どっちが正しいのか歴史の専門家に聞かなければ。
2.扶桑社は「ヤマト王権(大和王権・政権)」のことを「大和朝廷」と呼び、「大和朝廷」のおこりは神武天皇であるとし、「大王」を「天皇」とし、そのまま推古天皇につなげています。しかし他の教科書ではこのあたりのつながりははっきり書かれていません。というよりも「わからない」と言った方が正確でしょう。本当はどうなのか、これも歴史の専門家に聞かなければわかりません。
3.それに「ヤマト王権」の呼び名も統一されていないことがわかります。歴史学者の間で意見が分かれているのでしょうか?歴史を勉強していて、こんなあいまいな「王権(政権)」は他にありましたっけ?

 大変長くなりましたが、本日はこれで終わります。はあ・・・(疲れたので思わず、ため息が出てしまいました)。ここまで読んでくださった方もお疲れになったことでしょう。どうもありがとうございました!! これに懲りず、明日もまたお付き合いくださいますよう!

*****

 社会科教員Yさんから投稿がありました。Yさん、ありがとうございます。

「ヤマト王権」か「大和政権」か「大和朝廷」か?

 HP管理人さんの問いに少しでもヒントとなれば幸いです。(Y記)

 まず、結論を先に言うと、現在歴史学の常識では「ヤマト王権」と表記するのが一般的です。

 最近の「発見!○○古墳の・・・古代史に新事実」というような新聞記事が出ることがありますよね。そういう時に「解説」で出てくる研究者のコメントは今は一般に「ヤマト王権」です。歴史教科書にこれが載るには時間がかかります。このことはちょっとおいておくとして、まずは、いくつかのことをコメントします。

1.「ヤマト」か「大和」か?

 まず、前提としなければならないのは、古代史での文字資料がきわめて少ないということです。日本に残っている「紙」に書かれた文書資料は4、5世紀のものはなく、いくつかの手がかりから探るということになり、まだまだナゾの多いところです。手がかりとしては、

1.8世紀以降に書かれた現存する『日本書紀』などの文書史料
2.中国の歴史書や朝鮮の歴史書
3.考古学的な史料

 などがあります。1.2はそれぞれの国のその時代の立場から書かれているので、それを3と照らし合わせて考えるということになります。早い話が、まだまだ断定できることはなく、教科書でも「少なくともこういうことが言える」という形での記述が多くなるなるわけです。

 古代史で、日本での最初の文字の使用例として出てくるのが、管理人さんが書いている5世紀の「ワカタケル大王」の鉄剣の銘文のころです。このころから、漢字が国内でも使用されていたことが分かります。でも、そこでの表記の方法は現在の文字の使い方とはおよそかけ離れた使われ方です。
いつから「大和」という表記がされるようになったのか、明確なことはわかりませんが、「大和」という国名は、少なくとも古代の国家のしくみを整えてゆく中で、「国」(簡単に言うと今の「県」にあたる)という行政単位ができてからのことです。つまり、早くても「大化の改新」(645年)以後、又はその後の壬申の乱(672年)以後の天武朝ごろではないでしょうか。

 ちなみに「天皇」という称号が正式に用いられるようになったのも、この天武天皇のころというのが通説になっています。(この点も扶桑社は大いに違うわけですが。)

 つまり、7世紀半ば過ぎのことなんですね。ですから、断定できないことは「かな書き」で示しておいたほうが良い、ということになります。

 高校の教科書では、それ以前の古代王権を「ヤマト王権(倭王権)」と示している場合もあります。つまり、「倭」でヤマトと読ませているわけです。

 また、3世紀に、「邪馬台国」が登場します。この卑弥呼の治める「邪馬台国」という漢字の表記は、中国の歴史書の「魏志倭人伝」に出てくることは、広く知られています。しかし、よーく考えてみると、この表記を「ヤマタイ」と当時読んだという証明はまったくないのです。実は、「倭」の使者が中国に行った時、「ヤマト」と発声していたことばを、中国の記録係が漢字で「邪馬台」と文字を当てたに過ぎないのかも知れないのです。文字のほうが後からくっついているわけですね。

 最近の歴史の本では、「邪馬台」をヤマトと読ませていることも多くあります。つまり、「邪馬台」=ヤマトと読むということであれば、邪馬台国がどこにあったかは別にしても、3世紀前半の邪馬台国と3世紀末以降に出てくる「ヤマト王権」とが、連続的にとらえられるわけです。

2.「朝廷」はいつからあったか?

 次に「朝廷」がいつからあったのか、という問題です。

 「朝廷」とは王権が成立後、「大王」の住まいである「宮」の「庭」で、この王も含んで豪族などの当時の政権担当者が集い、会議を行ったことから付いた語だといわれています。そのため、歴史家の網野善彦さんなどはその出版物で「朝庭」とあえて記述しています。(以前は生徒がテストで「朝廷」を「朝庭」と書いたら×つけられるところだったのにね!)

 古代史の書物を読むと、このような、「朝庭」での会議が行われるようになったのは、6世紀の半ばごろ、欽明朝のころといわれています。中学の歴史書ではあまり出てこないところですが、蘇我氏が登場し、廐戸皇子(聖徳太子)の出てくるちょっと前のことということになります。

 だから、古墳が登場する3世紀末ないしは4世紀から朝廷があったかのような扶桑社の教科書の記述は正しくないということになります。

 「王権」というのは、その字の通り「王の権力」です。まだ、朝廷というしくみが整う前、弥生時代の半ばごろの紀元前後の時代から祭祀を軸にした「王」の存在は、墓のあり方など考古学的な発見からも認められています。中国の歴史書でも登場します。はじめは各地に分立した小国で「王」が登場し、これが次第に近畿地方~九州に統一されていくのが、前方後円墳という同じ形の古墳が出てくる、3世紀後半と考えられます。

 つまり、「王権」ということばは、その時代によって祭祀を中心に行ったのか、軍事的な権力者なのかなど、性格は違っても、とにかく王の存在があったという点から見た用語なのです。

 つまり、「ヤマト王権」とは、邪馬台国の登場する3世紀の前半から、「王」の性格を考えながらその権力のあり方を考えようとする用語であるわけです。そこには、王権の交代や勢力争いもあり、その支配のあり方も変化していることも含んでいます。

 「大和朝廷」とは、古代史のはじめから大王=天皇が明確な支配をしていたと考えようとする用語です。そこには、日本の国家は最初から一貫して天皇の支配があったのだという主張が読み取れます。現在の歴史学ではまず使われません。

 なお、「大和政権」は、ちょっとその点をあいまいにした用語といえるでしょう。長い間、ヤマトは「大和」と書くというように信じられていました。だから、なかなかそこから脱しきれないわけです。「政権」という表現は、王の権力を含んで何らかの政治のしくみがあったということから古墳の登場する時代から使われているのだといえそうです。

3.オマケ!

 長くなりましたが最後につけたしです。

 「大王」という語は、それを「オオキミ」と読むかどうかは別にして、現在最初に国内で確認できる文字は「ワカタケル大王」の鉄剣などの5世紀の古墳から出てくる剣などに刻まれた文字から確認できます。

 ただし、この「大王」の語は、倭国の古代国家独自の称号ではなく、朝鮮などでも出てくる語です。つまり、中国の「皇帝」から朝貢関係の中で「あなたは、○○国の王のなかの王、<大王>ですよ。」と承認されて使われるようになったと考えられます。
こうして、まだ国境のない古代ですから、東アジア全体の中で考えていくことが、最近の研究では意識されています。
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by lumokurago | 2011-06-26 16:28 | 中学校歴史教科書8冊の読み比べ

歴史教科書8冊の読み比べ(2005年)

 2005年に歴史教科書8冊を読み比べ、HPに連載していました。興味のある方はどうぞ。

8月31日 (「物語」とは「歴史」なのか?)

1.「古代」の章の「読み物コラム」に「神武天皇の東征伝承」(P.30)「日本の神話」(P.46.47)の二つを取り上げ、計3ページを使っています。その上、神話について調べ学習までさせようとしています。宮坂公夫教育委員は「神話は事実ではないが、当時の人の心などが含まれているので大切」「歴史教科書は読んでいておもしろいものがいい。物語を教えることが大切」(8.4教育委員会  以下、「教育委員会」は略)と述べています。

 では、「物語」は「歴史」なのでしょうか?

 物語とは「文学形態の一。作者の見聞や想像をもとに、人物・事件について語る形式で叙述した散文の文学作品」(大辞泉)

 「歴史の一種」とは書いてありません。物語とは「作者」の主観で書かれたものなのです。宮坂委員は「歴史の事実は一つでも歴史観はさまざまで国の数だけある」 (8.4)と述べていますが、歴史教育で「物語を教えることが大切」なら、歴史観は「国の数」どころか、「物語の作者の数」だけあるのですね!じゃあ、歴史学者たちは何をしていたのでしょうか?あまりにも 失礼な話です。

2.「神話」に3ページも使ってしまい、「中世」が6ページも少なくなっています。中学校の社会科の先生によると「中世」が一番入試に出るそうですよ。納冨教育長は「中世が薄いが検定に通っているので問題はない」 (8.12)と言っています。でも、もし「検定」そのものに問題があるとしたら??大変ですね! 

3.採択の審議の中で議論が集中した「よく戦った」(8.12)という言葉ですが、(このことについては後で詳述します)、こんなところにもあります。「元寇」の項です。「元軍は~日本をおそった。日本側は、略奪と暴行の被害を受け、新奇な兵器にも悩まされた。しかし、鎌倉武士は、これを国難として受けとめ、よく戦った。また、2回とも、元軍は、のちに『神風』とよばれた暴風雨におそわれ、敗退した」 (P.70)

 「国難」に対して「よく戦った」と評価して書かれています。なんか「きみたちも戦争になったらお国のために戦うんだよ」と言われているような気がするのは私の気のせいかしら。それに「神風」って何だっけ??たしか60年位前に聞いたことがあるような・・・。あれ、私、生まれてたっけ?なんか亡霊の言葉みたい。 


9月1日 (「よく戦った」中身と「不敬罪」)

1.きのうの続きで「元寇」の後から見てみると、次のページに「歴史の名場面・蒙古襲来」というコラムがあり、半ページを割いて、「よく戦った」中味を載せている(P.71)。これとそっくりのどっかで見たことある!

えーとえーと、そこまで出てきてるんだけど・・・あっそうだ、「桃太郎」だ。戦時中戦意高揚のために書き換えた「桃太郎」だ。学生時代、児童文学を専攻していたのでその時にいろいろなヴァージョンを読んだのである。何種類も違う「桃太郎」があったけど、「よく戦った」中味の表現がすばらしかった点では全部同じだった。児童文学者も戦時中はそんな仕事をさせられていたのである。いやな時代だったなあ。

 こういう文章が好きなら個人で読めばいいと思う。半ページも使って教科書に載せるっていうのはどうなのかな?やっぱ意図的なんじゃないの?というのはこれひとつじゃなく、「歴史の名場面・日本海海戦」(P.169)もすばらしい文章だからです。こっちは1ページ全部使っている。

2.さて、戻って、次のページは扶桑社版を推薦した教育委員の方々自慢の「人物コラム」(「扶桑社は歴史上のすばらしい人物447人を研究資料として載せているby宮坂委員(8.12))、「源頼朝」だ。「頼朝もいろいろ苦労したんだな」と思わせる「読ませる」文章だが、違和感を覚える部分もあった。ちょっと読んでみよう。

 「1192年、天皇から征夷大将軍に任ぜられ、正式に幕府を開いた。頼朝はあくまでも朝廷をうやまい、その権威によって全国の武士を統率していったのである」。そうですか。しかし、すぐあとに「また、全国に守護、地頭を置き、朝廷をしのぐ勢いを示したが、天皇を重んじる姿勢は変えなかった。彼は、自分の娘を天皇にとつがせることで、朝廷と幕府の安定した関係を築こうとの願いをもっていた。

 頼朝のこうした考え方は、その後の江戸幕府にいたる武家の政治でも、基本的に受けつがれることになった。幕府がどんなに政治的な力をほこっていても、朝廷の権威が失われてしまうことはなかった。武家政治は明治維新まで続いたが、その間、朝廷と幕府の関係はだいたい安定していた」

 頼朝のコラムなのにずいぶん朝廷の記述が多いなあ。全体の四分の一はある。どうして頼朝が「よく戦った」中味をもっとたくさんすばらしく書かずに、朝廷にこんなに費やしたのか、不思議だ。そういえば、他の7社の教科書が「平和」などを取り上げている巻末のページに「昭和天皇」というコラムがあったっけ。そういうわけか・・・(「どういうわけ?」って?それは不敬罪にあたるから言えないのよ) 


9月2日 (「農民の生活」は?)

1.頼朝のコラムの次のページは「読み物コラム」で 、テーマは「武士の生活」です。「一遍上人絵伝」に描かれた「武士の館」の絵が中央に配置され、ていねいな解説がつけられています。ほお、武士はこんな生活だったのか。わかりやすくていいですね。

 それから「鎌倉の文化」のページが2ページあって、時代はいよいよ武士の時代へと突入。たくさんの人が次々と出てくる、人間の権力への欲望は果てしないんだなあ。でも出てくるのは男性ばかり、などと読み進んでいたら、また発見。「このころの室町幕府は朝廷の権限の多くを吸収し、全国的な統一政権としての正確を強めた。しかし、将軍が天皇から任命されてその地位につくという原則に、変更はなかった」(P.78)

 天皇から「征夷大将軍」に任命されるのでしたね。同じページの上の方に書いてあるのでもう知ってますよ。なんか言い訳してるみたい。ページがもったいない。

2.さて、読み進むと「中世の都市と農村の変化」というページとなり、農業の発達、手工業・商業の発達について書かれています。その後「都市と農民の自治」として、裕福な商工業者が「町衆」として自治のしくみをつくっていたこと、農民が寄合を開き、「惣」という自治組織をつくったことなどが書かれています。この後に、農民が武器を取って立ち上がった「土一揆」について触れられています。

 「土一揆」が要求したことは簡単に書かれていますが、なぜそれを要求したのかについては何も書かれていません。どんな状況で、どんな気持ちで農民は武器を取ったのか?「当時の人の心を知ることが大切」(by宮坂委員)なはずなのに、これでは何もわかりません。農民が武器を取るなんてよほどのことがあったに違いない。いったい何があったのか?知りたいですね。

 武士の生活はよくわかったけれど、農民の生活は何もわかりませんでした。農民にも1ページ使ってほしかったな。だってもしこの時代に生きていたら、私たちのほとんどは「農民」なのですもの。この教科書をつくった人はその時代では「武士」だったのかな? だから農民の気持ちは無視して平気なんだね。
 

9月3日 (「自治」とは何か?)

1.さて、次は「室町の文化」が2ページ、「課題学習」の「博物館を利用しようー畳について調べてみる」がやはり2ページです。とにかく「内乱」についてでないので、ほっとしますね。

2.はい、またまた内乱です。「応仁の乱」です。応仁の乱をきっかけに、将軍の権威はおとろえ、身分の下の者が実力で上の者をたおす「下克上」の風潮が見られるようになったと書かれています。その次、「土侍らが守護を追放し8年間の自治を行う、山城国一揆がおこった」「浄土真宗の信徒らが守護大名の支配に反抗して一向一揆をおこし、信徒らによる自治は約100年続いた」とあります。

 すごい!「自治」が100年間も続いたのか!現在、「住民自治」という言葉があります。「自治」を辞書で引くと、「1.自分たちのことを自分たちで処理すること 2.人民が国の機関によらず自らの手で行政を行うこと。特に、地域団体による地方自治をさすことが多い」(大辞林)

 いつも大人たちは子どもたちに「自分のことは自分でしなさい」と言っていますね。また、「自由には責任が伴うのだ」とも。「自治」ってこのことなんだ。そして杉並区は「地方自治体」です。つまり「杉並区のことは区民が決める」だよね?

 あれ?とここで不思議なことが一つ。この扶桑社版歴史教科書を採択したのは誰だっけ?教育委員の5人だった。たった5人。しかも賛成したのはその中の3人。確かに「多数決」だけど、なんか変。区民の意見を 取り入れてくれたのでしたかね?

 「取り入れた」とは言わず、「参考にした」(by和田庶務課長8.26文教委員会)と言っていました。では「参考」とは何か?

 またまた辞書で調べると、「考えをまとめたり、物事を決める際に、手がかりや助けとすること。また、その材料」(大辞林」。

 ふーん、「手がかりや助けにする」っていう意味には、「無視する」っていう意味もあったんだ。初めて知った。

 ところで、納冨教育長が興味深い発言をしています。「事実の羅列では話にならない。先人たちがなぜそうしたのか、どういう背景があったのかが・・・中略・・・論理的に書かれていてほしい。・・・中略・・・扶桑社は記述が弁証法的でわかりやすい」(8.4)。

 なぜ一揆を起こしたのか、どういう背景があったのか、「自治」の内容はどんなものだったのか?何も書かれていないんですけど・・・
 

9月4日(日)  (「天皇」はたくさん出てくるけど・・・)

1.あ。またありました。戦国大名が出現して、「やがて、力をたくわえた戦国大名の中から、京都にのぼり、天皇の権威をかりて天下を統一しようとする者があらわれた」(P.87) 天皇の権威はすごいですから、ブシといえどもムシできないですね。(これが「しゃれ」ってわかっていただけたら嬉しいな 。ムリですか・・・)。

2.次、「朝鮮と琉球」。朝鮮は日本が長い間苦しめた国だし(身近にいらっしゃる在日コリアの方に聞いてみてください)、琉球(沖縄)は先の戦争で本土決戦を避けるための犠牲にし、戦後もアメリカの基地のほとんどを集中させて(すみません、%は覚えていません)、本土の犠牲にしているところです。そういうところについてどういうふうに記述しているのか、興味があります。でも扶桑社版教科書には書いていないことも多いので、他の7社の教科書と見比べなければ、何を書いていないのかはわかりません。

 昨日、大久保の「第一教科書」という教科書を扱っている書店に行って、他社の教科書を買ってこようとしたのですが、土曜日は休みでした。また、明日行きます。

3.第三章「近世」に入ります。中世は短かったです。24ページでした。今度他社と比べてみますね。

 ここに来て初めて、「ヨーロッパ」が出てきました。「大航海時代」それから「鉄砲の伝来とキリスト教の布教」「南蛮貿易とキリシタン大名」と続きます。(全部で4ページ)

 「当時のヨーロッパ人は、まるでまんじゅうを二つに割るように地球を分割し、それを自分たちが進出する領土とみなしたのだった」(P.91) ちょっとこの場にそぐわない比ゆが出てきました。読み物としておもしろくするためなのでしょうか?

 「日本は世界一の鉄砲生産国となった。鉄砲の使用は、それまでの戦闘の方法を大きく変えて、全国統一を早めるという効果をもたらした」(P.92)など「鉄砲」について6行書いています。この部分、他社がどう書いているのか、比べてみたいです。

 これらの項の最後に、「この時期から、日本人の東南アジアへの進出も本格化した」とさりげなく、書いています。

 
9月5日 (「自国中心」のはじまり)

 今まで扶桑社版教科書だけを読んで、このコラムを書いてきたのですが、今日、他社4社の教科書を買ってきました。今使っている「帝国書院」、4日の教育委員会でこれに決まりそうだった「大阪書籍」、一度会社がつぶれて新しい会社になった「日本書籍新社」、教科書展示会で公民ともども魅力的だと感じた「清水書院」。4冊も買うなんて「中学校歴史教科書オタク」になってしまった。

 そのおかげで扶桑社だけ見ていたらわからなかったことが明らかになりました。始まりからして全然違っていました。

 各社のタイトルを見てみましょう。

帝国書院:第2章(第1章はオリエンテーション) 「古代国家と東アジア」 1節「人類の出現から文明の発生」

1.東アジアにあらわれた人類
人類の誕生から書いてあり、氷河時代、旧石器時代(日本にも触れています)、新石器時代があってから、「最初に日本列島に住み始めた人々」という順番になっています。

2.「東アジアの先進国 中国の文明」を詳しく説明した後、日本の縄文、弥生時代でした。(中国と朝鮮の古代については後で出てきます)。

大阪書籍:(初めは「章」がなく)第1編「原始から古代へ」

1.人類の始まりと文明
人類の誕生から書き起こし、旧石器時代、新石器時代、それから四大文明に触れ、中国の文明について詳しく書いています。中国と朝鮮の古代にも触れてから、

2.で「日本の原始時代」へ入っていきます。

日本書籍新社:第一章「人類の誕生と古代社会」

1.人類の誕生と古代文明
人類の誕生と旧石器時代(「日本の旧石器時代」にも触れています)、それから新石器時代と四大文明、宗教のおこりに触れています。中国文明、古代の中国、朝鮮についてまとめて書かれています。

2.に「日本の国のはじまり」が出てきます。

清水書院:第1編「近代までの日本と世界」 第1章「原始・古代の日本と東アジア」

1.文明のおこり
やはり人類の出現から書き起こし、旧石器時代、新石器時代、四大文明、中国の黄河文明、その後に「日本列島の成立と狩猟・採集の生活」、続けて縄文時代、弥生時代になっています。その後に

2.「東アジアの世界」として中国と朝鮮のことが出てきます。

 いずれの教科書も「人類の始まり」があり、旧石器時代、新石器時代があり、四大文明があって、中国の文明を詳しく述べた後に、日本の縄文、弥生時代に入っていきます。ここで古代の中国、朝鮮にも触れています。会社にもよりますが、中国の文明には2~4ページ使っています。古代の中国、朝鮮については半ページから2ページ使っています。

ところが、

扶桑社:第1章「原始と古代の日本」 1節「日本のあけぼの」

1.日本人はどこから来たか。
初めに「美しい緑の島々があ」り、「それが、これから学習する歴史の舞台となる日本列島である」と書いてあります。

 そもそもこの教科書は日本史だったんですね。中学校の「歴史的分野」では世界史も一緒に学ぶのではなかったのか。

 旧石器時代の後に日本の縄文時代があり、その後に新石器時代です。これと四大文明、中国の文明、3つ合わせて2ページしかありません。古代の中国のことはシルクロードや仏教と合わせて、たった6行でした。その次、弥生時代2ページ。

 おお、疲れてきた。今日は話がつまらないしごちゃごちゃしてきました。

 でも、わかったこと

 他の4社にある「世界の中の日本」という視点が扶桑社にはありません。初めから自国中心(自己中心的)です。

 中国についての記述が少なすぎる。ましてや朝鮮については今日のところではなし。在日コリアの子どもたちもこの教科書で勉強するのです。大半の在日コリアの人たちはそもそもなんで日本に住んでいるのでしたっけ?もしも覚えていたらこんな仕打ちができるでしょうか?

 あー、でも、もう比べるのはやめて、扶桑社だけ読んだ感想にしよう。大変すぎる。でも大切なところは比べますよ。せっかく買ったのだし・・・
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by lumokurago | 2011-06-23 15:14 | 中学校歴史教科書8冊の読み比べ